Neetel Inside 文芸新都
表紙

弓仙
白皙の学者

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 キースは自宅の屋敷の中庭に立ち、出入りする人々を眺めていた。その場所は屋敷に出入りする人々全てを見る事ができ、逆に全ての人々から発見されるという所にある。
 時々声をかけられる。
「やや、侯子。そんなところで如何なされましたか」
 その度、キースは柔らかな笑顔で応えた。
「斎戒中で暇を持て余しているところですよ」
 そう言うと相手は納得した。
 先日、決闘で相手を葬ったキースは、今日一日外出を控えて喪に服さねばならなかった。
 だが、彼の真の目的は他にあった。
――あの感じ。あれは確かに殺気だった……。
 昨日、相手を屠ったまさにその時、キースは背後から突き刺さるような視線を感じたのである。
 あえて表現するならば、それは心地良い殺気の矢。その気配は確かにキースを応援する人々の中から発せられたはずなのである。
 ローテ家に仕える騎士たちが発した殺気ならば、彼らの稽古の師であるキースにはすぐにその正体が判る。だが、あれほど鋭く練られた気を放つ騎士など彼は知らない。
 可能性があるとすれば、屋敷に出入りする食客たち。
 そう考えたキースは、この場所で、殺気の主の見極めを行っていたのである。
 ローテ家は、代々将軍職を賜る貴門であると同時に、武芸の一派の宗家でもある。王都の郊外にある屋敷には途方も無く広い庭があり、そこは騎士たちの修練場となっている。普通の貴族と違って屋敷が郊外にあるのは、馬を養う都合があるためである。いざ緊急事態が起きれば、五百の旗本をただちに集結させて王城の防備につくための準備が整えられているのだ。
 このような家であるために、ローテ家の代々の当主は、諸国を放浪し修行する武芸者や冒険者を歓迎した。彼らのうちで腕の確かなものは食客として招きいれ、互いの技を見せ合って刺激し合うのである。屋敷の西側には、食客たちのために用意された専用の客舎があり、晴れて食客となれた者たちは無料で食事が与えられ、不自由がない程度に生活の面倒を見てもらうことができる。
 だが、どれほど待ち構えていても、彼らの中にキースが望む人物はいない。
 彼は中庭に植えられたエンジュの木の根元に佇みながら静かな殺気を放っている。昨日、放たれた殺気にキースが反応しえたように、相手が卓越した戦士ならば、なんらかの異変を察知するはずなのである。
 だが、騎士たちはおろか食客の中にもキースの放つ不穏な空気を感じる者は現れなかった。
 このところ王都に立ち寄る戦士たちの質が落ちた証左でもある。本当に優れた戦士は、そもそも危険に近寄らない。彼らにとって、ニバール太子のような存在が支配するギンガ国は魅力的ではなくなってきているのだろう。
 いい加減に倦んできたキースは、ふと中庭に設けられた渡り廊下を歩く二人の人影を見つけた。
 キースの父イルヒムフと、ロゥランという名の若い学者である。
 ロゥランは、正確に言えば、ただの食客ではない。彼は西方諸侯の雄である白侯の次男で、身分で言えばキースと同じ侯爵の息子、侯子である。要するにれっきとした貴族なのである。
 容貌はいかにも文人といった感じの白皙の男で、屋敷に務める下働きの女たちの間では評判が高い。構えたところが無く、誰にでもきさくに声をかけるので食客たちにも好かれていた。
 今まで気にしたことも無かったが、不思議な存在である。
 ローテ家が学問を疎かにしたという事実は一度たりとて無いが、兵学以外の学者が滞在する事は異例といえば異例である。もっとも父親同士が長年の友人ということなので、その関係も無いわけではないだろう。
 珍しいといえば、もう一つ。ロゥランはキースたちギンガ人と人種からして違っていた。シヴァ族といって、ギンガ人以前に大陸に王国を作っていた別の民族なのである。
 シヴァ族については、子供ですら知っている特徴がある。彼らは自らを史書の司と名乗る。彼らの書く史書は大陸中で最も権威のある史書であった。その史書は時の王ですら一字一句改変することを許されない。
 もっとも史書を編纂するのは代々の当主の役目。ロゥランはただの学者であり、見聞を広めるために王都にやってきたのだと自らを説明したことがある。
 キースが二人を眺めやった途端、ロゥランはイルヒムフに二、三言告げて急に踵を返した。
 その瞬間、キースの直感が叫んでいた。
――あの男に間違いない。
 それは推測でも願望でもなく断定であった。
 聞かねばならない。
 なぜ自分にあんな殺気を叩きつけたのか。
 あれほど磨かれた気はどのような修行によって体得したのか。
 キースはぜひともそれを知りたかった。
 キースはわずかに身体を浮かせると、大地を蹴って飛び出した。その様子はまるで水中を跳ねる飛石のようである。
 彼がロゥランの前へと辿り着くのにほんの数瞬もかからなかった。

