Neetel Inside 文芸新都
表紙

弓仙
幻と踊るけもの

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 キースの元を去ったロゥランだが、その胸中には岸辺に打ち上げるさざ波のような感情が広がっていた。
――あの侯子は、私のことを認めてくれたのだ。
 御前試合で見せた彼の表情は、高みを目指す者の傲慢と悲しみではなかったか。その感情を等しく持つ自分をキースが発見した。
 それが嬉しかった。
 キースは、殺気が放たれたと言っていた。しかもそれは自分が発したものであるという。キースが熱っぽく語ってくれた言葉の中に含まれる気持ちと同じものを、自分はかの侯子に向けて知らずのうちに放っていた。
 事実、あの侯子ほど美しく強い剣を振るう人物を知らぬと思っている。
 だが、彼にはどうしてもキースに応えてやれない事情があったのだ。
 屋敷に仕える若い侍女がロゥランを見つけると呼び止めた。
 丸顔のなかなか愛敬のある顔立ちをしている。彼女の表情には好奇心と憧憬が満ちていた。
「あの、先生。ちょっとよろしいでしょうか?」
「なにか」
 艶っぽい話を予想して内心苦笑したロゥランであったが、その当ては外れた。だが彼女の言葉はロゥランの予想のはるか上をいっていた。
「侯女様が先生とお話したいことがあるそうです。いらして下さいませんか?」
「侯女様、ですか。私に何用なのでしょうか?」
 今日はおかしなことばかりのようだ。侯女というのは当然キースの妹で、名は確かハティカといったはずである。ロゥランはこの侯女に会ったことが無い。
「来ていただければわかります」
 有無を言わせない態度で、侍女は屋敷の奥深くへとロゥランを導いた。
 その部屋は、本当に屋敷の一番奥にあった。
 キースと血を分けた侯女は、なかなかの美貌の持ち主であった。しかし、兄との違いを端的に表現しているのはその瞳であった。キースの瞳は生気に満ちて相手を圧倒しようという力を備えているのに対して、ハティカの瞳にはそれらが一切無かった。
――あっ、侯女は盲目であったのか。
 だからこそ、屋敷の奥で守られるようにひっそりと暮らしているのである。ロゥランが出会わないのも当然のことであった。
「ハティカでございます。お気づきかと思いますが、わたくしは目が見えません。それゆえ先生にはご足労をお掛けしてしましました。大変に申し訳なく思っております」
 声は真摯で構えたところが一つもない。盲目ということを差し引いても、控えめで慎ましい人格であることがうかがえた。
 侍女が部屋から出て行ったことでロゥランはやや居心地の悪さを覚えながら尋ねた。
「いえ。それよりも私にご用とは一体どのようなものでしょうか?」
「兄が、ご無礼を働きませんでしたでしょうか?」
 ロゥランはまさしく絶句した。この盲目の侯女は、なぜ遠く離れた出来事を知っているのだろうか。しかもその瞳は光を宿してはいないはずである。
 ハティカはロゥランの驚きを理解したかのように説明をした。
「このような身体にございますから、私は普通の方よりも耳が良いようなのです。先ほど、兄が本気で剣を抜いた音を耳にしました。あれはとても独特な音で、他に間違えようがございません。しかも、それは聞く度に鋭さを増してゆくのです。そしてその度に、血が流れます。ですから侍女に言って、兄の傍に居た人物を連れてくるように言ったのです」
 ハティカの声には強い悲しみがこめられていた。
「ですが。たしかに流血は厭うべきでしょうが、恐れながら侯子は武人であらせられる。やむを得ぬ仕儀ではございませんか」
「そうではありません。決して、そのようなことを恐れているのではないのです」
 ハティカはロゥランを直視していた。いや、彼女にはロゥランの姿は見えていないはずだ。だが、ロゥランは彼女に身体を通り越して魂を直接触れられているような感触を覚えた。
「先生にはお話しても黙っていていただけると信じております。これからお話する事は、どうぞ他言無用でお願いいたします」
 そう言ってハティカが言った内容は、今のキースを形作ったとある事件の顛末であった。


