Neetel Inside 文芸新都
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ノリの使い魔
第七章 『会議は踊る、されど進まず』

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さて、長唄を一席。

♪午後のかそけき陽が射す頃に、駅前通りの商店街を、悠々闊歩の有閑婦人が、ヒマ持て余した慰み求め、八百屋の前で長話して、買いもせぬのに店先うろつき、「いい天気ね」と挨拶交わす、話し相手の八百屋の主は、見目も麗しイケメン青年、有機野菜を袋に詰める、筋肉質の二の腕まぶしく、「鍛えてるのね?スポーツは何を?」、「いえ、水泳を、ほんの少々」、「あら素敵ね、教えて欲しいわ」、色目遣いで二の腕触り、白昼堂々スキンシップ、向かいの蕎麦屋の職人親父も、興味津々見守る中で、有閑婦人は頬を染め上げ、「ねえ年上はお嫌いかしら?」、「いえ、そんなことはございませんが・・」、「あら、敬語なんてよしてちょうだい。私とあなたの仲なんですから」、どんな仲だか分からぬ青年、年増の色気は毒気のごとし、気づけば両手をハッシと握られ、「太いのが好きなの」、「・・それほどでもございません」、「あら何言ってるの、大根の話よ」、艶然として微笑む婦人が、野太い大根手にしてサスる、イケメン青年うろたえながら、ヤケクソで叫ぶ「毎度あり!」の声、蕎麦屋の親父が「チッ」と舌打ち、蕎麦打ち直す、つれづれなる午後。

・・とまあ、のどかな商店街のありふれた光景を七五調に見送りつつ、僕はセカセカと忙しげに歩いていった。目的地は薬局および交番である。

なぜ忙しげに歩くかといえば、僕を先導する増田翔子とジュリアが、そろって忙しげに歩くからだ。昼飯を食べて間がない僕は、すでに横っ腹が痛くなっていた。だが昼食を食べたのは彼女たち二人も同じである。しかるになぜ彼女たちは、疲れも見せず競歩のごとく歩き続けられるのだろうか。「もうちょっとゆっくり歩かない?」と断腸の思いで弱音を吐いてみたものの、声が小さかったらしくて無視された。僕は横っ腹を押さえながら、二頭の美しきケルベロスたちにひきずられていった。

交番に着くとジュリアは、今までの経緯を警察官に説明し始めた。いわく「旅行中に仲間とはぐれてしまった」「財布も落とした」「仲間の名前はケビン」「ケビンの外見上の特徴は・・」といった、僕らに先達て語った内容と大差ない。僕と増田翔子は、これといって口出しする必要もなく、ジュリアと警察官との対話を黙って眺めていた。

しばらくして増田翔子がフラリと表に出て行った。見物している事に飽きたのだろう。僕も手持ち無沙汰なので、彼女に続いて表に出て行った。道案内の地図が立っている辺りで僕たち二人は隣同士に並び、冬晴れの商店街をボーッと眺めた。

それにつけても横っ腹がキリキリ痛む。蕎麦一杯を食べただけでこの痛みようはなんだろう。増田翔子なんて僕の三倍ぐらい食べたのに涼しい顔をしているではないか・・。そう、それが問題なのだ。僕は勇気を振り絞って口を開いた。

「・・もしもし、増田さん」
「なに?」
「・・いや、あの、いい天気だね」
「そうね」

会話が途切れた。彼女の声を聞くと条件反射的に日和ってしまう自分を猛烈に反省し、もう一度口を開く。

「あの、増田さん・・」
「なによ?」
「さっきファミレスでご飯を食べたよね?」
「そうね。美味しかったわね」
「・・僕が注文したのはオロシ山菜蕎麦で、増田さんが注文したのはマカロニグラタンとロールキャベツと豆腐ハンバーグと野菜サラダとシーフードピザとアスパラベーコン巻きとスープとパンとライスだった訳だけど・・」
「どうでもいい事はよく覚えてるのね。その記憶力がどうして仕事中に一切発揮されないのか、不思議でしょうがないわ」

