Neetel Inside 文芸新都
表紙

グレイスケイルデイズ
-08-

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 シロに報復を終えたクロが満足げに鱗道の肩に乗ったのは、鱗道が皿をすすぎ終える頃であった。普段から考えれば短い報復時間であったが、クロはシロの毛束を嘴にぎっちりと咥えている。振り返ってみればシロは前足で鼻や目の周りを押さえて震えているので、敏感な場所をピンポイントで狙って毛を毟ったのだろう。
『鱗道、首飾りはどうなったのですか? 駄犬があの様子ですから、呪いは消えたのでしょうが』
 空になったシンクに、クロの水浴び用の洗い桶を置いた。クロに水温の拘りはないのだろうが、汚れが酷ければ湯の方が早く落ちるだろうと考えて蛇口を開ける。
「宝石は粉々になった。蛇神の口は此方の物でも、彼方の世界が混ざってれば諸共砕くことがあるが、あの感じだと呪いが染みて、完全に彼方の世界の物になってたんだろう」
 人肌より少し温かめ、という人間好みの温度になれば、蛇口を洗い桶の上に移動して湯を溜めていく。近くの手拭き用のタオルで水気を切ると、クロの嘴にその手を向けた。
「真珠の方は散らばったんで……明日にでも拾うか。あっちは問題がなさそうなら集めて売りに出せば金になるからな。女は俺に受け取らせたんだから、俺のものでいいだろうよ」
 鱗道は少し意地悪く笑いながら、クロの嘴からシロの毛束を取り上げてゴミ箱に放った。鱗道の指に従って毛束を離すために開いたクロの嘴はそのまま閉じずに、
『そうですか――鱗道、私に嘘をついたことを気に病んでいるのであれば、あの真珠を二つ私にくれませんか』
 涼やかで硬質な音は、抑揚もなく淡々としていて冗談とも皮肉とも受け取りにくい。鱗道は顔を向けてクロを見たが、なにせ肩に乗っているのである。顔を向けても安い蛍光灯の明かりを受けた黒羽根で視界がいっぱいになっただけだ。
「構わんが、何に使うんだ」
 クロの表情を見る為には少し首を反らせる必要があった。表情を見る、といっても実際にクロの顔が変わるわけではない。しかし、目を向けることで分かることがあるものだ。例えば、今のクロは冗談でも皮肉でもなく、ただ真剣に言葉を発しているのだと伝わるように。
『晃の傷は、私が負わせたものでしょう』
 クロの言葉に鱗道は間の抜けた声を挟み、それから思い出して籠もった声で「あれか」と小さく呟いた。クロを抑える時に猪狩の左腕を掻いた傷は、鋭く硬い爪が災いして、殆どが皮膚を裂き流血を伴うものになってしまった。水で洗い流しただけで血が止まるはずがなく、青いシャツは血を吸って見る間に色を変えていく。見かねて消毒や手当を進言したが、猪狩は構うなと突っぱねて麗子へ電話をするために外に出てしまい、そのまま帰ってしまっている。
 やはり、クロは心の底から猪狩を嫌っているわけではないのだ。とは言え、クロの感情に折り合いを付けるのは、やはりクロ自身が成すべき事である。鱗道から言うことは何もないだろう。相談されれば、別であろうが。
「今度、麗子に土産を持っていくし、アイツにかけた迷惑の礼も言いに行くつもりだ。お前も付き合うか?」
 クロは嘴を高く持ち上げたまま制止し、どうやら考え込んでいるようである。もしも人間並みに表現方法が豊かであれば、目を強く閉じて眉間に皺という皺を集めきり、唇を真一文字に噛み締めて腕組みもして唸っていることだろう。それほどの沈黙と雰囲気を発する肩の鴉を、鱗道はただ微笑んで見ていた。実際、そんな表情や仕草はクロには似合わない。それに、今のままでもクロは充分に表現豊かである。
『……平日の、子供達がいない時でしたら』
