いやはや、自分がこれほどまでに守護という言葉からかけ離れているとは思わなかったと、竹原少年は一人ごちた。
それは確かに、市内に猟奇殺人犯が潜んでいるとあれだけニュースで騒ぎ立てられる中、太陽と月が業務交代に差し掛かる時間帯に、「こっちの方が近道だから」という理由で奥の細道を選んだ竹原少年にも、非はある。
後ろから忍び寄る走行音に対して、「人見知りのスポーツマンがランニングでもしているんだろう」とタカを括って警戒しなかったことにも、上に同じだ。
それよりも何よりも、「まさかピンポイントで俺が被害者になったりはしないだろう」と、根拠も無い安堵に身を委ねていたことが、最大の反省点なのだろう。それがパーセントであろうがパーミルであろうが、一が存在する以上、それは「絶対に無い」のではなく「多分無い」なのだ。多分は多分であって、少分の余地はあるのだから。
背中から、物も言わずにブスリだ。銀行強盗犯に飛び掛る警察犬ですら、どこを咀嚼しようかと考えるブランクはある。
躊躇いも何も無かった。ただ、「人間が人間を刃物で刺す」という作業は、まるでドリンクの自動販売機にコインを入れる作業であるかのように、当然の作業として行われた。あまりに自然過ぎて、当の竹原少年ですら、その瞬間は「人にぶつかったら謝れよ、礼儀を知らん奴だな」とのんきなことを考えていたくらいだ。
で、ある以上。
何を考えるでも無く、あっさりと幽体離脱を実行してしまった竹原少年が、生前一番最後に考えていたのは、「無礼な人に対する愚痴」だと言うことになる。
ありていに言えば。
竹原少年は、死んだ。
・
「だからといって、『今から貴方を刺します』と、わざわざ宣言する通り魔なんていないでしょうしね。持つ癖にもよりますが」
「そもそも刺すなよ、人をさ」
竹原少年は、付き添いの「天使」と名乗る、外資系OLのような出で立ちの眼鏡が似合う女性に愚痴った。
天使は、手元のファイルをパラパラと捲り、飽くまでにこやかに語りかける。
「貴方を殺害した人物ですが……随分と面白い役どころですね。ネクロフィリアであり、カニバリズムの癖を持っています。おまけにオムニセクシャルと、まぁある意味オイシイと言えばオイシイ役と絡んでいることになりますよ、貴方は」
「オイシイ役どころと絡んだ後は美味しく召し上がられました、ってか。面白くも何とも無い」
自信があったのですが、と言う天使は、しかしちっとも残念そうではない。休み時間の語らいの場で発生しても笑えないような冗談は、この後糞ったれホモ殺人野郎の家の食卓に並ぶであろう、スペルマに塗れた自分の手足を想像して鬱状態になっている竹原少年にとって、当然笑えるものであるはずもなかった。
未練が無いわけではなかった。
仄かな想いを寄せていた同級生に告白もしていなければ、所属するラクロス部のメンバーを国体に連れて行ってもいないし、妹を誑かす不届き者と便所の裏で語り合うこともしていなければ(素直で騙されやすいのだ)、今晩の食卓にあり付いてもいない。今朝の冷蔵庫の中身からして、今晩は焼肉だったんだぞ畜生。
しかし、だ。
「咀嚼される存在が、食用牛から貴方にすり変わっただけですよ」
「咀嚼すると咀嚼されるでは、雲泥の差があるだろうが」
この、天上天使だか企業戦士だかの区別もつかないようなOLまがいの女に、これほどまでにあっけらかんとされると、いい加減「死」への悲観も薄れるというものである。
花畑に立っていた。それはまだいい、予想の範疇だ。誰に習うでもなく、何故か人は死後の世界が花畑だということに、強い説得力を感じている。
しかしまさか、死後の世界で外資系OLに「はい、お疲れ様でしたー。どうぞ召し上がって下さい、汗をかいたでしょう?」と、レモン入りスポーツドリンクをタオルを渡されるなどとは、誰が予想しただろうか?