そっぽを向きながら興味なさげに増田翔子は言った。手厳しい言葉に若干めげそうになったが、心の中で武田鉄矢の『がんばれ俺』を口ずさみながら耐えた。

「・・えーと、そのファミレスのお勘定なんだけど、まあ、とりあえず僕がまとめて払った訳だけども・・ほら、ねえ?」
「うん?それがどうしたの?」
「あー、つまり、僕が食べたのはオロシ山菜蕎麦だけで・・」
「それはさっき聞いたわ。一度言えば分かるから。で?」

ギリギリの攻防だった。まるで小早川秀秋の去就によって東西両軍の勝ち負けが決定する、関ヶ原の合戦ぐらいギリギリの状況だ。問題は僕と増田翔子の、どっちが徳川家康でどっちが石田三成かということだが・・。

「えーと、つまり・・」
「そういえば、時々いるわよね。レジで支払いを済ませた後に割り勘を切り出す男の人って。正直、あり得ないわよね?大抵そういうこと言い出す人は、器が小さくてみみっちくてモテなくてヒガミっぽくて女の子と付き合った経験がなくて自意識過剰で声が小さくて挙動不審で独り言ばっかり言ってて四十歳過ぎてもアルバイト生活で小学生に石ぶつけられて逆上したところを警察に捕まるような感じの人が多いと思うけど・・あ、ごめんなさい、別にあなたのことじゃないのよ?あなたは割り勘なんて言い出さないものね。えーと、ところで、何の話だっけ?」
「いえ・・別に・・」

僕は圧倒的な敗北感に打ちのめされ、モジモジとうつむいた。しょせんこの世は弱肉強食なのだ。たとえ昼食代に5千円以上たかられようと、弱者は笑顔で支払うしかない。「勝ち負けは時の運」と言うが、裏を返すと、運が無ければ負けっぱなしということだ。

僕はいたたまれない気持ちで、足元に転がる石ころを思い切り蹴飛ばした。有機生命体に勝てない以上、無機物に八つ当たりするしかないのである。だが石ころに上手くヒットせず、靴先が地面に激突して激痛が走った。さらに石ころはあらぬ方向へ飛んでいく。まったく厄日としか言いようがなかった。

「アウチッ!」

石ころの飛んで行った方向から、巻き舌の悲鳴が上がった。僕は驚いて顔を上げた。5メートルほど先の路上に、ブロンドヘアの男性が倒れていた。さっき蹴飛ばした石ころが傍らに転がっている。僕はあわてて彼に駆け寄った。

「あ、あの・・」
「オー、ノー・・」

路上に倒れ込んでいる男性は、よく見れば彫りの深い顔立ちで、日本人ではなかった。ついさっきジュリアに出会ったばかりなのに、またしてもガイジンに遭遇したのだ。とんだガイジン日和である。しかも僕の蹴った石ころが彼に激突したらしい。交番の真ん前で傷害事件を起こしてしまうとは・・厄日にもほどがある。僕の顔は一気に青くなった。

「この人、行き倒れじゃないの?さっきからずっと倒れてたわよ」
「あ、そうなんだ・・」

近寄ってきた増田翔子が冷静に呟き、僕はホッと胸を撫で下ろした。行き倒れに気づいてたくせに平気で放置していた増田翔子の恐ろしさは、とりあえず気にしないことにした。人類皆兄弟といえど、兄弟が薄情でない保証はどこにもない。

ともあれ、僕は急いで交番に駆け戻り、まだジュリアの相手をしている警察官に声をかけた。警察官はいったんジュリアとの問答を中断し、表へ出てきた。その後ろにジュリアも続く。

「どうしたの?」
「行き倒れだよ。しかもガイジン」
「あら・・」

ジュリアは警察官の肩越しに、行き倒れの現場をソッと覗き込んだ。その途端、興味本位の表情が一変した。

「ケビン!ケビンじゃない!」

素っ頓狂な声を上げて、倒れているガイジンに一目散に駆け寄る。僕と増田翔子はポカンとして見ていた。事の成り行きを眺めていた警察官がポツリと呟いた。

「もしかして、あんたがさっきから話してた『はぐれた仲間』って、この人のことかね?」
「ええ、そう!ズバリそう!ああ良かった、逢えなかったらどうしようかって心配してたんだから!」