――距離にして五十歩。大したものだ。
「侯子、驚かせないでください。何か御用ですか」
 言葉とは裏腹に、ロゥランはまったく落ち着きを払っていて、突然現れたキースに対していささかの狼狽も見せなかった。
「いえ、用があるのは先生の方だと思いましたが」
「ご冗談を。走ってこられたのは侯子の方でございますよ」
「ああ。では訂正します。私は人探しをしておりました。どうやらその人物とは先生であったようです。昨日、御前試合の会場で私に殺気を向けてきた主はあなたか」
「はて。何のことでしょう。昨日は一日中この屋敷を出ておりませんよ」
 ロゥランはそう言って首を傾げてみせた。
「嘘を言ってもらっては困る。それに、今だって私の気配に気がついて、帰ろうとなされたではないか」
「私のごとき学者に、そのようなまねはできるはずがないではありませんか」
 ロゥランはキースの追及をまるで寄せつけない。だが、彼の態度には堂々としたものがあり、それがかえってキースの疑惑を強めた。
「左様ですか」
 自分でも驚くほど拗ねた物言いだった。滅多にないことだが、キースは慌てて二の句を繋いだ。
「失礼した。それでは、この浅学の身に知識を授けては下さいませんか?」
 ロゥランは用心深く頷いた。
 二人は連れ立って、再び庭を歩き出した。
 遠くに馬の嘶き声が聞こえた。飼っている馬たちを走らせてやる時間である。
「そういえば。先生は以前、面白いことを仰っていましたね。白馬が馬ではないとか。それでは一体何だと言うのですか?」
「ああ、白馬非馬ですね。侯子、逆のことをお考え下さい。馬はみな白馬ですか?」
「それは違うでしょう。馬には色々な種類のものいる。一番多いのは栗毛だが、黒い馬も斑目の馬もいる」
「そうです。あなたも認めたように馬と白馬とは同一ではありません。ゆえに、白馬もまた馬ではないと言えなければ、辻褄が合わない。物事には色々な側面があります。白馬は色は白で形が馬をしたものです。白馬は白馬であって、馬とは別に置かれる存在でなくてはならないのです」
 ロゥランの言う事は、一聞した限りでは間違ってはいなかった。だが、キースには信じられない。白馬はやはり馬である。鳥でも魚でもない。
 そこまで考え及んで、ふと気がついた。
「先生、それは詭弁ではありませんか。私は、馬の色には色々な種類があると指摘したのです。白馬と栗毛の馬を比較するなら確かに別の代物でしょう。ですが、両方とも馬であることには変わりがありません。この場合、前提が違うだけで、やはり白馬は馬だ」
 くすりとロゥランが笑みをこぼした。彼にしてみれば、キースが指摘したことなど、最初からわかりきっていたのだろう。
「侯子は聡くていらっしゃる。まさしくその通りです。すなわち、二者が論議をするとき、お互いの前提が異なっていれば、知らず知らずの内に誤った結論が導き出される。それが白馬非馬の要点なのですよ」
 確かに、ロゥランの言うことには一理あるが、それにしても人を食った学説であった。彼はいつもこんな風に遊説しているのだろうか。

