父親の再婚相手には、娘がいた。
初めて「彼女」と会ったのは、中学三年生の春。
誰が家族に増えようと、心底どうでもよかった。
母さんがいなくなったその時から、俺には家族なんて、社会的な隠れ蓑でしかなかった。
隠れ蓑であり、虚ろな抜け殻であり、俺はその外殻を借りているにすぎなかった。
そこにどれだけ新しい風が吹こうと、空洞をさらって、通り過ぎていくだけ。
それが通り過ぎていく度に、穿たれた古傷に、痛みを覚えるだけ。
「彼女」の名を聞かされても、覚える気さえ起きなかった。
「彼女」が俺を呼んでも、俺は「彼女」を呼ぶ術を持たなかった。
誰が俺を呼ぼうと、誰が俺に触れようと、風はただ、通り過ぎるのみなのだから。
「真奈美」
「・・・・」
「真奈美っていうの。マナ・・でいいよ」
彼女の方から、一方的に話をしてくる。こだましない山彦。
まさに空洞に語りかけるような、そんな結実のない会話が、十数回は繰り返された頃。
「・・・あんたも・・懲りないな」
俺に、異変が起きた。
「・・あ」
何度も何度も。日に日に繰り返される一様なダイアログに、魔が差したのか。
それとも、彼女の屈託のない呼びかけによって、俺の角の立った態度は、
やすりをかけられてしまったのか。どちらともつかない。ただ、ふと返事をしてしまった。
「や―――――っと・・返事してくれたね」
無邪気な、笑顔だった。
「でも、減点いっこだよ。私は“あんた”じゃなくて、“マナ”だよ、“マナ”!
りぴーとあふたあ・・」
「・・騒々しい」
同時に、返事してしまったことを、身をもって後悔させてくれる邪気もあった。
だが彼女が、出た目によって駆け引きするような、奇のてらい方をしていないのはわかった。
「・・・どうしてそんなに・・俺に、構うんだよ・・」
「どうしてって・・」
後悔のどつぼだ。返ってきたのは、あまりにも愚直な答え。
「家族、なんだし・・当然でしょ?」
知らないんだ、コイツ。俺にとって「家族」なんていう言葉は、温かくも何ともない。
もう遅いんだ。そういう寄る辺を求めるような熱情は、しけりにしけっている。
真っ直ぐすぎて、まぶしい。そんな彼女に対して、俺は斜に構える。
「家族・・ねえ・・偽りの・・家族だ」
「・・・・」
最悪の目を振って、出してやった。そんな俺に対して、彼女は・・奇をてらった。
「ねぇ・・占いって、信じる?」
俺の卑屈な態度への意趣返しにしては、前例があるだけに、より恨めしい。
「・・正義の味方の次は、占いかよ・・・」
だから、出る杭を打つ要領で、彼女の誘いに乗ってしまったわけだ。
「俺にとって、その質問は・・・宗教を信じるかという質問と同義だ。
どちらも一切の論理を排して、教義だけを押し付けてくる・・ドグマティックな・・」
杭を打つ手の方も痛い、ということは忘れて。
「・・・ふふ。よくしゃべってくれるね。うれしいよ、京介」
「・・ちなみに俺は、無神論者だ」
最後だけはぞんざいに答えて、あとは押し黙ってやった。
反対に、彼女が口を開く。
「私が言いたいのは・・ね。そんなのは、ただのきっかけなんだよってこと」
「・・・・」
でも、俺が黙って、彼女が喋るという構図は、皮肉にも、どこか温かくて。
「占いも・・正義の味方も・・
そういうのは、自分がこうありたいっていう指標さえ・・くれればいいの」
彼女がいて、俺がいるというのは、どこか自然に思えてきて。
「だから・・この質問にも・・答えて、京介」
彼女がまばゆい太陽ならば、俺はその光の陰であって。
「家族って・・信じてくれる?」
俺はここにいてもいいんだ、
黒くあることが、赦されることもあるんだって、やっと思えて。
「帰ろっか・・京介っ」
その淡い、漂白された白に、なんだか、母さんを感じてしまって。
どうしようもなく、こそばゆかった。
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黒板に貼られている無数の写真。
それら全て、委員長を陥れるためのものに他ならない。
「どけ!」
走り去っていってしまった委員長をよそに、必死に群集を引き剥がす。
「どけよ!お前ら!」
彼女の後を追いかけてやるべきかもしれない。だが、俺に・・
「くそっ!どけって!!」
俺に、彼女を、追いかける資格が?