ジュリアは心の底から快哉を叫び、行き倒れのガイジンの両肩を力任せに揺さぶり続けた。

「どうしたのケビン?なんでこんな所に倒れてたの?ねえ、何とか言ってよ?」
「ああ、ジュリア?・・」
ようやくケビンは蒼白な顔を上げた。
「気が付いたのね、ケビン!大丈夫!?ねえ大丈夫!?」
「・・ジュリア、再会直後にこんなこと言うのも何だけど・・」
「何?」

「・・腹減った」
ケビンは最後の言葉を口にすると、意識を失ってジュリアの腕の中へ倒れ込んだ。

     

ケビンとジュリア。増田翔子とサカキ・マナミ。そして僕。

狭いアパートの一室に僕たち五人はそれぞれの居場所を確保し、過ぎていく夜のしじまに羽音を立てる虫のようだった。言うなればコオロギと鈴虫、松虫とクツワムシ、僕はさしずめ・・便所虫。

もうすっかり作者さえも設定を忘れているが、今の季節は秋から冬への変わり目である。ついでに言えば連載開始からとうとう一年が経とうとしている。ストーリー上は三日しか経過していないのに。窓の外からはチンチロ、チンチロ、チンチロリンと虫の音が聞こえて来そうな秋の気配。この一年、俺は何をやって来たんだろう・・と悲嘆に暮れる作者のことは、まあ、おいておこう。

ここまでの成り行きをざっと整理したい。そもそも僕と増田翔子は、アパートで寝込むサカキ・マナミのために、風邪薬を買いに薬局へ出掛けた。途中、ファミレスに立ち寄った僕たちは、ジュリアに出会った。彼女は旅行者なのだが、トラブルのために仲間とはぐれたという。仕方なくジュリアに付き添って僕たちは交番へ赴いた。偶然、交番前で、ジュリアの仲間であるケビンと遭遇した。しかし喜びもつかの間、ケビンは空腹のために気を失いジュリアの腕に倒れ込んだ。・・あと、ファミレスの代金を僕が全額支払うという悲劇も発生したが、蒸し返すと虚しいので止めておく。

で、だ。

気絶したケビンを抱きかかえたジュリアは、増田翔子と今後のことについて相談を始めた。僕は完全に蚊帳の外であった。話し合いの結果、次の三点が決まった。

第一に、ケビンをこのまま放置する訳にはいかないので、一緒に連れて行く。僕のアパートへ。
第二に、ケビンは空腹らしいので、意識が戻ったらご飯を作って食べさせる。僕のアパートで。
第三に、ケビンとジュリアを宿泊させる。もちろん僕のアパートに。

話し合いという民主主義的な手続きを経て決定された政策が、話し合いの当事者でない者に負担を要求するという構図、そしてその要求を「へへ、よござんすよ・・」と気弱に肯定するだけのイエスマン。どこかの国の縮図を見るようで、僕はなんだかとても残念な気持ちになった。すると増田翔子が、不敵な笑みで僕を見た。

「ということで、いいわよね?」
「はい・・いいです・・」
「いいそうよ、ジュリアさん。良かったわね」

その後、薬局で風邪薬を購入した僕は、気絶したケビンを背負ってアパートまで戻る羽目になった。その道のりの長かったこと。ジュリアと増田翔子は他愛もない話をしながら先へ先へと行き、僕は青色吐息で後をついていった。はしなくも神君家康公がのたまわったように「人生とは重い荷を背負って長い道のりを往くごとし」であった。僕も将来、天下統一とか出来るといいのだが。

アパートに戻ると、サカキ・マナミはぐっすりと眠っていた。熱はかなり引いていた。枕元に風邪薬を残して静かにフスマを閉じた。問題はケビンだ。気絶しているとはいえ、男性のケビンと女性のサカキ・マナミを同衾させる訳にはいかない。僕はもう一つの六畳間に毛布を敷いてケビンを寝かせることにした。

ジュリアと増田翔子は二人で台所に立ち、夕飯の支度を始めた。野菜を炒める香ばしい匂いが部屋中に広がった。炒め終えた野菜を水の入った鍋に入れ、弱火でコトコトと煮込みはじめる。鍋に固形材が放り込まれると、すぐにカレーの匂いが立ちこめた。僕は畳の上に胡座をかき、二人の後ろ姿をなんだか懐かしいような気持ちで眺めていた。

