たゆたう
第二章 懐古的日常
第二章
目が覚める。
僕は表面的には十一月の晴れた日の前となんら変わりなく日常を繰り返す。コーヒーを飲んで、歯を磨いて、彼女のことを考えて。ただ初恋の頃からずっと抱いていた想い、もしかしたら今日は彼女に会えるかもしれないという幻想を、絶対に会えないという現実に変えて。毎日毎日繰り返してしまった日常をいまさら変えることはできずに、繰り返す。
そう、繰り返すはずだった。昨日は今日の続きで今日は昨日と同じもの。僕にとって現実はつねに見飽きたビデオテープのように繰り返されるはずであった。
目が覚めた時になにか、表現はできないけど、なにか、違和感があった。僕は起き上がって時計を見る。無い。見当たらない。そのままあたりを見回して気付く。ここは僕の家じゃない。寝起きとはいえしばらくそのことに気が付かなかったのは、ある意味ここも僕の見知った場所だったからだ。ここは僕の実家だ。奇妙なことだけど、自分の家で寝た僕が目を覚ました場所は何故だか実家であった。僕はベッドから出て窓から外を見る。二階にあるその部屋の窓からは実家の庭が見下ろせ、手前に建つアパートが見え、そして青い空が見えた。
光の感じからしてもう朝らしい。ちょっとのつもりが結構寝てしまった。だけど昨日と同じで気持ちのいい爽快な青空だ。人間、ある程度の嫌なことはこの青い空とチョコチップのアイスクリーム(僕の好物だ。おいしいもの、という意味に取ってくれれば良い。)があれば忘れることができると思う。僕は青い空をボーっと目に入れながら今の状況のことを考える。ここは僕の実家の僕の部屋。だけどなぜだか昨日の記憶がない。昨日の記憶。昨日はあかりが来て、それから、それから、そう、何故か怒らせてしまって、それから…。家を出て、でもすぐに帰ってきて、少し眠ろうと思った。そうだ、そこからの記憶が跳んでいる。眠った後…起きてからこっちに帰ってきたのかな。いや……でもこの部屋は昔は僕の部屋だったけれど、今は妹のあかりの部屋になっているはずだ。僕が大学に入って一人暮らしをするまで、僕とあかりは一緒の勉強部屋(寝るのも一緒、というわけではない、一応。)だったけれど、僕が大学に受かって家を出てからはこの部屋はあかりが使っているのだ。だからもし僕が帰ってきたとしても僕がこの部屋で眠るということはないはずなのだ。あかりはもう中学生である。
「朝ご飯よー。」
下から母の声が響いた。僕の、いや、あかりの部屋は二階にある。まぁ何故僕がここにいるのかは母か父に聞けばわかるだろう。この時間、父親はいたとしても多分まだ寝ているから、今の母の声は多分あかりを呼んだものだろうな。僕も呼ばれているのかもしれないけれど、あかりは学校だから呼ばれて然る。
今僕が下へ降りて、そして母に昨日の僕のことを聞くとしたならば、息子が記憶喪失になったと思われないように上手く聞き出さなければならないな、と思う。まぁ事件めいたことは何事もなくて、単に酔っ払って帰ってきただけということも考えられるけど。
そこで僕は自分がパジャマを着ているということに気が付いた。別に驚くことじゃないけれどパジャマを着て寝るなんて一、二年ぶりだった。一人暮らしを始めてからというもの寝るときは、次の日そのまま下着になるティーシャツとトランクスという姿なのだ。ちなみに冬も。僕は元気だ。
タンスを開けても僕の服が入っているわけでもないので、僕は、ならせめてメガネだけでも、という思いでメガネを捜す。メガネくらいは寝る直前まで持っていただろう。でも無い。見当たらない。仕方が無い。とりあえずはまず母上に会おう、と思う。だけど違和感があった。僕は起きてからいままでの間ずっとメガネを掛けていない。ハッとして僕はもう一度窓から外を見る。窓から見えるアパートに「雪荘」と描かれた文字が見えた。おかしい。裸眼の僕が果たしてあの文字を見ることができるのだろうか。信じられないが一晩の内にメガネが要らないほどに視力が上がったような感じだ。まぁ、だけどなったものは仕方が無い。悪いことではないし、そんなに気にすることでもないだろう。その時はそう思った。
「おはよう。」
一階へ降りて、台所で料理を作っている母を見つけてそう言う。母も「おはよう」と言って、僕を振り替って一目見た。母を見た僕はまた違和感を持つ。
「あれ、母さん。なんか…」
僕は母親に近づいて母の顔をまじまじと見つめる。なんか…若返った?
