Neetel Inside 文芸新都
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星空観測区
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  1☆「水辺にまつわるエトセトラ(上)」(2018/08/08 更新分)


 ようやく辿り着いた。
 市内から一時間かけて山道をバスで駆け上り、終点の鄙びた山間の温泉街に降り立つ頃には、空は藍色に暮れなずんでいた。
 俵山温泉、という。
 立派な瓦葺の待合室に入ると、横綱を温泉にした番付表が貼ってあり、この俵山温泉は山形の肘折温泉と並んで、西の横綱だそうだ。
 乃々香が祖母とよく行っていたのは市街地により近く、汽車で二駅ほどの音信川にぬって立つ湯本温泉で、温湯という市営浴場を祖母は好んでいた。
 どちらかといえば、湯本温泉の方が世間的には有名らしく、地元が輩出した時の総理大臣は、遥々ロシアから大統領を呼び寄せて、この辺りでは一等の湯宿の別邸で昵懇と杯を酌み交わして饗したそうなのだから、周りの温泉街がその影に隠れるのは仕方のないことなのかもしれない。
 バス停から温泉街の方へと足を向けて、車が一台通れるぐらいの道幅の両脇に低層の温泉宿が軒を連ねている間を通り抜けていく。
 大型ホテルが立ち並ぶ湯本温泉とは、同じ源流沿いの温泉地にして、かなりの様変わり様だ。昭和のジオラマの中を歩いているような心持ちで歩いていると、右手に「町の湯」という公衆浴場が現れた。頭に瓦が乗っているものの、鉄筋組みで、壁には磨りガラスが嵌め込まれている。どちらかといえば市民プールみたいだ。
 バス停で持ってきたパンフレットには少し奥のまた右手に「猿の湯」というのがあるらしい。古来湯治場の流れを汲み、この温泉街の宿は内湯を持たないので、宿泊客はこの二つのどちらかに入るのだと書いてある。
 猿の湯は先程の街の湯よりは、お金のかかった造りをしていて、奥まっている分敷地も倍ほどありそうだ。入泉料も倍するらしい。
 踵を返して安い方へ向かうのも趣がない気もしたので、どちらにしようか考えながら、しばらくその先も歩いてみることにした。
 一番奥に見える赤茶色の建物に向かって歩いていくと、すぐに視界が広がって、左手に川が見えた。どうやら温泉街はここで終わりらしい。
 五月も終わりに近づき日が伸びたとはいえ、確かに感じ取れるほど薄暗さが地表にまで降りてきていた。川を跨いで駐車場へと繋がる橋に、男女のシルエットが浮かんで、背の高い方が、中空を指差していた。カップルだろうか、何があるのか不思議がって乃々香は近づいた。
 「蛍がいますよ」
 男の方がそう言った。
 目を凝らして、草の生い茂った湖面を睨む。十数秒に一度おきに、目を閉じた時に走る光のような、か弱い火がぽつぽつと流れて消えていった。
 「そんなにいませんね」
 「もっとたくさん見れるのは六月に入ってからかな、こんな感じだと」
 二人に近づいてみると、どうやら年格好は近いように感じた。そして、男の方が物腰が低く柔和な感じに対して、女の方は詰まらなそうな顔つきで腕を組み終始無言だった。カップルというよりは、年の近い兄弟のように映った。
 「中学生ですか?ひとり?」
 乃々香にとってそれは聞かれたくない質問だった。
 半年以上、学校に通ってないのだから。いじめられたから、病気だから、そんな分かりやすい理由があるならまだ、学校に行かない自分を肯定できるのだろうが、全くそういったことはなかった分、平日の、こんな時間に外を歩いているのは彼女にとって居心地が悪かった。
 「はい」と一言、返す。でも、それは相手にとっても同じじゃないのだろうか。
 「りまと同じだね。こいつが引っ越してきたからこのあたりを案内してるんだ」
 二つの視線が、長い髪に包まれた彼女に注がれてようやく、口を開いた。「島に帰りたい」
 「島?」
 はっと息を呑むような整った容姿から出た明け透けのない言葉に乃々香は聞き返す。
 「屋久島から来たんだ。ちょっと世間ずれしてて」
 へえ、と心の中で答えた。
 自分が感じた違和感は相手も同じだろう。
 乃々香は帰りのバスの時間もあるので、そう軽く会釈して、振り向いて温泉街の方へと入っていった。やはり安い方の温泉へ行こう。自分のことについて相手が何も聞かなかったのは優しさからか、それとも興味がないのか、どちらともであって、どちらでもないのか分からなかったが、とにかく苦しい思いをしなかったのはよかった。
 市内ではあるが、彼女の通う中学校とも違うし、もう会うことはないのかな、そう乃々香は思った。

 
 2☆水辺にまつわるエトセトラ(中)」(2018/08/22 更新分)