 先述した通り、ギンガ国の武門の名家はローテ家とロッタ家である。ローテ家にキースがあるように、ロッタ家にも将来を嘱望された若者が居た。その名をランスロットという。
 キースにとっては弟のような存在であった。彼らは二人とも才能豊かな少年であり、剣の腕はキースの方がいつもわずかに先んじている程度であった。
 だが、このランスロットはとんでもない事件を起こした。ギンガの王女と相思相愛の仲になってしまったのだ。さらにまずいことに、王女にはすでに婚約者が存在していた。この事件は秘密裏に処分され、ランスロットは貶斥され地方へと流されたのである。
「その事件のさなか、どういう理由でかは判りませんが、兄はランスロット様と戦い、そして初めて敗れてしまったらしいのです。それ以来、兄は人が変わったように剣を振るうようになりました」
「そのようなことが」
 ロゥランはキースの言っていた言葉を思い出していた。
――私はこの地を離れる事が叶わない。
 切実な声だった気がする。
 キースにしてみれば、今すぐにでもそのランスロットという若者の元に飛んで行って再勝負を挑みたいところだろう。だが、彼はこの王都から離れる事ができない。
「あいつは今頃もっと強くなっているだろうから。それが兄の口癖になりました。ですが、結局兄は自分の描いた幻と戦っているにすぎないのです。兄が流している血は決して役目によるものではありません。兄は強くなりたいという己の欲望のために、流さなくても良い血を啜っているように私には思えてなりません」
 話を聞きながら、ロゥランは考えた。
――幻と戦っている、か。
 それは宿業とでも呼ぶべきものだろう。
 優れた戦士であればあるほど、当然のように高みを目指す。だが、武芸の道は他者の流血を必要とするのだ。
 キースが抱えている葛藤の始まりは、確かに弟のような存在に負けたからかもしれない。しかし、それはきっかけに過ぎないのである。
 遅かれ早かれ、キースは己を上回る人物に出会い、己の幻想を逞しくして、死屍で埋め尽くされた果て無き道を歩むようになったであろう。
 しかし、それでもなお高みを目指すのは心地良いことなのだ。他者になんと非難され、恨まれようともこの快感を知ってしまうと捨て去る事はできない。
 それをロゥランは理解できる。
――畢竟、人間とは幻と踊るけものよ。
 キースにけものと呼ばれたことが思い出された。
「兄にはもはや何を言っても聞き入れてもらえません。ですから、このようなことは本来無礼に当るのでしょうが、先生にお願いしたい事がございます。どうぞ、我が家からお去り下さい。このままでは、先生の生命にも差し障りがございます」
 そう言って、ハティカは袋を取り出した。中を見ると宝玉を施した優美な装飾品が詰まっている。おそらく彼女の身を飾るためのものであろう。
 キースはそれを返した。金に困っているわけではない。
「ご忠告、ありがたく受け取らせていただきます。ですが、私にも目的があって王都にやってきたのです。それを果たさぬうちは、帰る事ができません」
「そうですか……」
 ハティカは長い睫を伏せた。このとき、この盲目の侯女は美しい人だと本心から感じた。
「ですが、できるだけ早く用事を済ませてご忠告に従います。流れる血は少ない方が良い。私もそう思います」
 ロゥランは一瞬でもキースとの戦いを望んだ自分を恥じた。
 このような女性を悲しませてはいけない。師がロゥランに戦いを禁じたのは正しいことである。
「ありがとう存じます」
 ハティカはそう言うと、朴訥と、だが深々と頭を下げたのだった。

 ロゥランが王都にやってきた目的は、兄に会うためであった。
 ロゥランの兄は王宮にて史官として働いている。史官は代々、シヴァの民が務めてきた重要な職責である。史官に求められる能力は、歴史に通暁している事と古語や外国語に対する知識である。シヴァの民、それも領主一族は幼い頃からそれらの能力を徹底的に教育される。
 そんな中にあって、ロゥランは変わり者であった。彼は歴史よりも武芸を好んだ。彼には兄が一人と弟が二人おり、幸いにして兄と弟たちが家業を好んだため、彼は武芸に集中することを許されたのである。
 ある時、ロゥランは父親に呼ばれた。
「ロゥラン、急にシュクセンとの連絡が途絶えた。何か悪い予感がするのだ。シュクセンの様子を確かめてきてくれぬか」
 シュクセンというのは兄の名である。ロゥランは父の命に従って王都を訪れて兄の家を訪ねた。
 兄はいなかった。家の管理を任されていた下人が言うには宰相のシンと共に外交の使節団の一員となっており、帰ってくるのは早くとも一月は後だという。
 それならば、なぜシュクセンはそのことを父に連絡しなかったのだろうか。今ひとつ釈然とはしなかったが、ロゥランは以上のような事情を書簡にして父に送り、ローテ家に世話になることにした。少なくとも、兄が帰ってくるまでは王都に居た方が良いだろうという判断からだった。
 イルヒムフも、事情を知って何かと手間を割いてくれているが、それにしても王宮の内部の事情は計り知れないものがあるのだという。王が聴政を開かなくなって久しく、朝廷は宰相シンによって半ば主催されている。シンは自らの臣下を重用し、結果として従来の貴族たちは政治から遮断されていた。
 それを聞いたときロゥランは背筋に悪寒が走った。
 臣下にすら閉ざされた王宮というのは異常だ。
 この国には、じつはとてつもない局面に差し掛かっているのではないか。それが自分と、故郷に及ぶことはないだろうかと案じた。
 キースの剣技に驚嘆を感じる一方で、ロゥランの胸中にはそんな不安がよぎっていたのである。

       

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