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短編集(予定)
臥栄年間末期および啓青年間初期における自動講談ブームの様相について

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0.序

 蓄話器や電波放送の普及する以前、「自動講談装置」と呼ばれる装置およびこれを使った娯楽が我が国でそれなりに大きなブームとなっていた。現在でもその愛好家は僅かながら存在し、年に一度、ファンによる大会が開かれている。しかしながら、一般的と呼べるほどの知名度はなく、近年、徐々に注目され始めたとは言え、まだまだ研究は進んでいない。自動講談装置が我が国の生んだ優れたマシンであり優れた文化であることを考えると、嘆かわしいことである。よって、本稿では、自動講談装置というマシンおよびそれが生んだ文化、またその歴史に関する知名度の向上を目的とすることにする。
 本稿で特に示したいのはある一つの興味深い事実――自動講談装置における文化的水脈には二つの流れがあるという事実――である。およそ四半世紀にわたる自動講談の流行とは、これら二つの流れのせめぎ合いの連続であった、というのが私の総括だ。このことを検証しようという気はない。なぜならそれは私が別の場所で散々やってきたことで、今さらすることでもないと同時に、本稿が正式な論文ではないからだ。よって、本稿(コラムと言っていいだろう)ではひたすら自動講談が生んだ文化の紹介とその知名度向上を目的としたい。
 まず、自動講談機の構成に関して簡単に説明した後、その歩んできた歴史を、二つの流派を中心に論じることとする。では、本論に入ろう。


1.自動講談装置の機能と構造

 自動講談装置とは、読んで字のごとく、自動で講談を行う装置である。「講談」と言うからには、机の前に座り扇を叩いて観衆に向けて読み上げる伝統芸能の講談と何か関係があるに違いない、と思う向きもあるだろうが、実際には何のつながりもないらしい。そこには「お話をする」といった意味あいしかない。
 つまり、自動講談装置の行うところは非常にシンプルで、お話を自動で再生するという、それだけのことである。お話を再生すると言っても、録音機のようなものとはまるで趣が異なる。講談機は、むしろ自動演奏器具に近い。
自動演奏器具とは入力された楽譜を読み取ってひとりでにその曲を演奏するものだ。これと同じようなものを想像してもらえばよい。
 こう言うと、お話が書かれたテキストデータを読み込んで人工声帯か何かがお話を再生するのだろう、と想像されるかもしれない。しかしそれは誤りである。自動講談装置の読み込むところは、より抽象的なお話の構造であり、奏でられるのは音声だけではなく、細かな芝居、息継ぎ、間、などなど、お話を彩る多彩な要素を複合したひとつのハーモニーである。
 そのため、出力装置はひとつだけではない。主に四種類あり、最も重要なのは、音声を出力する音声生成器官である。次に、人間の手を表現すると言われているアームが二本、加えて、人間の表情を表現するディスプレイが一つ、そして全身の微細な動きを司る人工脊髄がある。これらの諸部分は、いずれも生体工学の賜物である。
 さて、以上のように聞くと、自動講談装置が人型をしていると思われるかもしれない。もちろん、部分的にそれは正しい。実際、初期に発売された自動講談装置はそのほとんどが人型をしていた(巻末の図を参照のこと)。しかしながら、装置の人気が向上するにつれ、およそ人間の形状とは言い難い製品もいくつか開発された。例えば、火星人によるストーリーテリングをコンセプトとした「赤席壱号」は触手のようなアームが前後左右上下にそれぞれ数本ずつ、合計で二十本近くあった。(注:赤席壱号は当時の宇宙ブームに便乗する形で発売されたが、合計で三十台しか売れなかった。もちろん、弐号が開発されることはなかった。)
 出力装置に関してはこれくらいに留めて、次は入力装置の説明に移ろう。これは主に、本体の中央部分に設置された。「硬脳」と呼ばれる記憶装置をその中に入れると、これが読み込まれ、お話が奏でられるわけだ。さらに興味深いことは、この硬脳への転写技術は異界研究で開発された新技術の転用であったという事実なのであるが、いまだに歴史的側面、工学的側面の両面から明らかになっていないことが多く、研究の進展が望まれる。
 さて、自動講談装置の構造的な側面については以上で留めておきたい。簡易的な説明になってしまったのは心苦しいが、本稿には別の主題――すなわち、自動講談装置の文化・歴史的側面の紹介――がある。構造的な側面については、本稿では「お話の構造を読み込んで個別にお話を奏でるもの」と簡単に理解さえしていれば問題ない。
 なお、構造的・工学的な側面をさらに知りたい方は、手毛林満倫『自動講談装置、どうやってつくったの?』を参照のこと。(非常に嘆かわしいことに、現在本国で手に入る唯一の自動講談装置に関する技術書である。なお、本書を読んだところで硬脳技術に関しては全く理解され得ないと思う。本書の著者は、自動講談装置を分解することでその技術的側面を推測しようとしているが、硬脳は分解することがそもそも不可能だからだ。)