 星空観測区――、この地がそう標されるようになったのは、二年ほど前からだった。
 乃々香の住む青海市は、本州の西端に位置する日本海に面した人口三万人ほどの小さな町で、温泉と自然と焼鳥以外には取り立てたものもなく、石垣島に続く全国二例目の「星空観測区」に認定された時には、地元はそれは大いに沸き立った。その頃は毎日学校に通っていたので、事あるごとに教師達が故郷の自然がどれほど恵まれているかについて説いていたのを思い返す。隣の市では明治の頃に作れた産業遺構が世界遺産になっていたので、それと対比して「何もないと思っていたこの町って案外凄い」と刷り込まれ、頬を紅潮させた同級生たちを喜びを分かち合っていた。
 「昔はよかったね」
 乃々香の自室の学習机の上に、二つの手紙が開かれて置かれてある。
 ひとつは、同級生たちからのいわゆる学校に来てね、という寄せ書きで、こと決まって二週間に一度ぐらいの間隔で近所に住むクラスメイトの戸川さんが手渡しで持ってきてくれていた。
 内容は一度見さえすればいいものだった。同じことを書かれていても気づかないかもしれない。多くのクラスメイトが半ば強制的に書かされていることを思うと、乃々香は申し訳ない気持ちすら感じてしまう。
 もうひとつの手紙には、日付と場所の名前が記されてあった。

『六月三日 十六時 一ノ俣桜公園』
 
 「桜公園?どこだろう……」
 兄からの手紙はこれで三通目だった。
 一通目は、乃々香の自宅の近くにある巨大な地球儀(表面はピンボールのように艷やかで、鈍色で大陸が描かれている。二階ほどの中空に一本の土台から三叉に分かれたものに支えられており、大きさは隕石だったら住んでる県が吹っ飛ぶぐらいのもの)だった。地元の企業が作ったもので、田園風景の中で映えるその銀色は、「地球儀 十六時」としか手紙に書かれてなくても、すぐに分かった。
 二通目は先週行った俵山で、三通目は三日後に一ノ俣公園らしい。
 スマートフォンの地図で調べると、一週間前に行った俵山温泉から山一つ挟んだ向かいに、その「一ノ俣桜公園」はあるらしい。
 最初の地球儀に比べたら、大旅行だ。
 乃々香は、兄が不登校の自分を慮って手紙という形で外の世界に誘っているのだろうなと察していた。外に出られないわけではないが、去年の秋に足を骨折してから冬の間出不精だった。いい運動不足解消にはなりそうだ。学校にもろくに行かない娘が外に出ると不審がるだろうが、「兄が」というとそれで、どうにかなるような家だった。兄は偉大なのだ。兄、凄い。それに、交通費なのか、報酬なのか、いつも手紙と共に封筒に数千円入っているのは、中学生にとって目が眩んだ。
 
 通学時間を過ぎた頃にやおら制服に着替えて家を出ようとする娘に、乃々香の母は不安な顔を崩さなかった。
 制服を着るのは半年ぶりだった。余人から見れば、放蕩娘ではなく、ちゃんと学生をしているように見えるだろうか、そう気にした。
 家を出て、両側に広がる田園の中の一本道を、何度も立ち止まりながら駅へと向かっていく。
「疲れた、やっぱり自転車に乗ればよかったな」
 雲ひとつない青空に向かって恨めしい声を上げる。テレビでは早い梅雨入りが宣言されたが、そうすると今日みたいにかんかんに日が照ったりして、じんわりと額に汗を浮かばせる。気温は二十五度に近い。
 長門古市駅は山陰線の駅舎のなかではちょっとした道の駅風の瓦葺でしっかりとした造りの駅だった。海外のニュース番組で取り上げられてから一躍有名になった元乃隅稲荷神社に近いから見栄えを意識しているのだろうか。
 乃々香は、ホームと吹き抜けになっている駅舎の中で、時刻表を宙でなぞった。山陰線は一時間に一本といった具合で、次の下り列車小串行きは二十分後に来るらしい。この見栄えはよくない。
 「滝部に行くのかい」
 ホームに出て突然、横からそう尋ねられて乃々香はぎょっとした。すぐそばの椅子に老婆が座っていた。乃々香は軽く会釈して、「ええ」と答える。
 「私も阿川の方に行くからね」
 阿川。たしか、滝部の何駅か前だった気がする。
 列車には月に一度乗ったらいいほうで、乃々香は駅の名前には明るくなかったが、阿川の近くには角島という、フォトジェニックな橋があるのを思い出していた。家族と車で何度か行ったことのある場所だ。
 老婆はその駅の近くの和菓子屋で手土産を買って知り合いの家に行くのだという。
 相槌を打つばかりで乃々香の話す番が巡ることはなく、老婆も乃々香を訝しむ様子もないようで、胸を撫で下ろした。
 一両の黄色のディーゼルが駅に滑り込んできて、老婆とは離れ一人ボックス席に座る。
 列車が動き出すとすぐに、空の青と、緑の豊かな島を挟み、大きな青を湛えた油谷湾が眼前に広がった。
 「向津具(ムカツク)半島だ」
 気分が騒がしくなっていた。

