格闘衝動(※再々掲)
第14話『Out Of Rule(後)』
地下に充満していたはずの熱狂は、泡のように消えていた。
歓声は呻き声に変わっていた。
スタングレネードを直接喰らい、視覚と聴覚に障害を受けた者が全体の三割。残その後方で将棋倒しになり、打ち身や骨折などの怪我を負った者が七割。乱闘を観ようとリングの片側に人が密集したことが被害を拡大させた要因だった。
その場で動いている男は、一人だけだった。爆発物を持ち込んだ張本人、市ヶ谷だ。
スタングレネードを使用する直前、市ヶ谷は目をつぶり頭部をガードをするフリをして両耳を手で塞ぎ、口を開けていた。至近距離であったため、多少の耳鳴りはあったが他の二名に比べれば、ダメージはないに等しい。
爆発と同時に自分の背中を押さえ付けていたウィンの膝を振り払った市ヶ谷は、リングの上へと避難していた。一方、バランスを崩したウィンは視力と聴力がない状態ですぐさま立ちあがり、ガードを上げて構えている。
闘争心の成せる業、と言ったところか。
市ヶ谷は距離を取りながら、相手を観察していた。指一本でも触れようものなら、組み付き膝蹴りをかましてくるだろう。すでにウィンを攻撃するつもりはなかった。衆人環視の中で、対等に『見える』状況で倒さなければ、『四天王』の人気を手に入れることはできない。派手な武器を使い、目撃者のいないところで殺したとしても卑怯者という印象を強めるだけだ。
市ヶ谷は、もう一匹の獣に目を向けた。
噂の中学生ファイター。市ヶ谷は尾ひれがついた評判だと侮っていたが、違っていた。今回の襲撃で一番の反省点はそれだった。
「……生意気な餓鬼だ」
本来、市ヶ谷は強者を前にして笑みを浮かべるタイプではなかったが、そのときの表情には少なからず相手への称賛が含まれていた。
その少年もまた、ウィンと同じように感覚を奪われた上で臨戦態勢をとっていた。
左手に刺さったナイフを自ら引き抜き構えている。死にかけではあるが、武器を持っている以上迂闊に手を出すのは危険だ。爆発直前のウィンとの位置関係は変わっていないので、そちらに突き飛ばすという手もある。
あと数分もすれば少年は失血多量で死ぬだろう。だが、それも確実とは言えない。少年がこの地下のリングドクターと一緒に来ていることを、市ヶ谷は知っていた。つまり、応急処置が間に合う。市ヶ谷はそれを偶然だとは思わなかった。
蹴りで折られたアバラが痛むのを感じた。そのダメージにしても、単独で敵を仕留める余力は残っていないという少年のブラフに嵌った結果だ。こちらの持つ武器に警戒したのだろう、と市ヶ谷は考えた。倒しきることはできなかったが、ダメージは十分あった。
獣のようでいて、計算高さを持っている。それがその少年の恐ろしい点だった。
しかしながら、それでも市ヶ谷は己が上手だという確信があった。
入念な準備があれば、負ける相手ではない。市ヶ谷の浮かべる笑みは、余裕の表れ。同時に、運が己に向いていることを確信した者の雀躍でもあった。
フェンスの観客席側に、見覚えのある顔があった。
その男は恐怖で目と耳を塞いでいたのか、他の観客と違ってスタングレネードによるダメージを負っていない。ビクつきながら、頭を上げ辺りを見回している。
市ヶ谷はリングから観客席側へと飛び移った。
ウィンの視力と聴力、そして意識が行動可能なレベルまで回復したのは、その十数秒後だった。
すでに市ヶ谷の姿は周囲にはなかった。ウィンから見て死角となるリングの反対側のルートを通り、地下から脱出している。
市ヶ谷が逃亡を選んだことは、ウィンの中にあったある違和感と繋がった。
戦う意思のないファイターをリンチする仕置人、通称『血祭部隊』はこの地下を『運営』する組の私兵であり、闘技場内で起きる観客の暴動(多くの原因はオッズの偏った試合での番狂わせ)に対応するという役目も持っている。その到着が遅すぎた。
本来の仕置人としての業務のため、試合中も常に数人の『血祭部隊』が常駐することになっている。加えて、第一の乱入者である少年が登場した時点で、彼らが動くきっかけは十分にあったはずだ。
何らかの手段で『血祭部隊』を足止めをされたのだ。恐らくは、周到に武器まで持ち込んだ市ヶ谷の仕業。ウィンはそう推理した。
そして、その市ヶ谷が逃げたということは『血祭部隊』への足止めが一時的なものだということを意味している。