「喪服姿で、ハンカチを目尻に当てて、顔面からドリップされるありとあらゆる体液を啜り上げながら登場した方が良かったですか? 部活動のマネージャーというシチュエーションは、現在の日本大陸内では中々のニーズと需要があるという風に聞いていたのですが」
天界の管轄がどこなのかはわからないが、一度コスチュームの重要性を説いた方がいいのかもしれないと、竹原少年は頭を抱えた。目安箱とか設置されているのだろうか?
「俺は、天国に行くのか? 地獄に行くのか?」
竹原少年が、四限目の科目を友人に問うように、天使に語りかける。
「天使が来たってことは、天国なんだろうか? 尤もあんたを見てると、あんたが天使だとしたら天国もロクな場所ではないような気もするけど」
「皆様、本当にその天国だか地獄だかを信じてらっしゃるんですね」
くすくすと、天使はようやく天使らしい微笑を漏らした。
「それを問われた回数は、私単一のものを数えても那由多の単位を切ることは無いでしょうね」
「馬鹿言え。そんなに年中人が死んでたまるか」
「何も貴方がただけではないのですよ? 犬であれ、大蛇であれ、果てを言えば腸炎ビブリオにだって、その問いを投げかけられることは少なくありません。尤も同じなのは『自分の行く末が気になる』という部分だけで、天国だか地獄だかの明確な場所を指定した上での行く末の安否は、ヒト科ヒト属ヒト種にしか問われたことはありませんが」
犬や腹痛の元凶が言葉を喋るのか? とは問わなかった。それらの存在も等しくこの場所に送られてくるのならば、それらと意思と疎通させることの出来る何かを、彼女らは持っているのだろう。それを聞くのは、何だかとても低俗であることのような気がしたのだ。
「結論を言ってしまうとですね、貴方がたが想像する天国や地獄やなんかは、ここには存在しません」
「それなら、俺達はこの後どこへ行くんだ?」
「新しい世界に生まれ落ちるのですよ。貴方がたヒト科ヒト属ヒト種は、それを輪廻とも呼びますね」
「生まれ変わる、ってやつか」
「少しだけ違いますが、まぁ概ねそういうことですね」
少しだけ違う、という単語が出てくると、大概の物語ではその「少しだけ」に大いに翻弄されるのだが……と、いささか竹原少年は、一抹の不安を覚える。
そして。
実際、その通りになった。
ただ、その物語を悲劇と取るか喜劇と取るかは、互いに賛否が分かれるところである。
何故なら竹原少年は、最後までその真意を知ることは無かった。
・
縦に広がる海だな、と竹原少年は考えた。
天使と共に歩いて、どれくらいの時間が経ったのか? 或いはそもそも、時間という概念すら無いのか? とにもかくにも、歩いて歩いて、互いに無理やり搾り出さなければならなくなるくらいにネタに乏しくなるほど会話を交わす時間を経て、二人はそこに到着した。
壁、と呼ぶには少しばかり表面が波打ち過ぎていて、海、と呼ぶにはそもそも万有引力の摂理に反している。
どう比喩したものかと考えあぐねていると、天使が二歩ほど前に出て、竹原少年に振り返り、フライトアテンダントのような手形を象った。
「貴方にはこれから、ここに飛び込んでもらいます」
「ここは、どこに続いてるんだ?」
「貴方のお父上の精巣ですよ。貴方には次の世界で、再び貴方として生きていただきます」
「……何だって?」
バンドのギター担当に「俺、今日からプロの棋士目指すわ」と告白された時のリーダーのような顔をして、高橋少年が言葉を頭の中でリフレインする。
次の世界で、再び俺として生きる?