 阿川駅で老婆が降り、特牛駅(こっとい)、そして滝部駅へ降り立った。ここで、サンデンバスに乗り換え、二十分ほどして一ノ俣温泉に辿り着いた。
 海の青は、山の緑に変わっていた。空は夏模様だが、今が梅雨だと知らせるように、充満した湿り気が青臭い草の匂いを強く感じさせた。
 ペンションのような低層のホテルが川沿いに建っていた。この川を一時間ほど徒歩で遡上していけば、その「桜公園」に着くはずだ。その公園の先は、いわゆる自然の要害で、民家もなくバスも通っていない。乃々香はそのためにスニーカーを履いてきた。事前に調べたささやかな情報によれば、その公園はダム湖のようで、春になれば人知れず、名前に恥じず桜が咲き誇るらしいが、時期外れもいいところだった。
 母が作ったお弁当をホテルのベンチで食べた後、目的地へ足を向けた。
 軽い傾斜が続くが、完全な山道というわけではなく、山陰地方に特有の頭に朱い石州瓦を乗せた木造家屋が畑の合間に建っていたので、乃々香にとってそれほどの負担ではなかった。
 軽いハイクみたい。
 空は雲がかってきたが、太陽に熱された地面は悪くのない独特な臭いを発散させていた。四方の低山と、斑に張られた水田と、そばにある整然とした杉、朱い瓦の家、うねる黄色のガードレール。
 「昔ここのあたりに来たことがあるかもしれない」
 きっと幼い頃だ。小学生よりもうんと、小さかった頃。こんな田舎に来るということはきっと兄の仕事ではなかっただろうか。兄は私の子守と併せて、こういった辺鄙なところにあるアメダスや、震度計の確認に来ていた。手にあるスマホで調べたが、電波の掴みが悪かった。
 道の人に聞けば話は早いだろうが、怪しまれないだろうか?
 運良く軽トラのドアに凭れて手持無沙汰にしている、矍鑠とした老爺がいた。グレーの作業着を着ていて、農作業の合間なのだろうか。
 「あの」と乃々香が問いかけると、首を斜にした。
 だが、「このあたりに地震計とか」の、地震の「じ」で、老爺は相貌を崩して「ああ、あそこ。いまはないけどね」と、指さした先に田圃に縁取られて雑草の生い茂った区画が確かにあった。乃々香は「社会科見学の……」と、もにょもにょと言葉を連ねているのもどうでもよくなって、「ありがとうございます」と頭を下げた。
 ああ、たしかにあったんだな、無くなっていてもそこにあったのが分かれば嬉しいもんだな、と乃々香は思った。
 
 民家も絶えて、勾配のある上り坂を過ぎると、川沿いにコンクリートの堰が見えた。低木に遮られてダムの全容は見えそうにない。
 しばらく歩くと、背丈ほどの木羽葺きの「一ノ俣桜公園」という看板が立ってあった。道路から脇道を下ると、そこが公園らしい。
 看板のそばに青い普通車が一台止まってあった。先客がいるのだろうか。
 おそるおそる下っていく。
 すると、たしかに二人の男女らしき姿があって、見覚えのある姿に乃々香は姿を隠した。
 ああ、俵山温泉で会った二人だ。
 
 湖面に向かって半歩ほどの距離感で見つめている二人の顔を伺うことはできない。
 それにしてもこの公園は一体なんだろう、と乃々香は思った。
 眼前にある青い色に染まった湖の最奥に、朽ちかかった骨のような樹木がなにを実らせるわけでもなく幾本も刺さっている。
 それが反射して、泉の中にもうっすら木立を投影していた。
 まじまじとそれを眺めていると、不意に、りま――と言う名前だったか、それが、地面へしたたかに倒れ込んだのが、静謐の中でそれだけが響いた。


 3☆「水辺にまつわるエトセトラ(下)」(2018/09/08 更新分)


 薄っすらと光の差した暗がりが、少女の世界だった。
 外では雨が小屋の屋根を叩いている。
 雨は止んでは、思い出したかのように降り続くために、小屋の中には絵具のような黴の臭いで充満していた。
 二畳ほどの手狭な屋内には水の入ったペットボトルと、銀マットとランタンだけが無造作に敷かれている。
 伸び切って跳ね上がった髪を壁に押さえて壁に凭れかかった少女は、短い鼻歌を何度も繰り返す。音に合わせて、足の指を地面に叩いていた。

 急に、立て付けの悪いアルミのドアの軋んだ音が広がり、少女はゆっくりと虚ろな目を向けた。
 ドアにいたのは昨日の夜に来たあの饐えた臭いのする男ではなく、今日はまた見たことのない別の男だった。