地下の『運営』は『四天王』にとって味方であるとは言えなかった。その配下である『血祭部隊』と成り行きでぶつかる可能性はゼロではない。彼らは一人一人は金属バットとプロテクターで武装しただけの体力自慢の素人ヤクザだが、その分集団戦には特化している。ウィンが足元を見ると、潰れた股間から垂れた血溜まりがあった。生まれて初めて喰らったスタングレネードの後遺症も未知数。正面からやり合えるコンディションではない。
逃げることに関して、ウィンには迷いはなかった。
大局的に見て、『運営』に正面切って喧嘩を売ることにメリットはない。この場で『血祭部隊』を退けたとしても、『運営』との関係が悪くなり他の『四天王』から切り捨てられる可能性は十分ある。単純な強さだけではない、金と権力の問題。この国で生きるには協力者は必要だ。そこに関しては、ウィンは分を弁える理性を持ち合わせていた。
隣を見ると、一人目の乱入者である少年が地面に両手をついていた。
出血量からして、そろそろ限界が近いのは明らかだった。観客らしき若い男が背中越しに声をかけているが、返事はない。近頃では見ないような威勢のいい小僧だと思い、ウィンは少年を気に入っていたが、ここで死ぬとしても特に落胆はなかった。
フェンスを乗り越えてリング脇に入ってくるもう一人の男の存在に気が付いたのは、ウィンが踵を返しその場を去ろうとしたときだった。
「おい、小僧! 大丈夫か」
それが、やたらと恰幅のいい地下のリングドクターだということにはすぐに気が付いた。リングドクターは、すれ違うウィンには目もくれず少年のほうへと駆け寄って行く。顔見知りなのか、血相を抱えた顔だ。
非番のリングドクターが都合よく近くにいる、という状況に作為的なものを感じたが、ウィンはすぐに思い直した。
この小僧はそういうタイプではない。偶然と言うよりは、タチの悪い悪運。
『持っている』のは、入念な準備を重ねた市ヶ谷よりも、むしろこの小僧のほうだったらしい。
敵に肩入れするというのは、普段のウィンならばしないことだった。また、敵に肩入れされることは、その少年にとっては認められぬ敗北でもあった。ただ、殺意とシンパシーを同時に感じるという点で、両者は共通していた。
お前は俺が殺す。
心に芽生えた明確なその意識は、ほんのわずかな施しを与えることをウィン自身に許していた。
ウィンが近づくと、少年の手当をしている二人が気が付いた。当の本人はすでに意識がないように見えるが、手には奪ったナイフをしっかりと握られている。若いほうの男が「ひっ」と怯えた声を出したが、ウィンは構わず地下の出口を指さした。
これで死ぬようなら、やはり見込み違いというだけだ。
再び少年に背を向けると、ウィンは己の顔が自然とほころんでいるのが分かった。
今のは一体どういう意味だったのだろう。
『四天王』の不可解な行動を疑問に思い青年はリングドクターの顔を見た。
「さっさと逃げろってことだよ。多分、すぐに『運営』の兵隊どもが雪崩れ込んで来る」
破った自分のシャツで少年の傷を止血しながら、リングドクターはそう答えた。
もしかして、俺ってかなりヤバい状況に追い込まれてしまったんじゃないだろうか。
青年が今更にそんな不安を感じ始めていると、それを見透かしたようにリングドクターが言った。
「知らん顔してやり過ごそうとか思ってんじゃねぇぞ。そんな恰好してたら、絶対とっ捕まって酷い目に合わされる」
そこで初めて、青年は自分の服が血だらけになっているのに気が付いた。将棋倒しに巻き込まれたと言うにはさすがに不自然過ぎる。この場に残れば、ヤクザから騒動に関係があると疑われるのは目に見えていた。
「ほら、ちゃんと手で押さえてろよ。さすがに見捨てはしねぇから心配すんな。応急処置が済んだら、着いて来い」
青年はその言葉を信じる以外にはなかった。少年の応急処置が済むと、リングドクターがそれを背負う。結局、ナイフは手から剥がすことができずそのままだった。
それから後はよく覚えていなかった。
無我夢中でリングドクターの背中に着いて行き、気が付くと青年はどこかの街角を走っていた。空を見上げると、星空がやけに鮮やかに見える。
息絶え絶えで辿り着いたは、寂れた雑居ビルだった。
「……ハァ、ハァ……よっしゃ、ここの三階だ」
