格闘衝動(※再々掲)
第5話『連戦衝動』
その晩は、人生で一番肉を食った夜だった。
なぜか一緒に着いてきたヤブ医者に酒を飲まされて、気が付いたら俺はどこかのホテルのベッドにいた。テレビをつけてニュースの日付を確認すると、あれから三日も寝ていたらしかった。試合の後再びハメてもらった右肩にはまだ痛みが残っていて、今は首に引っ掛けられたサポーターで固定されていた。しばらくベッドでゴロゴロしていると、フロントから電話がかかってきて朝食だと言われた。
利き腕が不自由なせいで俺はほとんど犬食いするしかなかった。それよりも問題だったのはビジネスホテルの朝食バイキングの量が少なすぎたことで、俺がレストランに来て十分ぐらいでほとんど一人で食い尽くしてしまっていた。従業員が慌てふためいていたが、俺は客なので関係はない。デザートのフルーツポンチをボウルごと持ってきて汁まで飲み干したころ、金髪がやってきた。
「カタギに迷惑かけてんじゃねぇよ」
一緒に焼肉を食って俺がひたすら凶暴なだけの年相応のガキだと分かったおかげかは分からないが、金髪の態度は元の偉そうな感じに戻っていた。
「別に俺はヤクザじゃねぇから関係ねぇし。つーか、ヤクザ丸出しの恰好でホテルのレストランにたむろってるほうが営業妨害だろ、ふつー」
「うちの系列のホテルだからいいんだよ。他の客に迷惑かけんなって話だ」
「説得力ねぇなー、ほぼゼロ」
「……クソガキが」
金髪はモーニングコーヒーに砂糖とミルクを五つずつ入れるのが似合わなかった。おっさんがそんなもの飲み続けたら糖尿になる。
「で、どうなんの? 勝ったけど、次はいつとかは」
「この前ボコボコにされたばっかだろうが」
「勝っただろ? あれでケチつけるのか」
「別にそういうつもりじゃねぇけどよ。ちょっとは自分の体を労わらねぇとすぐに死んじまうぞ。肩だって治ってねぇだろ」
「いや、そういうのいいから、マジで気持ちわりぃ」
「……ったく、だからガキの相手は嫌なんだよ。いちいち大人をイライラさせんじゃねぇ」
「俺みたいなガキにとっちゃ大人なんておちょくる相手以外のなんでもねぇさ。あんたみたいな社会から落ちこぼれた大人ならなおさら」
「……」
「何? キレんのか?」
「……うちの組でなぁ、お前のスポンサーになるかって話が出てんだよ」
「ああ、そう。勝手にやったらいいんじゃねぇの? 俺は戦えるならどーでもいいよ」
「アホか、てめぇみたいなガキにそんな簡単に組が金かけるわけねぇだろ」
「いや、なんでキレてんだよ」
「話を最後まで聞けよ、いちいち面倒臭ぇ。ちゃちゃ入れてくんな」
「じゃあそっちがいちいちムキになんなよ、大人だろ」
「……言っとくが、お前の戦う相手にも関係してくることだからな。前に言ってただろ、お前、口原と戦いたいんだろ。お前を捕まえた警官だよ」
「スポンサーとそれがどう関係してくるんだよ、要点まとめて話せよ。話が見えてこねぇー」
「てめぇがいちいちうるせぇからだろうが!」
金髪は大声で叫んでテーブルを叩いた。こんな大人にはなりたくはないものだ。
「なぁ、分かったから、もう止めにしねぇか? 向こうの店員ずっとこっち見てるし。泣きそうな顔して」
「……」
「……で?」
「……タバコ吸うぞ」
「ここ禁煙」
金髪は無視してタバコに火をつけた。クズだった。
「……あー……要するにだ……お前がこの前戦ったのは二部リーグなんだよ。チンピラとかジャンキーが小銭賭けて一喜一憂する掃きだめだ。で、口原がいるのは一部リーグで、組同士のでかい金が動く。口原とやりたかったら上に行かなきゃなんねぇが、それには金を出してくれる馬主がいる」
「なるほど、じゃあいいじゃん。俺もあんたらも両得だろ」
「お前が勝てればな。前の戦いぶりはまぁ大したもんだったが、うちとしては一勝しただけのガキに大金預けるなんて御免だ」
「ああ、つまり俺の実力が疑わしいわけね、了解」
「キレねぇのか。舐められてんだぞ」
「俺は大人なのさ」
「クソったれ」
金髪は携帯灰皿に吸い殻を入れると、席を立った。
「なんだ、もう行くのか?」
「十回勝て。うちの組じゃ、それが『上』に行く最低条件だ。そんときまともに戦える体だったら、考えてやる。前の試合はオマケで入れといてやるよ」
