Neetel Inside 文芸新都
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ガラスの檻
あいつがいない幸せ

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7、あいつがいない幸せ

 カレーの匂いが将範の鼻をくすぐる。自宅である104号室のドアが見えてくる頃には、その匂いが自分の家からのものだと気付いた。将範が鍵を開けて部屋に入ると、玄関からすぐの台所で、妹の由貴が制服の上にエプロンをつけてサラダ用の大根を千切りにしているところだった。

「あ、お帰り、お兄」
「ただいま」
「救援物資が届いたから今日はご馳走だよ。もう少しかかるから先にシャワー浴びてきて。達也ももう入っちゃったし」
「ああ」

 由貴は歯切れよく話すと将範に背を向けて大根の千切りに戻った。『救援物資』とは新潟の祖母から届く食料・その他の荷物のことで、母が父と別れてからは頻繁に送られてくる。祖母も早くに夫を失くし女手一つで母を育てていた。
 大根を切る包丁は迷いのないリズムを刻み、みるみるうちに下拵えが終わっていく。その合間合間でカレーをかき混ぜたり使い終えた食器を洗ったりで、由貴の動きは止まることがない。狭い台所で手際よく動くたびに後ろでまとめた髪の毛が左右に跳ねまわっていた。
 由貴はずっとショートだった髪を中学に入ってから伸ばし始めた。ボランティア活動のグループにとても綺麗な人がいて、その真似をしていると聞いたことがある。「伸ばすとシャンプー代がもったいない」なんて言っていたのに変わるもんだなと当時の将範は思っていた。

「あー、オカエリー」

 達也は奥の部屋でフローリングに寝転がり、下はブリーフ、上は白いランニングシャツという姿で漫画雑誌を読んでいた。それを見て将範の動きが一瞬止まった。

「達也、その漫画どうしたんだ」
「え……? どうした……って……?」
「先週も漫画雑誌読んでたよな。友達がくれたって言ってたけどまた貰ったのか?」

 将範は普通に聞いただけのつもりだったが、その口調は厳しかった。

「……これは…………」
「なんだ?」
「…………先週のだよ……これ……」

 起き上がった達也は漫画雑誌をおずおずと差し出した。将範はそれを受け取ってページを捲っていく。確かに先週と同じ号だった。
 ほっとして雑誌を返そうとした時、将範はひどく怯えている達也にようやく気付いた。まるで泥棒でもしたかのように達也を問い詰めてしまった罪悪感が腹の底で渦を巻いた。

「……達也」
「……」
「この前さ、ばあちゃんから入学祝い貰ったから漫画買ってやるよ」

 うつむいていた達也が目を輝かせて顔を上げた。

「……マジで?」
「ああ、明日買いに行こう」
「うおーーーーーー!!! やったあーーーーーーーー!!! じゃあさ、じゃあさ、この漫画がいい! これ! 俺、この人の絵が大好きで、真似して描いてるんだよ」

 言うが早いか、達也は部屋の隅に積んである教科書の山から、一冊のノートを取ってきた。ノートには達也が好きだと言った漫画のキャラクターがびっしりと描いてあり、あと数ページでノートが終わってしまうほどだった。

「すごいな。こんなに描いてるのか」
「うん! 漫画は高いけどさ、自分で描いてたらシャー芯と紙だけでいいもん!」
「そうだな」

 将範はもう一度ノートに目を落とす。余白を埋め尽くすように描かれた大小様々の絵。描ける部分が残っていたらもったいないと思う気持ちが否応なしに伝わってきた。
 あの事件の後、幸いにも母は正社員として職に就く事ができた。ハローワークではなかなか仕事が見つからず、アルバイト先で仲良くなった主婦の友人から知り合いの会社で人を探していると聞き、紹介してもらったのが縁だった。家族4人で暮らすには少ない給料だったが、それでもアルバイトを掛け持ちするよりは割がいい。将範も近所の販売店に頼み、朝刊配達の仕事をしていたため以前よりは生活に余裕があった。
 だが将範も達也も由貴もどん底の生活を知っている。その時、母がどれだけ苦労していたかもつぶさに見てきた。だから誰も無駄遣いをしようとはしなかった。
 それをわかっていながら将範は達也を疑ってしまった。こんなことは2度としないと心に決めた。

「ちょっと、お兄、まだシャワー浴びてないの? もうできるから早くしてよ」
「悪い、いま入るよ」

 由貴に急かされ、将範は替えのシャツとパンツを持ってユニットバスに入った。達也が入った時の水滴がユニットバス全体に残っている。タオルは絞られ壁に掛けられていた。
 将範は便器の蓋を閉めて着替えを置いた。服を脱ぎ、それも着替えの脇に置く。浴槽のへりを跨ぎシャワー側に移ろうとした時、備え付けの鏡に自分の顔が見えた。貼り付けたように変わらない表情。将範は笑顔を作ってみる。だが無理に作った笑顔は不自然で、力を抜けばまた元の空っぽな表情に戻った。
 将範は鏡から目を逸らしシャワーの蛇口をひねった。温度が上がるのを待ち、シャワーをフックにかけて頭からぬるい湯を浴びた。
 ガシガシと頭を洗いながら、たったいま達也にしてしまったことを思い出す。達也の怯えた顔。それは父がいた頃に達也が、由貴が、将範が、そして母が浮かべていた表情を思い起こした。

「……俺はあいつみたいにならない」

 将範は小さく呟いた。だが学校で再び会えたあさみの顔を思い出すと心が揺らいだ。あの一瞬、たしかにあさみと目が合った。そして明らかに視線を逸らされた。
 入学式の朝、時が止まったかのように見つめ合ったあの時間を特別に感じていたのは自分だけだったのかと思うと血の気が引いたような淋しさを感じた。

 身体を洗い終えてユニットバスを出ると、ちょうど仕事から母が帰ってきたところだった。

「おかえり」
「ただいま。今夜はカレー? 外までいい匂いしてたよ。お母さん、お腹空いちゃった」
「あ、お母さんお帰りー。今日ね、お祖母ちゃんから荷物届いた」

 由貴が奥の部屋から顔を出して言った。

「あらそう。じゃあ今日はご馳走だね。何か出すものある?」
「ううん、もう準備万端」
「そう、いつもありがとね」
「さ、お兄も早く。カレー盛ってあるよ」
「ああ」

 母と将範は奥の部屋に入った。3年前と変わらない折りたたみテーブルに夕食の準備が整っていた。それぞれが自分の場所に座ると、折りたたみテーブルの周りがぴったりと埋まる。父の戻る隙間はもうかけらもなかった。

「それじゃ、いただきます」
「いただきます」

 将範たちは肉と野菜のたっぷり入ったカレーを食べ始めた。
 これが特別な幸せだと感じないほどに、小島家は幸せな日々を過ごしていた。

       

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