 ・・・

 「目が覚めた?」
 左半身に温く柔らかい感触を覚え、夢から這い出た莉茉は薄目で、自分よりも小さな少女の姿を確かめた。
 「……だれ?」
 「え、そこからなんだ。俵山で出会った古宮だよ。古宮乃々香」
 乃々香という少女は、湖畔で倒れたこと、半睡半醒のまま湊太の車に乗せられたことを話したが、莉茉はぼんやりと頷き、「俵山ってどこだっけ」と呟いた。
 「蛍見に行った場所だろ」
 運転席で湊太がそれに答える。
「蛍が全然見れなかった場所かぁ。結局桜も見れなかったね」
「季節とちょっとずれてるんだから仕方ないだろ」
 会話に興味がなくなったのか、すぐにまた莉茉は乃々香に体を預けて寝息を立て始めた。
 乃々香は視線を外に移す。車軸を流すような雨が窓に張り付いて流れるのを見て、雨に降られる前に車に同乗させて貰ったことを幸運に思った。スマホで天気予報が晴れだと書いてあったのに最近は当てにならない。
 「おふたりは兄妹なんですか?」「そう見える? ……ただの知り合いの子守」「今日は平日じゃないですか、いやその……」「りまりま、不登校なんだよね」「りまりま?りまちゃん? あー、……私もです」「そっかー、まあいいじゃん、不登校。仲良くしてくれよな」「……はあ」「りまりまは春以外が嫌いらしくて引きこもっちゃうんだ。だからこうやって色々連れ回してるんだけど、よかったら乃々香ちゃんも付き合ってくれないかな」
 二度目の「はあ」を繰り出した。
 電車で行くよりも早く、すぐに青海の市街地が見えてきた。街とはいえ数万人しか住んでいない山陰の片田舎なので、生活に必要な施設が必要なだけ道路沿いに建ち、数百メートルもすれば道路脇は自然に戻ってしまう。
 「家は――」と、湊太が尋ねて、「あの地球儀の近くで」「ああ、あそこか」と返ってきた。
 車は、仙崎駅の前で信号待ちをした。
 仙崎駅は青海駅から海の方へ二キロほど突き出した山陰本線の支線で、乃々香にとっては特に利用することもなく、地元が輩出した詩人の金子みすゞや、星空観測区を目当てにやってくる観光客用の駅といった認識だった。
 ただ、最近は物々しい。地元の学生が大会で成績を残すと駐車場の金網に激励の横断幕を張ることもあるが、「星空観測区を辞めろ」「漁業を守れ」というような批判の文言が並んでいた。
 青海市は、ホタルイカ漁で有名だ。
 立夏から晩秋にかけて真夜中に何十もの艇が大海に浮かび、水中に向かって投げ出された光がさながら十字のように見える漁火は息を呑むような神秘的な光景だった。最近では元乃隅稲荷神社へ来る流れで、その近くの高台の棚田に好事家が集まって秘かなフォトジェニックな場所になっているようだ。その神社も、半世紀以上前に、漁師の枕元に現れた白狐が「これまで漁をしてこられたのは誰のおかげか。」と告げたことにより、建立されたのだから、夜焚きのイカ釣りは伝統的な漁法だった。
 今回、「星空観測区」と、その二つが衝突した。
 この地では名前を知らない人間はいない然る御仁が、市制何十年の記念の壇上で「星の瞬くこの地を、『星空観測区』としようじゃあありませんか」と公言し、数年後に実際にそうさせたのだ。東にある萩市では最近になって明治期の遺構が世界遺産になり、南の美祢市は秋吉台が日本ジオパークに認定されていたので、過去には原子力発電所を立てようか等という話が上がる程不毛であったこの地は、長い間栄に浴することを欲していた。
 乃々香は、理科の授業で教師が言っていた「星空観測区とは、光害の影響のない、暗く美しい夜空を保護・保存するための優れた取り組み」だと、頭の中で諳んてみた。
 「うちも親が漁師でさ、下宿先から帰るといつもギスギスしてるよ。乃々香ちゃん家はどう?」「私の家はそんなに」「学校は?」「学校……」「やり返そうとか、思わないの?」
 この人は何を言っているのだろう。二の句が継げずにいると、
 「去年の文化祭前日に三階から飛び降りて自殺しようとした……周りの人はそう言っている。だけど、本当は誰かに突き落とされたんだろ?」
 乃々香は顔色を変えなかった。
 「すいません、良く、分かりません。どうして私のことなんか――」
 「誰かを庇っているの? まあいいや、乃々香ちゃんがそれを正しいと思うならそれでいいんだけど。ただ、りまりまとは付き合ってやってくれよ。これは君のお兄さんのことでもあるから」
  大型犬が飼い主を信頼して睡るように、隣で肩を寄せるこの子が兄が一体どういう関係があるのだろうか?乃々香には訊きたいことが山程あった、ただ、
 「さあ、着いた」
 湊太が半身で後部座席に振り返り、莉茉の鼻を摘んだ。莉茉はむぎゅう、とよくわからない声を上げて「おはようございます」と言い、乃々香もつられて「うん」と言った。
 「乃々香ちゃん、どうせ週末暇だろ?こいつと遊んでやってくれよ」「私がですか?」「お前もおねがいします、って言え」「えー外出るのヤだけど……あ、いたた、お、おねがいします」
 高く掲げられた地球儀の前から乃々香を残して、車は走り去っていく。車の中はそれほどエアコンが効いていなかったので、じわりと背中に汗をかいた。雨はすでに止んでいて、ドクダミの強い臭気が雨後の田畑に広がっているのを鼻で感じていた。