「次の試合は?」
「いつでもいいさ。インターバルは最長で半年だ。怪我しても関係ない。準備ができたと思ったら、この名刺の番号に電話しろ」
俺は金髪から名刺を受け取る。木野田巧。平凡な名前すぎて俺の脳は覚えるのを拒否した。
それからやつらの言う『上』に上がる条件について少し考える。十勝するのはともかく、休養期間が半年だって? 俺を次世代ファイターとしてじっくり育成するつもりまんまんだ。それこそ舐めてやがる。
俺はそんな悠長にやるつもりはない。
「じゃあ、次は今夜で頼むぜ」
俺の言葉を聞いた金髪は、やはり何とも言えない表情だった。
試合は俺の要求通り組まれた。
ケージ際のギャンブラーたちはいくら流血を浴びても満足することはないらしい。止められる者はいなかった。金髪は最初は反対したが、俺がホテルの客を無差別に殴ると脅すと「勝手にやって死ね」と言ってあっさり承諾した。やはり子供は嫌いなようだ。
「おぉ、坊主じゃねぇか! この前はありがとよ。へへっ、お前のおかげで大勝だったぜ」
腕を固定しているサポーターを外すために医務室へ向かうと、ヤブ医者がいた。キスしてこようとしたので、俺は命の危険を感じてまた顔を殴った。鼻血がドバドバと噴き出して、醜い豚がのたうち回る。死ぬほど醜い。やつは今回も俺に賭けるつもりらしい。
「痛み止め打ってやっから、少しはマシんなるだろ」
「反則じゃないのか?」
鼻ティシュで注射器を準備するヤブ医者に俺は質問した。
「仕事のうちさ。これぐらい何も言われねぇよ。ここにゃステロイドやってるやつもいる」
「じゃあなんでこの前は打たなかったんだよ」
「おいおい、怒るなよ。前のはあれだ。本当は打ってやりたかったんだけどな、キノがけじめつったから、その手前、肩持つわけにはいかなかったんだよ」
「けじめ?」
「ファイターが余っちまったときの穴埋めだよ。闇金で金返せなかったり、組の下っ端で下手こいたやつだったりが生贄にされるのさ。で、客は何分持つか賭ける。大穴で逆転勝利にも賭けれるが、まぁほとんどないな。お前は大穴だったが」
「ふぅん、なぁ、ところで今日のオッズって分かるか?」
「お前の試合のか? 多分、相手とお前で八対二ぐらいじゃねぇか」
「低いな」
「おい、そうイライラするなって。別に誰もお前が弱いなんて思っちゃいねぇさ。前の戦いぶり、けっこう評判になってたんだぜ? ただなぁ……今回は相手が相手だ」
「どんなやつだ? 何か格闘技やってんのか?」
「中国拳法の達人さ。まだ四回しかやってねぇが、ほとんど相手に何もさせずに倒してるらしい。全部の攻撃を受け流して、一方的にな。俺は見たことねぇが、なかなかやべぇやつだぜ」
中国拳法。えらく珍奇な格闘技が出て来たものだ。テレビでやっているような格闘技イベントでは、それを使う格闘家というのはほとんど聞かない。こういうのは地下のルールなしの闘技場ならではだろう。日本の古武術だとか、俺のやっている沖縄の空手にも言えるが、古い武術というのは相手が死んだり後遺症が残ったりということに関して、むしろ推奨している。グローブをつけて目つきや金的がなしという競技化した現代格闘技のルールでは本来の強さを発揮しにくいのだ。俺は勝手に納得した。
「おら、ちょいチクっと行っからな。肩まくれ」
「なぁ、そいつは『上』でも通用しそうなやつか?」
「なんだ坊主、『上』に行きてぇのか?」
「まぁな」
「へへっ、じゃあ今の内に恩を売っとかねぇとなぁ。うん、まぁ、結構注目株ではあるな、そのカンフー野郎は。このまま連勝すれば、どっかの組から声がかかるだろうさ」
ならそいつを倒せば、俺が『上』に行ける可能性も上がるわけだ。金髪には十勝と言われたが、何も日本にヤクザは一つだけではない。
「なぁ、おっさん。もう一個聞きたいことがあるんだけど」
「おっさんじゃねぇよ。まだ二十代だぜ」
「ぜってー嘘だ。ハゲだし」
「うるせぇな。なんだよ?」
「口原っていうのは金髪のとこで囲ってるファイターなのか?」
「口原がキノの? 違ぇよ。あいつはここの胴元が買ってる犬だ。試合が流れたときのリザーバーとか、あとは上客向けの余興とかでやることもあるがな。『上』限定だけどな。普段は闘技場の運営の仕事をやってる」