リングドクターがそう言った。見ると、そのフロアは小さな診療所になっていた。
「……えっと、表の仕事場なんスか、ここ」
「俺のじゃねぇよ。ここにゃ日本一の医者がいる」
青年にはとてもそんな風には見えなかったが、文句を言う度胸はなかった。
階段を上り診療所の入り口の前まで行くと、今度はドアが開かないというトラブルが発生した。
「しゃあねぇ……緊急事態だしな」
しばらくドアを叩き続けた後、リングドクターは意を決したようにそう言った。背負っていた少年を下ろすと、ドアから少し距離をとる。助走をつけて蹴破るつもりだった。
突然ドアが開いたのは、全力疾走したリングドクターが蹴りを入れようとした瞬間だった。
玄関の段差にけつまずいたリングドクターは、そのまま前のめりで診療所の床に突っ込んだ。大きな音がした。
「夜中にうっせぇんだよ。まったく」
開いたドアの陰から出てきたのは、腰の曲がった老人だった。ヨボヨボな見た目の印象に比べると、えらく口調がはっきりした年寄りだと青年は思った。
「じっちゃん、いるならすぐ開けてくれよぉ」
「馬鹿野郎、こっちはいつも寝てる時間なんだよ。そんなすぐ起きれっか」
「さっき一回電話したじゃねぇかよ」
「そんなん二度寝するに決まってんだよ。まったく、年寄りに世話ばっかりかけやがって」
壁に打った頭をさすっていたリングドクターを杖で叩くと、老人は青年のほうに振りむいた。その瞳の奥にも、齢に似合わぬ光があった。何かを射抜くような視線だ。
青年は、一瞬ギクっとした。
「……こいつは何なんだよ」
「あぁ、近くにいたんで巻き込んじまったんだよ。多分、怪我はしてねぇ。血は小僧の手当を手伝ってもらったときのやつだよ」
リングドクターの答えに納得したのか、老人は興味なさげに診療所の中へ戻って行った。立ち上がったリングドクターが、再び少年を抱きかかえる。
「ほら、お前も早く中に入れよ。ここらにもヤクザの手下どもが見回りに来るかもしれねぇ」
「……あっ、はい。あの、トイレ貸してもらっていいですか」
「ああ、そっちの奥だよ」
青年は返事も返さずに一目散にトイレに駆け込み、鍵をかけた。リングドクターが「うんこでも我慢してたのかよ」と笑う声が背後から聞こえた。
内心では、青年は気が気ではなかった。バレているのではないかと、一人になったとたんに不安がこみ上げてくるのが分かった。
携帯電話を確認すると、着信二件あった。同じ相手からだ。『ゆみ子』という名前で登録してあるが、万が一携帯を調べられたときに怪しまれないようにするための名前だった。
着信が一分間に連続二回なら、メールでの報告。そういう取り決めだった。
少年のファンと言ったのは嘘ではなかったし、裏切ったつもりもない。それとこれとは別問題だ。ちょっとした小遣い稼ぎ、ただの副業。そう思い込もうとした青年の頭に、地下に乱入した大男の顔がよぎる。
あいつには黒い噂がある。対戦相手を闇討ちするという噂が。恐らく真実だ。
これもまた、軽い気持ちで引き受けた仕事だった。青年は市ヶ谷に金を貰い、ファイターを尾行したり、闘技場に来たかどうかを報告するという手伝いをしていた。今晩、噂の中学生ファイターがリングドクターと一緒に地下を訪れたことを市ヶ谷に知らせたのも青年だった。
あのとき、青年は恐怖で目と耳を塞いでいたおかげでスタングレネードの被害を免れていた。それを見つけた市ヶ谷は、中学生ファイターを介抱するように命令した。
やらなければ、殺すと脅された。
『今、どこかの診療所にいます。正確な場所は分からないけど、走って二、三十分ぐらいです。あの中学生は生きてるみたいです』
青年がそんな文面のメールを送信すると、すぐに返事が返ってきた。
『そのままそいつらと一緒にいろ。朝になってから正確な位置を確認して送れ。ガキが病院を移るようなら見舞いに行きたいと言って、部屋の番号を自然に聞き出せる状況を作っておけ』
内容を確認した後、青年はメールを二通とも消去した。それも市ヶ谷から言いつけられたことだった。
自分以外の人間には連絡を取り合っていることは決してバレるな。
最初、市ヶ谷に雇われたとき、そう言われた。殺すという直接的な言葉は使われなかったが、あのときのあの目は人殺しのものだと気づくべきだった。青年は後悔したが、すでに手遅れだった。