 「ノノカ」
 青海市駅前ではタクシーが二台、いつか来るはずの客を待っているアイドリングの排気音だけが響いていた。その無機質な音のなかに、莉茉の声が濃淡をつけていく。
 「待った?」
 「うん……だいぶん、一時間ぐらい。でもそのおかげで次の電車もそろそろ来そうだから」
 軽く皮肉めかして乃々香は言ったが、莉茉は「そっか」と、すげない。
 「それよりその服どうしたの……」
 先週会った時は薄い緑の長袖のカットソーカーディガンにパンツであしらって調和した涼し気な見た目をしていたのに、今日の莉茉は、両胸にバルタン星人の刺繍が施され背にゼットンが大々的に仁王立ちしているスカジャンとボロボロのダメージジーンズを恥ずかしげもなく着ている。
 「ウルトラモンスターズ?」
 「ソウタに車で連れて行って貰おうと思ったんだけどダイガク?の用事で来れなくなったし、朝起きて寒かったから違う服を着ようと思ったけど家に誰もいなくて服がある場所も分からなくて……仕方なく」
 「アウターは?」
 「コーラかけて汚した」
 乃々香は、あの人そういう服着そうだな、今にも泣きそうな大人びた莉茉の姿格好と重ね合わせていた。それにしてでもある。同世代にしては、この子はあまりにも幼いのではないだろうか?幼児退行?ネグレクト?言い憚れる色々なことを想起して、それからひとつをため息をついて、「とりあえず行こっか」と手引きした。
 一番乗り場と二番乗り場どっちに乗ろうか、乃々香がそんなことを考えていると、「ソウタから一万円貰った。流しそうめんに行きたい」と莉茉が言う。
 「そんなに貰ったの」「うん、でもモノなんか買わずに消費しろって」「あ、そうなんだ。萩とか、下関に行って服を買おうかなって思ったんだけど」「遠いところもナシ」「それは手厳しい……。今から行くのは」「美祢の於福ってところ。地図あるよ」
 於福駅は、青海市駅から南に美祢線を通って四駅のところにあった。線路沿いに国道が通っているので、美祢に行く時もいつも親の車に乗っている乃々香にとっては、通り過ぎるだけの風景の中にこんな場所があったのかと、自分の世界が広がっていく感覚を覚えた。
 一軒家のような簡素な駅を出て、棟々の立ち並ぶ川沿いに歩き出す。十分も歩くと左手に『西寺水神公園そうめん流し』というのぼりが立っていた。山の中程にあるらしい。
 「春が好きなの?」「ウン」「他の季節は嫌い?」「ウン」「それはどうして?」「暑いのも寒いのも嫌い」「それは私もそうだけど……そんなこと言ったら外に出れなくなるよ」「それでもいい。乃々香もそうでしょ」「私はど~~かなあ。でもまたこんなに時期を外して流しそうめんをしたいってことは、季節嫌いを克服したいってことじゃ」
 それに莉茉は答えなかった。
 途中に建っているトイレを越えると、道こそアスファルトなものの周りは背の高い広葉樹に包まれて、森の中に踏み入った圧迫感と登坂の急激な運動によって乃々香の心臓は早鐘のようにどくんと打っていた。
 水神公園というだけあって脇を勢いよく流れる川に清涼感を味わえる。
 「もう動けないい。乃々香おんぶして」
 「ええっ……」
 ああ、口数が減ったのはそのせいだったのか、玉粒の汗を浮かべながら地面に腰を降ろす莉茉を見下ろす。まず無理だろうが、とりあえず格好だけでもおんぶしようとした。莉茉が股を開いて乃々香の背中に立つ姿勢は、大人がポニーに跨っている具合に残酷な描写に映り、体重を預けようと少しだけ凭れると、哀しい声を上げて二人は倒れた。
 フォールされた弾みで外側に転がった乃々香は「重すぎだよ!」とは、言えなかったし、言わなかった。
 スカートを叩きながら、ぐずった莉茉に対して「あそこから遊歩道になってるみたいだから頑張ろう」と、とりなした。
 
 大きな東屋が見えて、提灯がぶら下がっている。
 どうやらそこがそうめん流しの会場のようだ。
 炊事場のような造りの建屋は段々に連なっているらしく、乃々香たちが来た下の方は現在使われていないようだった。
 上の方へ登っていくと、梁に付けられた蛍光灯の人工的な光眩しく、その下にはステンレスのそうめん流し台が五レーンほど鈍く存在感を現していた。
 「竹に流すのかと思ってた」
 莉茉がそう言うせいで、売店の前、一番手前のレーンで興じていた四人家族の、そのうちの子供が背を向けてこちらを伺ってきた。
 「え、衛生的なやつじゃないのかなあ」と、乃々香は道化て、「そうめん流しやろうよ」と催促した。
 売店のおばさんに、そうめん流し五百円、おむすび一八○円、ラムネ一八○円を二人分頼んだ。乃々香と莉茉は、溝が一つ掘られたステンレスの台に対面して、木で出来たベンチに座る。何も言わず二人はラムネで喉を潤していた。東屋の外は、山の岩肌が迫っていて、その上を滝が勢いよく流れて耳触りが心地よさそうだ。その周辺を紫陽花の青と、苔むした青が、目を楽しくさせる。
 「あ、流れてきた」
 すでにおにぎりを頬張る茉莉が、天井から這うようにして伝わった配管から流れてきたそうめんの第一号に声を上げる。売店のおばさんが上流から流す仕組みになっているらしい。スチームパンクの様相だ。
 人間が流すのだから流れる間隔は粗く、そしてやや速かった。
 「おにぎりを食べてる暇ないね」と莉茉が言う。「うん、莉茉ちゃんがほとんど取ってる」
 二人でもぐもぐさせていると、ふと、どちらかが「夏だね」と言った。「うん」
 緑色をした一条のそうめんが流れてくる。それを乃々香は摘んで、つゆに浸した。
 「あ、それ終わりの合図の(そうめん)!」と、言って、莉茉はまた綺麗な顔をしたまま泣き出しそうになっていた。
 「ならあげる」と乃々香が言うと、莉茉が複雑な顔をするので「え、いらないの」と呟いて、二人で苦笑した。