「質問があれば、今のうちにどうぞ。この中へ飛び込んでしまえば、貴方が今現在脳内に保管している記憶や何かはすべて抹消されて、男性器の中に存在するスペルマを構成する精子の一匹となり、激しい受精戦争に身を投じなければなりませんからね」
「飛び込む気を一気に萎えさせるようなこと言うなよ」
それに、どうせ記憶がリセットされるのであれば、今ここで問答を行っても、それは無意味なものになること請け合いだ。
とはいえ、やはり聞かねばならないのだろう。聞いて良いということはつまり、聞かせても差し支えの無いような展開であるということだと思う。
……尤もこの天使には、言い辛いことや答え辛いことなど無いのだろうが。
「つまりそれは、俺がもう一度俺として生まれることが出来るっていうことか? 生前と同じ父さんと母さんの子供として、生まれ変わることが出来るっていうことなのか?」
「お父上やお母上だけではありませんよ。騙されやすく、愛くるしい貴方の妹君も──ああ、お気を悪くなさらぬよう。そういうデータがこちらに届いているのです。その妹君も、相変わらず貴方の妹君として誕生することになるでしょう」
「ちょっと待ってくれ、おかしいじゃないか」
掌を額にあてがい、竹原少年が唸る。
「つまり何か? 俺が、もう一度父さんと母さんの子として生まれてくるのはまだ解る。父さんも母さんもまだ、頑張れば何とかなる年だろうしな。だがしかし、その四年後には、俺の妹がもう一度生まれてくるっていうのか?」
「理解が早くて助かります」
「それじゃつじつまが合わない。確かに地球からは俺が消え、そして新しい俺が生まれれば、プラスマイナスで俺は結局一人存在することになる。でも妹はどういうことだ? まさか妹まで、俺みたいに早死するってことじゃないだろうな」
「いいえ。貴方の妹君はこの後、七十二歳まで生き続けますね。あ、ちなみに生涯独身のようです。どうやら貴方の妹君は、貴方に兄として以上の感情を芽生えさせていたようですね。貴方の死後、その感情を捨て切れずに、生涯その想いを抱えたまま生き続けるようです」
とんでもない事実を聞いたような気がするが、それは後ほど本人に問い詰めるとして、今は目の前のこの問題を説くのが先だと竹原少年は考えた。
「だったらつまり何か? 俺が生まれてくる先には既に妹が居て、その妹を俺は『姉』と呼ぶ。そしてその四年後に生まれてくる妹を俺は『妹』と呼ぶ。つまりその世界には、妹が二人いるわけか?」
「え? いいえ?」
だんだんイライラとしてきた。一足す一が二であるという、当然のことを真っ向否定されている気分になる。
段階を追って考えようと思った。間違えている部分を明らかにする必要がある。
「つまり俺は、父さんと母さんの子として、もう一度生まれる」
「はい」
「その四年後に、妹が生まれる」
「はい」
「その時点で、妹は二人になる」
「いいえ──ああ」
問題点は明らかになったものの、竹原少年はその思惑のズレを正当なものにする理論が思い浮かばない。がしかし、天使にはそれが、明白になったようだった。
「違います違います。それは違う世界なんですよ」
「違う世界?」
「つまり貴方は、もう一度同じ構成の世界に、同じ役割を持って生まれ落ちるんです。でもそこは、構成が同じなだけで、違う世界なのですよ」
「……違う世界?」
阿呆の子みたいなオウム返ししか出来ない竹原少年に対して、天使は居残り生徒に数式を理解させるベテラン教師のような微笑を見せた。
「順序を追って説明しましょう」
・
「そうですね……まず初めに、貴方は『エチュード』を知っていますか?」
「いや、知らない」
「台本が存在しない舞台のことです。最低限の役の詳細と役割、始路と末路だけを役者に伝えて、後は役者が即興で台詞や動きを演じる舞台のことを、エチュードというのですよ」
「……」
「これを理解して頂かないと、説明がつかなくなってしまうのですが」
「……いや、大丈夫。おおよその理解は出来た」
両方のこめかみを中指と親指で揉みながら、竹原少年が答える。
「それでは次に、これがおそらくは肝となるのですが……」
首を少しだけ傾げ、人差し指を立てて、天使は堂々と発表する。
「世界は、一つではないのですよ」
