高校に入学して、最初の春が過ぎた。
桜はその身と淡紅色を散らし、間を保たせず初夏が訪れる。
これまで通りなら、季節の移ろいなど何ら刺激を持たず、ただ身を梳いていくだけだった。
だが、彼女の側に居ると決めたその日から、日常は煌々と確かな輝きを持ち始めていた。
今までは、その眩さから目を背けていただけかもしれない、と。
そんなことを考えられる余裕は、彼女の存在の大きさが押し広げたに違いない。
かすれゆく春を尻目に、家路を急いだある日。
目の前の情景を何かがくぐもらせた。その何かが足取りに滲み出して、足を止めた。
鬱乎として淀み巡らされた夕闇。易々と振り切れない。振り切ってはいけない。
そのせいで、道のりが何倍にも遠く感じられた。
幸せに、安らぎに、共に過ごす日々に、辿り着くことはないと、誰かに睨まれた気がした。
「・・・・」
家のドアに手をかけた。そのまま、空気をねじこむように、ひねる。
ガチャリと音が吸い込まれる。吸い込まれた分、俺の視線もか細くなる。
「姉さん・・?」
家の中は、黒を振り絞ったように真っ暗だった。
誰かがいる気配は無い。気配とは呼べない。空気だ。吸い込む静けさと吐き出す不安。
その向こうに、姉さんが・・
「いるんだろ・・?」
居間を過ぎて、一番奥の部屋。昔俺の本当の母親が使っていた部屋。
息遣いが聞こえる。俺のか?俺のじゃない。いや、本当にそれを俺が聞いているのか?
誰かが俺を見ているのか?視線だ。寂静の中、黒にぬかるんだ視線が、背を刺す。
「・・・・」
振り向こうとする。鈍いストロークで。脊椎に冷たい鉄を通わせたようだ。
「・・・京介か」
父親がいた。最初からそこにいたのか。俺を待っていたのか。
「その部屋に何の用だ?京介・・」
何のためにだ。俺に何をする気だ。俺から・・
「そこには何も無い。あっちへ行っていなさい」
俺から、今度は、何を奪う気なんだ・・・
----------------------------------------------------------------------------------
「話を始めましょうか」
部屋の雰囲気とは対照に、霧野の声が澄み渡る。
やがて訪れるものは、その声調をどこまで保たせるのか。なにせ俺に殺気を抱かせるほどだ。
甚だ興味深い・・というのは、虚勢に過ぎないだろうか。
「タカ派の目的をお教えしましょう」
そう言って、霧野の手が浮く。何かが投げ放たれて、俺はそれを受け取る。
「私の鍵ですよ。よく見てみて下さい」
要望通りに、目を凝らしてやる。そういえば、これを落ち着いて眺めたことはなかった。
どれだけ様々な流転に翻弄されていたかをうかがわせる自省だ。
「・・・・!」
そして、気付く。差し込む夕陽が、それに反射して照らしたのは・・
「数字・・・」
「正確に言えば、シリアルナンバーでしてね。どの鍵にも彫りこんであるんですよ」
机に叩かれる霧野の人差し指が、一定のリズムを刻し始める。
「・・・・」
「依頼人が鍵を入手する、我々が依頼とともにそれを受理する、そして、
この間アゲハさんが言いかけていたことですが、我々の別のストックを依頼遂行時に
現場に置いておくんです」
相川が被害に遭った時もそうだった。忘れるはずがない。あそこから始まったのだ。
「そうやって、鍵は流通します」
そうやって、輪になる十字架が広がる。罪を殺し、人を殺していく。
「ですが、少し事情が違う場合もあるんです」
「タカ派か・・」
霧野が肯く。肯くと同時に、人差し指が止まった。
「彼らの目的は・・・シリアルナンバーゼロの鍵の入手」
「・・・・」
不意に、委員長の顔が浮かんで、表情を作るのに困った。
「あの鍵は、この部屋も開くマスターキーなんですよ。他にはどこを開けるか、といえば、
こことはもう一つ別にある、コスモスの部屋」
彼女は言っていた。俺の鍵は少し特別である、と。
「コスモスの、長の部屋です」
自惚れるな・・今すべきは、霧野の一字一句を、耳からも記憶からも漏らさないこと。
それらを理性に濾した後で、どれだけ、自分の中に残せるかだ。
「コスモスの長・・・?」
「そうです。同時にその人は、コスモスの創始者でもありました」