夕方、カレーの匂いにつられたのか、ケビンがついに目を覚ました。朦朧とするケビンの体を支え、ジュリアは夕飯のカレーを少しずつスプーンですくい取っては、ケビンに食べさせた。患者をいたわる看護婦のように献身的な光景であった。

目の前で仲睦まじい男女の姿を見せつけられるのは、恋愛と縁のない僕にとって、気恥ずかしい光景である。だがそれを羨ましいと思う気持ちだって、無い訳ではなかった。その気持ちはまた、台所に立つジュリアと増田翔子を眺めていた時の「懐かしさ」ともリンクしているのだろう。2chで「女はシネ」とレスしてしまう中学生だって、本音はきっと別の所にある。ただ自分の本音に気づくことは、大人にだって難しい所行だ。それゆえ人生は、自分でこしらえた障害に阻まれて悪戦苦闘するのが常である。しかし気づくなら早い方がいい。僕は未だに気づけないでいるけど。

僕と増田翔子、それにケビンとジュリアは、穏やかな雰囲気の中で夕飯を食べ終えた。時間は午後七時半ごろだった。つけっぱなしのTVには、先ほど始まったばかりのバラエティ番組が賑やかに進行している。僕は先ほどから考えていたことを、声をひそめて、隣に座る増田翔子へ呟いた。

「あのさ、今日は色々ありがとう。妹のこととかさ」
「なに、あらたまって?別にいいわよ」
「うん、それでさ、そろそろ七時を過ぎた訳だし・・」
「?」
「僕はケビンさんとジュリアさんの事もあるし、妹も風邪がぶりかえすかも知れないし、明日も会社を休もうと思うんだ」
「ええ」

「何!?明日も休む気なの!?いい加減にしなさいよ、この給料泥棒!!」と罵られる覚悟をしていた僕は、増田翔子が実にあっけなく首肯したことに驚きを感じた。別に増田翔子から給料を貰ってる訳ではないので、そういう事で一々罵られるのも理不尽には違いないが、つい気にしてしまう自分の心根が悲しい。しかし、増田翔子は今回に限っては、僕の休暇を咎める風もない。正直、ホッとした。

「でさ、僕は休むけど、増田さんは明日も仕事でしょ?だから、あまり夜遅くならない内に帰った方がいいと思うんだ。夜道は危ないし・・」
「ううん、大丈夫よ」

増田翔子はケロっとして答えた。何が「大丈夫」なのだろうか。夜道で不審者に襲われても、自分なら負ける気はしないということか。それはそれで一理ある気がしないでもないが・・。

「私も明日、会社休むから」
「え?」

僕は耳を疑った。さらに耳を疑うセリフが彼女の口から飛び出した。

「私も今日は、ここに泊まるから」
「ええ!?」
「妹さんの看病をするだけなら貴方一人でも何とかなりそうだけど、ケビンさんとジュリアさんの面倒も見ないといけないでしょ?第一、今日は泊めてあげるにしても、明日いきなり放り出す訳にもいかないし、かといって、貴方一人ではいいように付け込まれること確実だし」
「え・・いやいや、付け込まれるって・・ジュリアさんはそんな悪い人に見えないし・・」
「あらあら、そういう所が甘いって言ってるの。分かってないのね?ジュリアさんと話してる時の貴方、鼻の下がデレーっと伸びてたわよ?相手が美人だとああなるのかしらね?ほら、今も鼻の下がブザマに伸びっぱなしじゃない」

僕は、窓に映る自分の顔をそれとなく確認した。言われてみれば、若干、鼻の下が伸びている気がしないでもない。もともとこんな感じの馬面だった気もする。そもそも僕はジュリアにデレデレした態度をとった覚えは一度もないのだが・・。首を傾げる僕を放置して、増田翔子はすげなくTVに向き直った。

ここで「いや、お前は帰れよ」と突っ込みを入れられる僕ではない。この瞬間、増田翔子が僕の部屋に居座ることが決定したのであった。こうして何だかよく分からない、長い夜が始まった。

     

「今日は出歩いて汗をかいたから、そろそろシャワーを浴びたいんだけど?」

TVのバラエティ番組に熱中していた増田翔子が、ぽつりと呟いた。時計を見ると、そろそろ夜の九時になろうとしている。僕は体育座りの姿勢のまま、隣に座る彼女の横顔を覗き込んだ。

