「正義の味方って、信じる?」
「・・・正義の・・味方?」
「そう」
大きく、息を吸って、吐かれた言葉。
「・・ヒーローだよ・・ヒーロー!」
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それが「最初の会話」だったかもしれない。あるいは、そうじゃなかったかもしれない。
いずれにしろ、「まともな会話」は、それが初めてだったのだ。
だからこんなに、鮮明に焼きついていて、身を焦がされる思いをしているのだ。
愛おしそうに、ほこりを払って、紐解いてしまうことが、できるのだ。
小学六年生の夏。
「真っ暗京介~っ!悔しかったら、こっちまで来いよーっ!」
最初の・・喪失。
多分、夕暮れ時の公園だった。
「・・っ」
頭に痛みが走った。何かを投げつけられたんだ、絶対。
「うわ・・こっち見てやがる~!逃げろ、逃げろーっ!」
「イリヤ菌がうつるぜー!」
彼方へと、走り去る子どもたち。見えなくなるまで、見届ける。
「・・・うるさいな」
幼少の頃より自己主張が苦手で、内気だった俺は、同年代の奴らとは打ち解けずにいた。
その時から、自己と他者の間に、否定的な線引きがあった。
自分からはその線を侵さないし、他人にも侵すことを許さない。
それでも、寂寥感は皆無だった。同情も憐憫もいらなかった。
俺の欲しいものは、全て、「その人」がくれたから。
母さんのことが、大好きだった。
ただ母さんに甘えていた。俺の不安も期待も、全て併せ呑んでくれるんだ。
母さんがいればよかった。母さんがいれば、友達も、それ以上の幸福だっていらなかった。
そこが俺の場所だった。それが俺の日常だった。
母さんが、俺の、世界だった。
「・・・・」
家路を急いだ。母さんがいるから。きっと、温かく迎えてくれる。
「・・・・何で」
俺が捨てた何もかもを、やさしく、埋め合わせてくれる。
「・・・何で・・?」
俺の世界は、決して揺るがないと、思っていたんだ。
辿りついた、薄暗い部屋。この世の全ての不条理を混ぜて濾過しても、こんな黒は出ない。
「どこ・・どこだよ・・」
その黒にまみれて、手探りで、血眼で、探し求める。
「どこに・・どこに行ったんだよ!母さんはっ!!」
とめどなく、流れていく。その涙で、この漆黒をすすげるかと思った。
この部屋中に、狂おしいまでの喪失感を奔流させれば・・
「ああ・・」
部屋の主が、声を発した。うだるような黒を、声帯に持っているんだ。
そうじゃなきゃ、俺も、この部屋も、こんなに黒く染まらないはずなんだ。
「困ったよな・・京介」
俺は、絶対に、認めたくなかった。
「ちょっと・・“おしおき”しただけなのに・・」
この男が・・俺の、父親だなんて・・
「出てっていっちゃうんだもんな・・・」
思えば、母さんがいなくなった時の、あの部屋は、
今のコスモスの部屋に、どことなく、似ているかもしれない。
薄暗い部屋。むせかえるような黒。
あらゆる罪と罰がおし殺されて、対流を続ける空間。
その対流の触媒となる、“おしおき”。
当時の俺には、あの男の言う“おしおき”の意味がよくわからなかった。
それであの男とも、さほど軋轢のない生活ができていたんだろう。
気付いた時には、もう遅かった。
だから、開き直って、ずっとこの男の側に居続けてやろうと思った。
そうすればきっと、この男への、“おしおき”になる。
俺が母さんに代わって、罰を与えてやるんだ。
ひとしおの使命感か。いや・・もっと、「個人的」だったかもな。
中学三年生の春。
最初の、彼女との出会い。
父親から、再婚すると聞かされた時は、耳を疑った。
「それでまた、追い出すのか」
本当なら、あいつの顔面に拳を入れてやりたかった。グチャグチャになるように。
それほどまで、憎悪がたぎっていた。
「追い出すって・・あちらさんが俺のことを嫌いにならなければ、出て行かないだろ」
でもそんなのは、俺のやり方じゃない。じわじわと、滲ませてやる。
「俺は、皮肉のつもりで言ったんだが」
憎しみの種を、ゆっくりと、アンタが忘れるくらい植え付けて、干からびさせてやる。
俺が味わった絶望と虚脱に、一生かけて、全霊で喘がせてやる。
楽に墓に入れるなんて思うな。憎しみで、骨になるまで灼いてからだ。
「勘弁してくれよ・・」
それでもあいつは、あきれるように、俺を見下してから、言った。
一匹の・・羽虫を、見るような目つきで。
「京介・・・オマエに何ができるんだよ」
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「やっぱりだ・・」
何か・・聞こえる。
夜の冷気を微かに震わせて、廊下の壁を這い伝わって、聞こえる。届いてくる。
「人の声か、これは?」
もしかして・・屋上に惨劇を撒き散らした連中か?