「どうしたの?顔になにかついてる?」
母が言う。僕は言葉に詰まって、笑ってごまかす。
「いや、なんでもないんだ。ハハハ。」
母は「おかしな子」、と言ってまた料理を作り始めた。僕自身も、なにかおかしいな、と思った。けどメガネを掛けていないせいかも知れないなと思い直し、とりあえずまずは顔を洗って頭をすっきりさせることにした。
でもやっぱりなにかがおかしいと思う。洗面所に行きながら僕は考える。なにか、はまりそうで決してはまらないパズルのピースを持っているような、そんなもどかしい気分があるのだ。
―――僕は今、実家のトイレの中にいる。用を足すためではない。悪を倒すヒーローに変身しようとしているわけでもない。一人になって考え事がしたかったのだ。
「しゅういちー、学校に遅刻するわよー。」
トイレの外から声がする。あかりは、いや、あかりだと思われる子供は、もう出かけた。小学校に。母の言い分だと僕も出かけなければいけないらしい。どこへって?大学――ではない。中学校へだそうだ。そりゃ、あかりが小学校へ行くんだから、僕も行くのは高校か中学校へなのだろうな、と思う。が、バカみたいだ。たしかにあかりが小学生なら僕もまた大学生ではないけれど、それは過去のある時点での話だ。過去と未来を繋ぐ今の話じゃない。
僕はそんな頭にあるもやもやを一気に解決させる方法を実はもう考えていた。数分前に洗面所へ行った僕は顔を洗い、そしてタオルで拭き、鏡で自分の顔を見た。驚いたことにそこには見覚えのある僕の顔はなかったのだけどその変わりに、見覚えがないけど、どこか、そう、写真などでは見た記憶があるような、そんな顔が映っていたのだった。それが誰なのかを僕が考える暇はなく、僕は母にあかりを起こしてくるようにと急かされた。あかりは両親の寝室にいると母は言った。それを聞いて僕は、まるで小学生だな、と思った。自分の部屋があるのに、そう思った。(もっともその部屋は僕が使ってしまっていたわけなのだけれど。)
「あかりー、起きろ。学校に遅刻するよ。」
昨日の件があるので、僕は自分としては精一杯の優しい感じでそう言いながらあかりの元へ行った。寝室に入るとまず眠っている父が目に入る。やはりどこか若くなった気がした。父の隣にはあかりがいると思われる布団があって、それは丸くなって膨らんでいた。ちなみに両親の部屋だけは和室で畳になっている。子供部屋にはベッドがあるが、ここにはもちろんベットはない。
「あかりー」
僕はあかりの名前を呼びながら団子になった布団を剥ぐ。だけど僕の予想に反して布団の中から出てきたのは大きな瞳の小さな少女の子供、というか幼児、だった。僕は一瞬どころか数秒固まる。南極の氷なみの固まり具合だったと思う。この子は誰だろう。
「お兄ちゃんー」
少女は眠たい目をこすりながら僕を見て、そう言った。
「あかり?」
僕はそう言った。いや、そう言ってしまった。
「お兄ちゃん?」
少女の大きな瞳が途端に不安げな色に変わる。僕は「ごっごめん。」と言って後ろを向き、そして階段を駆け下り、玄関へと走った。何故そうしたのか。それはわからない。でも理性が使えない時、いつだって本能は全てを理解している。少なくとも僕はそうなのだ。そしてその時も僕の本能は極めて的確に動いていたと思う。僕の本能は僕を玄関へ導き、そして僕を家の外へ出した。