 「池がある!鯉いるかな」
 さっきのはなんだったんだろう、という具合に元気に坂を降りる莉茉を眺めながら、元来た道を降りていった。
 線路を挟んで向かい側に出てみると、どうやら駅の近くに立派な道の駅があるようだ。
 「道の駅おふく」。
 おしゃれなシャーベット屋が併設されていたので、二人は舌鼓を打つ。こればっかりはソウタさんにお礼を言わないと、という気分でいると、莉茉が「温泉があるよ」と言う。渋る乃々香に莉茉は、
 「温泉好きじゃないの」「好きには好きだけど……」「温泉ばかりで会った」「それには理由があって」
 莉茉の「入りたい」という意見に押し切られる形で、気づけば入泉料五百円とタオル代を払っていた。
 この温泉施設は年季が入り、ホテルの温泉や湯治場とは違って昔ながらの健康ランドといった感じだが、料金は安い分致し方ない。
 二人は女湯のノレンをくぐり、脱衣所にやってきた。
 ああどうしよう、知り合ってそんなに言葉も交わしてないし相手のことだって分からないのに温泉に入るなんてどうかしてるよ。なかなか服を脱ぎ切れずにいる乃々香をよそに莉茉は、スカジャンを脱いでキャミソール姿になっていた。
 その肢体に目を瞠る。綺麗なんだろうな、と思い捉えた視線は異様な感情を生んでいた。見えている腕だけでも、なにか鋭いものでスライスされたような傷が、大小数え切れないほどピンクに変色して遺っていた。社会の教科書に乗っていた蘭奢待のようで、それは、とても痛ましかった。
 「ちょっとこれ着て、着いてきて」
 戸惑う莉茉に、スカジャンを羽織らせて、受付まで向かう。
 「家族風呂ってありますか」
 髪を白くさせた老人は、「ありますよ。一時間千円です」と言った。それに応じて家族風呂の鍵を受け取る。
 「どうして?」
 目を丸くさせる莉茉に、「他の人の目があるし……、それに訊きたいこともあるし」と乃々香は言った。


 4☆「蒼い創傷」(2018/10/08 更新分)


 「それは誰にされたの?」
 直視してしまった物から目を逸らすことができなかった。
 俯き加減に視線をそらす莉茉は、「おとな」だと言う。
 「大人……」
 ぼんやりした言い方に対して、乃々香はそれ以上の追求はしなかった。

 「私もね、言いたくないことはあるから」
話を取りやめにしようとした乃々香に、莉茉は頭を振って、「ごめんなさい」と言う。
 「謝ることなんてないよ」
 「ちがうの」
 「違う?」
 スカジャンの袖をまくって、生々しく傷跡の残る腕を乃々香に差し出す。
 『本当は、この疵をノノカに見せたかったんだ』
 『じぶんから見せたことはないよ』
 『ノノカなら嫌がらないだろうって思ったから』
 重ねて繰り出される穏当ではない言葉の連なりに、愛情の方向が違ったものであるとか、依存の仕方が超越しているものであったり、癲狂的なものを想像して乃々香は苦い笑顔をした。
 「うん……、見せてくれてありがとう。辛かったね」
 すると今度は顔を上気させて唇を食み、今にも泣き出しそうになっているのを見て、驚いた。
 「どうしてノノカはそんなにやさしいの?」
 「そう言われてもどう答えたらいいのか……ただ、そのせいで周りからやっかみを受けたことがあるから、こういうのはあまり良くないのかな」
 「そんなことないよ……。ノノカに会えてよかった。それだけで十分だよ。これ以上巻き込みたくない」
 いくつもの切創を抱え、泣きじゃくる女の子に対して、分かったと言えるほど物分りの良い自分ではないと思った。
 「りまちゃんを守りたいって思うのは私の勝手だから」乃々香は莉茉の両手を掴んでそう言う。
 「うん……。その、ね。ソウタに言われたんだけど、この先起こることに「肯定」しちゃだめなんだって……」


 鶴の恩返し?浦島太郎? 
 ソドムとゴドラに代表される物語としてのタブーに乃々香は首を捻りながらも、「分かった」と頷いた。
 「りまちゃんと、奏汰さんと、兄から来る手紙が何か関係しているんだろうなってのは、薄々気づいてた。何か大きな問題に取り込まれようとしてるって。だからこそ、りまちゃんを助けるためなら悪にでもなるよ」
 「ノノカ……」
 莉茉は、取り合った乃々香の手の指を、自分の塞がった傷口に軽くあてがった。
 「よくみると青いでしょ」
 光の当て方によってはラメ塗料のように鈍く光っていた。
 「うん」
 「わたし、イカ人間なの」
  その言葉に乃々香は、母が知人からお裾分けして貰い食卓に供されたイカのことを想像していた。
 調理される前、発泡スチロールに入ったその二杯のイカは、ゼリーのような青い血を臓物に浮かび上げて死んでいたのを不思議な眼差しで見ていた。
 「それは嘘でしょ」
 莉茉は決まりの悪い顔をする。
 「イカはどうして血が青いか知ってる?」
 「どうなんだろう」
 「銅なんだよ」


 ???


 茉莉の言葉遊びに肩の力が抜けて、莉茉はもう温泉に入ってしまおうかという気分になった。
 手狭な浴場にある二つ分の蛇口は、二人を座らせるには丁度良すぎた。堂々と湯浴みする乃々香に、莉茉の視線が泳いでいた。
「恥ずかしいの?」と問う乃々香に、莉茉は「ううんとね」と首を振る。明らかな足への視線に「ああこれは」、と乃々香は足を擦る。
 潰され、骨が折れ、皮膚が裂けて、そこから肉が盛り上がり瘢痕となっていた。
 「不細工でしょ」
 少しの間があって、莉茉は「ううん」と強く首を振る。
 「別にいいの。私は気にしてないから」
 立ち上がり湯船の方へと一歩踏み出してから、少し固まった。気にしてないと言った手前で、濡れた床が障った。
 莉茉が乃々香の手を握る。
「今日は歩き疲れちゃったのかな、まだまだだね……私」
 莉茉はまた首を振った。
「ノノカはがんばってる。がんばりすぎてるよ。だからね、休んでいいんだよ」
「そうもいかないかな。選べる未来があるのなら私は望む方へ行きたい」
 莉茉は肩を並べた湯船の中で押し黙ってしまった。

