電世海
36:Electro Summer-06
祈りは、いつの間にか眠りへと変わっていたらしく、雛は意識をゆっくりと取り戻していた。
ぼんやりと、見慣れてきた『密室』の姿を捉える。何も変わったところがない。ここに来てからずっと。
窓の外は灰色だし、部屋の中も無機質な色をしている。外の音も聞こえない。
眠りすぎて意識がぼんやりする。頭が痛い。
雛は正直、退屈していた。ただ生きているだけというのも、案外苦痛なのだと知った。四六時中寝てもいられないし、娯楽と呼べるものもそうない。
テレビ等はなく、時折月虹が持ってくる雑誌や書籍だけが、雛の娯楽だった。
自分の誘拐事件について、マスメディアは報じていたのだろうか。ふとそんなことが気になった。
――まだ忘れられていないだろうか。
そんなことを考え、自嘲する。
母は、沢口は、きっと。雛のことを忘れたりはしないだろう。
――早く、無事だと伝えてあげなくちゃ。
ふと思い立った雛は、意気込んで体を起こした。
ベッドから離れればきっとまた、いつものように月虹が嬉しそうに現れるのだろう。
雛は、月虹に言いたいことがあった。
――外に出たい。
誘拐された身である雛は、当然の要求であるはずのその言葉を、一度も言えずにいた。それは勿論自分の身を案じてのことだ。
だが、月虹があれだけ『雛を守る』と公言しているのだから、もしかしたら雛の説得に応じてくれるかもしれない。
もしかしたら、『かれ』の味方から、雛の味方になってくれるかもしれない。雛はそう思い始めていた。
雛が強かなお姫様だと思っているのなら、むしろ、納得してくれるかもしれない。その後の反応は予想ができないが……。
だが、当の月虹は現れなかった。
「……月虹?」
雛は、ぐるりと無機質な部屋を見渡す。隠れる場所もそうないこの部屋に、月虹の気配はやはりない。
――……何か、あったんだろうか。
悪い予感がする。去ったはずの悪寒が戻ってくる。
――雛ちゃん。
『かれ』の声が聞こえた気がして、雛はぞくりと身を震わせた。
この部屋に入れられてからは一度も聞いていない、『誘拐犯』の声。
耳にこびりつく、聞き慣れていないはずの音。
顔は似ていないが、声の感じは、似ている。骨格等は似ているのかもしれない。
雛は、誘拐犯――彼のことを知っていた。何度か見かけたことがあったからだ。
円条のドール研究所の精鋭の一人で、羽田宗樹の弟。
彼が雛を誘拐し、ここに幽閉している。
名前は確か、祐樹と言ったはずだ。
彼は兄とは違い、ドール研究の第一線の現場にいたはずだが――。
雛にはそれ以上のことはわからない。雛と祐樹に接点はなかった、はずだ。雛の知る限りにおいては。
――きみに恨みはないよ。おとなしくしていてくれればいい。
この部屋に入れられる直前、彼はそう言った。
誘拐された直後の雛はショックを受けていて、呆然としていたため彼の言葉はあまり頭に入っていなかったが、彼はたしかに、そう言っていた。
数えるほどしか面識はなかったが、雛の彼に対する印象は、無表情、無感動だった。
兄の宗樹は長身で、まさしく優男といった風体だが、弟の祐樹は背が低く、線も細い青年だった。
顔のパーツも目や鼻が細く、唇が薄い。黒いセルフレームの眼鏡が、彼の顔で一番存在を主張している。
派手な出で立ちをしている兄に比べて、印象は薄かった。
そんな彼が、慄いて口が利けない雛に向かって、うっすらと笑みを浮かべてこう言った。
――この世界の謎解きをするんだ。
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コンチネンタルGTは、永泉市の郊外を目指して走っていた。目的地は、月島邸。
ルミナ、『ゲッコウ』の行方がわからなくなり、目的地を失った沢口たちに残った今のところの手がかりは、現実世界に出現したルミナのドール、壱の存在だけだった。
セスと真澄が仮想空間内の沢口を救助しに来た際、出口を開けてくれたのは壱だった。
現実世界に戻ってきたセスと真澄の隣には、『肉体』がここになかったはずの沢口と、『肉体』が存在しないはずの壱がいて、沢口たちは一頻り驚き、騒いだ。
まくし立てる『人間』たちに向かい、壱は言った。
「僕はここでゆっくり君たちの疑問に答えればいい? それともルミナを探すヒントを与えたほうがいい?」
沢口が即座に「ルミが先だ!」と答えたのに壱は少しだけ悲しげな笑みを浮かべた。
「『僕らの家』に行こう」