「シャワー?」
「うん、シャワー」

彼女も体育座りの姿勢で頷いた。受け答えにいつもの刺々しさはなく、どこか子供のように甘えた口調だった。夜も更けてきて、眠気を感じているのだろうか。

僕はそわそわしながら部屋の後ろを振り返った。

そちらでは相変わらず、ジュリアがケビンを膝枕しながら介抱している。小声で何か話しかけたり微笑んだり、直視しづらいぐらいイチャイチャした空気を放っていた。「もしもし?ここは同伴喫茶じゃありませんよ?」と注意を促したいところだが、僕はむしろ二人の様子を数秒に渡ってガン見してしまい、負け犬のような気分で視線を逸らすのだった。

おっかなびっくりで再び、増田翔子をチラ見する。黙ってTVを見ている彼女は、「シャワーを浴びたい」と言ったきり動こうとしない。まるで何かを待っているようだ。彼女の細い肩が僕の目と鼻の先で、窮屈そうに縮こまって見えた。

その一方、気にしないようにしても、ケビンとジュリアの親密な囁き合いが耳に流れ込んでくる。「ねえ」とか「うん」とかさっぱり意味の分からない言葉が、聞いてる方のモヤモヤ感を増幅させる。僕に聞こえている以上、増田翔子の耳にも入っているだろう。

そのときだ。僕の脳内に思わぬ神託が飛び込んできた。

・・突然の話で恐縮だが、皆さんは「女の子は場の雰囲気に流される」という科学理論をご存じだろうか?「押してダメなら引いてみろ」という古典力学に代わる、いわゆるニューサイエンスである。今はなきホットドッグ・プレスでも紹介されていたから、北方謙三センセイも太鼓判の理論と考えていい。その理論を知ってか知らずか、脳内の神託は僕にこう告げるのだった。

『この雰囲気、分かるだろ?・・ユー、増田翔子ちゃんの肩、抱いちゃいなよ?』

頼れる兄貴分みたいな顔つきで神託が囁いてくる。僕は激しくかむりを振った。

『いやいや、だって増田翔子だよ?』
『関係ないね。肩、抱いちゃいなよ』
『絶対怒られるから・・』
『女心が分かってないね。いいから、肩、抱いちゃいなよ』
『そりゃ、何か待ってる雰囲気ではあるけど・・』
『お前を待ってるんだよ!もう、この鈍感野郎!肩、抱いちゃいなよ』

僕は神託という名の下心と一人相撲をとりながら、しかし、自意識は徐々に増田翔子の細い肩へと伸びていった。彼女はTVのバラエティ番組に熱中して、お茶請けの草加センベイを一口かじった所だった。

僕の視線に気づいた彼女が、こちらを振り返る。僕は右腕をモゾモゾ動かしながら、ぎこちない笑顔を浮かべた。増田翔子が口を開いた。

「何スケベそうな眼でジロジロ見てるの?聞こえなかった?シャワーって言ったでしょう?」

僕の笑顔を一切無視して吐き捨てるように、増田翔子は言った。

言外に「早くシャワーが使えるように準備しろよコラ?聞いてんのかコラ?」という長州力か橋本真也みたいな厳しい命令口調が感じられた。なるほど、肩を抱かれるのを待ってた訳ではなく、浴室が使える状態になるのを待っていたらしい。とんだ勘違いだ。しかし、浴室の準備まで僕の仕事になってるとはどういうことか。自分がシャワーを浴びたいなら、自分で準備すればいいではないか。僕はいつから温泉旅館の仲居さんになったのだろうか。コラ。

先ほどまで僕を焚きつけていた神託が「ごめん、気のせいだった。あばよ」と言い残し逃げるように去っていく。その後ろ姿を寂しく見送りながら、僕はヨロヨロと立ち上がった。玄関口へ歩いていき、靴箱の上に積んであったタウンページをめくりはじめる。

室内に妙な空気が流れ、また増田翔子が口を開いた。

「・・一応訊くけど、あなたさっきから何やってるの?」
「えーと、近所の銭湯を探そうと思って・・」
「この家にも浴室はあるでしょう?」
「・・あるにはあるけど、掃除してないから汚いし・・」
「じゃあ、掃除すればいいじゃない。いい機会だから徹底的に掃除してちょうだいね?言っとくけど掃除は15分ぐらいで終わらせてね?ダラダラやっても終わらないわよ?あとバスタオルと足ふきマットも用意しておいてね?」
「あ、はい・・」