 洗い桶に湯が充分に溜まって蛇口を閉めるのと同時に、絞り出すようなクロの返事が聞こえたので、鱗道は思わず声を漏らして笑った。
「近々、連絡して確認しておく。平日昼間、な。子供等は学校がある時か」
『ええ……そればかりは、その条件だけはお願いします』
 猪狩の子供達はまだ小学生――娘の方は高学年で、息子の方は中学年である。息子の方は友人達が揃いも揃って「少しマシな当時の猪狩の生き写し」という程であり、娘の方は麗子に似て年齢の割に物わかりの良い静かな子供であったが、共に子供であることには変わりない。クロが苦手とする生き物である。
 一方でクロは、麗子は好んでいるようであった。麗子は猪狩と対照的に急に動くこともなければ黙って触れようとすることもなく、声も挙動も大きくはない。クロに限らずシロに対しても、ただの愛玩動物として接するのではなく、鱗道と共にいるパートナーとして尊重している様でもあった。猪狩と麗子が揃って店に来た時などは、猪狩に顔を見せなくなってからも麗子には必ず顔を見せるし、以前ならば麗子の側に佇むことすらあったほどだ。殆どの状態で距離を取られてきた猪狩が非常に真剣な面持ちで「俺はどっちに対してどんな風に妬いたらいいんだ」と悩む様は非常に愉快だった。
 長く揺れ続ける肩を器用に乗りこなすクロが鱗道の顔を見るために頭を動かすが、当然ながら立派な嘴が追従する。目や頬にぶつかりそうな嘴を、危ないぞと言いながら手でそらし、
「まったく、お前は随分と義理堅い鴉だな」
 やはり、笑い声を堪えきることは出来なかった。鱗道に託す、猪狩の来訪を待つ、という選択があることはクロも分かっているはずだ。それでも決意を固める辺り、相当な責任感を抱えているという証拠である。
 クロは昼夜限らず、鱗道の代理仕事がらみでない限り店から離れることは滅多にない。鱗道と共に生活しているというより、「鱗道堂」に居着いていると思うことがあるのはそういった理由がある。そんなクロが鱗道と共に猪狩の家まで出向き、猪狩に小さな真珠を差し出す――想像が全く出来なかった。見てみたい、という気持ちは好奇心とも意地悪な関心とも言えた。
『慰謝料を支払い落とし前を付けて後腐れのないように努めなければ。利き手の小指を催促されても私に指はありませんし』
「おい、お前、やっぱり変なもんばっかり見てるんじゃないのか」
 がくりと落ちた鱗道の肩から、クロは軽やかに飛び立った。ばしゃりと水を跳ねさせて洗い桶の湯に身を投じた黒羽根は、七色の輝きを一層強めて雫を纏う。
『鱗道、私は日々学んでいるだけです。これから私が申し上げるのは、数時間前の貴方に送った有名な戯曲の一節ではありますが、申し上げたとおりに翻訳がいくつか存在しています』
 黒く硬質な嘴が湯の中に入れられ、湯を掬って跳ね上げ頭に被る。器用な物で、湯は洗い桶から跳ねることがあっても、シンクの外を濡らすことはなかった。嘴や足で丁寧に羽根の隙間に湯を入れながら身を清めていく姿は、実際の鳥の水浴びとはほど遠い。
『生きるべきか死ぬべきか、それが問題であるならば、現在の私が回答することは不可能です』
 水音の隙間を、硬質でしなやかな音の糸が機織りのように言葉を紡いでいく。聞いていて心地の良い無機質な音であった。
『成すべきか成さざるべきか、それが問題であるならば、あの時貴方が下した決断同様、私の答えも一つしかあり得ないのです』
 黒羽根の隙間より濡れる赤い目は今日も今日とて煌々と輝きを反射する。鴉の贋作の体内では、さぞかし
得意げに銀色の液体金属が蜂蜜のような水音を上げているのだろう。

       

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