流されるままに生きてきたちっぽけな人生は、決して抜け出すことのできない渦の中にすでに巻き込まれていた。
送信したメールを消去すると、市ヶ谷は籠っていたコンビニのトイレから出た。
例の中学生は『下』のファイターだがすでにヤクザがバックに付いており、直近で闘う可能性は低いとして調査を保留していた。今夜、因縁が生まれたあの場にスパイとして使っている青年が居合わせたことは、まさに渡りに船だ。焦らずゆっくり関係を築かせ、少しづつヤクザとの関係や一人になる時間などの行動パターンを探らせる。後は頃合いを見計らって始末すればいい。
市ヶ谷は『下』のファイターのほぼ全員の素性を調べ上げていた。雇った人間は十人程度、その半数が地下のスタッフである。それが彼のやり方だった。
闘いは檻の外でも続いている。お前らの敗因は、それを理解していないことだ。
市ヶ谷は手を洗いながら、洗面台の鏡に向かってほくそ笑んでいた。偶然が重なった結果ではあるが、そのチャンスを呼び込んだのは備えを怠らなかった市ヶ谷の習性だとも言えた。
コンビニの売り場に出ると、トイレの前に待ち構えるようにして男が立っていた。
「自分の顔を眺めてニヤつくのは、褒められた趣味じゃない」
抑揚のない口調でその男は言った。黒のスーツ姿で、サングラスをかけ鋭い眼光を隠している。
『運営』の番犬、口原だった。
「そっちこそ人の便所を覗くのはゲスな趣味だろ。特に男同士のはな」
そう言いながら、市ヶ谷は店内を確認した。黒いスーツ姿の人間が、口原以外に三人。もちろん、全員『運営』の手先だ。『血祭部隊』のような武装しただけの素人集団ではない、一人一人が達人級の腕前を持つ武術家の集まり。『始末屋』と呼ばれる男たちだった。
まともに戦えば負けは見えている。かと言って、逃げ切れる状況でもない。
「一緒に来てもらおうか」
口原がそう言った。市ヶ谷は両手を上げ、降伏のポーズをとる。
「……仰せのままに。今晩はなかなかの相手だったからな。これ以上はさすがにキツい。『四天王』と……あの小僧はそっちの仕込みか?」
「知らんな」
「そうかい、まぁどうでもいいけど」
物々しい雰囲気に顔を青くしたコンビニ店員に見送られながら、一行は店の前に停車してあった黒塗りのベンツに乗り込んだ。三列シートの後部二列は向かい合うように配置されている。
市ヶ谷の向かいに座るのは白スーツで、薄いカラーレンズの眼鏡をかけた、左頬に刺し傷の痕がある男だった。『下』の責任者、藤羽組系列・九馬会、その若頭。
「ええと……どちらさんでしたっけ」
わざとらしい市ヶ谷の挑発に相手は眉一つ動かさなかった。
「今日のことは、どう落とし前をつける」
葉巻を吸いながら、若頭が質問した。市ヶ谷はそれを見て笑い声を上げる。
「ハハっ……いやぁ、失礼。どうも我慢できなくてね、黒塗りベンツに黒服の手下連れて、白スーツに葉巻なんてさぁ、今時そんな時代錯誤な任侠もいたもんだ……あぁ、それともこれってヤクザ『ごっこ』なのか?」
次の瞬間、隣に座っていた口原が懐から匕首を取り出し、市ヶ谷の首に突きつけていた。刃はわずかに首筋の肉に喰い込み、滲み出た血が襟首を濡らした。市ヶ谷は両手を上げ、若頭は何事もないかのように言葉を続ける。
「言葉は吟味してから吐けよ。さもなきゃ最後の台詞になる」
「っハ……オーケー、オーケー。俺の負けでいい」
市ヶ谷はそう言って両手を上げたが、その顔には依然として相手を見下すような薄ら笑いがこびりついている。命知らずというわけではない。市ヶ谷は己の首筋に添えられた刃が、見せかけだけの脅しということを理解していた。
『運営』にとって市ヶ谷は必要な存在だった。
「ウィンが生きてる。お前の話とは違うが」
しばらくの睨み合いの後、若頭がおもむろに口を開いた。
場外乱闘により『四天王』の一人を殺害する。それは市ヶ谷が単独で準備した計画ではない。『運営』が一枚噛んだ暗殺計画。『血祭部隊』の対応をわざと遅らせたのは、他でもない『運営』自身の手引きであった。
『四天王』というのはあくまで異名であり、地下における地位や権利を『運営』が保障するものではない。にもかかわらず、『運営』には迂闊に彼らを力づくで排除することができない理由があった。
そして、それは『運営』が市ヶ谷の計画に加担したことにも関係がある。