 庭の中ほどまで差し掛かった。
 無風の日である。
 空気は凛と張り詰めていて、涼しいと表現するにはやや冷たい。
 上空には雲ひとつ無い青空が広がっている。
 陽光は黄銅色の遮光を木々に投げかけている。
 ロゥランは、そこでまったく知覚したことのない音を聞いた。喩えて言うなら空気を引き裂くような断層音。それはキースが持っていた剣を抜き打って、さらには鞘に収めるまでの一瞬が作り出した音だった。
 ロゥランは憤然と抗議した。
「何をなさるっ」
 それを聞くと、キースは意を得たりとばかりに笑みをこぼした。
「見えたのですね、先生」
 ロゥランがはっと若い剣士の方を見た。図られたことに気付いたのだ。
「無礼はお詫びする。ですが、先生、普通の学者には、私が何をしたのかなど見えるわけが無いのですよ」
「……っ!」
 キースはもはやロゥランを学者であるとは見なしていなかった。白馬非馬の話は確かに興味深い点がある。おそらく誰ぞ別の学者がそのようなことを主張しているのだろう。
 だがロゥランはそこで話を止めてしまった。なぜ彼は自説をもっと深く説明しようとはしないのだろうか。ロゥランの話は底が浅い。
 つまり学者というのは方便なのだ。キースはそう結論付けた。どういう理由かは定かでは無いが、彼は自分が戦士であることを隠すために、相手を煙に巻くような話をしているだけなのだ。
――それにしても予想以上ではないか。
 キースはロゥランの戦士としての技量が桁外れであることを悟った。戦士としての訓練を受けていなければ、キースが本気で放った抜き打ちを見る事はできない。一人前の戦士ならば安全な場所まで跳び下がる。
 だが、ロゥランはあのわずかな時間に剣の軌道を見切って、紙一重で避けてみせた。
 それを非凡と言わずしてなんと呼ぶべきか。
 身体中に熱いものが駆け巡った。
「白馬は確かに馬ではない。先生の内側には別のけものが棲んでおられる」
「侯子、私に何をお望みですか?」
 ロゥランはもはや擬態を施す必要を感じなくなったのか、キースの言葉を認め、鷹のような鋭い眼差しで相手の真意を測っている。
 キースは所作を正した。
「先生の技を見せて欲しいのです。このところ、王都にはめっきり腕の立つ戦士がいなくなった。盛名が届くほどの武芸者はみな東方に行ってしまう。だが、私には職分というものがあり、この地を離れることが叶わない」
 キースの声は悲痛でさえあった。
「侯子……、御前試合のあのとき、あなたの表情が悲しげであったのは相手を憐れんでのことばかりではなかったのですね」
 キースは言われて初めて、自分がそんな表情をしていたのだということを知った。
 確かにあのとき、相手を憐れむ前に、強い不満が己を満たしていた。
 どうして自分にはこの程度の戦いしか与えられぬのであろうか、と。一方的に相手をなぶるようなそんな戦いなど、彼には不要である。
 彼の目的は、たった一つであった。
「私はもっと強くなりたい。いや、強くならねばいけないのだ。先生の武芸をどうか、私に授けて欲しいのです」
 だが、ロゥランはキースの申し出を受けなかった。
「侯子、申し訳ありませんが私はまだ未熟者なのです。師からも戦いを厳しく禁じられております。であればこそ、学者などと偽りを申さねばならなかった。どうか、侯子のお望みを叶えてさしあげられないことをご理解ください」
「そんな偽りを申されるな。あなたの技量はこの王都の誰よりも上を行く」
 最高級の褒詞を向けられたロゥランだったが、彼がにこりともせずに西の方角を眺めた。
「上には上があるのです」
 そう言い放つと、ロゥランは踵を返して屋敷へと戻っていった。
「待ってくれ、先生。上があるというなら、それを見せてほしい。私は、私はどうしても強くなりたいのだ」
 普段の彼からは想像もつかないような必死さと熱意で、キースはロゥランに向かってそう叫んだ。
 ロゥランは一瞬、立ち止まりはした。が、けして振り返りはしなかった。

       

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Neetsha