それから15分後、僕はきっちり浴室の掃除を終えた。普段体を動かさないから、たったこれだけの運動で疲労困憊だった。しかし見違えるように磨き上げられた浴室を見て、自分でも溜息がもれた。やはり本気の労働は、恐怖に後押しされねばならないらしい。アウシュビッツの精神はトヨタのカンバン方式に受け継がれ、いまや僕の浴室掃除にまで昇華された。

浴室の前でへたり込んでいると、眉間に皺を寄せたルドルフ・ヘス中佐、ではなく増田翔子が近づいてきて、浴室内をしげしげと見回した。何やら天井の方を気にしているようだ。

「何か気になることでも・・」
「隠しカメラが無いかチェック。うん、大丈夫みたいね。お掃除ありがとう」

僕を変態盗撮魔みたいに言いつつ、彼女は綺麗な微笑みを浮かべた。腹立たしさとともに何だか嬉しさもこみ上げてきて、自分の精神が病み始めている気がした。

「じゃあ、決して覗かないこと。もし覗いたら社会的に抹殺するからね」

なにげに恐ろしいことを言いながら、増田翔子は用済みの僕をさっさと追い払った。

一仕事終えて充実したような、冷静に考えるとそうでもないような、どっちつかずの気分で浴室から引き下がって来ると、畳部屋の方からジュリアがやって来た。

どこから引っ張り出したのかバスタオルを腕に提げている。どうやらジュリアもシャワーを浴びるつもりらしい。だが、いまさっき増田翔子に脅されたばかりの僕は、オドオドしながらジュリアに耳打ちした。

「いま、増田さんがシャワー浴びてるから、もうちょっと待った方が・・」
「知ってる。せっかくだから一緒に入りたいの。女の子同士だから無問題でしょ?ケビンのこと、ちょっとだけ見ててね」

嬉しそうに言ってジュリアは浴室へ歩いていった。

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追伸:
「ノリさんは移籍してしまったけれど、君がくれた53年ぶりの日本一は忘れない」
(銀色夏生風)

     

――明日の朝が来たら、ジュリアとケビンはどうするつもりだろう?

部屋へ戻った僕は、ふとそんな事を考えた。

いま、部屋の隅っこでは、ケビンが居心地よさそうに眠っている。その無防備な姿が、ジリジリと僕の不安を煽る。常にネガティブ思考の僕ではあるが、今度もまた単なる杞憂だろうか?

「旅行中に事故に巻き込まれて、お金を全部失くした」とジュリアは言っていた。それが本当なら、彼らはいま一文無しなのである。このまま旅行を続けられるはずはない。かといって、無一文のままではどこにも行けないだろう。要するに先立つもの――最低限のお金を必要としているはずだ。

だとしたら、どこからそのお金を調達するつもりなのか?
自問自答の末に嫌な予感がした。

まさか・・僕が身銭を切ることになるのか?

新たな災難の予感に一人身震いしたとき、風呂場から賑やかな歓声が聞こえて来た。

『きゃっ!やめてよジュリアさんてば!』
『あら~?翔子ちゃんゴメンネ。浴槽が狭いから、動くと当たっちゃうんだ』
『嘘・・いまわざと触ったでしょう?』

僕は全力で風呂場の方向を振り返った。

修学旅行の女子高生じゃあるまいし、彼女たちは何をハシャいでいるんだ。けしからん。実にけしからん。ここは僕の家じゃないか。独身男性の自宅の風呂場で、うら若い女性二人が親睦を深め合っているとは、一体どういうフラグの立ち方だ。僕は不快感を露わにしつつ、行儀よく体育座りして、風呂場の声に耳を傾けるのだった。

『でも翔子ちゃんてプロポーションいいわよね~。着痩せするタイプ?』
『そんなこと無いけど・・』
『ほら、ウエストはすごく細いのに、こっちの方は肉付きがいいっていうか』
『もうジュリアさんてば!触っちゃダメ。イヤ・・』

