Neetel Inside 文芸新都
表紙

クーライナーカ
『十一』

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今日一日の最後の授業が終わってからひかりはすぐにのぞみのところへ向かった。自分が骨を折っているのも忘れて一直線にのぞみの元へ向かうと彼女の肩を掴む。のぞみはすぐに振り向いた。やや銅色を帯びているのぞみの瞳には何かを言いたげで少し思いつめたひかりの顔が映っている。

「ねぇ。のぞみ。一緒に帰ろ。」

率直にいうとひかりはこの季節には似つかわしくないひまわりのような笑顔をのぞみにだけ振りまいた。のぞみはためらいがちに目を伏せたがそのまましばらくした後目線を持ちあげる。そしてうなずくと自分の鞄を背負った。のぞみの反応にいつものような覇気が感じられなかったのがひかりを不安にさせる。しかしちょっとした達成感を得て満足したひかりは鞄を取りに自分の机に戻る。学校の授業が終わってすぐにのぞみの元に飛んで言ったから机の上は広がったノートと消しゴム、それにシャーペンが転がっている。それらを筆箱に入れて帰る準備をしているとこだまがいつのまにかそばにいた。

「ひかり。まだ帰り支度しているの?」

こだまが鞄を持って首をかしげていた。呆れているのと心配している二つの相反した気持ちがこだまから伝わってくる。心配されるのはもう慣れていたからひかりは呆れられていることに少しむっとして手を早めた。物をしまう歯切れのいい音をひかりとこだまだけが聞いている。

「そのノート始めてみるわね。どこで買ったの?」

唐突にこだまが積み上げられた教科書とノートの束の一番上に置かれていたそれを指差した。この前こだまと図書室で宿題をしたときに拾ったものだ。図書室の私物かもしれないと思ったけど背表紙には何も貼られていない。表紙には何も書かれていない。一言で言えば謎だった。それがひかりの感性にぴったりだったのかそれを手にした後に、結局黙ったまま持って帰ってきてしまった。本に関しては人が変わることで有名な図書室の司書が顔を赤くして通せんぼするかと思ったけどお咎めは何もなかった。そのときにひかりはこの本が図書室のものではないことを知ってやっぱりこれは持っていきたいと改めて望んでしまった。見れば見るほどこのノートは不思議だった。なぜ前のノートの持ち主は図書室にこれを置いたのか。表紙は黒いのに中身には何も書かれていない。真っ白なままである。前のノートの持ち主は何か書こうという気になれなかったのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなってゆき、ひかりもこのノートの使い道を思いつけなかった。ただひかりはこれに何かを書く気にはなれなかった。持っているだけで波打つ思いがどこか静まっていく。そんな気分になれるからひかりは肌身離さず持っていた。

「この前親にもらったの。」

こだまに嘘を言うのはかなり後ろめたい。けどこのノートのことを知られたくない気持ちが先走ってしまった。それに拾ったというとこだまがこのノートのことを汚い目で見るかもしれない。やっぱりそれも耐えられない。やっぱりひかりは嘘をつくしかなかった。
ひかりの返事にこだまはとくに際立った反応もせずにそのノートをしばらくぱらぱら捲っていた。やがて残りを見ずにノートから手を引くと持っていた鞄を持ち帰る。

「面白いことでも書いてあるかと思ったわ。」

「面白いことって……例えば? 」

「私の右手の邪気眼が……」

邪気眼? こだまは時に意味の分からないことを口走る。なんだろう? でも普段は真面目なそぶりを見せる彼女が意味不明なことをいうのはそれはそれで面白い。こだまは自分の言葉が失態だったのか口を出て押さえている。ひかりが鞄に詰めている間はその手を動かさなかった。

「最近ひかりは少し変わったよね。」

誰に聞かせるのでもなく独り言をこだまは言ったのだろう。けどひかりに聞かせる気はあったにちがいない。

「どういうふうに? 」

のぞみのこともあるからひかりは帰り支度をする手を休めず聞き返す。内心はすこしどきどきしていた。

「何かって言われたら困るけど……私も今思いつきで言っただけだし。
 でも少し落ち着いているというか、
 他人に頼ることがちょっと少なくなったといった感じかな。
 それにおしゃれをしてるしね。そのイヤリングなかなか似合っているじゃない。」

窓の外を見ながらこだまは指折り答える。ひかりは空いている手で自分の耳たぶを思わず抓んでいた。自分では見ることはできないけど確かにあるそのイヤリングはひかりの指先に吸い付いてくる。こだまの言葉はうれしかった。他に言うことがないくらいひかりを喜ばせる言葉だった。

「じゃあね。ひかり。また明日。」

こだまはそういってひかりから離れていった。こだまとは家の方角が違うせいで一緒には帰れない。それでもこうやって帰りに一言声をかけてくれるこだまをひかりはひそかに尊敬していた。ひかりは笑って手を振る。こだまはそれを見届けると手を振り替えし、教室からすぅっと消えるように抜けていった。
昼もそろそろ終わるのに窓の外からは太陽ががんばって光を教室に投げ込んでいる。雲ひとつない完璧な晴天で太陽はいつも以上に輝いているのは気のせいではないだろう。ほんわかとしたぬくもりを全身で受け取りひかりは帰る準備を済ます。のぞみは入り口付近の壁に寄りかかってひかりを待っている。ひかりは笑ってのぞみに手を振った。のぞみはちょっと困ったようにはにかむと手を振って答え返してくれた。五十点。ひかりはなんとなくのぞみの対応に点数をつけてみた。