2.自動講談装置の歴史

 自動講談装置は、当時世界に先駆けて異界研究を進めていた庫裡製作所の「意図なき副産物」であると推測されている。しかしながら、このあたりのことは話してもさほど面白くはない上に、開発のきっかけなどは庫裡製作所の企業秘密となっている。よって、ここで紙幅を割こうとしたところで徒労に終わるだけである。開発秘話がいつか明らかになることを願いつつ、本稿ではある視点から、その文化史をめぐる。
 その視点とは、歴史に二つの「流派」のせめぎ合いが存在したという点である。歴史の中に二つの流派を見出すのは自動講談装置の文化・歴史的側面を研究するもののうち100%が同意してくれると断言できる。(なぜなら、自動講談装置の文化・歴史的側面を研究する研究者は私以外に存在が確認されていないからである。)
 この二つの流派のせめぎ合いを軸として、自動講談装置の発展史を概観するのだが、もちろん、初めに明らかにしておくべきは、その二つの流派がいかなるものか、ということだ。一つ目の流派は、作品を忠実に再現する流派。二つ目は、「志誌」シリーズをはじめとする、作品内容の再現には必ずしもこだわらない流派で、むしろその装置固有の「個性」を重視した流派である。本稿では前者を「古典派」、後者を「個性派」と呼ぼう。


2.1.個性派の創成

 自動講談装置は、臥栄39年当時すでに流行の兆しを見せ始めていたが、そのシェアの大半を庫裡製作所に占められていた。大財閥・大庫傘下である庫裡製作所の片手間でしかなかった自動講談装置が本格的に流行し始めるのは、当時社交界のスターであった是美清峰が「ビバ! 自動講談装置!」と発言したことがきっかけだと言われている。
 後に「古典派」の先導者となるダイゴ工務店の前身となる庫裡製作所がシェアを独占していたことからも分かる通り、この時点では古典派一辺倒であった。もちろん、対抗相手がいないのだから、コンセプトを明確にする必要もなく、よって、流派は存在していなかった、という見方もできる。
 さて、元は農具を製造していた現玄社が自動講談装置に参入したのは、この発言から1ヶ月後のことだった。この参入は少なからず業界に動揺をもたらしたという。現玄社は当時、欠陥品・模造品を大量に生み出すことで知られていたからだ。
 同社による講談装置開発の報を受けた当時の雑誌記者は以下のように嘲笑している。


臥栄39年夏、思いもよらぬ大事件が本邦を駆け巡った。まさに冗談みたいな話である。あの現玄社が自動講談装置の開発を発表したのだから。十中八九、開発は頓挫するに違いないが、万が一、発売されたとしても購入しないことをおすすめする。どうしても買いたいというのなら、別に構わないが、起動させる前に遺書を用意し、家族に連絡を取っておくことだ。いつ爆発しても知らないから。(『月刊技術』 第23号、20頁)


