Neetel Inside 文芸新都
表紙

たゆたう
第三章 たゆたうぼくら④ 分離拡未来

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「僕の名前を今度フルネームで呼んだら君を壊す。」

 そう僕は彼の耳元に囁いた。今思うとそれはかなり大人気ない発言だったかもしれないとも思う。それにいじめられっこの発言ではないな。でもどうせ僕はあと二年もすれば彼に同じようなことをするのだ。
 僕はこの頃いじめられていた。いや、世間でいうところのいじめというものにあっていた、というべきか。まぁ、上履きをドブに入れられ、机を荒らされ、部室の中で殴られる、というようなことは多分いじめと呼んでいいものだろう。
 僕がいじめられていた理由はなんとなくだけどわかっている。この頃の僕は最高に鬱々としていたのだ。理由は家庭環境にあり、僕は両親の諍いの仲介を果たせない無力感からか自分はダメな奴、最低な人間、生きていてもしょうがない、などと思い込んでいた。それで実際自殺の真似事も数回した。そしてそういう僕の意識が日常の行動にも出ていたのだろうと思う。自分でいうのもなんだけどこの頃僕はいわゆる「いじめて君」のオーラがかなり出ていたと思う。数値100、オーラ全開。ごめんなさい、意味はないです。でもいつもいじいじしていて自信がなさそうで、眼に力がなくて、そのくせ何かを悟った感じ。人生は地獄である、とか。こりゃいじめられても仕様がないな、と、今の僕は思ってみたり。

 僕はいじめがいじめられるほうが悪いだとか、いじめるほうが悪いだとか、まぁケースバイケースなところもあるだろうけれど、そういうものに「誰が悪い?」という質問があったなら「社会が悪い」と答える人間だ。いじめをする人というのは実はいじめられっこで、そのいじめっこが親だったりなんだったりとすることがあるわけだけれど、そのいじめっこをいじめる大人達も実はいじめられている、暴力的な形のいじめではなかったとしても隠蔽された精神的な形で、ということがあるんだろうなと思うのである。虐待の連鎖と同じようなこと、といえば理解しやすいだろうか?
 僕は僕がいじめられていたということを半ば忘れていた。それは直接的には僕がある日彼に殴り返しいじめがいじめでなくなったという理由による。ただ、僕が彼の家に部活の用事で電話をした時、なんら確証はないのだけれど、彼の家にも僕の家と同じ感じがしたということがある。それはつまり僕を殴った彼、僕をいじめていた彼も、いじめられっこだったのかもしれないということだ。いじめられっこがいじめをする。そしてその最下層にいたのが多分僕。だけどそんな僕は生贄という形で社会の役に立っていたのだとも思う。だって僕がいじめられなくなれば、それはそれで社会に不都合が生じえるのだから。嫌な社会図。弱肉強食の生体ピラミッド。でもまぁ、僕は破壊した。いいのだ、僕がいつまでも最下層でいる義務も義理もないのだから。自分のことだけを考えて、そして行動するのだ。そして僕の代わりに生贄になった人はそいつの力で抜け出せばいい。僕は知らない。
 いじめを乗り越えることができた間接的理由は、僕は確かにいじめられていたけれど、でも、それでも友達がいたということ。神楽も、僕を心配してくれた。この頃はつらかったけど、でも孤独ではなかったので僕はいじめというものを乗り越えられたのかもしれないとも思うのだ。
 だけど僕がいじめを忘れかけている、というより「思い」でなく「思い出」にできた本当の理由。彼に殴り返したある日の僕が抱いていたもの。それはそういう優しいものだけではなかった。僕は自分がいじめられているということがある日とてもバカらしく思えたのだった。笑えた。家族の中で孤立し、学校でいじめられ、僕の気の休まるところは行き帰りの道の上だけ。毎日毎日泣いて、自殺を考えての繰り返し。バカみたいだ、ある日(溜まっていたものが爆発したのか?)僕は心からそう思った。
 大切に飼っていた犬が死んだ時のほうが悲しかった。両親の仲が戻らないということのほうがつらかった。彼女がいなくなった時のほうが…………………。
 だから僕は「僕がいじめられていた。」なんてことは忘れてしまっていく。いいこと?いや、多分僕はそれと同じくらいの強さで存在する〈優しい感情の何か〉にもどうでもよくなっているのだと思う。そんなことはないかな?できればそう思いたい。
あとちなみに…僕が部活の朝練をよくサボっていたというのは事実。彼の方は真面目に出ていたというのも事実なので、それが理由でいじめられたというのもまた事実。難しい話は無しに、案外それだけがいじめの原因だったのかもしれないということもあり。今も昔も僕は朝が苦手だ。