「今回失敗があったのは認めるさ。だが、これは次に活きる失敗だ」
市ヶ谷は事も無げにそう言い放った。どんな態度をとるかは問題ではない。地下を仕切る存在が、一ファイターの不正行為に手を貸すためわざわざ動いた。その時点で力関係は決定している。主導権は市ヶ谷にあった。
「お膳立てをしてやった上で失敗したやつに次があると?」
若頭はドスの効いた声でそう聞いた。交渉の場で相手に文句をつけるのは、心情的に有利な立場を得ようとするヤクザの習性によるものだ。暴力をチラつかせ、他人の怯えで飯を食う彼らにとって、怒りや苛立ちは相手にプレッシャーを与えるための表面的なアクションに過ぎない。
感情は根拠にはならない。デカい組ほど実利で動く。
市ヶ谷はそのことを心得ていた。そして、『下』を仕切る『運営』、九馬会が身の丈に合わぬ大きさに肥え太っているということも。
いずれは身を亡ぼしなねない内患。その原因こそが『四天王』だった。
元々は藤羽組参加の弱小組織の一つでしかなかった九馬会は、そのシノギのほとんどを『下』での儲けに依存していた。花形ファイターである『四天王』の存在が無ければ、到底維持することはできない。
つまり、九馬会側からすれば『四天王』はこの先も上手く付き合っていかなければならない稼ぎ頭なのだ。排除するなど、以ての外。たとえ、『四天王』の一派が地下に集まった多くの人間を介して、独自の麻薬ルートを構築しているとしても、組自体の存続を考えるならば指を咥えて見ているしかない。
ケージは制御不能な四匹の凶獣を守る砦と化していた。
そこに現れたのが市ヶ谷だった。『四天王』を倒す実力を持ち、なおかつ『運営』の息がかかっていないと『四天王』に思わせることができる。それが条件だった。
『四天王』の一人の首を、『運営』側のスパイに挿げ替える。
俺ならばそのスパイになり得ると、市ヶ谷は提案した。
「今度は檻の中でやる」
市ヶ谷は若頭の問いにそう答えた。当り前のことを聞くな、という態度であった。終始仏頂面であった若頭も、それには眉をひそめる。
「武器を使って勝てなかったやつが、檻の中で勝てるか」
「誰も勝てねぇなんて言ってねぇだろ。単にリスクと労力が最小で済む選択をしただけだ。それに檻の中だからって、武器を持ち込めないとは限らない……おっと、これはオフレコで頼むぜ」
「……そんな戯言を鵜呑みにはできんな」
「なら、試せばいいさ。どうせ俺は七面倒な挑戦者決定戦をもう一戦やらなきゃ、ウィンとは正規で闘えないんだ。そこで実力を証明してやる」
若頭はまたしばらく黙って市ヶ谷を睨み続けたが、結局はその提案を受け入れざるを得なかった。片手を上げて、口原に匕首を仕舞うように指示を出す。少し切った首をさすりながら、市ヶ谷はため息をついた。
「あんたが話が分かる相手で良かったよ」
「信用したわけじゃない」
若頭の言葉と共に車が止まり、市ヶ谷は降ろされた。
「条件と日時は連絡する。逃げれば殺す」
若頭は最後にそんな捨て台詞を吐いて去って行った。走って行くベンツを見ながら「猿山の大将め」と市ヶ谷は毒づく。『運営』の頭なだけあって、やり手の男だとは聞いていた。『四天王』の暴走が徐々に明るみに出始めたころ、その手腕を買われて若頭に就任したらしい。だが、あの程度の人物ならば焼石に水だと市ヶ谷は考えていた。
『四天王』の一人、『下』を隠れ蓑にしてクスリのルートを作った首謀者と言われる男は、恐らく最初からそれが狙いで九馬会に近づいたのだろう。成り行きにしては、容易が周到すぎる。
そして、初めから喰い物にするためにヤクザに近づいたとう点に関しては、市ヶ谷も同じだった。九馬会側も気づかないほど馬鹿ではない。だが、分かっていてなお市ヶ谷の申し出を受け入れざるを得ない立場にあった。交渉のテーブルに立つ前に勝負は決まっていた。
そして『四天王』に関しても同じことが言えた。狡猾な狩人は、獣の群れを罠に嵌める準備を着々と進めている。
「デカい獲物は動きも頭も鈍くなる」
夜に沈んだ街並みを一人歩きながら、市ヶ谷は呟いた。歯車が合致し、自然と望む場所へと運ばれる感覚があった。
己以外のこの世の全ては、獲物に過ぎない。心の内に持ったその確信が自惚れでないことは分かっていた。
檻の外も内も関係はない。
最も強い者は己だと、市ヶ谷は信じていた。