「人間を食べたくなったりとかはしないの?」
「いや、それは無いな」
「月に向かって吠えたりとかは?」
「しないなぁ」
ふぅん、と鼻で相槌を打つと、再び本庄は四コマ漫画の単行本に目を落とした。
僕は僕で、良い様に玩んだイァンクックを捕縛するため、抜き足差し足で罠を仕掛ける作業に、全神経を集中している。
暴露してしまうと。僕は狼男だ。
満月の夜、月を見ると狼になってしまう。
……。
それだけ、だ。
強いて挙げるものは、特に無い。
それでもどうしても! というのであれば、満月の夜はTシャツの選別に苦労する、くらいだろうか。
獣化すると、筋肉がその質量を増やしてしまうので、どうしても着ているものを伸ばすか破るかしてしまうのだ。数枚のインナーと、三か月分のバイト代に匹敵するヴィンテージ物のジーンズが、その授業量だった。僕の部屋のドレッサーの中に、僕のサイズよりも一回り大きめのサイズのものが収納されているのには、そういった理由がある。
……まだ必要だ、というのであれば、体毛のことを語ろう。
獣化した際、僕はボウボウの体毛に身を覆われる。この体毛は、陽が昇ると同時に、バッサリと僕の体から抜け落ちるわけなのだけれども。
この掃除が、やたらと大変だ。
室内で猫や犬を買っているブルジョア民なら理解出来ると思うのだが、カーペットや敷物に付着した動物の毛というものは、採取するのに地味に苦労する。ましてや僕の部屋の場合、床一式をカーペットで覆っているため、これを綺麗に掃除するのは、至難の業なのだ。
以前、掃除が面倒だということで外で夜を過ごした時、隣人に狼男の時の姿を目撃されてしまい、沫や僕の住んでいる地方に巡回が発生するという憂き目にあったため、最近は朝日が昇る前にバスルームに閉じこもり、その場で処理をするという手法を取っている。
「前々から思ってたんだけどさ」
「……んー?」
「その爪って、ボタン押しにくくないの?」
「……んー」
捕縛に失敗して、ご機嫌斜めになってしまった怪鳥を仕留める際に操作ミスを起こしてしまう程度には押しにくいことは否定しないが、それももう慣れた。
結局、怒り狂った怪鳥に嬲り散らされ、猫が運転する台車にテントまで運ばれるという憂き目に遭うと同時に、背中に、柔らかく、心地良い重みが圧し掛かってくる。
「本庄、重い」
「んふ?」
抗議と言うほど刺々しくもなければ、暫定と言うほど物腰柔らかに言ったわけでもない僕の言葉をどう捉えたのか、本庄は僕の首筋に顔面を押し付け……
「っくちんっ」
「学習能力って言葉、知ってる?」
「でも、もふもふしてるよ」
じるじると鼻を啜りながらも、僕の体毛に体を埋めて来る。僕が獣化する度に、こうして鼻水で顔面を汚しながらも密着してくる所を見る限り、本庄は阿呆の子なのかもしれない。
本庄は、施設の子である。
我が家の隣に鎮座するその施設は、一般に想像される施設とは一線を画し、それなりには蓄えを所有してそうな形を持っていた。
本庄は、物心が付く前からそこに預けられ、気付けばその施設を任されている園長先生を「おばあちゃん」と呼んでいたそうだ。おそらく、本庄が「お父さん」とか「お母さん」とか、そういった家族を呼ぶ呼称を口にした数は、一般の十分の一程度なのだろう。本庄、という苗字も、本当の苗字ではないらしい。
そんな彼女も、今では施設では一番の年長者になり、施設の子供達に「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と呼ばれ、その世話に追われているらしい。毎晩毎晩、家族を思い出して泣き出す子供達に子守唄を歌っては寝かしつけ、誕生日には手作りのケーキを作り、クリスマスにはサンタの格好をして、子供達を喜ばせる毎日なのだそうだ。
そんな多忙な本庄と、対して施設に興味も持たず平々凡々と狼男を満喫している僕が、何故今、こんな風に親しくなり、こうして夜な夜な僕の部屋に侵入しては、漫画を散らかして帰宅するような間柄になったのかというと、その答えは到って簡潔である。
目撃された隣人が、正にそのサンタに扮した本庄だったからだ。
「ねー」
「……」
「ねー」
「……んー」
「私とセックスしたら、どんな赤ちゃんが生まれるんだろう」
動揺した甲冑の男が、ダイミョウザザミの目前で生肉を焼き始め、盛大に空に吹っ飛ばされた。
「あ、やられたー」
「そういう話、好きじゃない」
「うん、私も好きじゃない」
言いながらも、本庄はぎゅうぎゅうと僕の背中に体を埋める。
ごく一般的に発情期を謳歌する青少年だったら、身だけでなく心も狼になっていたのだろうが、あいにく僕にそんな勇気は無かった。故に、僕に対する本庄の仕打ちは、アイアンメイデンにその身を挟まれるほどとは言わずとも、それなりに過酷な拷問でもある。
何故なら、僕は本庄に惹かれている。
・
獣化した僕と、サンタ化した本庄が鉢合わせた際、本庄の周りには少数の子供達が群れを成していた。
