Neetel Inside 文芸新都
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君が消えるとき
執行者

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 薄暗い廊下には、僕と松崎の慌しい足音だけが木霊し続けている。
 わずかに、静寂の中に反響する呼吸音。
 物井さんが走り去った方向には既に彼女の姿は無い。廊下の突き当りには階段と、第二棟へと続く渡り廊下がある。だが、十分な長さのある渡り廊下に向かったとすれば、その途中に彼女はまだいるはずだ。だとすると階段か。階段は1階と3階それぞれへ至る。
 ――どっちだ。
 逡巡の後、長考している場合ではないことに思い至り、僕は「下を頼む」と松崎に投げかけて階上へと向かう。
「分かった」
 松崎は躊躇うことなく階段を駆け下りていった。
 リノリウムの段を飛ばしながら駆け上る。
 踊り場に溜まり込んだ西日を蹴って、さらに上へ。
 3階に出る。
 ここの風景は、2階のそれと大きく変わらない相似形だ。大きく異なるところは廊下に並ぶ部室や教室の表札と、渡り廊下が無いことくらいだろう。この廊下を駆けて行ったか、それとも――屋上か。屋上の扉には、生徒の安全の為に鍵が掛けられているはずだ。僕は「物井さん」と声に出して呼びかけてみたが返事は返ってこなかった。仕方ない、当てはないがとにかく廊下の先へ向かおう。
 そう思って走り出したとき、どこからか「ひゃっ」という嘆息とも悲鳴ともつかない短い声が聞こえてきた。
「物井さん?」
 僕は化学実験室の前で立ち止まる。
 鍵が掛け忘れられたのか、ドアは開いていた。
 勢いよくドアを開けた拍子に何か張り紙らしきものが落ちたが、今は気にしている暇は無い。
 部屋の中に踊り込む。
 照明のスイッチはどこだ――手探りで探し当てる暇も無く、部屋の奥でガチャンという鋭い音がした。おそらくビーカーか何かの割れる音だ。物井さん、そこにいるのか。僕は慌てて駆け寄る。
 部屋の中は暗い。
 遮光用の黒いカーテンが、夕暮れの薄明かりすらも拒絶していた。
 何度か、直方体の椅子に足をぶつけそうになりながら、部屋の奥へ向かう。
 いた。
 こちらに背を向けて人影が座り込んでいる。
 何かに怯えるように、ゆっくりと、後ずさりしているようだ。
「大丈夫?」
 僕が声を掛けると、彼女は振り向いて――物井さんじゃない――僕に向かって「あ、あれ」と言いながら何かを指差した。
 彼女の人差し指の指す方向に視線を動かすと、暗闇の中で何かが蠢く。
 なんだこれ。
 いったいなんだこれは。
 それはまるで、無数の触手をくねらせる毛の塊だった。
 妖気のようなおぞましささえ感じさせる負のオーラの集合体。
 洗面台に残された髪の毛が意思を持って蠢いているような、とでも言えば分かりやすいだろうか。
 そこに愛らしさや、幸福感など微塵も無い。
 ただ不安と嘔吐感だけが腹の底から込み上げてきた。
 呪い。
 不吉。
 今のそれにはその言葉以外に相応しい表現が無い。
 だが、それは確かに僕が以前目にしたあの存在に相違なかった。
「これが、モフモフさん……」
 モフモフさんであったその塊は明らかに、不吉な何かへと「進化」していた。
 これはいったい何だっていうんだ。
 まるで呪われた都市伝説――まさか、何の茶番だ。陳腐な悪夢でも見ている心地だった。
 ずずずずず。
 まるで、そんな音を立てるかのように少しずつ、その不吉な毛の塊は、目の前に座り込む女子生徒のほうへ近づいてくる。
「……来ないで」
 震えながら、悲鳴にもならない小さな声で彼女が呟く。来ないで。来ないで。来ないで。
 カリカリさん、カリカリさん、カリカリさん。
 彼女が何かを呪文のように唱えだした。
 それはもしかして、あの日記にあった――「都賀真弓」思わず口に出していた。
「え、な、何?」
 女子生徒が振り向く。
 ずずずずず。
「いや、ごめん独り言」
「アタシの名前……呼ばなかった?」
「え……」