「……ふぅん、じゃあ俺の肩外したやつは? 知ってんだろ?」
「ああ、トシはキノんとこのお抱えだよ」
なんとなく人物相関図ができてきた。俺がトシとかいうやつのジムで暴れたとき、口原が警官に変装して来たのは、ファイター相手のトラブルシューティングか何かの仕事をしていたからだろう。口原と戦わせるという金髪の約束はある程度は信憑性がある。問題はトシというやつのほうだ。金髪の組のやつなら、戦える可能性は高くはない。組の代表ファイターが一人だとしても、わざわざ本気の殺し合いで選出するなんてヤクザはやらないはずだ。いい駒ならたくさん持っているに越したことはない。やつらにとってはビジネスなのだ。
スポンサーは金髪とは別口で見つけるのが望ましかったが、それもすんなり行くとは思えなかった。ヤクザっていうのはメンツを気にするから、一回金髪が唾をつけた俺に別の組が手を出すのはいざこざの原因になるだろう。慎重にやらなければ目的からは遠ざかりそうだ。あるいは、難易度は高いがケージ外でサシでやる状況を作りだすという手もある。何にしろと、まずは二部リーグで己の力を証明する必要があるのには違いない。雑魚にチャンスが巡ってこないのは確かだ。
「ああ、そうだ。やっぱもう一個質問」
最後に確認しなければいけないのは、もちろん俺がここに来るきっかけを作ったやつのことだ。俺はあいつと戦うのが一番厄介だと予感していた。
「なんだ、やけに質問ばっかだなぁ。今さら緊張してんのか?」
「ちげーよ。色々と将来設計してんだよ。二戦目なんて通過点さ。今日も俺に賭けろよ。あり金全部賭けろ。で、勝ったら寿司だ」
「お前に寿司なんておごったら破産しそうだな」
「回転するのでいいよ、味わかんねーし。でさぁ、聞きたいんだけど、ここで柔道使うボクサーって知らないか? ボクシングやる柔道家でもいいけど」
もっとも、俺はあいつは本来ボクサーだと思っていた。柔道家にしてはスマートすぎる。
「ボクシングと柔道どっちも? うーん、聞かねぇな。まぁ、上下あわせたら百人ぐらいファイターがいるから、どっかにいるかもな。入れ替わり激しいからもう引退したか、死んだのかも」
俺はあいつはここにはいないと直観で理解した。実力を隠しているという線もあるが、本来の実力なら埋もれるようなやつではない。あいつが闘技場の部外者ならば、リベンジマッチはそれこそ一から十まで自分でセッティングしなければならなかった。とは言え、過去に闘技場との接点があったには違いない。鍵はトシって野郎だ。あいつのジムを紹介されたのが、ここに来るきっかけだった。ぶっ殺す前に聞き出しておく必要がある。
ヤブ医者に注射を打たれると、ちょうど俺の呼び出しの下っ端が来た。右肩を回すと痛みは軽減されてほとんど感じない。
「あんまり強いのを打つと、無理に動かしてすぐぶっ壊れるからなぁ。ちょっと痛みが残ってるだろ。痛みが酷くなったら、無理はするなよ」
無理だった。俺は勝つためなら何でもする。痛みなんて意に介している暇はない。今この瞬間だって、俺を負かしたやつらを殺してやりたくて、気がおかしくなりそうなのだ。俺の頭は人生で今までにないほど冴えているが、復讐の算段はまだ付かない。そのことが狂おしい。ギリギリ手の届かない高さで実る葡萄の房だ。
俺は親父のことを思い出していた。横たわるみじめな姿ではなく、稽古の日々だ。呼吸を保てと親父は言った。正しい呼吸。剛だけではだめだ。剛柔を併せ持つ。そのための呼吸だと親父は言った。俺はそんなものくだらないと思っていた。だが身体には染みついていた。親父によって刻み込またのだ。
構えと呼吸。
俺はそれで精神を保ち、修行の日々を耐えてきた。そのときも同じだ。はたから見れば馬鹿らしい。両手を開き、胸の高さに上げる。目をつぶる。それをやるのは家出をする前の日以来だった。結局、俺の家出を止められなかった構えだ。親父は修行が足りないというだろうか。やはり殺してやりたい。
「おい、何してんだよ。行かねぇのか?」
しばらく目をつむっていると、ヤブ医者に声をかけられた。俺は胸の高さにあった両手で、そのまま頬を強く叩く。気合いは十分。ついでに精神統一を邪魔をされたので、ヤブ医者を裏拳でさらに一発殴っておいた。
俺はもう目の前の戦いのことしか考えていなかった。