子供達は僕を見るなり、泣く事も忘れ、本庄の背に隠れてガタガタと震えていた。
獣化することには慣れていたが、獣化した自分を目撃されるのは、初めてだった。その時の子供達の目を、僕は今日まで忘れられずにいる。
傷、ついた。
目撃されればどういう反応をされるか解らないほど、僕は主観でしか物を見ていないわけではない。
ただ、獣化に「慣れ」が発生してしまっていた。故に、その「程度」を測り損ねていた、というのが正直なところだと思う。
だから、ある程度の覚悟はしていたものの、やはりその眼差しは、僕の心をギスギスと傷つけた。
─────大丈夫だよ─────
だから、そんな風にうろたえ、傷ついた僕の心象に、その言葉はいとも容易くすり抜けてきた。
─────怖くない、怖くない─────
本庄は、子供達を庇っては、いなかった。
子供達を背に従えてはいるものの、それは庇っている様子では無かった。本庄が立っていて、その後ろに子供達がいる。それだけだった。
見つめるその眼も、決して警戒の色は無く、穏やかに、我が子の新たな一面を見つけた母親のように、穏やかな色が宿っていた。
─────怖くないよ─────
もう一度だけそう呟くと、本庄は、僕を見て、微笑んだ。
毛むくじゃらで、牙を剥き出しにして、鋭い眼光を持ち、大きな身の丈を従えて、グルグルと喉を鳴らす、狼男に向かって、微笑んだ。
─────ね?─────
・
「っくちんっ」
「うあ、飛んだ……」
だからその時は、まさかこんな風に何度も何度も人の毛並に身を埋めては、盛大に鼻水を撒き散らすような阿呆の子だとは思わなかった。おそらくはアレルギー持ちなのだろう。
一度、何故そうまでして僕の毛並に顔を埋めるのか、問うてみたことがある。
本庄は、固麺好みの人がカップ麺を待つくらいの時間を要して考え込んだ後、
『もふもふしてるから?』
「本庄ってさ、阿呆だよね」
「あんまりそういうことさ、思っても口に出さない方がいいと思うよ」
鼻声で抗議されても、これっぽっちも説得力が無い。
甲冑の男が鮫牙を屠り、ダイミョウザザミがエリアから姿を消した。おそらく、次は10だろう。
「もふもふしてるからじゃないんだよ」
ぽつりと、本庄が呟いた。甲冑の男が、ピタリと直立不動の姿勢になる。
僕の首を抱く本庄の腕は、細くて、白くて、柔らかくて、暖かい。
手首に見える傷は、もう見慣れたものだ。
「もふもふしてるからじゃ、ないんだよ」
「……知ってる」
「んふ? 自惚れ家さんだね?」
手を握ることは、しなかった。爪が鋭利なので、うっかり傷つけてしまうのではないかと不安だからだ。
だから僕は、本庄を振り払わないことでしか、本庄への気持ちを伝えることが出来ない。
本庄は、勉強が出来ないわけじゃない。だから通常、人に何かを伝える時、言葉足らずになってしまうようなことは、無い。
誰だって、あるはずなのだ。「伝えたくても、上手に言葉に出来ない」ことは。
だから本庄は、僕の首を抱く腕の力を強めることでしか、僕への気持ちを伝えることが出来ない。
受け取る側が、上手に受け取ってやらなければいけないのだ。
「僕のことが好きなのは、毛並がもふもふしてるからではなく、もっと大きな理由があるんだ」ということを、上手に受け止めてやらなければいけない。
あの時本庄は、誰に向かって「怖くない」と説いたのだろう?
あの時本庄は、誰に向かって「大丈夫だよ」と説いたのだろう?
僕は、解っている。
本庄は、今、不幸ではないのだ。
「いらん子だ」と施設に預けられても、母親と父親の顔を知らなくても、夜な夜な子供達の世話に明け暮れていても、サンタの衣装のまま、うっかり狼男と遭遇してしまっても。
本庄は、不幸ではないのだ。
そんな本庄の気持ちを無視して、飛び交う同情の声や揶揄の声は、カッターという媒体を通して、本庄の手首を傷つけ続けたのだろう。
不幸という烙印を強引に押し付けられ、本庄がどれだけ傷ついていたのかを、僕は理解出来る。
甲冑の男が、ダイミョウザザミの殻に刃を突き立て、戦利品を剥ぎ取っている。
怪物を、恐ろしいモノだと認識したのは、誰だろう?
怪物は、無条件に人を襲うものだと認識したのは、誰だろう?
狼男は、恐ろしいモノだと認識したのは、誰だろう?
狼男は、無条件に人を襲うものだと認識したのは、誰だろう?
この世界でただ一人、本庄だけが、僕を理解してくれている。
この世界でただ一人、僕だけが、本庄を理解している。
ゲーム機の電源を、落とした。
何故なら、もうじき夜明けだ。体中の毛が抜け落ちて、鋭利な爪が縮めば、本庄の肌を傷つけることなく、本庄を抱きしめることが出来る。本庄の暖かな体温を、肌で感じることが出来る。
それをするには、ゲーム機は邪魔なだけだ。見えない危害から身を守る甲冑もいらなければ、怪物を屠り殺すための刃もいらない。
・
暴露してしまうと。僕は狼男だ。
満月の夜、月を見ると狼になってしまう。
……。
それだけ、だ。
強いて挙げるものは、特に無い。