 昼間の喧騒のせいか僕はその後神楽と顔を合わせることを躊躇った。部活を終え、昨日なら神楽を待ったはずの僕は、しかしそのまま気まずさから一人で帰るのであった。こういった僕の行動は昔から何一つ変わっていない、この頃のままの、中学生のままの僕。しかし僕はそのまま家に直接帰りはせず、少し遠回りをしながら、色々な景色を見てぼーっとしながら帰ることにした。夕焼けの小道をテクテクと。猫を見つけてはそれを追い、気に入った景色を見つけては絵を描いたりして。
「ただいま。」
 僕は誰を対象とするわけでもなくボソッとそう呟くように言い、暗くなった頃にようやく家へと帰るのであった。とはいえやっぱりここは僕の実家であり本当の家ではないという思いもあってか気分としては仮帰宅のような、そういう感じがある。
 玄関のドアから入ろうとした時、居間の方からすすり泣くような声が聞こえた。僕はドアをそのまま閉めることをなんとなく躊躇い、音が出ないように静かに閉めた。二人分の泣き声が聞こえる。あかりの声と…これは……母の声…いや、嗚咽か。
 その時一瞬僕の頭の底で何かがキーンと音を立てた。その瞬間僕の脳裏に過去のある日がフラッシュバックする。

えーん
えーん
ぐすっ

 僕は居間へ走る。とはいえ玄関から居間までは台所一つなので実際は「走る」というよりもそれまでの道程を塞ぐ扉を「開ける」という行為になる。

なぜ
どうしてあなたは
どうして
どうしてあなたはそんなに冷静でいられるんだ?

 僕は扉を開けた。そこにはあかりがいて母がいて、そして父がいた。三人が驚いた顔をして僕の方を見る。あかりは赤い目をして泣いていた。僕を見ていくらか安堵したような顔にはなったけど、同時にあきらめたような遠い目をしていた。僕が来たところで本質的な何かは決して変わらない、そう思っているのだろう。母はすぐに僕から目を逸らし涙を拭った。感じていたのは恥ずかしさか。息子に泣き顔を見られ、父にたいして無力で非力な自分に対しての。父は…驚いた顔をすぐに消し、そしてそれまでも多分そうだったように能面に戻って、自分の体の正中線に顔を戻した。その視線の先には誰もいない。ただテレビがあるだけだった。テレビは、消せばいいものをと思う、点いていて、場違いを通り越して滑稽でしかないお笑いの番組が写っていた。ハハハハハというブラウン管の中の笑いがこの家族を中傷して嘲り笑っているように聞こえた。乾いた笑いだと思う。

あやまれ
あやまるんだ!
あかりに謝れっ母さんに謝れっ

 僕はテレビの方へ行き、テレビの主電源を切った。本当は叩き壊してもいいような、そんな気もしたのだけれど、冷静に。そう、冷静に。かすかな右腕の震えを感じながらも僕はそう自分に言い聞かせる。同じことを繰り返す気はない。

おまえは父さんのことを憎んでいるのか?

 僕は父を見据える。この時あなたから発せられたその問いに僕は答えなかったね。理由は本当にそうだったからだよ。それを言えば本当に取り返しのつかない何かが壊れると、僕はそう思ったんだ。

父さんは母さんと価値観が違うようになってしまったんだ。
カチカンノチガイ?なんだそれは?そんなもので、そんなもので僕らを…!

「ちょっと…待ってて。すぐ戻る。」
 僕はそう言って、三人がいる居間を後に台所へ向かう。

おまえは
おまえはあんなふうになるんじゃないよ

 母の言葉が、いや、母の言葉だったはずのものが僕を囁く。まだだ。まだこの言葉を聞くのはずっと先のはずだ。だけど現実と幻想が僕の中で入り乱れる。今進行するこの現実と、あったはずの、でも今はもうない、未来の現実という幻想の二つが僕の中で真実を奪い合う。

なにもしゃべらないで
自分の子供が泣いてもなにも思わない
お父さんみたいに
泣いてばかりで
なにもしてくれない
お母さんみたいに
お父さんとお母さんの子供だもの
あかりもそうなるのかな?