昔どこかで読んだ漫画かなにかのように、扉の向こうに異世界が広がっていた、というようなことはもちろんなかった。外の景色は僕が見覚えのあるものだった。しかし「見覚えがある」といってもそれは「僕の記憶の中に残っていて覚えている風景」というだけで、見覚えがあるものが必ずしも正しく存在するとは限らない。僕の家の前は僕が中学生の頃、確か三年生あたりまでは原っぱであった。それはその当時そこに住む子供達の大切な遊び場所の一つであったのだけど、時代の変遷というやつの結果、原っぱは壊され、そこにはマンションが建ったのだった。僕はもう中学生になっていたとはいえ、その時子供心にとてもやりきれない気持ちだったのを覚えている。しかし今はそんな思い出なんてどうでもいい。そもそもその原っぱを壊したマンションが目の前に無いのだから。僕の眼前には僕の子供時代の原っぱが記憶のままに広がっていた。まるで僕の幼年時代に映したビデオのように、そこにそれは在ったのだ。
それから僕は家の中に戻り、トイレにこもるに至る。そうして考えた頭のもやもやをすっきりさせる方法が――鏡を見ろ、だ。きっとそこに答えがある。だけど見てはいけないものを見てしまいそうな気がどうしても拭えないので、僕はとりあえずステップアップとしてパジャマの下を脱いでみた。パンツ(なんてこった、ブリーフ派の人には悪いがこんなものを履くのは何年か振りだ。)も脱ぐ。自分のモノを見る。頭を抱える。確認完了。毛は生えていなかった。これ以上は考えても仕方が無い。僕は自分の顔を両手でピシャッと叩き、トイレから出て、鏡の前に立った。そして僕は中学生の頃の僕と対面したのだった。
僕はたまに「自分の生き方マニュアル」のような本があったら欲しいと思うことがある。そこには困った時に僕はどうあるべきなのか、泣けばいいのか、怒ればいいのかなどが書いてあり、僕はそこに書かれているとおりの反応をして、そこに書かれているような結果を得られるのだ。でも思うのは例えそんなマニュアルがあったとしても、そのとおりにできないから僕は僕なのかもしれない、ということ。真実はいつだって理解するのに時間がかかる。僕はかかるほうだ。他の人は知らないけれど。
僕は鏡の前で深呼吸をした。念には年を入れて自分のほっぺたを掴んでみる。鏡の中の人も同じようにほっぺたをつねる。鏡の中に向かって「真似すんなよ。」と思ったのは小学生の時以来だ。鏡とは光の反射が映し出すただの虚像で、アリスのような鏡の世界なんてありはしない、なんて思いもしなかった遠い過去のお話だ。僕はもう一度深呼吸をする。
「あら、まだいたの?さっさと学校行きなさいよ。もうご飯食べてる暇ないわよ。」
深呼吸をする僕の横に母がやってきてそう言った。
「母さん。今日は仕事は休みなのかい?」
僕が言う。そこでようやく自分の声がやたらと高いことに気付いた。成長期前のガキの声じゃないか…。毛も生えていないんだから、まぁ当たり前かぁ、などと思ってみる。
「そうよ。開校記念日だっていったでしょう。何、もしかしてずる休みでもする気だったの?」
母の仕事は教師である。子供として僕の学校の教師でなかったのはとても幸いなことであったと思うけど、なんでよりによって今日休みなんだ…。いや、この日自体は悪くないか。この日はあるようにして存在した日なのだから。問題は僕だけなのだ。どうしようか。仮病を使って休んで、状況の整理をするか。しかし今はまだ整理したところであまり役に立たないような気もする。まだ情報が欲しい。僕はまだこの世界を納得していない。
「ほら、さっさと着替えて。」
母は僕の境遇など知る由もなく(当たり前か、生きているものが皆そうであるように、母にとっても今日は昨日の続き同じなのだ。)、相変わらずパジャマのままの僕をそう言って急かした。僕は「仕方が無いので学校に行こう」と思う。案外おもしろそうじゃないか。これがなにかの冗談ならとことん付き合ってあげよう。こうした冗談はどうせ一番いいところで終わってしまうものだと思うのだけれどね。あんま人間なめるなよ、神様め。こうして僕は全く冷静じゃない自分を冷静に見つめながら、制服(!)に着替えて、旅に出た。――間違えた。「家」を出た、のだった。