「……地球、って理解でいいのか?」
「いいえ。そんな規模の小さいものではなく、世界です」
「宇宙?」
「地球も宇宙も、アンドロメダ星雲も、宇宙の向こう側も、すべてをひっくるめた上での世界です。『空間』とも言いますね」
「全部?」
「とりあえず、それで理解していただいても結構です。その貴方の言う『全部』とは、一つではなく、複数に存在するのですよ。仮に──」
天使が先ほどから立てていた人差し指を、催眠術師のようにユラユラと揺らす。
「この人差し指を、世界Aとします。この世界Aは、貴方がこれまで生きてきた世界のことです」
今度は、左手の人差し指を立て、やはり同じようにユラユラと揺らす。
「こっちの人差し指が、世界Bです。貴方はこれから、この世界Bに生まれ落ちるのです」
「世界Aはどうなるんだ?」
「どうもなりませんよ。貴方がいなくなっても、世界Aは続きます。そこで、先ほどのエチュードが出て来るのですよ」
さきほどから世界になったり教鞭になったりと忙しい人差し指は、今度は竹原少年の眉間に向けられた。
「つまり世界Aにおける『貴方』という役は、その役目を終えて消滅したのです。そして同様に、世界Bで貴方は再び、『貴方』という役を真っ当する必要があります。要するにですね」
遂には、竹原少年の目の前で、両の手をパーに広げ始めた。
「世界A、世界B、世界C、世界D……その正確な数は表せませんが、そうして無数にある世界は、しかし同じ設定のエチュードで構成されているのですよ。飽くまで先ほどまで貴方が居た世界をAと仮定しましたが、貴方はこれまでに、約三十二訶魯那の『貴方』を演じています」
「かろな?」
「十の六十一兆五千七百二十六億五千百十五万五千四百五十六乗を三十二で積を割り出した数に相当しますね」
………。
「……はっは」
笑いしか出てこない。
気の遠くなるような数字だった。それをノートに書き取れば、ノートのページが切れるのが先か、自分の腕が腱鞘炎になるのが先か。
「それまでの世界において、貴方は内気であったり活発であったり、或いは薬に溺れて真っ当な道を生きられなくなるケースもありました」
「同じ俺でも、そんなに差が出るのか?」
「要するに、役割さえ果たせば良いのですよ、性格はどうあれね。貴方のお父上とお母上がベッドの上で繁殖行為に及んだ際、お父上のペニスから飛び出し、お母上のヴァギナを通って卵巣に侵入して、お母上の子宮からボロンと生まれ出てくれさえすればいいのです。ちなみにこれまでの貴方の中に、妹君と恋仲になる貴方もいらっしゃいますね」
「勘弁してくれ」
両親の性交シーンを思い浮かべることほど、本能三大欲求を萎えさせるものは無い。ましてや、自分が実の妹を手篭めにするほどの鬼畜野郎であったこともあることは、それ以上にげんなりとする事実である。
「良いではないですか。貴方と妹君のそのインモラルな蜜月を書籍化などすれば、一部のメディアにはさぞかし影響を及ぼすことでしょう。尤もそれがフィクションであるかノンフィクションであるかで、どういった影響になるかは逆説になりますが」
「まさかその時の俺は、そんなことしたのか!?」
「さぁて、どうなのでしょうね?」
真実を知っている天使は、影の差す微笑みを漏らした。本人は天使だと自己を評価しているが、もしかしたら悪魔なのかもしれない。
「……ま、それはいいとして」
本当に、どうでも良かった。生前ですら自分自身の行いに保証を行うことが出来る年齢に達していなかったのに、他所の世界の自分の連帯保証人になどなれるか。
竹原少年は、この天使が、何故これほどまでに「死」という概念に対してあっけらかんとしているのかが、何となく解ったような気がした。世界の仕組みを聞いた今となっては、竹原少年にとってすら、「死」というものが、それほど重大な意味を持つものではないような気がしているたらくである。
要するに「死」とは、ただの通過点なのだ。
例え何度死のうが、何度生まれようが、自分は自分であり、それ以外の何者でもない。そしてそれは、言葉通り「星の数」ほど竹原少年は経験しているらしい。
一つの世界で生を終えれば、休む間もなく「振り出しへ戻る」だ。そこからまた違う世界で、けたたましく泣き声をあげるところから始めなければならない。