落ち着かない気分になってきた。

僕は体育座りをやめて、正座へと姿勢をチェンジした。チェンジしたのは姿勢ばかりではない。僕の下半身もある意味でチェンジしつつある。「落ち着け・・落ち着くんだ・・まだ引き返せる段階だ・・」。微妙なむず痒さと格闘しながら、僕は強く目を閉じた。

ヤキモキする幻影を脳裏から追い払うには、どうでもいい事を考えるのが一番だ。通勤電車で急な下痢に襲われたとき、武田鉄矢の漫談を思い出せば結構しのげる。それと似たような原理である。

僕は「宇宙の始まり」について考えることで、この急場を凌ごうとした。

――宇宙の始まり・・それはビッグバンによってもたらされた。ビッグバンとは「大きな爆発」という意味だ。しかしどれぐらい大きかったのか?僕には想像もつかない。「コロ助はどう思う?」「すごく・・大きいナリ・・」「フフ、この好きモノめ」。こんな会話が成立するぐらいには大きかった。その宇宙には、我々人類のあずかり知らぬ生物が多々存在する。宇宙人だって存在するだろう。彼らはきっと地球にも飛来しているはずだ。証拠を挙げるなら、例えば・・。

「例えば、金星人のメッセージとかね」
「ああ、そうですね。あれ?あなたは誰?」

僕の問いかけに脳内で振り向いたのは、たま出版の韮沢編集長だ。

「もしかして君も金星人?実は私も・・」

話しかけてくる韮沢編集長を突き飛ばして、僕は瞑想から覚めた。危ない危ない。もう少しでジュセリーノの予言を聞かされるところだった・・。

えーと、何をしようとしてたんだっけ・・冷や汗を拭いながら、当初の目的を忘れかけたとき、風呂場の声が再び耳に入って来た。

『ねえ翔子ちゃん、せっかくだからお互いに体を洗いっこしない?』
『え?そんなこと・・きゃ!ジュリアさん、勝手に・・』
『いいじゃん、いいじゃん。ほら、私の体も洗ってよ?』
『・・ちょっとだけだよ・・こんな風でいい?』
『うんうん。あ、気持ちいいな~。なんだか翔子ちゃんって手慣れてない?』
『もう!そんなことないってば!』

ダメだ、なんとかしなければ・・。

風呂場の会話に刺激された僕の下半身は、死後硬直のように緊張感を増している。そんじょそこらの納棺師では手に余るほど硬い御遺体になりかねない。このままではモックンのアカデミー賞受賞も台無しだ。とにかくもう一度、宇宙をイメージするのだ。ただし清々しいイメージでなければダメだ。

そう、例えば、宇宙飛行士について考えてはどうか?

幼い頃から宇宙に憧れていた彼らが、スペースシャトルから見た景色は、どんなに美しかっただろう?彼らの心は、実に清々しかったに違いない。毛利衛さん、若田光一さん、野口聡一さん、記憶を辿れば、錚々たる宇宙飛行士たちがいた。そして2010年に宇宙へ飛び立つのは、JAXAの山崎直子さんだ。彼女は一児の母でもあるらしい。立派なものだ。既婚者なのだ。人妻ということだ。そう。人妻なのだ。ふむ。人妻。なるほど。人妻。まさに。人妻。

一度気になりだすと軌道修正できないのが僕の欠点である。「人妻」という意味深な単語から連想できたのは、「五反田なら1万5千円」という最低なフレーズだけだった。僕はあえなく目を開けた。

一向に精神集中できない・・。

以前にも増して悶々としてしまい、投げやりな気分でテレビのスイッチを入れた。

この時間帯、夜のニュース番組が放送されているはずだ。「イヤラシイことを考えたとして、何がいけないんですかねえ」と古舘伊知郎が一言ボヤけば、この状況も正当化される。そんな他力本願にすがりたい気分であった。

だがスイッチを入れた瞬間、ニュース番組ではなく、見たことのないドラマが映り込んだ。女優がベッドルームで背中をむき出しにして、シーツの下で男優と抱き合っている。一家団欒の食卓が凍りつく恐怖のベッドシーンが、これから始まろうとしていた。