真に迫る口調。核心に迫る話調。意気の弛緩と息の緊張。
どれをとっても、後には引けないとわかる。のどもとに、飲み干せない何かがある。
「現在は空位・・・なんですよ。その方の退位とともにその鍵は紛失しまして」
飲み干せた後で戦慄となって、旋律のごとく駆け巡る。
「今もどこかに、出回っていると?」
「そういうことです。つまりマスターキーを手に入れることは、その地位を頂けること
なんです。そのためにタカ派は、あらゆる依頼に強行して、躍起になっている。
長になれたあかつきには、その部屋にあるコスモスの全データの把握と、事実上組織
自体の掌握が可能ですからね」
一つ、ゆっくりと呼吸が置かれる。
「それはおそらく、この学校というコミュニティーの支配にも繋がることでしょう」
皮肉なことに、その言い分を否定しきれる材料はない。この組織の影響力なら覚えている。
「ならば彼ららしく、物理的な力に訴えてその部屋に入ればいいではないかと考えられるかも
しれませんが、残念ながら、それは無意味なんです」
霧野は、自身の胸元を探った後で、金属製のリングを取り出した。
金属の擦れる音が、遠くで俺の心音と重なった。
「コスモスにとって、鍵とは、組織としての個の能力の証。序列に他なりません」
そのリングには幾重にも、同じような鍵が束ねてあった。
「依頼をこなした数・・・」
「そう。コスモスにとって鍵とは、権力の絶対的象徴。それを無視してあの扉を開くことは、
自己否定と同義です。タカ派もそこまで馬鹿じゃないんです。
いかに効率よく示しをつかせるかということに関して、我々と少し思想を異にするだけ」
だからといって、暴挙で依頼をこなすことにうなずくわけにもいかない。
危険な輩に変わりはない。
「それ以前に、あの鍵でなければ、開かないデータもあるようですからね・・」
霧野の声音が矛先を鈍らせたことを確認して、俺は席を立った。
「色々聞けてよかった。感謝する」
残光をたたえた視線が、こちらに移る。
「もう行かれるんですか・・?」
「ああ。確認しなければならないことができた」
俺は奴と顔を合わせない。だから今、奴がどんな面持ちでいるか、知らない。
「そうですか」
しばらくしてから、椅子が軋みだす。立ち上がったのだろうか。
「何故あなたに」
そして、背後に立たれた。引き止めるでもなく、ただ奴はこう語ったのだ。
「何故あなたに・・この時期を見てお話したか、わかりますか?」
その種の問いに自分の見解を示すことは、正確な答えを聞くまで徒労だ。だから黙していた。
「・・・・」
「そうですか・・・わかりませんか」
一歩退く音がする。まるで俺との間に
「あなたが・・・無能だからです」
一線を引くように。
「!!」
「相川さんも」
一歩。
「昨晩の方も」
また一歩。俺との隔たりを、踏み広げる。
「そして、あなたのお姉さんも」
姉さん・・?姉さんだと・・!?
「おいっ!!」
「誰も、守れない」
堪えが効かなくなって振り返ったときには、霧野はすぐそこにいた。
「・・・っ」
何だ・・さっきの足音は、ただの俺の幻聴なのか・・?
「守っているのは、自分だけ。そんな、あなただからです」
霧野が遠ざかっていたんじゃないのか・・・?俺が・・
「何が言いたい・・・霧野ッ!」
俺が・・・逃げて・・いたのか?
----------------------------------------------------------------------------
「どきなさい。京介」
知らないうちに、俺は父親を睨みつけていた。情火を灯した剣幕。
「どきなさい」
それが伝わったのか。言い終わらないかというところで、ため息が混じった。
「・・・はぁ・・どいてくれないのか」
俺はその息を払拭するようにして、また剣幕を取り戻す。
何も言わずに、ただじっと、この男との対峙に、心を傾けた。
身をなでる風と、身を焦がす時間だけが過ぎていくうちに、口を開いたのは、
「まあ・・いいかな」
父親の方だった。
「何が変わるわけでもない」
視線を虚空に預けたまま、そう言い放った。
「京介には、何もできない。何かを知ったところで・・」
ガチャッ!