真澄は円条家に連絡を入れ、馴染みの老執事に、車を貸してほしいと打診していた。
――雛の行方が掴めるかもしれない。真澄のその言葉に反応したのか、老執事はコンチネンタルGTを飛ばして空屋まで来てくれたのだった。
お嬢様の行方がわかりましたら、どうか一番に奥様にお知らせください。キーを渡しながら、老執事は静かに、それでいて力強く真澄にそう懇願し、真澄は彼を安心させるようにゆっくり頷いて見せた。
「雛は生きてる。とりあえずそれを弓さんに伝えてよ」
はい。目頭にうっすら涙を浮かべ、小さく老執事が頷いた。雰囲気がややしんみりしたところで、真澄がふと気づく。
「そういえば左ハンドル?」
「左様でございますね」
「ぶつけたらゴメンね」
「請求書につけさせていただきます」
マジで!? 真澄が真顔で驚いたふりをすると、老執事は、くしゃっと笑った。
「奥様は車のことに関心はありませんよ。お嬢様がご無事であればきっと、不問に付されると思います」
「まあ弓さんはそうかもしれないけどね」
「会長とて、車よりもお嬢様のほうが大事だと思っていらっしゃいますよ」
会長の血族はもう奥様とお嬢様だけですから。老執事は寂しげにそう言い、それからこう続けた。
「お嬢様が見つからず、かつ車を激しく損傷した場合はおとなしく請求書を受けていただくしかないかと」
「ぶつけず、雛は見つけるよう心がけるよ」
「お願いいたします」
真澄はキーを受け取り、沢口たちとともに外に出る。外の世界はすっかり暗くなっていた。
真澄は改めて、先に外に出た、黒髪の少年ドール、壱の後姿を眺める。
背丈は沢口やセスよりもやや小さく、体躯も細い。設定年齢は沢口たちよりもやや下なのかもしれない。
以前、仮想空間でルミナと話しているのを何度か見たことがある程度だが、間違いなくあのドールだ。
夜の永泉市は電飾で彩られ始めている。
ここが現実世界なのか、電脳世界なのか。判断しているのは自身の認識だけなのかもしれない。
それくらい、仮想空間に広がる街並みや風景にはリアリティがある。
仮想空間と現実世界を隔てる決定的なものは、ドールの存在のようにも思える。
それが今、現実世界と認識しているこの場所にいる。
真澄の思惟を読み取ったかのように、振り返った壱が言った。
「世界の境界線が、壊れているんだ」
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「なあ壱」
後部座席に座っている沢口が、斜め前に座っている壱に声を掛け、壱が顔を軽く沢口のほうに向ける。
「ルミの家行ってどうするんだ?」
至極もっともな質問だった。手がかりがない彼らは、壱の言葉にただ従っていただけだった。
壱は目を伏せ、しばし沈黙した。言うべきか言わざるべきか、迷っているようだった。
壱が何かを知っていることに、セスと真澄は早々に気づいていた。
でなければ、現実世界に出てきたドールが、こんなに冷静ではいられないだろう。それくらい、彼は終始落ち着いていた。
やがて瞼を上げて、壱は言った。
「……君たちは真実を知るべきだと思うから。特にコウ君はね」
沢口の問いに、直接は答えなかった。
「……おれが?」
沢口が問い返すのに、壱は頷いた。
「君が『ほかの人間と違う』のには理由があるんだよ」
「…………!」
予想外の返答を得た、車内の『人間』3人は驚きで言葉を失っていた。
数秒間の沈黙が落ち、最初に口を開いたのはセスだった。
「壱。きみは、何を知っている?」
「……ぼくは事実の一部を知っているんだと思う。でも、全部を知っているわけじゃない。……だから、もっと詳しい人のところへ連れて行く」
「もっと詳しい人?」
車の向かう先は、月島邸。
「ルミナの父親だよ」
壱の言葉は、ひとつひとつが衝撃的なものだ。
壱自身それをわかっているのか、結論には触れず、ゆっくりと喋る。
沢口は核心には触れられない。彼は言葉を失ったまま、汗を浮かべていた。
口を開くのは自分の役目だ。そう考えたセスは、記憶の糸に引っかかっている、事実を確認する。
「……ルミナ君の父親は……家にいるのか?しばらく帰らないと聞いていたが」
壱はこの問いにはすぐに答えた。
「いるよ。ただ、家にいるという表現は正しくないかもしれない。正しくは……『家だけから入れる仮想空間』にいる」
「…………?」
セスが仕事をするときに構築するセキュリティエリアのように、閉鎖的な仮想空間は確かに存在する。
