キースは森林の間を疾走しつつロゥランのことについて想いを巡らせていた。
――先生、私はあなたとは別の形で戦いたかった。
本音である。
故郷を焼かれて、あの男の胸にはどんな思いが去来していることだろう。
奥義を極めるというなら、それから戦いたかった。
だが旅征はすでに決定していた。キースにできることといえば、ロゥランを戦場で死なせてやることくらいだった。だからこそ、彼に武器を与え、反撃の機会を与えたのである。
なぜそんなことをしたのかと問われれば、彼も答えに窮するだろう。
だが、キースの胸の奥に、美学とでも呼ぶべきものが急速に固まりつつあったのだ。
――人は、戦わねばならぬときがあるのだ。
故郷を、大切な人々を守るとき、人は剣を取る。戦える力があるのにも関わらず、それでも逃げる者には生きる資格が無いと思う。
――先生、私はあなたに今教えを請うている。どうか、この不出来な弟子に死か、真実の一端を与えていただきたい。
意外にも、森を抜けるまでロゥランの攻撃は無かった。
途中で出会った者たちは、どこからともなく矢が飛んできて、恐ろしくてどこにも行く事ができないと語っていた。おそらく、ロゥランは足止めをしているのだ。
二人の間に何も邪魔が入らないように。
望むところであった。
白邑の内部に侵入したキースは、そこで凄惨な光景を目撃した。
街が跡形もなく破壊されていたのだ。
シヴァ族のうち、白邑に住むものは独特な家を作るという。大木を家の支柱として、そこから屋根を張り出して家を形作る。壁は土壁を塗り固めたもの。そのため、炎にはことさら弱い。
さすがに街の中央は石造りの建物のあったが、壁だけが煤けて焼け残っただけで、もはや街は往時の面影すら残していない。。
真っ黒な壁に中で、不自然に白ものが残っている。その輪郭が形作るものを理解した時、剛毅さでは決して引けを取らないキースでさえが息を呑んだ。
人の形がくっきりと残っているのである。
「……やはり、魔術は好かないな」
キースは呟いた。
何者かの気配に、キースは振り返った。とたんに矢が飛来した。
危なげなくキースはそれを払い落とす。
「ようやく順番が巡ってきたらしい」
にわかに身体に熱い血が駆け巡り、それまでの一切のことをキースは忘れた。
遠目にロゥランの姿が見えた。表情まではわからない。
この距離なら、どのような矢でも防ぐ自信がある。
キースは大地を蹴って駆け寄った。その華麗な剣技ばかりが注目されるが、それを支えているのは脚力であった。どんな相手でも一足飛びに懐に入り、剣を振るう。それができるからこそ、彼の剣を防げるものは誰もいないのである。
その尋常ならざる足力で、キースはロゥランを追いかけた。
ロゥランのほうもさすがに足が速い。
街を左右に曲がりつつ、それでも徐々にキースはロゥランを追い詰めた。
そのロゥランが立ち止まった。
彼の背後には袋小路があった。もはや、逃げ場はどこにも無い。
――おかしい。
キースはむしろいぶかしんだ。ここは彼の故郷なのである。好んで窮地に自らを追いやるような真似はするはずがない。
油の匂いを嗅いだ。
はっとキースが足元見やると地面がそこだけ雨が降ったように黒く濡れていた。
キースがロゥランの策略を見抜くのと、ロゥランが火矢を放つのはほぼ同時だった。その矢がキースの足元に届くや否や、キースは炎に包まれたかに見えた。
「残像というものを、初めて見たな」
ロゥランが誰にともなく呟いた。
キースは必死の跳躍を行い、すんでのところで避け切っていたのだ。一挙に溢れた熱と、キースの素早い動きがあわさって、ロゥランには残像が見えたのだろう。
矢をつがえたロゥランに対して、キースは懐の小刀を投げつけた。小刀はロゥランの頬を僅かに切った。
ロゥランは攻撃を諦めて、壁を蹴り上がった。そのまま家々の屋根や瓦礫の壁をつたって、火炎の中に消えていく。
「……っかはっ!」
キースはその場に膝を折った。実は炎を呑んでいた。肺が焼け爛れるような灼熱の痛みを覚えながら、虚勢の反撃を試みたのだ。
ゆっくりと呼吸を整え、痛みを忘れる。
――これほどまでとは。
おそらく、ロゥランはキースを倒すためにあれこれと考えていたに違いない。彼のような達人が、自分に対してそこまでしてくれることがキースには嬉しかった。死の淵に片足を踏み出しながらも、楽しくて仕方なかった。
しかし、キースがロゥランを倒すために捨て身の一撃を覚悟しているのに対して、ロゥランがまだ余裕を残していることが気になっている。先ほどだって、キースを倒すためなら小刀の一撃くらいはあえて食らってみせるべきだったのだ。
そこで、キースは遅まきながら相手の意図をようやく理解した。
――しまった。見せすぎたか。
彼はこの状況でなお、計っているのだ。必殺の距離を。
――私は、彼に何を見せた? どんな情報を与えたのだ?
