Neetel Inside 文芸新都
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第5話 ママと母親

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第5話 ママと母親

 母親はとても上機嫌だった。基本的にいつも表情は柔らかな人なのだけど、この日は特別笑顔だった。
「わぁ、すずねちゃん! とってもよく似合ってるわよ!」
 中学校の制服を買ったので、試しに着てみたのだった。全身が映る鏡の前に立つと、これでいいのか? と不安を覚えてしまった。わたしはクラスではそれほど背の小さいほうではなかったけれど、それでも制服は大きく感じた。三年間の成長分を加味してるから大き目なんだよ、とは言われたけれど。三年後の自分がこのサイズに見合う人間になれているのだろうか? もし一センチも背が伸びなかったら、わたしは高校受験の時期になってもずっと新一年生のような佇まいで受験会場にちんまりと座っていたりするんじゃないだろうか。
「……ブカブカじゃない?」
「いいのよそれが!」
「それがいいの?」
「いいの! 初々しくて!」
 少なくとも母親にはそれがいいらしかった。
「いいわよねぇ、若い子は節目節目で初々しくなれるんだもの……」
 どうやら母親にとっては“初々しさ”のステータスが人間を構成する様々な要素の中でもかなり上位に位置付けられるものらしかった。
「そうだ、すずねちゃん」
 母親はそう言うと居間のテーブルからカタログを持ってきた。まさか、中学生のプレゼントをここから選べとでも言うのだろうか?
「中学生になるお祝い、ここから一つ、なんでも選んでいいわよ!」
 うわぁ、きた。なんでこう想定どおりになってしまうのか……。わたしは辟易しているのを悟られないよう、精一杯の笑顔で母親の優しさに応えた。
「……ありがとう!」
 母親がそう言うのであればここから選ぶほかないのだけど、正直、見飽きたカタログだった。家にいてどうしようもなくヒマな時はパラパラと読んでいたし、もうどの分野の商品がどんな順番で並んでいるかも記憶してしまっている。そんなに新商品もたくさんはない。ただ、いつもは買わないような高いものを“買う目”で品定めできるのは新鮮かもしれなかった。

 部屋に戻って、わたしは一人でカタログと対峙した。なんでも選んでいいって言われても限度はあると思う。家電製品のところにある空気清浄機なんかはダメだろう。七万もするものを買ってとは言えないし、そもそも別に欲しくない。高いからいいってものではないだろう。
 本当は、こんなカタログから選ぶんじゃなくって、お店に行って選びたい。というか、そろそろスマホが欲しい。このカタログにはそんなもの載っていない。でも、母親の言うことをどんな形であっても否定するのはいけないことだ。スマホのことは、お父さんと二人きりになった時にコソッと相談してみよう。
 この中からだったら、これかなぁ。わたしはストレートブラシを丸で囲んで、ふせんを貼っておいた。いまいち歪んだ丸になってしまったけれど、何か言われるだろうか?

 昔は母親のことを“ママ”と呼んでいたこともあった。優しい人で微笑みを絶やさない。わたしがなにかしでかしてしまったときも、あらあら、と言いながら後始末をつけてくれるような、そんな人だった。わたしは“ママ”が大好きだった。
 ある日を境に、わたしは母親を“ママ”とは呼べなくなった。もしかしたら呼んでもいいのかもしれないけれど、口がもうその発音形になってくれなかった。
 きっかけは、家に大量の段ボールが届き始めたことだった。その中にはお茶やお菓子や化粧品といったものがたくさん入っていて、いつの間にかキッチンに見慣れない機器も設置されていた。これを通した水は美味しく飲めるの、と母親がお父さんに話していた姿を覚えている。お父さんはふーんってリアクションで、どうでもよさそうに見えた。

 今はもう慣れてしまったし、言っても何も良くならないことが分かったので触れないことにしている。だけど、小学校に入りたての頃なんかは、思ったことをなんでも言ってしまって苦い経験もしていた。
「ママー、なんでいつもこれなの?」
 これ、とは豆のお菓子のことだ。
「おいしいでしょ?」
「おいしいけど……いつもおんなじだとあきるよー」
「身体にもいいのよ? そのお豆は特別にたんぱく質やビタミンが多いの。すずねちゃんの身体を大きく、丈夫にしてくれるんだから」
「えー、でもなー、たまにはパピコとかたべたいなー!」
「そういうのは身体に良くないの」
「みんなはアメとかなめてるよー?」
「……まさか、もらって舐めてないでしょうね?」
「もらってないけど……いらないってことわるの、けっこうたいへんなんだよー」
 当時はあまりに子供すぎて、母親の言いつけを一から十まで守っていた。今は言わない。たとえ、友達からチョコ棒をもらって食べたとしても。
「いい、すずねちゃん。間違っているのはみんななの。正しいのはあなた。だから堂々と断ればいいの」
「ママ、さいきんいつもそういうよねー。ただしくなきゃダメなの?」
「ダメなの」
「どうして? パパもいってたよ、このマメあきたなーって」
「……え?」
「だから、かんづめとかママにかくれてたべてるよね。かんづめはパパのおかしなんだよね?」
 なんでも言ってしまう。言わない方がいいことがあるって、この時のわたしは分かっていない。
「……すずねちゃん」
「こんなにたくさんあって、ちょっとずつへってるけどそれでもぜんぜんかたづかないって。“はなしがちがうじゃん”っていってたよー」
「すずね」
「わたしもパパみたいに、あじあるのたべたーい! たべたーい!」
 わたしは、母親に両肩を肩を掴まれた。その瞬間にこれまでに感じたことのないような痛みが走るのが分かって、わたしは泣き叫んだ。
「いたい! ママ、いたい!」
「すずね。あなた、もう小学生でしょう? “ママ”と“パパ”は禁止。そう呼ぶのはやめようね?」
「わかった! わかった!」
 記憶にある限り、それが唯一、母親から受けた暴力のようなものだった。

       

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