俺に、正義を、語る資格が?
「・・・・」
周囲は異様な目つきで、俺を眺めていた。
それはそうだろう。息せき切ってコイツらを掻き分けたあと、その中心で、
余計な悔恨やら憔悴やらが襲ってきて、耳鳴りがして、目眩がして、
それでも地べたにつくことは許されなくて、ただ自失して立ち尽くしていたのだから。
「アッハハハハハハ!」
そんな事態をつんざいて笑ったのは、笑うことができたのは、
「相川・・」
あの部屋にいた時の高笑いは、俺と何かを画していたような含みだったが・・
「堕ちたな・・・」
今では、俺と変わりはない・・。漆黒に浴びせられて、溺れている。
辺りをくすませるような狂気を孕んだ・・そんな笑み。
「アッハハハ!入谷ぁ・・何て顔してんのよっ・・アハハハハ!」
そうだな・・今の俺は、ひどい顔つきをしているかもしれない。
もう何も考えられなくて。昨夜のことだって、ほとんどうろ覚えで。
忘れたくて。でももう頭の中は、その記憶で抉られていて。
「あんたも笑いなさいよ!アハハッ!こんなにスカッとすることってないわよ!」
今の俺は・・オマエにありったけの激情を叩きつけてやることもできなくて・・
「なんて顔よ・・アハハッ・・何で・・そんな目をしてんのよっ・・」
その溜飲を下げてやることもできなくて。
その代わり、俺の中で所在無かったそれは、廻り回って目に滲んでいたかもしれない。
「何で・・そんな目で・・私を見るのよ・・」
ドス黒い私怨は、臨界点を超えて、裏返ったのかもしれない。
「・・そんな・・やさしそうな・・目で・・」
雪村に鍵を預けたままだった俺は、そこへ向かわなくてもよい口実があったにもかかわらず、
決められていたことのように、自然と、そこへ赴き、
用意されていたような、口上を発した。
「霧野・・いるんだろ?・・開けてくれないか?」
東の廃棟、コスモスの部屋。
「・・・・・」
しばらくは声がしなかったが、足音が近づいてきて、
「・・・おや」
予想は当たっていたとわかった。
「鍵は、どうされたんですか?」
「・・・・」
部屋を見回しても、霧野一人だったようで、かえって好都合だ。
「・・ふむ。まあ、いいでしょう。後で予備を差し上げましょう」
その引き際の良さも、痛ましいほど好都合だった。
俺が部屋に入ると、霧野は悠々と腰掛けて、こちらを悟ったように見上げた。
「この世の終わりのような顔をしていますね。・・終わりませんけど」
「雪村と会った」
俺は、霧野と向かい合うような形で座った。
「・・そうですか」
霧野は、俺から目を離さずにいて、対峙の意思を受け取ったようだった。
「では、彼女から機関のことを聞けましたか?」
「・・・・」
そこで、俺の目線が的を逸したのを、霧野は見逃さない。
こちらの射程が縮めば、そこまで踏みこんでくる。
「私にも、タカ派があそこまで打って出てくるとは、思いもよりませんでした」
俺の動揺のスキを、こじ開けてくる。そういう男だ。
「相当、焦っていますね」
「・・・焦る?」
焦る、ということは、奴らに目的意識があるとでも?