 楊貴妃ロマンロードという道がある。
 遥か千五百年前に唐で起こった安史の乱から逃れた楊貴妃が息絶え絶え流れ着いたとされるのがこの向津具半島で、乃々香と莉茉は湊太の運転する車に乗って、この楊貴妃の道を走っていた。
 「俵島なんて行くのなんて初めてだよ」
 「すみません、車を出してもらって」
 「いいって」
 そう軽くあしらって、道沿いにある楊貴妃の里を通り過ぎた。そこには、楊貴妃の墓というものもあるらしい。徐福伝説やキリストの墓のようなものなのだろう。
 俵島。乃々香にとっても行くのは初めてだった。向津具から横に伸びた陸繋島の油谷島から、さらに陸繋島で繋がる珍しい構造をしているのがこの島だった。
 一つ目の陸繋島である油谷島に差し掛かると、道幅がぐっと狭まり暗がりの木立の中を入っていくようになった。
 「まるで林道だな……本当に県道かよ」
  目の前が開けたかと思えば両端に畑が迫った道に、湊太が舌を打つ。一方、莉茉に目を移すと、事も知らずにすやすやと寝息を立てて眠っていた。
 「お兄さんはどうして、こんな場所を指定したんだろうな。……行けば分かるか」
 兄は以前と同じように時間と場所だけを告げてきた。リハビリのためと思っていたものが今では目的の変わったものになってしまっている。乃々香の心臓は破鐘のように脈打つ。
 ポン、という無機質な音と共に、カーナビが目的地に着いたことを伝えた。俵島に一番近い道路にあたりをつけて設定しただけのもので、高台に道を通す外なかったという感じのこの場所からは、海岸線に出なければならなかった。
 観光地化されていないので駐車場なんてものはなく、車を気持ちほど幅の広い路肩に止めるしかない。
 着いたよと莉茉の肩を揺する。言葉のようなそうでないものを漏らす。
 「俺は車に居るよ。なにかあったら電話をかけて……そいつ、こういう晴れた日は暑さに弱いから、早く用事を済ませたほうがいいぞ」
 乃々香はわかりました。そう告げると、夢から醒めやらぬ莉茉の手を引いて車から出た。
「あづい」
「頑張れば早く終わるからね」
 東南アジアのような緑の強い植生に囲まれながら、黄色のガードレールを伝って、民家の脇を下っていく。
 飼料の臭いのする方へ顔を向けると、牛舎があり、牛の鳴き声がした。暗がりから牛の目が光ると、莉茉は強張って乃々香の腕を強く抱いた。さらに下ると棚田が広がり、それも終わると、丸石の転がった海岸へと抜けた。
 ここで初めて俵島そのものが眼前に浮かんだ。
 更に遠くには観光地の角島とそれを渡す橋が小さく見える。
 「行こう」と、莉茉に促す。
 踏む度に丸石に埋まっていく不安定な足場に、莉茉が喜怒哀楽の声を上げる。ハングルの書かれたペットボトルや、何に使うのかさっぱりわからない漂流物を取り立てようとしては、乃々香が制した。
 誰もいない海岸。日本海の青黒い波濤だけが寄せては返している。足元に苦しみながらも島の正面を見据えるところにまでやってきた。
 背後には巨大な石碑が物言わぬ姿で海に立っていた。昭和二年に内務省から名勝に指定されたと石碑に刻まれている。人々の記憶から消え去ってもこの地に頑として残り続けているようだった。
 「これが俵島……」
 鯨のようにこんもりと浮かび上がった島影に、柱状節理の岩肌が島の側面を覆っている。高台には灯台もあるようだった。
 「渡れるのかな」と莉茉が呟く。
 島までに、コンクリート製の台座の飛び石が等間隔に配置されてあった。きっと満潮時には離れ小島になってしまうからだろう。
 水の引いた今ならそれを使わずとも歩いていけそうだ。
 サンダル履きの莉茉が踊るように水たまりを踏んでいる。
 踏石は島の手前で風化し、崩落していた。この島を利用するのは、灯台を管理する海上保安庁ぐらいだろうが、灯台守が歴史から姿を消してからは久しい。
 堆積した石に難儀したものの島に足を踏み入れた。
 「島には入ったけど、ここでいいんだろうか」
 明確なポイントまでは指図されていなかったので莉茉が思案していると、莉茉が暢気な声を上げる。手には黒と黄の混じった標識ロープが握られていた。土の斜面から垂れ下がったロープは三メートルほどして藪に消えている。
 「これで上に登ろう」
 莉茉がふるふるとロープを揺さぶる。今日はやけに機嫌が良いみたいだ。
 まさかこんなところでクライミングのようなことをやるとは思ってもみなかった。先に登り始めた莉茉の背中を押して手助けする。以前背負おうとして共倒れした時よりも軽くなっているようにも感じたが、気のせいだろうか。
 自分の番がやってきて、莉茉にロープを引き上げてもらった。
 いよいよ夏が近づいてきたという暑さに、汗を拭う。
 今度は莉茉が「行こう」と声をかけた。獣道のような人の踏み跡を頼りに藪の中を登り始めた。
 所々に足をかけやすいように石段が設けてあって、かつて人の往来があったことが、足にも心にも余裕を生んでいた。
 「あっ」
 前を進んでいた莉茉が小さく叫んだ。
 白く大きな犬が自分達の目線より高いところでこちらを睨んでいる。
 野犬だろうか、莉茉がどうしよう、と顔を青くして声を漏らすものの、急峻な島の形にして、逃げ場は前後にしかなかった。
 犬は迷う間もなく、すた、すたと、こちらに向かってくる。
 莉茉は恐怖に慄いて背後の乃々香に体を預けた。
 鼻先を莉茉のパンツに近づけて、怪訝な顔をすると顔を背けた。
 「こら!リシチカ!」
 女の子の声──、目深に帽子を被った子供が歩み寄ってきた。