外はほとんど僕が知っている風景と変わっていなかった。最も実家に帰ってきたのは半年振りぐらいだから(この言い方に既に矛盾を感じている。)、何か新しい建物が建っている程度のことなら別に僕は驚きはしない。驚いたのはそれが逆だったからである。知っているはずの建物がなく、代わりに原っぱや田圃が広がっているのだ。僕の実家のある町は僕が高校生の頃ぐらいから都市化が進み、なにかのアニメの話でもないのだけれど、次々と自然が消え、道路やマンションが建設されたのだ。生き物もたくさん姿を消した。その消えたはずの自然がある。一度建った建物や道路が再び自然に戻されるようなことがあるのだろうか、と思う。環境を汚染する都市化に危機を感じた行政が打って変わって農村化を押し進めでもしているのだろうか。そんな町長がいたとしたら選挙では絶対応援するのだが。
「おー、しゅういちー。おはよー。」
ぼーとしながらてくてくと道を歩いている僕に、中学生の男の子がそういって声をかけてきた。僕と同じ制服を着ているけど、何分この制服を何年も前に着るのをやめている僕のほうはコスプレでもしている感じがある。だからそんな僕に彼はきっとこう聞いてくるに違いない。ねぇおじさん、なんでそんな格好しているの、変態?違うんだ。これには深いわけが…。とりあえず警察行こっか?やめてくれー。
「おい。周一。どうした。起きてんのか?」
僕が妄想の中で警察にカツ丼を食べさせてもらっている所で、中学生は僕の思考を中断させた。ところでこの中学生は僕の名前を知っているみたいだけれど誰なんだろう。向こうは僕を知っているのに「誰?」と聞くのも失礼だよなぁ。こんな時は無難に話を合わせておくに限るか。
「あぁ、起きているよ。おはよう。」
僕はそう言いながらその中学生の顔をじっと見る。誰だっけ?見覚えはあるんだけど…。うん、こいつはどこかカバに似ているな。カバ、カバ…。
「あっ!」
思わずそう口に出してしまった。そんな僕を見て、カバが言う。
「なんだ、どうした?忘れ物でもしたか。周一。」
このカバの名前は木村慧。慧はさとしと読むが音読みでケイとも読めることから周りには「ケイ」と呼ばれていた奴だ。そういう呼び名になった理由は特にないのだけどケイは何か英語の‘K’みたいで、なにかのイニシャルを感じさせて格好いい。本人もそれが気に入っており、こいつのことを本名で呼ぶ奴は学校の先生と本人の親ぐらいで、時には本名と勘違いしてそう呼ぶ人もいた。僕は本人が「本名を忘れそうだ。」と言っていたのを思い出す。ケイは僕の親友で、心おおらかな、人に優しいカバであった。
「いや、なんでもないよ、ケイ。今、起きたんだ。」
うわー、久し振りー、と言うのはやめておいた。今日の話の流れで行くと僕にとっては確かに久し振りだけど、ケイにとってはそうではないのかもしれない。だけどこのカバに似た中学生がケイの弟や親戚などではなく、本当にケイ本人であるのなら、僕もまた中学生であって良いのだろう、とりあえず。無理やりだけどそう思おう。
「なんだよ。起きてたんじゃないのかよ。」
ケイは大きな口を開けてそう言った。そして
「早く行こうぜ。遅刻しちまう。」
と、言った。僕はそれを聞いて、はぁ…やっぱりこのまま中学校へ行かなくてはいけないのかな、と思った。おもしろい冗談は終わらなく続いているらしい。この夢はいつ覚めるのだろう。
僕は少し、猫のラビスラズリのことを考えた。僕が起きなかったら、あいつ、どうするかな。まぁ元が野良だから大丈夫なのかな、などと思ってみる。しかし僕が中学生だったら、あいつまだ生まれてないんだろうなぁ。あかりがランドセル背負っているんだし、などと考えてみる。なにか僕は無償にラビスラズリに会いたくなってきた。どこにいるのかなぁ。