「ええ。彼らだって、ただなりふり構っていないわけではありません。
焦っているんです。焦りを必要とする目的に対して」
「・・・・」
だが、考察に間に合うように、頭を冷やしている場合でもない。
「面倒です。本当に面倒ですよ、ええ。心中お察しします。それなりに、緊急事態です」
それは、共通認識で間違いないようだ。
「オマエとの話は、終わっていないんだ。まだ、もらえるだけの情報をもらってない」
「・・そうでしたね。依頼が来て、お話できていないこともありましたからね」
その認識に従って、決裂しない程度の勇んだ速度で、二人して、歩みを寄せた。
折衝を重ねられる、ギリギリの漸近線まで。
「ただ、あの時に話してしまうのは、少し早いかなという気も・・してはいたんです」
俺達は、交わることのない、双曲線なのだから。
互いのひねくれ具合なんて、その身で体現しているのだから。
「・・・そうか。なら、今なら話してくれるか?」
肚の探りあいは、もう十分だ。
「構いませんが・・・必要ですよ、覚悟が」
探ったところで意味すらない。募る思いを肚に隠しておくほど、互いに素直じゃないからな。
「ですから・・・私のこれから言うことに・・全てを、捧げてください」
だから、オマエだって、事実を語ることに身をすり減らせよ?
「半端な気持ちでしたら、互いに後悔すると思いますし・・場合によっては」
「入谷君、私を殺したくなるかもしれませんしね」
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それから一年経って、高校一年生の春。
もともと病弱だった義母は、「家族」が一年強ももたないうちに、この世を去った。
つくづく母親というものには、運も縁もない。
おのずと「彼女」は、虚ろな隠れ蓑の中で、一人になってしまった。
だがその時の俺には、「彼女」を呼ぶ術があった。届くかどうかは、わからなかった。
「・・悲しいのか?」
悲しいんだろうな、きっと。こんなに哀情を催す彼女は、初めてだから。
「・・・・」
狂おしいんだろうな。一番悲啼を聞かせたくない人物が、側に居るんだ。
「・・ううん」
うずくまりながら、かぶりを振る彼女を前にすれば、
なんだか見てはいけないものを見てしまった時のように、心がつかえて。
「不思議なんだ・・なんか、涙も流れないんだよ・・」
「・・・そうか」
ようやく顔を上げた彼女の目には、本当に、哀気の露さえもなくて。
「何で・・なんだろうね・・」
俺を、見ていないようで、怖くて。
「・・・なあ」
不気味なほど、やさしそうな目をしていた。
「まだ間に合うか・・答え」
この時に、初めて知ったかもしれない。
熱水のような感情は、ある臨界点を超えると、沸騰はせずに、裏返る。
ただ冷えて、凍って、氷点下になる。
「・・え?」
「正義の味方はいるかっていうやつの・・答えだよ」
そんな冷えた彼女を、今度は、俺が支えてやる番なんだ。
「いるよ・・正義の味方なら」
彼女がまばゆい太陽ならば、俺は千夜の月。
彼女が輝けない時には、俺が、鈍く、照らしてやる。
「俺が、あんたを、守ってやるよ。だって・・家族、だもんな」
俺はここにいる。あんたの側で、夜の漆黒に、瞬いている。
俺が黒くあることで、あんたは汚れなく、純白でいられる。
「・・・もうっ・・」
だから、今は泣いてくれよ。俺のために。俺だけのために。
「遅いよっ・・京介・・・」
あんたがいくら涙を流したって、その涙をすくって、俺が夜露に変えてやる。
あんたがもう、悲しまなくてすむように。
「・・・ばかっ・・」
正義の味方なんて・・ただのきっかけなんだ。俺があんたを、守っていく上での・・な。
「・・それと・・減点いっこ、だよっ・・」
「ああ・・」
“あんた”じゃあ、なかったな・・・
「・・帰ろうか・・・“姉さん”」