ただ、それが、固定の場所からしかアクセスできないということはない。
空間にはアドレスがあって、そのアドレスと、その空間への認証コードがあれば、入れるかどうかは別として、アクセスはできるはずだ。
セスは必死に脳内で事例を並べたが、『家だけから入れる仮想空間』に思い当たる事象がなかった。
それを裏付けるかのように、壱は続ける。
「このことは誰も……ルミナも知らなかったよ」
――あの子は何も知らなかった。それだけは信じてほしい。
壱は静かにそう言った。
「世界には境界線があって、今それが壊れてる。ルミナの父親は――境界線を作った張本人なんだ」
だから、本人に聞くといい。そう続ける。
車内にいる三人の『人間』は、それ以上の質問を続けることができなかった。
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郊外の月島邸に到着するころには、日はとっぷりと暮れていた。
ルミナがここにいたら、きっと怖がっていただろうな。沢口はそんなことを考える。
数時間前、ルミナの右手と繋がっていたはずの左手。今はその先に誰もいない。
壱が網膜認証システムの前に立ち、右目をスキャンさせると、家のロックが解除される。
ドールである壱の網膜データも登録されていたのだろう。もう疑問に思うのさえセスは億劫になってきていた。
「どうぞ」
『僕らの家』、先ほど壱はそう言った。
鍵を開けられるというその事実が、その言葉を真実にした。この家は、壱の家でもあるのだ。
手馴れた様子で部屋の空調を操作する。まさしく家の住人だった。そして空間制御装置がある奥の部屋まで沢口たちを通す。
ドアを開き、最後に入ろうとしたセスに、壱が何事かを囁いた。
「――……?」
訊き返そうとしたセスに構わず、壱は奥のコントロールパネルの操作を始めてしまう。
セスは訊くのを諦めた。思考の処理が追いつかない。
壱はドールらしい指先の速さで、瞬く間に接続命令を作り上げていく。
その速さと正確さが、彼がドールであると証明している。セスや真澄のタイピングは群を抜いて速く、そして正確だが、壱はその上を行っていた。
キーの音は絶えない。マシンの反応速度に耐えうる、最高速度で壱はキーボードを叩いていた。
あっという間に接続命令は完成し、通常の仮想空間にアクセスする。
仮想空間に転移した、彼らはそう認識したが、コントロールパネルに向かっていた壱はすでに仮想キーボードを呼び出しており、まだコマンドを作成している。
これが、『家だけから入れる仮想空間』へのアクセス方法なのだろう。
壱の傍にいつの間にか現れているコンソールに、壱が打った文字列がものすごい速さで流れていく。
その文字の流れを見ながら、セスは胸騒ぎを覚えていた。
――こんな作法は、知らない。
未知のことに対する恐れと、先ほど扉をくぐる前に壱に言われた言葉が、セスの精神を圧迫する。
扉をくぐる前、壱は言った。
――君は来ないほうがいいかもしれない。
どういう意味かはセスにはわからない。ただ、正直もうどうでもよかった。
母が死に、姉が死に、妹が死んだ。これ以上ひどいことなど起こり得ない。そう、高を括っていた。
それが、どういう結果になるのか、セスは予期することを放棄した。
そして――打ちのめされた。
コントロールが弾かれ、数秒続いた無重力感。
脳が平衡感覚を取り戻そうとフルで回転する。
恐る恐る目を開いた沢口、セス、真澄の三人は、研究所、と呼ぶにふさわしい、書籍に囲まれた空間にいた。
そして、手を止めた壱の隣に――ルミナの『おとーさん』がいた。
かれは、目を開けた沢口たち三人に向かって、穏やかな声で言う。
「待っていたよ」
ルミナの『おとーさん』は、白い髪をしていた。
彫りの深い顔立ち、緑がかった青い瞳。
日本人、ではないように見えた。
背が高く細い体つきはひょろりと『長い』イメージを見るものに与える。
「…………」
沢口はその瞳の色や体型に見覚えがあった。
堪えきれず隣を振り返る。
隣の少年は、眉間に皺を寄せ、得も言われぬ表情をしていた。
その表情は、いつもの大人びた仮面を剥がされ、年齢相応の顔をしている。
アッシュブロンドの髪、柔らかい青緑の双眸。
ルミナの『おとーさん』であるはずの男性は、三年弱、沢口の隣にいたこの少年と同じ双眸の色をしていた。
「…………」
やがて呆然とした面持ちのまま、父さん、と 少年は母国語で呟いた。