僕は学校までの道すがら、ケイに一つの疑問を尋ねることにした。聞きたいことはたくさんあるけどとりあえずはこれだ。
「あのさ、ケイ。今日は何日だっけ?」
「ああ?えーと、そうだな、火曜日だから…十七だよ。」
「今年って、何年だっけ?」
「今年は一九九六年だろ。なんだ、年賀にはまだ早いぞ。まだ十一月だ。」
「いや、なんとなく気になっただけだよ。ありがと。」
今日は一九九六年十一月十七日。月と日だけなら昨日の続きの今日である。一九九六年というと僕が中学の一年生だった頃ということになる。クラスは忘れたけど、まぁ下駄箱を捜せばすぐにわかるだろう。
ケイと僕は二人テクテクと歩き話しをしながら学校に到着した。学校に着くまでにケイとはいろんな事を話したと思うけど、それでも僕らはあまり多くのことは話せなかったような気がする。それは多分ケイの言葉に僕が曖昧に答えてしまうからなのだけれど、昔は、僕が本当に中学生だった頃は、そんなことはなかったはずなのだ。僕とケイは学校の行き帰りが一緒になった時、本当に多くのことを話したと思う。そしてそれはほとんど毎日のことだったのだけど、そんな長い時間を僕らは何を話していたのだろうかと思う。くだらない、なんでもないことだったとしても、そこには何かが確かに在ったのだ。僕はもうその時を思い出せない。なぁケイ、僕らはこの頃どんな話をしていたんだっけ?
「どうした?顔色わるいぞ。」
「うん。いや…なんでもない。大丈夫だよ、ケイ。」
「そうか…ところで周一のクラスは数学どこまでいった?俺グラフがよくわかんなくてさー」
「うん…」
「………」
学校に着いて、僕とケイは下駄箱で別れた。ケイとはクラスが違うらしい。別れる時ケイは僕に何か言いたそうだったけど、言葉が思いつかなかったのか、そのまま去って行ってしまった。そして僕はケイに対して何か酷く罪悪感のようなものを感じてしまっていた。僕はきっとケイの望む僕ではなかったのだ。それは仕方が無いことだとも思う。僕はもう十九歳。ケイは十三歳。違うのだ。 僕は中学生のままでいるわけにはいかなかった。そしてあのケイだって中学生のままではいられなくなるのだ。未来の僕らはそうやって変わりながら、お互いに成長したのだ。その結果多少疎遠になってしまったけれど、そのことを誰が咎めよう。僕は咎めない。でも中学生の今、僕とケイは親友だった、というのもまた事実なのだ。だから僕は罪悪感に苛まれている。ごめんね、ケイ。僕はもう中学生の頃の僕じゃあないんだ。次会う時はお互い同じ年齢の時に会おうな。ごめん。去っていくケイの後ろ姿を見ながら僕はそう思っていた。
僕は自分がいたクラスを完全に忘れていた。僕は今一年生という設定で、ケイとは違うクラスだから、僕の上履きの入っている下駄箱は残りの三クラスの内のどれかということになる。僕の通っていた中学校は一学年が四クラスの、まぁ全国的には子供の少ないほうの学校だった。一クラスに男女が三十強、この時代は未来と違って(普通は昔と違って、という言い方だと思う。)男の子と女の子が別々に並べられているはずだから、僕が捜す下駄箱は少なくて15×3で45ということになる。結構多いが下駄箱は名前順にもなっているはずだから、僕の名前、佐々原周一のあるはずのサ行のところだけを捜せばもっと少ない仕事量で見つかるはずである。三分の一ぐらいで15×3÷3の十五個ぐらいになるか。現実的な数字だ。そんなことを考えているとなんだか楽しくなってきた。頭を回転させるのはおもしろいことだ。
「しゅういちー」