 この女子生徒が都賀真弓――だというのか?
 突然目の前に、
 ずずずずず。
 ネットで見ただけの彼女の姿が、
 ずずずずず。
 リアルな感覚を伴って現れて僕は混乱気味で、
 ずずずずず。
 それどころじゃない、逃げよう。後回しだ。
 進化したモフモフさんは何かヤバそうだ。下手に関わらないほうがいい気がする。
 とりあえずここを離れよう。
「こっちだ」
 僕は女子生徒を助け起こして、実験室の出入り口まで引っ張った。
 ずずずずず。
 モフモフさんが少しずつ、しかし着実に間を詰めてくる。
 女子生徒は怯えたまま立ちすくむ。
「都賀さん、早く」
 ずずずずず。
 まずい追いつかれる。
「走れ!」
 僕が声を荒げて叫ぶと、女子生徒は我に帰ったように体を反転させ、開いたドアから飛び出した。その後を僕も追いかける。
 実験室のドアからは既にモフモフさんが外へ出ようとしている。
 意外にすばしこいのは変わっていないようだ。
 ずずずずず。
 走れ。走れ。走れ。
 ずずずずず。
 くそっ、とにかく走るんだ。
 ずずずずず。
 あと少しで階段。
 ずずずずず。
 急げ。
「きゃぁっ!」
 突然、叫び声がして僕の目の前から女子生徒の姿が消えた。
「危ねえっ」
 階段の下から声がする。
 声の主が猛烈なダッシュで駆け寄るのが足音で分かる。
 僕は急いで階段に駆け寄り、手摺から身を乗り出して階下を覗き込んだ。
「痛ぇ……なんでいきなり上から落ちて来るんだよ。――おい大丈夫か、物井」 
 そこでは松崎が階段から落下した物井さんを間一髪で受け止めていた。
 危なかった。
 僕はほっと胸を撫で下ろす――え?
 物井さん……だって?
 しかしさっきは――。
 ずずずずず。
 しかし、松崎の肩に倒れこむ女子生徒の顔を確認している暇など無かった。
 気がつけば僕の背後に奴の呪いが迫っていた。
 ずずずずず。
 畜生。
 やるしかないのか。
 ずずずずず。
 武器など何も……いや、掃除用具か。階段の近くには置いてあるはずだ。
 僕は踵を返して掃除用具入れまで走った。
 ずずずずず。
 扉を開ける。
 箒にモップ、塵取り、バケツ……僕はモップの柄に手を掛けて奴の方に向き直る。
 さあ、こい。
 ずずずずず。
 僕はモップを思い切り振り上げ、勢いをつけて真っ直ぐに叩き下ろし、
 ――まずい、日差しが。
 廊下の窓から、沈む間際の橙色の太陽が逆光の束となって僕の目に襲い掛かり、僕は一瞬振り下ろす相手を見失う。
 くそっ。どこだ。
 慎重に目蓋を持ち上げて、確認する。
 そこか……?
 しかし、逆光の中で僕の目に飛び込んできたのはモフモフさんであった塊ではなく、人間のようなシルエットだった。
 誰だ。
 その影は、塊を右手で軽くつまみ上げて何かを呟いた。
 鼓膜ではなく直接脳に響いてくるような、不思議な感覚。
〈こんなところにいたとは。結界の罠を張っておいた筈だが〉
 影が塊を両手で抱え込む。
 塊から立ち込めていた妖気のようなオーラが消えていくのが分かる。
〈随分進化したようだが……少々危険だな〉
 そして、影は両腕に力を込めたように見えた。
〈すまないが、君には消えてもらうよ〉
 すっ、と音がするような刹那の錯覚の後、モフモフさんであった塊の姿はあっけなく消滅していた。
 モフモフさんが消えた……。
 僕にはその意味がつかめなかった。
 いったい、何が起こっているんだ。
〈さようなら〉
 そう言い終わった影が僕のほうを見つめている。そんな気がした。
 沸き起こった恐怖心が、一瞬にして僕の中を埋め尽くす。闘えば殺られる。勝ち目は無い。
 いつか聞いた言葉が記憶の底から蘇った。

 ――そう、本来存在してはいけない都市伝説の迷い子を葬る者。

 執行者。
 たしか、ハルカ先輩はそう言っていた。
 けれど、まさか、そんな。
 僕の目の前にそれが立っているなんてこと――。
 影が僅かに笑った気がした。
〈君はまだ――〉
 僕はそのまま気を失ったらしい。

       

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