活字の海に溺れることができたなら
最終話
4
ケンジとのデートが終わった。
電車に乗り、家までの帰路を歩く。ケンジが笑った顔を頭に浮かべながら、家へ帰る。ひどくにやにやしていたので、すれ違った人達からは少し不審に思われていたかもしれない。ちょっぴり恥ずかしい。
家に帰り、真っ暗な部屋に明かりをつけ、部屋着に着替える。
スマホを手に取る。
今日もニュースサイトでは政治家の不祥事や芸能人の不倫、そして放火や殺人といった凶悪事件に関するニュースが名を連ねていた。
ニュースサイトから垣間見える日本社会はひどく物騒だ。殺伐としていて、楽しいことなんてひとつもない、絶望的な社会。
一方、私を取り巻く日常に目を向けると、そうでもない。ニュースサイトとは真逆である。
確かに日常生活に不満がないわけではないけれど、私の隣にはケンジがいるのだ。
私にはケンジがいるのだ。それだけで十分だった。それだけで幸せなのだ。
ニュースサイトがいうような、希望のかけらもない絶望にまみれた殺伐とした社会というのは、きっと嘘なのだ。作り話なのだ。
少なくとも私を取り巻く日常は、そんな風にはなっていない。
さて。閑話休題。私の半径5メートル以内にある最も重要課題は、来週日曜日の水族館デートでどの服を着ていくか、ということであった。
何を着ていこう。どんな服を着ていけばケンジは喜んでくれるのだろう。
私はそのことで頭がいっぱいなのだ。
ニュースサイトのあれやこれやを気にかけることができるほど暇ではないのだ。
ケンジとの関係を終わらせないようにするためには、一体どうすればいいのだろう。
私はわからなくなった。なので床に散乱していた文庫本を一冊、手に取った。
この本なら、ケンジが喜ぶような言葉が載っているかもしれない。
私とケンジの間を繋ぎ止めてくれるような何かが、この本には書かれているかもしれない。
この本は、私に何かを教えてくれるかもしれない。
私は文庫本を開き、そこに書かれている活字の羅列に視線を落とした。
今から私は、読書をするのだ。
傷付いた心を癒すために読書をするわけではない。
ケンジともっと仲良くなるため、私は活字の海にこの身をなげうった。
活字の海を彷徨っている途中、本の主人公からアドバイスをもらった。
「大丈夫、何度でもやり直せるさ」
本の主人公はそう言った。主人公は落ち込む私を何度も何度も励ましてくれた。きっと大丈夫、って。
ひとしきり活字の海に彷徨った後、私は文庫本を閉じた。
窓の外に目を向けると、夜空が見えた。
もうすっかり夜も更けていて、街路樹が寒そうに揺れていた。
街灯は背の高い木々の枝に覆い隠されていたが、わずかな光を放っており、それがなんだか暗やみを照らす灯のように見えて、ちょっぴり心強かった。勇気づけられた気がする。
ケンジと私の関係は終わりを迎えるかもしれない。そういう運命にあるのかもしれない。
でも、きっと大丈夫だ。
私はケンジと上手くやれる。
もう今までの私とは違うのだ。だから大丈夫。
私は自分にそう言い聞かせた。
きっと大丈夫なのだ。
だって私はもう――読書に逃げる今までの私ではないのだから。
<終わり>