そんなことを考える僕にまた誰か中学生が声をかけてきた。(まぁ考えてみればここは中学校の中なのだから、中学生と先生しか人はいない。)僕に声をかけてきた人物は「やっべー」とか「遅れるー」などとブツブツ言いながら、下駄箱を開け上履きを取り出しにかかっていた。
「何ボーっとしてるんだよ、周一。倉橋来ちゃうぞ。」
話しから察するにどうやらこいつと僕とは同じクラスらしい。倉橋というのは担任のことだろう。どっちも思い出すのに時間がかかりそうだ、と思う。僕はそういった、人の名前の記憶力がまるでないのだ。
「ほら、さっさとしろや。」
その中学生はそういって、さっき開けた自分の下駄箱ではない、他の誰かの下駄箱を開けた。そして中の上履きを僕に向かって放り投げる。僕の前に落ちて転がったその上履きには‘ささはら’という文字が書いてあった。どうやらこれは僕のものらしい。自分の所有物に名前を書くなんて、なんて偉い中学生だったんだ、僕は。いや、別に偉くはないか。僕の上履きを投げた奴(おかげで下駄箱を捜す手間が省けた。)の上履きにも名前が書いてあって、それには中学生の男子らしい大きな字で‘植木’と書いてあった。僕の‘ささはら’も十分特徴的な文字で、人のことは言えないけど、なんで僕のはひらがなで、こいつのは漢字なんだろう。どうでもいいことだけどとても気になる。何を思った?中学生の僕よ。そんなことを思いながら、僕は上原という中学生が出してくれた上履きを履き、そして言った。
「実は自分の下駄箱の場所忘れちゃっててさ。助かったよ。ありがと。」
その言葉を聞いて〈上原〉は「はぁ?忘れんなよ。」と言ったが、すぐに「ほら、遅刻するぞ。」と言って走り出した。上原という人物は基本的にいい人のようである。いや、こいつだけでなく、僕の記憶の中にある中学生は、ピアスを開けたり、髪を染めたりとしつつも、みんなどこか憎めない奴らだったような気がする。幸せだったっけ、この頃って?ふとそう思った。
教室に行くまでに僕と上原の二人は、他に同じクラスと思われる人物達二三人と合流して一緒に行くことになった。僕は学校のつくりはなんとなく覚えていたのだけれど、無難に上原達に付いて行くことにした。皆「やべー」とか言っているわりにはさして困った感じには見えない。どうやらこいつらは遅刻組みらしい。
僕はといえば困っていた。この世界そのものに対してすでに十二分、困っているわけであるが、この際それはおいて置く。遅刻するかもしれないからでもない。そういった類の困りならむしろ十分この世界に順応していて良いだろうと思う。僕が困っていた(というより考えていた。)のはみんなの名前が思い出せないことだった。中学生の僕らはみんなご丁寧に上履きに名字を書いてあり、教室にいけば教卓に座席表も貼ってあるはずだから(そういう変な記憶だけは残っている。)それと照らし合わせていけば、みんなのフルネームがわかる。けれどそれだけではまだ足りないのだ。思い出せないのは僕がこの人達をなんて呼んでいたのか、ということである。名字で呼んでいたのか、名前で呼んでいたのか。それともなにかニックネームで呼んでいたのだろうかということ。上原と書かれた上履きを履くこの人は他のみんなから「ゆうさく」と呼ばれているけど、果たして僕もそう呼んでいたのだろうか、と思う。僕は人にニックネームをつけるのが好きだったから(今とても後悔しているが。)、他の誰でもない、僕しか呼ばない名前で呼んでいた、ということもありえるのだ。
「ねぇ、ゆうさく。」
「ん、なんだ?周一。」
「…いや、なんでもない。」
「なんだよ、人の名前呼んどいて。」
「…教室まで、競争しようぜ!」
僕のその声を聞いた途端に、誰かが「わー」と言って走り出した。僕と上原…いや、ゆうさくも走り出す。大丈夫か。たいした問題じゃない。今、僕が呼ぶ名が全てだ。律儀に同じことを繰り返す必要なんてないさ。そう思った。