もしかしたらこの天使は、今までもこうして、過去の竹原少年に世界の仕組みを一から教えていたのかもしれない。何度も何度も。
そして、こんな風に微笑を浮かべていたのだろう。
天使や悪魔という存在は、もしかしたら同一で彼女のことを指しているのかもしれない。
何故なら彼女の微笑みは、そのどちらとも取れるようなものだったからだ。
・
その壁に触れてみれば、やはり水のような感触が、指先から伝わってきた。
「行かれますか」
「いつまでもここで燻ってるわけにも行かないんだろう?」
ずぶずぶと腕を侵食させる。確かにそこには水の感触があるが、濡れている感じはしなかった。体温程度に暖めたお湯を入れた極薄の水風船に触れている感じに近い。
「貴方は、御自分の境遇がお好きなようですね」
「何故?」
それは、全く予期せぬ言葉だった。故に、侵食させる腕が止まる。
「いえね。私もこうして、気の遠くなるような時間……時間という表現が正しいのかどうかは研鑽の余地はありますが、ともかく随分と、こうして天使なるものをさせていただいているんですけれどもね」
右掌を頬に当て、左掌で右肘を支えながら、天使は竹原少年を見つめる。
「実は、貴方のように何の抵抗も無く、もう一度自分を演じようとする人は、少数派なのですよ」
「……」
「皆様、御自分があまりお好きではないようです」
これまでとは違う、困ったような微笑だった。悩み事がありながらも、無理をして笑おうとする人は、こんな笑い方をする。
「俺だって、別に自分が好きなわけじゃない」
「では、何故そのように躊躇いも無く一歩を踏み出せるのですか?」
そんなことは、決まっている。
「やりたいことが、沢山あるから。俺が俺として、やりたいことが、沢山あるから」
「やりたいこと、ですか」
そうだ。やりたいことが、沢山ある。やり残したこと、とも言う。
まだ、同じクラスの可愛いあの娘を手篭めにしていない。
まだ、ラクロス部を国体へ導いてもいない。
まだ、妹を騙くらかそうとしているふざけた野郎を便所裏に呼び出していない。
まだ、家族に、「有難う」と言えていない。
「今までの俺が、今の俺と同じようなことを志してて、或いはそれが叶ったのかどうかも、俺は知らない。もしかしたら、夢も希望も無いような俺もいたのかもしれない」
或いは、今の自分のように、志半ばにして潰えた自分も、決して少なくはないのかもしれない。
だからこそ、だ。
「俺は、その時の俺に全力でいたい。その日、その時、その世界に存在する俺に、全力で取り組みたい」
多分、自分が好きか否かを考えるのは、その後だ。今の自分はまだ、その段階にすら届いていない。
「──そうですか」
その言葉は、竹原少年が全身を壁に埋め込ませるギリギリのところで聞き取った、竹原少年が最後に聞き取った天使の言葉であった。
・
既に、竹原少年が壁に沈んでから随分と時間が経過していた。
天使は、その場を微動だにしない。
「いつ何度聞いても、堪えますね」
天使はその場で、一人ごちた。
──────その日、その時、その世界に存在する俺に、全力で取り組みたい──────
天使は、これまでに天文学的な数の生命の、世界間の橋渡しをしてきた。
竹原少年という存在の世界間の橋渡しは、その天文学的な数の作業の中でも、一際天使の良心を抉るものである。
「本当に世界とは、融通の利かないもので……」
最後の一言を漏らした時、竹原少年の視覚が壁に埋もれていて、本当に良かったと天使は思う。
何故ならあの時、竹原少年の逞しい心意気を聞いた天使の表情は、見るに耐えないほど悲痛なものだったから。
この「世界」というエチュードの中で、竹原少年という存在は、確かに多種多様な変化を経ている。
だがしかし、いくら即興のエチュードとは言えども、ルールくらいはあるものだ。
前記でも述べたように、最低限の役割は、決まっているものなのである。
どうやって始まって、どうやって終わるのか。
勿論それも、そこに含まれている。
あの年齢で。
あの暗がりの細道で。
竹原少年その人は。
ただの一度の例外も無く。
これまでに約三十二訶魯那、猟奇殺人の犠牲者になっている。
何故ならそれが、竹原少年という存在の役割だからだ。