 5☆「高い城の下の少女(上)」(2019/08/01 更新分)


  「乃々香さん達ですよね?」
 犬をあやす少女は、長くおろした後ろ髪に、球体関節人形のような白く透き通る肌をしていた。
 「お話は伺っています……。私は野海華也と申します」
 どうぞこちらへ、そう先導されて辿り着いた先には、日本海を見下ろす小さな白亜の灯台とその横にはカーキ色をしたテントが据えられていた。すぐに建てられたというわけではないらしい、生活の用を足すものが辺りに置かれている。
 乃々香がおずおずと尋ねる。
 「ひとつお聞きしていいですか?」
 「いくつでも」
 「私達はなんのためにここへ呼ばれたんですか?」
 少女は冷笑を込めたような薄い苦笑いをして、それはですね、という言葉の後に「ヅェン!」と叫んだ。
 テントの影から浅黒い顔をした幼稚園児ぐらいの少年がこちらを見つめていた。
 「立ち話も何ですから、お茶にでもしませんか?」と少女は言った。
 二人は状況が飲み込めず立ち尽くしていると、あたりに落ちていた色落ちしたビールケースや、浮標などを人数分集めて、中央にはガスコンロと薬缶が置かれた。
 「さっきの質問ですが、率直に言うと、この子が助かるかどうか――、という話です」
 少女は帽子を脱いで、さらに、髪を掴むと横へ流すと、白にも金にも近い色素の薄い髪が現れた。
 「今から百年以上前――」
 彼女は語りだす。
 日露戦争を運命付けたたあの日本海海戦で、戦いに敗れたバルチック艦隊の乗組員達は、日本海の荒波の中に飲まれて散り散りになったこと。ある者はウルソン島に、ある者は遥か青森県に、日本海の津々浦々に流れ着いて、どの骸も骨は折れ、体は腐り果て、凄惨を極めていたらしい。その中には僅かながらの生存者も居て、石川県の舳倉島では漂流した兵士達がしばらくの間は現地人と生活していたという口伝があるそうだと言う。
「私の曽祖父もそうでした。この長門の地に流れ着いて、地元の漁師の手伝いをしながら生活をしていたようです」
 薬缶から沸騰した音が漏れた。カップに入れた粉のココアに注ぎ、全員に振る舞う。
 「旧くからこの地は色々なものが流れ着くようです。打ち上げられた鯨とその龍涎香、国を追われた楊貴妃、平家合戦に敗れた安徳天皇、戦国大名になる多々良氏……、そしてこの子もそうです」
 三ヶ月前――、いつものように海女の手伝いとして海岸線で海藻を拾っていた少女は、浜で斃れている小さな塊を遠くに見つけた。幼体のクジラ、時に流されてくる深海魚、養殖筏の浮き具、近づくにつれその形にピントが合っていき、それが子供であることに気づくと、手にしているものも投げ出して側に駆け寄った。息がある。死んでいない。そして、どうやら顔つきが『思わしくない』。救命措置など知らず、深い眠りから起こすように色々な気付けを試みていると、ふっと意識を取り戻した。少女は涙を流して大喜びした。子供は年端も行かず、話す言葉も明瞭ではなく、母親の名前を口々にするだけだった。新たに生まれたこの係累を解消すべく、この漂流者を陰のある場所で休ませて集落の方へと向かっていった。色素の薄い彼女も、集落の中では異質な存在だった為、親に事情を打ち明けて対処して貰おう、それが子供にとっては精一杯の行動だった。救急車の糸を引いたようなサイレン音が聞こえる。助けに来たのだろうか。それなら、渡りに船だ。おーい、こっちだよ。懸命になって呼ぶが、目の前を通り過ぎていく。息を切らせて追いかけて、ようやくまばらな人影と救急隊員の姿が見えた。人々が口にする声。「日本人ではない女性の遺体が浜に打ち上がっていた」。彼女は気付かれぬように踵を返した。数年前、海青市に北朝鮮の脱北者が木造船に乗って漂着したニュースをリビングで家族と見ていたことがある。第一発見者に「水を」と言って貰ったペットボトルを一息に飲み干し、警察に保護された後、最後の結びに「日本に亡命したい」とニュースは報道した。分解に分解を重ねれば、日本人ではなくスラヴの血に行き着くであろう父は嫌な顔をしていた。当時は少女でさえ、肯定したい気分に思えなかった――。
 「そこで乃々香さんたちが出てきます」
 乃々香と莉茉はよく分からず顔を見合わせた。
 「隠し通す生活もずっとは続かない、そう思っていた矢先、去るお方がやってきて一つの提案をしたんです。『私が尽力してその子を日本で何不自由ない生活を送れるようにサポートすることを約束する。その代わりに、これからやってくる二人の女の子は二度とお互いの姿を見ることができなくなるかもしれない。その逆も然り。そしてこれを選ぶのは君じゃない。彼女達だ――」

       

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Neetsha