教室に到着した。一年三組。ここが僕がいた教室か。ちょっとした郷愁すら感じる。もっともこれが同窓会か何かだったのなら、僕のこの気持ちはまっとうなものとして受け入れられるのだろうけれど、生憎そうではないらしい。僕は今、毎日毎日ここへ来ているはずの、懐かしさなどというものを感じるべきではない、このクラスの生徒としてここにいるらしい。当たり前のようにここへ来て、当たり前のように授業を受けて。当たり前のように繰り返し、繰り返される日常の中、懐かしさなんてものとは縁がない現在進行形のここの生徒なのだ。
教室の前で呆然とそう考えた。ここまで一緒に来たゆうさくや、他の人達はすでに教室の中へと入っていった。彼らにしてみれば昨日の続きの今日なのだ。だがそうではない僕にとってこの中に入るには少し決心のようなものが必要だった。転校生のような気分といったらいいか、そこに自分の居場所があるか不安なのだ。…いや、それも違うか。そんな不安ならもっと前、この学校に入ってくる時から感じておくべきなのだ。僕は何かを忘れている。それがこの不安の正体だ。なんだろう。なにかとても大事なことを見落としているというか、自分自身、気がつかないふりをしているような、そんな気がする。僕はゆうさく達が開けた教室のドアの隙間から、ちょっと中を覗いて見た。最初に思ったことは「ああ、中学生だか高校生だか知らないけど、制服を着た子がたくさんいるな。」ということで、それはすぐに当たり前だと思い直した。ここは中学校だ。そして今の僕は彼らと同じ服装をしている。だから僕も中学生だ。これは多少論理が飛躍しているような気もするけど今更な話だ。おかしな話ではあるけれども、みんなが嘘をついて僕を騙しているということでないのならば、とりあえず今のところ僕が中学生だと疑っているのは僕だけなのだから。
僕は一歩踏み出して、教室の中へと足を踏み入れる。
教室の中はざわざわとしている。
みんなの声が耳に入る。
みんなは昨日見たテレビの話とか勉強のことを話していた。
僕はそこで漸く自分の心臓がバカみたいにバクバクいっていることに気がついた。
いつからだろう。
なぜ僕はこんなにも緊張しているのだろうか。そう思った。
誰かが僕に対して「おはよう」と言った。
僕もその人を見て「おはよう」と言い返した。
冷や汗が流れた。
頭がぐらぐらしてきた。
足取りが重い。
まるで鉛でも足に着けられているみたいだ。
僕の視界が一人の女の子を捕えた。
その子は窓際から外を見ているような、ただそこにいるだけのような、そんな感じでそこにいた。
太陽が差し込むその光の中に佇むその子はとてもキレイに思えた。
僕はその子から目が離せなくなった。いや、離さなくなった。
周囲の声も聞こえなくなった。
教室の中にはまるで僕とその子しかいないような感覚を持った。
数秒後、僕の視線に気が付いたのか、その子はこっちを振り向いた。
そして「おはよう」と言った。
おはよう。
その言葉は僕の頭に反響した。反響して拡散した。そのおかげで頭のぐらぐらは落ち着いたが、変わりに心臓の鼓動は爆発しそうなほどに高まった。
そこには彼女が立っていた。
「神楽…」
僕はそう言った。いや、そう呻いた。言葉になっていなかった。
僕が忘れていたこと。
僕が考えていなかったこと。
それは
僕が中学生の時には彼女は生きていたということ。
彼女はまだ生きている。
彼女は…
「佐々原…君?」
神楽が言った。信じられない。神楽が言ったのだ。僕の記憶の中では小さな小さな、幼稚園児だって入らないほど小さな骨壷に納められた姿が現実であるはずの、その神楽が!