     


 校門を通り家に帰る道すがら、ひかりはずっとしゃべっていた。松葉杖の歩行だから他の人にどんどん抜かれていく。でもひかりはそれのおかげでのぞみと長く居られる時間が取れてうれしく思っていた。のぞみはひかりの隣でひかりに歩調をあわせてそばに居てくれている。

「シャーペンってさ、芯を入れるときに蓋を開けて入れていた?
それともペン先から入れていた? 」

「ペン先から。」

「一ヶ月がさ三十日ある月と三十一日ある月のどっちが好み? 」

「三十日かな。」

「ショートケーキのイチゴは先に食べる? それとも後に食べる? 」

「後かな。」

「……」

ひかりはのぞみに考える間も与えないほどに質問を投げかけていき、のぞみはその問いに全て答えていく。ただし立った一言だけでひかりとの会話は底で打ち切られてしまうのだ。ひかりは気づいている。のぞみはそうやってひかりとの会話を避けている。
やっぱりのぞみはどこかおかしい。
それがなぜなのかはひかりには分からなかったけどのぞみがこうなり始めたときに何があったのかは覚えている。気になることといえばこれぐらいしか思い浮かばない。横断歩道で青信号を待っている間、隣に聞こえる程度の声量でひかりはぼそりと呟いた。

「昔さ。私が骨を折る一日前のことだけど。
 そのときにクーライナーカを一日だけ調べていたじゃない。」

目の前を通る車の騒音が絶え間ない。横断歩道にはひかりやのぞみと同じ制服を着ている人たちが徐々に増えていく。のぞみは何も答えない。ひかりはのぞみが聞いていることは知っていた。のぞみの表情が前よりも険しくなっているからだ。信号が青に変わって横断歩道上に人が右と左の両方から流れては交わりあう。

「ええ……そうだったね。」

横断歩道を渡りきったときにのぞみがそう答えた。のぞみのポニーテールをくくっている茶色いリボンが左右対称の綺麗な形をしていた。ひかりは懸命に歩きながら、会話を続けるための言葉を懸命に考える。他人は頼れない。今は自分の力で何とかしなければいけない。

「そのときから。どこか私を避けているよう。」

「そんなことないよ。」

「嘘だよ。」

横断歩道を渡った二人は誰かに会うこともなく閑散とした住宅街に進んでいく。のぞみはひかりの言葉に無感覚でいるのか、ひかりの前をさっきとかわらないまま黙々と歩いていた。のぞみは黙秘という方法でまたひかりとの会話を終わらそうとしている。堀の上を猫が我が物顔で歩いている。ひかりはそれに気づかずにのぞみの背中を見ていた。諦められない思いがまた芽生えてくる。

「何か悩んでいるなら話してくれないかしら。」

「何も悩んでいない。」

のぞみは何も考えずにそういって歩く速度を速めてひかりから距離をとる。

「そんなことない。のぞみは何か様子がおかしいよ。何かを隠しているみたい。そしての ぞみはおびえている。のぞみはもっとはつらつとしていた。」

十字路にさしかかったときにのぞみは足を止め振り返った。ひかりとのぞみの距離はわずかしか開いていない。けれどひかりにはその差を埋めることはできなかった。目の前に友達がいるのにもかからわずひかりの体には孤独感が重くのしかかっていた。のぞみと向かい合ってひかりはどうすればいいのか悩み、不安と焦燥感がひかりの体を熱くする。さっきの猫がやじ馬のように電柱の影から盗み見ていた。

「ねぇ。やっぱりクーライナーカが関係しているの? そしてそれは私に責任……それと 関係があるの? 答えてよ。」

のぞみはうろたえているわけではない。
のぞみは怒っているわけでもない。
けどのぞみの瞳には何も浮かんでいなかった。混濁したその瞳が示すことはこの言い争いにのぞみは何も感じていないということだった。

「私の事情なんか、ひかりには関係ないじゃない。どうして余計なことを聞くの。」

周りは静かだった。だからのぞみの言葉が一直線にひかりへと向かってゆく。のぞみはものの数秒で言い終わってしまう。けどひかりはのぞみに反論できなかった。のぞみが言ったことは誰も反論できない。なぜなら他人を完全に拒絶する意志を持っているからだった。怒鳴ったのではなく淡々と話したことがひかりを冷静にさせている。トラックが通り過ぎてのぞみとひかりの髪を同じ方向に揺らした。エンジン音が聞こえなくなるとまた静けさが戻ってくる。ひかりはその静けさに心をいやというほど揺さぶられていた。のぞみはようやく失言だったことを理解したのか、ひかりから数歩離れた先でおどおどしていた。ひかりは松葉杖をより強く握り締めてアスファルトの地面を見た。この気まずい空気はまだいい。だけど後悔にとらわれているのぞみを見るのは嫌だった。

「ごめん。」

のぞみがそれだけ言う。

「そう……」

いつのまにか二人は十字路の中心で向かい合っていた。家に帰るならおのおの別の道へと向かわなくてはいけない。のぞみと一緒にいられるのはここまでであるのは分かっている。分かっているけどのぞみと別れたくない。

「じゃあ……また明日。」

ひかりの思いを裏切るようにのぞみはひかりから遠ざかっている。ひかりはのぞみを追いかけられない自分にかつてないほどの怒りを感じていた。自分がこれほど無力だったのか。ひかりは踵を返すとまたゆっくりと歩き出した。ひかりの耳についている若葉の形をしたイヤリングが何かを訴えているように輝いている。

       

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