燃える街の中で、キースは必死に思考をめぐらせる。
最初の対峙で、ロゥランはキースの剣の振りの速さを見た。次に油の罠を張って、キースが一瞬のうちにどれだけ跳躍できるのかを試した。だが、それはキースにもある種の情報を与えてくれる。
相手が考える内容。それは距離。
必勝の距離の限界点。
――……十歩。
それがキースが一瞬で跳べる距離だ。そして、その間合いからならば、ロゥランは二矢を放つ事ができる。跳ぶことに精一杯のキースは、剣を一薙ぎするのがせいぜいだ。
つまりキースが十歩目からロゥランにまっすぐ飛び掛ったとして、最初の一矢を剣で払う間にロゥランは次の矢を放てる。最初の矢を警戒して横に飛んだところで、彼は身体を横に開くだけですぐにそれに対応できる。
おそらく次は、その距離までロゥランは近づいてくる。
その時が、勝負の時だった。
「だが、それは諸刃の策だ」
キースは衣服の下に纏っていた鎖帷子を脱ぎ捨てた。これで重さがどれほど変わるかは本人ですら判らない。跳躍が半歩でも伸びればそれで良い。それで勝てる。
最後の時が、刻一刻と迫っていた。
キースの前にロゥランが姿を現した場所は、街の中央にある広場だった。
どうやらここが爆心地だったらしく、周囲には何も見当たらない。
キースは何か声を掛けようとした。だが、なんと言えば良いのかわからなかった。
――騙したことを詫びるべきか。それとも、その武芸を褒め称えるべきか。
キースはそんなことを考えながら、じりじりとロゥランににじり寄った。
ロゥランはキースの姿を見つめて、なぜかほっとしていた。
――この戦場で、唯一美しいものがあるとしたら、それはきっとこの人だ。
故郷に戻るまで、ロゥランはキースを憎んだ、呪った。
だが、いざ戦い始めると、彼の戦いに焦がれるその表情を見るとそんな感情は全て吹き飛んでしまった。
この人物と出会えてよかったと思う。
言葉は交わさなかった。
ふたりは共に思った。
――あと何歩分だけ、自分はこの相手と時を共有できるのだろう。
周囲は火の海だった。
炎はますます逆巻いて天を焦がそうと曇り夜空に立ち昇ってゆく。
火の粉が散った。それは夜空の燐星のごとき輝きを一瞬だけ放って消えていく。
ふたりは共に思った。
――それは、まるで生命のようだ。
十歩半。
キースが駆け出した。
真っ直ぐに。
思った以上に動きが速かった。鎖帷子を抜いだことは間違いではなかった。
想像していた通り、ロゥランはキースに向かって真正面に矢を放った。
これが人の放ったものかと思うような、光のごとき一矢。
だが、それはキースにとって想像していた一矢でもあった。
だから、突けた。
必殺の一撃を、キースは払うのではなく突いた。
ロゥランの表情に初めて驚愕が宿る。キースは勝利を確信した。
二段突き。
キースの得意技である。そう、払わなければキースの速度が止まる道理は無い。
それゆえ、彼は最速でロゥランの懐まで飛び込める、再び突ける。
ロゥランは矢をつがえた。
刹那、二人は笑みを再び交わして叫んだ。
「そうだ、それこそ私の望んでいたものだっ!」
二匹のけものがいた。
互いが互いの血を啜り、肉を食らわんとするけものだ。
待ち焦がれていた。愉快だった。楽しかった。嬉しかった。
ロゥランの放った矢は、それまでのどの矢よりも速かった。
その矢が、キースの頬を掠めた。
キースの剣は真っ直ぐにロゥランの胸を貫いた。
「あっ」
それは声というよりは、ただ身体が反応したから音が出たというような、そういう現象であった。
キースは愛おしむように手応えを感じ、剣を引き抜いた。
どさりと人の倒れる音がした。
だが、倒れたのはロゥランでもキースでもなかった。
キースが振り返ると、剣を手にした兵士がまさに今、事切れて、十になるかにならないかといった少女に覆い被さろうとしているところだった。
「そんな、まさか!」
キースはたちどころに事実を悟った。
あの刹那、ロゥランは、必殺の矢をキースを倒すためではなく、少女を救うために放ったのだ。
キースの胸に灼熱が生まれた。まるで矢で射抜かれたような痛みに彼はうずくまった。
最後まで立っていたのは、ロゥランであった。胸から血を流し、ぼんやりとキースを見つめている。
「約束を……果たさなくては……」
ふらふらと、ロゥランは歩みだした。
キースはそれを止める事もできずに、ただ、彼の背中を眺めていた。