「・・・・」
雪村は、その身を静寂にまかせて、最低限の存在感だけを放っていた。
そして俺までも黙り込んで、一旦その静寂を認めれば、微弱な音波が剥き出しになる。
・・聞こえる。不幸なことに。
「おい・・鍵を返せ。何かややこしいことになりそうだ」
「・・・訊かないの?」
多分、姉さんのことだろう。
どうもコイツは、描いた筋道通りに会話が進むと思い込んでいるきらいがある。
そのせいで俺は、少し割り引いた態度をとるようになっていた。
「急ぐんじゃないのか?この際だから、後で聞いてやるよ。今は不問だ」
「・・・・」
俺に包容力を期待するなよ・・。あれば苦労してないんだ。あれば・・な。
「・・妙に・・冷静・・」
何故か雪村は、少々不満げだった。
というのも・・情けないな。コイツの感情の機微まで、読み取れるようになってしまった。
「・・やはり聞こえる。階下からだ。この位置からだと・・化学室の方か?」
読み取ったところで、迎合はしない。
いちいち取り計らっていては、文字通り日が暮れてしまう。
そんなことよりも、俺達以外の存在、というのが気になる。
この時間帯の学校で・・屋上をやったのが、コスモスだとすれば・・
「どう考えても、機関の奴らか・・鉢合わせだけは避けたい・・」
元コスモスは、顔が割れている可能性がある。
それを現コスモスと照合されれば、ひとたまりもない。二人して破滅だ。
「・・・・」
なかなかどうして、黒峰より煩わせる・・・
「おい・・!オマエが話さないと、何も進展しないんだが」
もう「会話」には、拘泥していられない。雪村の一方的な証言だけでもいい。
それだけでも、動く価値はある。
「霧野は、今夜・・二つの裁きが行われると、言っていた・・・」
口を開き始めた雪村よりも、いつの間にか、俺は前を行っていた。
結論を聞いたところで、その時現状とラグがあれば、後悔するに決まっている。
そうならないように、急ぐしかない。嫌な予感というのは、的中するのが世の常だ。
「一つは・・屋上の」
「・・・」
どうやら雪村は、俺の歩行ペースと同様の会話スピードが期待されていることに、
やっと気付いてくれたらしい。今は寸陰も惜しい、のだが・・
それでも歴然とした改善は見られないのが、余計に口惜しい。
「もう一つは・・・」
「俺が行く方向で・・間違いないな?」
「・・・」
しっかりと、意思を持った肯きを見せた。ようやくの、それらしい相槌。
「警備を縫えているかどうかも、心配だがな・・・行くしかない」
やはりコスモスか。穏やかじゃないな。
あいつらも、俺たちも。これから・・起きることも。
「・・本来なら・・それほど、気にならないの・・」
抜き足を急かせる。夜風を切るような速さで。
このまま、纏わりつく空気も、差し込む月光も振り切っていけば、夜に溶ける。
雪村の小言も、もはや風景と化す。俺の足音も、夜の出来損ないの断片。
このまま全てが夜になり、夜に溶けて、夜が、全てを覆っていく。
「・・でも、もしかしたら、と思った・・」
だから、気付かなかった。
「もしも・・タカ派が・・私の、思うよりも、強行したら・・・」
その可能性に。その脅威に。その蠢動に。
「私たちの・・知っている、依頼にも・・介入、してきたら・・」
夜が、全てを、覆い尽くして、
「・・・!!」
まともな感覚も、危機管理も、ままならなかったのか。
「・・・おい」
「・・・・」
それまでの潜行は、途端にほどかれる。その抜き足をほだしたのは、ある疑念。
俺が振り向くと、雪村の表情は、いくつかの感情を移ろいでいた。
不安。焦燥。緊張。振り子のように、彼女にあるまじき、空前のめまぐるしさで。
だが彼女は、それらのいびつさを鎮めて、いや、鎮めたつもりで、不器用に言葉を紡ぐ。
「・・・可能性の、話」
「・・違うだろ」
オマエだって、その可能性が肉迫していることに、気付いているはずだろ・・?
「違うだろ!」
それに目を向けないのは・・体感してしまったからか。
結論を知った時の、現状との、どうしようもない・・ラグ。
「どうして・・・どうしてもっと早く言わなかった!」
「声・・静かに」
構わない。構ったところで、もう・・
「雪村っ!!」
彼女は、俺の声に、応じない。
「まだ・・まだ、確信じゃないの・・これは」
「・・・・」
応じないのは、冷静だからじゃない。
彼女の、華奢な肩は、音を立てそうなほど震えていた。
「わかった・・・」
そう、今わかった。彼女の、尋常じゃない態度を見て。
「俺も・・情けないことに、オマエと同類かもしれない。それは知ってたよ」
彼女は、ずっと応じない。
「だがな、それは・・可能性の話、だったよ。
俺はオマエと違って、こんな事態を見捨てられるほど、堕ちちゃいない」
きっと、これからも応じない。震える肩はもう、軋む緊張の音を奏でている。
「オマエは本当に・・罪悪感に苛まれて・・コスモスをやめたのか?」
雪村は、こちらを見上げた。その目にうっすらと、涙を溜めて。
「逃げている・・だけなんじゃないか・・?今・・みたいに」
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「委員長っ!!」
雪村を置いて、夜の黒に滴った廊下を急ぐ。
この黒を覚えている。何か、大切なものを失う時に、俺の世界はその色に染まる。
うだるような、黒。眼にも、鼻にも、口にも、むせかえるような、漆黒。
「どこだ!どこだ委員長っ!!」
返事をしてくれ・・
「“三度目”は・・嫌なんだ・・委員長っ!!」
見つからない・・どこにも。彼女の姿も・・俺の、終着点も。
どこまで追いかければいい?どこまで追いかけてくる?
「委員・・長」
横目に見やった教室の片隅で、うずくまる少女を見つけた。
あられもない・・姿だった。
寂とした夜のはずなのに、彼女を見つけてから、俺の中で鳴り止まぬ声があった。
「委員長・・委員長っ!」
たとえ彼女が返事をしても、俺には聞こえなかった。
「入谷・・君・・・」
俺には、聞こえないんだ。
「向井っ!!」
呼びかけても、俺には聞こえない。彼女の声も。俺の声も。
響くのは、別の声。深い、深い内奥から、俺をそこへと、引きずり込むように。
「京介・・・オマエに何ができるんだよ」