 案の定、同社初となる講談装置「志誌丸零号」は欠陥品だった。再生スピードが一定しない、声の強弱のつけ方が不快……などなど、挙げだしたらきりがない。発売されただけでも奇跡のようなものである上に、目立った事故も起こさなかったのだから、少しくらいの欠陥など許容範囲である、という向きも少なからずあった。第一、庫裡製作所の製品よりはるかに安価だったのである。だから、志誌丸零号を購入したのは物好きな人間や金のない学生が多かったということである。
 そうは言っても苦情は山のように寄せられた。曰く、「再生ボタンを押しても無意味な文章を言うばかりでお話が始まらない」、「オチが知っている話と違う」、「複数のお話がまぜこぜになっていないか」……。これらの不具合の原因に関しては、いくつかの仮説が存在している。例えば、以前に再生したお話を記憶する人工神経には存在するが、入力値が図らずも神経を活性化させたとか、使用した呪術的なエネルギーが装置の構造そのものを変容させてしまったとか、学術的に真面目なものから都市伝説めいたものまで仮説は存在している。もちろん、これに関して現玄社は「原因不明」の一点張りであり、真相は闇に包まれたままである。
 話を戻そう。不具合の絶えない志誌丸零号であったが、挙句の果てには、「雑談に終始するばかりなので『はやく話せ』と煽ると『うるせえ、黙って聞け』と返した」、などという真偽不明の情報まで寄せられた。さらに、入力した硬脳とは全く異なる内容を話し始めたという逸話まで残っている。このあたりはもはや都市伝説の類に近く、その真偽を検討するつもりは一切ないが、この噂の盛り上がりを示すために、一例を示しておこう。


[…]そのとき、突如として買ったばかりの自談機(引用者注:自動講談装置のこと)が話し始めたのである。何も入れていない。これはおかしい。確かに、夏も終わろうというあの日は燃えるような暑さだったし、私が幻視を見、幻聴を聞いていたという可能性も大いにある。しかしながら、幻では全く説明できないような内容であったことは強調しても良いとは思う。[…]自談機から聞こえてきたのは、「耐え忍ぶことが困難なことを耐え忍び」云々、また「残虐な爆弾が」云々、といった私には到底理解できないような意味不明の内容だった。(『へっぽこ』 45頁)


 確かに恐ろしい話である。真偽はともかく(注:これらの話に関しては、ただの悪戯、都市伝説、フォークロアの一種、と見る向きが支配的であるとはいえ、べつの考察をした極めて特異な「研究者」もいることにいる。彼によると、上記の事例において、自動講談装置は何らかの原因によって異世界における情報を受信したというのだ。しかも、極めて興味深いことに、それは我々の世界とよく似ているが、我々とは別の歴史を歩んだ世界だというのだ! 彼は軌道上に発見された鉱石が云々、宇宙エネルギーが云々、と続ける。オカルトもいい加減にしてほしい。)、重要なのは、この欠陥を楽しんだ人たちがいたという事実である。
 その証拠として、欠陥品の情報を集め、それをまとめた同人誌の存在がある。その名も『へっぽこ』は、同人誌ながらも増刷を繰り返し、とうとう『恋するストーリーテリング――ぼくらへっぽこ講談装置』と改題し商業出版、最終的にはベストセラーにまでなった。(ちなみに、「講談装置」の名が定着したのはこれがきっかけだと言われている。)
 この経緯を見ていた現玄社社長はコンセプトの転換を図る。真面目な自動講談装置をつくる努力を棄て、欠陥品を「再現」する研究に力を振り始めた。


結局のところ、重要なのはニーズに合わせることだ。我々のような才のない人間が下手にこだわりを持つと痛い目を見る。売れるものを適切なときに作り、売る。[…]これが我々の仕事だ。(『現玄社二代目社長・耳毛茎芝 回顧録 おれが耳毛茎芝だ!』 121頁)


 そして発売されたのが「志誌壱号」だった。これは後に伝説的な人気となり、中流階級にまでその流行は及んだ。『恋するストーリーテリング――ぼくらへっぽこ講談装置』の影響もあり、へっぽこ自動講談装置を求めていた一般大衆は飛びつくように志誌壱号を買い求めた。当然のことながら、自動講談装置を購入することが不可能な人たちもいた。あらゆる階層に自動講談装置ブームを引き起こしたいと考えていた現玄社社長・耳毛茎芝は、各地の有力者と手を結んで志誌壱号を貸し出すことで、見物用の施設を国中に建設した。結果、巷は自動講談装置の「へっぽこ」なエピソードで溢れることとなる。これが本稿で「個性派」と呼ぶ流派の始まりであった。
 しかしながら、初期のマニアにはこの流行を認めない者も多かった。


ぼくらが好きなのは、「意図せざる欠陥」であり、意図的に作られた欠陥品ではない。これはへっぽこ講談装置に対する侮辱だ、冒涜だ。ぼくたちがどんな思いでへっぽこを愛しているか……くそう、現玄社はまったく知らないんだ。突貫してやる!(『シェフの友 特集=自談機のたしなみ』第21号、35頁)