僕はうろたえてチャンネルを変えようとしたが、震える指先はチャンネルボタンに掠りもせず、代わりにボリュームボタンを「+」方向へ押してしまう。演技派女優の狂ったような喘ぎ声が畳部屋に響き渡った。

僕は顔面蒼白になり、無我夢中でテレビのコンセントを引っこ抜いた。

『ちょっと!』

案の定、風呂場から増田翔子の怒声が上がった。僕は条件反射で言い訳を開始する。

「いや、違う違う、違うんです。いまのはドラマの一場面なんです、ストーリーの必然性から挿入されたもので・・いや挿入と言ってもそっちの意味じゃなくて、仮にそっちの意味だとしてもドラマだから挿入はしてないし、いや、そんなことはどうでも良くて、とにかく、いかがわしい番組なんて見てないよ?」
『なにブツブツ言ってるのよ。ボディソープが足らないんだけど、予備は置いてないの?』
「ああ、はいはい・・」

どうやらテレビの音声は聞こえなかったようだ。危うく墓穴を掘りかけた自分を諫めつつ、ボディソープを求めて洗面所へ向かった。洗面台の下を覗くと、買い置きのボディソープが残っていた。

「洗面台の下に予備があったよ~」
『あったよ~って、幼稚園児が宝探ししてるんじゃあるまいし、私は保母さん?そこまで取りに来いって言ってるわけ?もうシャワー浴びてるんだけど?こっちまで持ってきてよ』
「あ、はい・・」

三十路間近で幼稚園児扱いされてもメゲず、予備のボディソープを抱えて風呂場へ向かう。

「ここに置いておくよ」

脱衣所と風呂場を仕切る扉の手前に、足拭きマットが敷いてある。その上にボディソープを置いた。扉を開ければ手が届く位置だ。扉の向こう側から『んー』というぞんざいな返事が返ってきた。

やれやれ・・と踵を返そうとした時、脱衣カゴが目に留まった。

カゴの中身が何であるか、考えるまでもない。女性陣二人が身につけていた衣類や下着類が詰め込まれているのだろう。それはそれで興味をそそられないでもないが、僕が脱衣カゴに視線を吸い寄せられたのは、別の理由からだった。

脱衣カゴの上に、見覚えのある衣類が無造作に載せられていた。

一見、下着のように見えなくもないが、飾り気のないデザインだ。ファッション性を無視したそれは、無骨な工業製品に近い印象を与える。

僕は気になって脱衣カゴへ近寄った。

その無骨な衣類の下には、ジュリアの着ていたシャツが綺麗に畳み置かれている。ということは、この見覚えのある衣類もジュリアの所持品だろう。だが、一体どこで、これと同じ物を見たのだろうか・・。

しばらく考え込んで、唐突にある記憶がよみがえった。

サカキ・マナミだ。

彼女が僕の部屋へ転がり込んで来た時、これと同じものを見せてくれたのだ。彼女もそれを下着のように身につけていた。だがそれは下着ではなかった。

下着のように見えたそれは、あろうことか人間を空中に浮遊させ、時間遡航さえ可能にしてしまう未来技術の結晶だったのだ。――つまり、重力制御装置である。

・・でもまさか?ジュリアがそれを持っているはずがない。見た目が似ているだけでは?サカキ・マナミは未来人だから、あのような装置を持っていたのだ。ここに同じものが存在するはずがない・・。

僕は覚束ない疑問に背中を押され、その衣類をそっと手に取った。手触りや重さは普通の衣類にしか感じられない。だがサカキ・マナミが見せてくれた重力制御装置も、決してメカニカルな印象ではなかった。見た目や手触りだけでは判断がつかない・・。

僕が苦吟していたまさにその時だった。

脱衣所と風呂場を仕切る扉が、向こう側から開いた。

濡れ髪の増田翔子が顔を突き出して、ボディソープに手を伸ばした。一瞬動きを止め、こちらをゆっくりと振り返る。目が合った。彼女は、僕が手にしている「下着らしきもの」を五秒ぐらい見つめた後、やんわりと微笑んだ。僕もつられて微笑む。――彼女の頬がピクリと引きつった。

次の瞬間、「変態」「痴漢」「覗き魔」「下着泥棒」という表現力豊かなキーワードを織り交ぜて、増田翔子の悲鳴と怒号が響き渡るのだった。、

       

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