「あの…」
神楽の姿がぼやけ始めた。
僕は泣いていた。
涙がとめどなく溢れていたが、その時僕は、僕が泣いているということに全く気が付いていなかった。ただただ水が目から頬を伝わって流れて続けていた。
「大丈夫?」
神楽はそう言って窓辺から僕のほうへ来た。
僕は彼女――いや、目の前にいるのだからそんな呼び方は必要ない。――神楽加奈を抱きしめた。
もう一度彼女に会うことが出来たら?僕はそう考えたことがあった。決して会えないわけだけれども、だけれどもう一度だけでも会うことができたとしたならば、僕は何をする?何を伝える?それを考えることで僕は少しだけ彼女のいない世界でも生きられるような気がした。僕もそっちへ連れて行って。僕は君のことが好きだったんだ。君は僕が生きるべきだと思うかい?君は何故死んでしまったの?僕は考えた。考えることだけがしかできなかったから。もう一度会えたら…。
もう一度会えたなら、君を抱きしめよう。言葉なんて嘘だ。もしもう一度君に会うことができたならば、僕は君を抱きしめよう。君に嫌われたっていい。周りの目なんて関係ない。僕は君を抱きしめる。
「えっ、ちょっと、ねぇ」
神楽は突然の僕の行動に驚いているようだった。でも僕は彼女の気持ちお構いなしに、彼女の背中に回した手を強める。神楽の温もりが伝わってくる。生きている。彼女は生きている。死んでなんかいない。
「ねぇ、みんな見てるよ。離して。」
嫌だ。離したくない。もし離したのなら、君はまたどこかへ行ってしまうんだろ。もしこの夢の世界が現実で、僕の知っている現実が夢だったとしても誰が困るだろう。誰も困らない。僕はもうこの世界を認めたんだよ。
僕は未来の記憶を持って過去へ来た。それがこの世界だ。
理解なんて必要ない。大切なことは認識だ。必要なことは認識だ。どんなに現実的なことであっても自分にとって都合が悪いことならば、人は認めたがらないだろう。逆にどんなに非現実的でも自分にとって都合が良ければ、人はそれを認めようとするものだ。僕にとっては彼女が生きているということが他の全ての現実を排除してでも得たい真実なのだ。だから僕はこの世界を認める。理解はしない。してはいけない。
「おはようー。ん。どうかしたの?」
僕の後ろから担任らしき大人の女性がやってきた。
「どうしたの。この騒ぎは。」
騒ぎ?騒ぎなんて起こっていない。僕はそう思ったけど一人の女の子の声が聞こえた。
「佐々原君が…」
佐々原君が神楽さんを――とかなんとか。
「わっ、どうしたの二人とも?」
僕の腕の中で神楽は恥ずかしそうにしている。耳まで真っ赤だ。僕はといえばもう涙は止まっていたけれど、相変わらず神楽を抱きしめていた。
「ふっ二人とも、とりあえず離れて。」
嫌です。そう思った。だけどすぐに僕は神楽から引き剥がされた。そんなに強く抱きしめていたわけでもなかったけれど、多分こうでもしてもらわなければ、僕は神楽から離れなかっただろう。だけど離れた途端、僕の中で何かが大きく欠落したような気がした。そして僕は呆然と神楽を見る。僕はそこで抱きしめていた時にはあまり見られなかった神楽の顔が見えることに気が付いた。僕はまた目から水を流した。
「さっ佐々原君?」
担任が言う。
「大丈夫ですよ。」
大丈夫なんかじゃないけど。
「保健室行ったほうがいいんじゃない?」
嫌だ。そんなところに神楽はいない。
「大丈夫です。授業を受けさせてください。」
授業を受ける気なんてさらさらないけどね。
「ねぇ…」
神楽が困った顔をしてこっちを見ている。あぁ君を困らせたくはないな。じゃあ君が決めてくれ。君のいうことならば僕はなんでも聞こう。僕はそんなに一生懸命な性格ではないのだけれど、君の言葉ならば僕の生きる糧にすらしよう。誓うよ。
「保健室行ったほうがいいよ?」
神楽はそう言った。
「絶対嫌だ。」
僕はそう答えた。