また、


最近の潮流について私はいささか不信の念を抱いている。私たちが愛好したのは「作為なき欠陥」ではなかったか。(『趣味人に学ぶ』第3号、11頁)


 と語るのはかつて『へっぽこ』を刊行した同人サークルの代表・芋恕美美利である。彼ら同人にとって重要だったのは「作為なき欠陥」であり、志誌壱号および同シリーズは意図的に欠陥を再現しようとしている点でつまらない、というのである。打算で「愛すべきバカ」を演じるなど言語道断というわけである。
 とは言え、近年の研究(手毛林満倫による)では、現玄社に意図的に欠陥品を再現する技術力など皆無であり、実際には先行機である志誌丸零号とまったく同じ構造で、単にコンセプトを変えたに過ぎなかった、ということが明らかになってきている。そう考えると、上記のように反感を示している初期マニアたちも、単に流行に逆張りしていただけなのではないかと思えてくる。
 話を戻そう。志誌シリーズの作った流行に乗じて、他社も同様のコンセプトで開発を進めた。とは言え、技術ひとつで「欠陥」を模倣できるわけではない。つまるところ、他社の装置はわざとらしさが目に着いたり、単に不快なだけだったりした。例えば、幼児の話し方を再現したという東自絵販売社の「デコチン」は、単にちぐはぐなだけで、何の面白みもなかった。(余談だが、当時急増した不眠症はこのデコチンによるストレスが原因ではないかと言われている。)
 当然の結果ながら、現玄社はたちまち業界ナンバーワンに躍り出た。もちろん、この状況をよく思わなかったのは庫裡製作所である。


2.2.古典派の逆襲

 その精密さを売りにする庫裡製作所は、当然自動講談装置にも正確さを求めた。その技術力で高価ながらも初期のシェアを独占していた庫裡製作所だったが、『へっぽこ』に続くブーム以後、売り上げに悩んでいた。
 当時の社長がなぜブームに便乗し、へっぽこ装置と同様のコンセプトで作らなかったのかは杳として知れない。庫裡製作所の技術力なら、志誌シリーズに匹敵する愛嬌と個性を備えた装置をつくれたはずである。ある種の意地、あるいは誠意だったのかもしれない。
 いずれにせよ、庫裡製作所は当時のブームとは逆行するコンセプトを推し進めることになる。こうして臥栄42年、「正確に、繊細に、芸術的に」をキャッチコピーに、「楽」シリーズの第一号、「楽楽(仮)」が発売された。ここに「古典派」の始まりを見ることができる。
 巨額の製作費をかけた同機だったが、売上に苦しんだ上に世間の反応も厳しかった。当時の評論家・ビト尾灯による評論では、以下のように言われる始末だった。


なぜ時代に逆行しようとするのか。頭の固いリーダーを持つ従業員が哀れだ。みっともない。大財閥・大庫のプライドか。(引用者注:庫裡製作所は最大の財閥・大庫グループ傘下である。)[…]同社(引用者注:庫裡製作所のこと。)は今や大庫財閥のお荷物となっている。業界撤退も時間の問題か。(『ビト尾灯 評論集 墜ちた巨像』 32頁)


