ガラスの檻
削られていく世界に
8、削られていく世界に
週が明けた月曜日の朝、いちばんに登校したあさみは誰もいない教室で英字新聞のスクラップを訳していた。英語の実力は読んで聞いて話した時間に比例して上がる。そう考えたあさみは中学2年生の時から父の購読している英字新聞を読み始め、今では日本語の新聞と変わらないスピードで意味を取れるようになっていた。
普段なら15分ほどでノートに和訳をまとめ、あとは文庫本を読んだりしながら授業が始まるのを待っているのだが、今朝のあさみは心ここにあらずといった感じで、文字を書く手が少し動いては止まるということを幾度も繰り返し、ついには大きく息をついてシャーペンを置いてしまった。
あさみが思い悩んでいたのは通学途中ですれ違う初老の男性のことだった。通学路にある桜並木は車通りが少なく、早朝でもウォーキングや犬の散歩をする人が多い。その男性も白い雑種犬を連れて散歩をしていた。
ほとんど同じ時間、同じ場所で毎日すれ違っていると自然に顔を覚えてしまう。それは相手も同じだったらしく、今朝あさみはその男性から「おはよう」と声をかけられた。反射的に笑顔を作って「おはようございます」と挨拶を返したが、すぐにあさみは暗い気持ちに襲われた。
これから毎朝、同じことをしなくてはいけない。すれ違う場所が近づいたら背筋を伸ばして周りに気を配り、相手の姿が見えたらタイミングを計って挨拶をしなくてはいけない。体調が悪くても気分がすぐれなくても、問題なんて何ひとつないような顔をして「おはようございます」と言い続けなくてはいけない。そのうち世間話をするようになったりして、興味もないのに犬の名前を訊ねたりしなければいけないんだろうか? あさみはうんざりして机に突っ伏してしまった。他人には絶対に見せない姿だった。
(明日から別の道にしようかな……。でもそれだとあからさま過ぎるかも……。時間を少しずつずらして、会う日と会わない日を混ぜて、だんだん会わない日を増やしていけば不自然じゃないよね。そうだ、通学路と通学時間に幅を持たせれば、もう同じことにならなくてすむ……)
居眠りでもしているような体勢で延々とそんなことを考えていると、廊下の向こうから教室に近づく足音が聞こえてきた。いつもならまだ誰も来ない時間だ。あさみは慌てて顔を上げ、英字新聞のスクラップを鞄にしまう。変わったことをしていると思われるのは嫌だった。
「あ、都築さん、おはよー。早いね」
教室の後ろの引き戸から亜季が入ってきた。あさみに声をかけながら扉とは反対側にある窓際の自分の席へと歩いていく。
そのわずかな時間、あさみは亜季の歩く姿に見惚れていた。いつもは近すぎて気付かなかったが、何でもない動きのひとつひとつがしなやかで目が惹きよせられてしまう。色彩の乏しい教室の中で、亜季だけが特別に色づいているようだった。
「どうかした?」
「え? あ、ううん。髪、切ったんだなって思って」
無言の空白を取り繕うようにあさみが答える。亜季はセミロングの髪をばっさり切ってショートにしていた。
「思いきって短くしてみたんだけど変じゃないかな?」
「ぜんぜん変じゃないよ。すごく似合ってる」
「ほんと? よかったー。こんなに短くしたの初めてだから不安だったんだ」
「部活が始まるから短くしたの?」
「それもあるけど、前から短くしてみたかったんだよね。洗うの簡単そうだし」
「わかる。私も時々ばっさり切っちゃいたくなる」
「えー、都築さんはもったいないよ。せっかくそんなに綺麗なのに」
「そんなことないよ。重い感じだから肩ぐらいにしようかなって考えてたところ」
あさみは少し照れたような笑顔を作って、やりすぎない程度に亜季の『綺麗』を否定してみせる。他愛のない会話が曖昧な笑みにまぎれて消えていった。
「じゃ、私、朝練行くね。今日からなんだ」
「うん、頑張ってね」
亜季は鞄を机にかけ、スポーツバッグを持って教室を出ていく。戸を閉める時にあさみと目が合い、軽く手を振って更衣室のある部室棟へと歩いていった。
あさみは亜季が閉めていった戸をぼんやりと見つめていた。これまで感じたことのないもやもやした思いが胸のあたりにわき出してくる。なぜこんな感覚に捉われているのか、あさみには理由がわからなかった。
(あっ、朝練が始まるんだったら他の人も来ちゃう。部活をしてない私がこんな時間にいるのは変だ)
あさみはそう思うが早いかノートと筆箱を持って逃げるように教室を出た。とりあえず図書室まで来てみたが、入口の鍵がまだ開いていない。扉に貼ってあった案内を見ると、図書室が開くまで15分ほど時間があった。
仕方がないので、時間を潰すためにあてもなく校舎内を歩いてみる。人の少ない校舎はどこか寂しい。自分の足音がやけに大きく聞こえたので、ゆっくり歩いてみたり、急ぎ足になってみたりして、響く足音でひとり遊んでみた。楽しくなってきた矢先にジャージ姿の女子ふたりがこちらにやってくるのが見えて、一瞬であさみは誰かといる時のそつのないあさみに戻ってしまった。
すれ違う時「おはようございます」とあさみはふたりに挨拶された。少し驚いたが、上級生だと思われたことに気付いて控えめに挨拶を返す。すぐに後ろから「あの人、一年じゃない?」「えっ! 違うでしょ?」と話す声が聞こえてきた。
(めんどくさいことばっかり……)
あさみは人の少なそうな特別教室のある方に向かっていた。誰もいないところに行きたい、ひとりでいたい。ずっとそう思っているのにいつまでも面倒なことがついて回る。せっかく確保できそうだった朝の自由な時間も、運動部の朝練が始まるせいで遅く来なくてはいけなくなった。家を出る時間もずれるから母にそれらしい理由を伝えなくてはいけない。朝食を一緒に食べるルールのために起きる時間を早くさせられた姉の遼子も間違いなく何か言ってくるだろう。考えれば考えるほど、あさみの顔は自然に俯いていった。
(……あと3年。……高校を卒業したら自由になるんだ……。……絶対うまくやり抜いてみせる)
あさみは校舎をぐるりと回って、図書室の開く時間ぴったりに戻ってきた。しかし司書の先生が遅れているのか、まだ鍵は開いていなかった。あさみは小さくため息をついて壁に背を預けると、家を出る時間が変わるそれらしい理由を考え始めた。きっともう会わずに済むであろう初老の男性と白い犬の姿がふっと浮かんで、消えた。