そして聞き終わるが早いか、俺は後ろ手に部屋の戸を開けた。
ここに入るのはどれくらいぶりか。明かりはなく、夕陽も届かない場所。
気持ちだけが先走って、足を引きずらせるように、部屋に入る。
暗がりの中、自分の足と、これからの運命の行く手を確かめる。
「・・・・」
額に汗が滲み、壁を伝う指先に焦燥感が募り、足元には転がる闇だけがある。
不安でくもった目を、どうにか凝らす。巡らせた思考を、その視線の先一点に凝縮する。
「・・・っ!ね・・」
部屋の隅に、うずくまる何かを認めた。
「姉さんっ!!!」
頬には幾重もの涙の筋の跡があった。その体には傷が這っている。
一気に、これまでの彼女との距離を詰めるように、駆け寄る。
「姉さんっ!姉さんっ!!」
「ほらな」
冷え切った熱情の走る背中を追い超して、声が届いた。振り返れば、奴がいた。
「何もできない」
「これはっ・・・」
ようやく振り絞った声も、望みを絶つように、暗闇の中で途絶えそうになる。
「これはっ!どういうことだよっ!!」
腕にしがみつく感触。姉さんの手。俺を制止している。望みを、掴むように。
「どういうこと?ハハッ・・どういうこと・・か」
「・・ごめんね・・」
感触が強くなって、そちらを向く。彼女の目に涙が溜まっていた。
「ごめんね・・京介っ・・ごめんね・・っ」
流れていく涙が、今度は俺の胸に溜まる。つかえてやまない苦しみになる。
何で姉さんが謝るんだ・・何なんだ・・何なんだよこれは・・
「京介・・世の中には、面倒なことがたくさんあるんだ。オマエが思うよりも、ずっとだ」
もう何も聞こえてこない。響いてくるのは、胸を打つ恐怖の音だけだった。
「黙ってて・・ごめんねっ・・・京介ぇ・・っ」
「そのはけ口ってやつが必要なんだ。だっておかしいじゃないか。コイツの、真奈美の
母親はずっと病弱で、世話をしなくちゃならなかった」
・・ドクン・・ドクン・・・
「京介っ・・京介ぇっ・・」
「そんな面倒・・どうして俺がやらなくちゃならない」
・・ドクン・・ドクン・・ドクン・・・
「だからアイツが死んだ今、真奈美に、“おしおき”してやってたんだ」
・・ドクンドクン・・ドクンドクン・・ドクンドクン・・・
「京介ぇっ・・!」
「同じように面倒だった・・・」
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン
「聞かないでっ・・京介ぇぇっ!」
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン
「京介、オマエの母親みたいに・・な」
----------------------------------------------------------------------------
無能な俺には誰も守れない。
無能だから、俺がどこまでいきがったところで、何の影響も及ぼさない。
霧野に言われたこと。
「あなたという人間に、どこまで情報を与えても、何も困らないからです」
父親にも・・言われたこと・・
「昨晩のことを見て、そう確信がとれたからです」
委員長を救えなかった・・相川も・・姉さんも・・・
「そして、これから伝える事実についても、そう言えるでしょう」
これからも・・誰も・・
「あなたは、どこまでも、その事実から逃げて」
救えない・・?
「自分だけを守る」
スクエナイ・・?ダレガ・・ダレヲ・・
----------------------------------------------------------------------------
「ごめんね・・京介」
「おしつけの正義の味方になんて・・なれないよね」
「京介に全部おしつけて・・自分が守ってもらおうだなんて・・」
「自分勝手だよね・・」
「こんなんじゃ・・」
「正義の味方なんて・・来ないよね・・」
「この世界で・・」
「コノセカイデ」
「こんな醜い世界で・・」
「コンナミニクイセカイデ」
「望んでいいことじゃ・・・ないよね」
-----------------------------------------------------------------------------
「それでも、知っておくべきでしょうね。あなたは」
この世にいないとわかった正義の味方。はびこる罪。暮れゆく世界。
「コスモスの創始者にして・・元コスモスの長・・」
それらに絶望した「彼女」は一体・・・
「つまり・・機関“コスモスの名付け親”は・・・」
「あなたの・・・お姉さんなんですよ」
最後に、何を・・望んだのだろうか。