 そのような状況にあっても庫裡製作所は同コンセプトの製品を作り続けた。続く、「楽座」では再生できるお話を随時サポートする大規模なサービスを展開するも、やはりその高価な価格とブームとの不一致により売り上げは芳しくなかった。
 同製作所の自動講談装置開発部門は毎年大赤字で、製作所どころか大庫グループのお荷物となっていた。ついには自動講談装置開発部門は閉鎖、社員らは追い出され、失業の目を見ることになる。ここで終わっていたら、講談装置の歴史はひどくつまらないものになっていただろう。しかし、彼らを救った人物がいた。ブーム以降、『へっぽこ』の売り上げで立ち上げた出版社を総合メディア企業へと成長させ、巨万の富を手にしていた同人サークルの代表・芋恕美美利である。すでに述べたようにブームに反感を抱いていた芋恕美美利の行動は迅速だった。解雇された社員らを寄せ集め、自動講談装置開発プロジェクトを立ち上げる。
 このプロジェクトは間もなく、ダイゴ工務店(注:庫裡製作所において自動講談装置開発部門が五番目に設立されていたため、グループ内では「第五」と通称されていたことに由来。奇しくも庫裡製作所の母体であった大庫グループと読みが同じであるが、一斉解雇されたことへの静かな抗議の意味もあったのかもしれない。)として独立する。独立後数年は、大赤字の連続だったが、芋恕美美利は粘り強く出資し続けた。
 かつて「へっぽこ」を刊行し、「個性派」の創始者とも言える芋恕が、なぜ「古典派」であるダイゴの連中を支援し続けたのか。これについて芋恕が何かを語ることはなかった。おそらく、流派のことは差し置いて、なによりもまず自動講談装置が好きだったのだろう。
 そして、ようやくダイゴ工務店に運が向いて来る。きっかけは、独立から5年後の啓青2年、鳥山県にあった。そう、鳥山万国博覧会である。
 国内の個性派ブームは、外部からの働きかけなしには、今後数十年は続いていくことだろう。『自動講談装置といえば個性派』というように固定されてからでは遅い――そう考えていた芋恕にとって、万国博覧会は千載一遇のチャンスであり、最後の賭けであった。
 結果は大当たり。根気強い出資が実を結ぶことになる。世界がダイゴ工務店を認めたのだ。
 あるメディアは、


その芸術的な語り口、身振りに私はすっかり魅了されてしまった。今まで聞いたどんなお話よりも記憶に残るものだった。(引用者訳、『大栄日報』 第11200号、29頁)


また、


今回の万国博覧会では、この恐るべき不思議の国のワンダーに溢れた事物の数々のほか、先進諸国の技術の粋を堪能することができる。[…]そんな中でも是が非でも見るべきものがある。それはダイゴ工務店の自動講談装置だ。[…]お話の中でとある歌が引用されるのだが、その歌声の美麗さ、表情の麗しさは筆舌に尽くしがたいものがあった[…](引用者訳、『ワトンソン郵紙』 第5011号、18頁)


などと絶賛の嵐であった。結果、万国博覧会では、鳥山県の鳥卵ブースと並んでダイゴ工務店ブースは大人気を博すことになる。
 万国博覧会終了後、ダイゴには国内のみならず海外からも注文が殺到することになる。(注:捕捉だが、実は自動講談装置という文化・技術は我が国特有のものである。万国博覧会直後、世界中の富裕層の間でにわかに注目の的となり、海外でもいくつか装置が作られた。とはいえ、やはり我が国以外でこの文化が定着することはなく、海外でのブームは一時的なものに留まった。)迅速に大量生産体制に移行したダイゴは瞬く間に業界ナンバーワンのシェアを誇ることになった。
 他社もダイゴに追従し、古典派的な装置の製造に取り掛かるが、その頃にはダイゴ工務店の技術力は圧倒的となっており、とても真似することはできなかった。その後も次々とダイゴ工務店は製品を発売していく。ほとんど独占状態だったと言っていい。この独占状態は、人成楽坊社による「人仁各格・初号機」(啓青8年)の発売まで続いた。


3.二つの流派のせめぎ合い

 本稿では、現玄社が自動講談装置開発に参入した臥栄39年を個性派の始点、ダイゴ工務店の前身である庫裡製作所が古典派のコンセプトを明示して開発した臥栄42年を古典派の始点と考えた上で、そのブームの火付け役となる啓青2年の万国博覧会までを見た。
 以上の約十年間は、古典派と個性派のせめぎあいの初期のもので、いわば「一周目」である。この後も同じようなせめぎ合いは続いていく。啓青0年代は古典派、10年代前半は個性派、10年代後半は古典派、と大まかに分けることができる。
 ではその後はどうなったのか? 勝ったのは、どちらか?
 嘆かわしいことに、ついに勝敗が付くことなかった。自動講談装置は蓄話器や電波放送の普及に伴いすたれはじめ、メメックスⅡの登場によってほとんど完全に姿を消してしまったのだ。現在では物好きなファンがごく僅か残るのみとなっている。皮肉なことに細々としたファンの活動を支えているのがメメックスⅡのネットワークであり、自動講談装置の史料が保存されているのもまたメメックスⅡである。
 新たな技術によってすたれつつも、同時にその新たな技術によって細々と伝わってもいるこの文化の糸を維持していく。それこそが、新世代たる我々の責務ではなかろうか。

       

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Neetsha