 僕は包丁を手に取る。そしてその時またさっきのキーンという音が頭をかすめた。ああ、そういえばこっちに来て、神楽とはじめて会った時もこの音がしていたっけ。場違いにそう思った。でも思う。神楽のことも、この家のことも、他の色々なことも、全ては僕の物語だ。僕がいなければ何も繋がらないだろう物語たち。思った。ああ…だから僕は生きているのか。なんとなく、理由もたいした意味もないけれど、僕はそう強く思った。
 そして僕は包丁を片手に居間へと戻った。居間へ帰った僕への当然の反応。でもこんな反応でもあってよかったと思うのはおかしなことだろうか。無反応に、無感情に、というよりは幾分かましだと、そう思う。
「周一!」
 母が叫ぶ。
「お兄ちゃん?お兄ちゃん?」
 あかりは僕が来てから止まりかけていた涙をまた溢れさせ、精一杯不安げに目を見開いて僕を見た。
「周一。」
 そんな僕の微笑ましい姿を見て父も口を開く。過去に来てから始めて聞く父の声はやはりどこか若いような気がした。
「おまえは……父さんを憎んでいるのか?」
 その言葉を聞いて僕は口元を緩ませる。父さん、今も昔も僕はその言葉に答える気はないよ。僕はテーブルを挟んで父の正面へと立つ。僕の後ろ右にあかり、左に母が座っている。僕はあかりを振り返りそして微笑む。僕にできる精一杯の笑顔をあかりに。次に左に座る母に目を移す。何を語るか、いや、言葉なんて嘘だ。母さん、あなたはあなたなのですよ?あなたは父さんの子供ではない。伴侶なのだ。泣きじゃくる娘と包丁を持つ息子。それを目の前にあなたは本当は何がしたいですか?そう心の中で母に問う。言葉なんて嘘だけど、言葉にしなければ何も伝わらないと、そう思っていても。

死にたい

 ああ、そうだね。僕よ。僕は視線を父に戻し、そして包丁を前へ突き出した。一瞬の間。けれど重く、すべてを凍らせる静寂の時。

死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい…………………………………………………………………殺したい。

 僕は包丁を手から離す。支えを失い自由になったそれは重力の赴くままに落下した。僕のイメージではそれは「サクッ」とテーブルに突き刺さる予定であったのだけれど、そうならずカッと当たり跳ね返り倒れただけだった。
「僕は少年Aになるよ。」
 なるよ、は「なるよ?」であり「なります」という意味ではない。誤解を招く言い方だと自分でも思ったので僕は言葉を繋げる。
「その可能性はあるっていうことです。」

殺したい
ある日そう思った。
自殺は自分を殺すということ。
他殺と自殺はだから少し違うだけで
本質的には殺しということで同じこと
本気で死にたいと思っていた僕は
本気で殺したいとも思うようになった
具体的に自殺をイメージしていた僕は具体的に殺すことをイメージした
首吊り 絞殺 リストカット 刺殺 飛び降り 突き落とし 薬 毒…
そしてだんだんと自分の感情が消えていく実感があった
死にたい
殺したい

生きたくない

「僕は赤の他人同士が一緒に暮らしあうっていうのはすごいことだと思っている。だから価値観の違いとか、そういうものはすごく 重要なんだとも思う。勝手にやればいいんじゃないと正直言いたい。いや、言うべきなんだろうね。最終的に離婚ということになったとしても、それはあなた達が選択した結果であって間違いということは何もない。母さんもだけれど自分を見つめなおす良い機会じゃないかな。子供の僕がいうセリフじゃないかい?でもまぁそういうことだ。」
 そこで一息つく。そして続ける。
「でも親の勝手で子供を傷つけはしないで。僕は傷ついている。あかりもね。無茶なお願いかもしれないけど、でも父さんは繰り返しているんじゃないの?そういう悲しい連鎖は止めて。僕は…」

僕は……
続かない
頬が濡れた
右手が震えている
変わらない
何一つ変えられやしない
何一つ変わりやしない


キーンと頭の中が鳴り響く



「あかり、遊園地へ行こう。」
 一つの部屋で二人の子供が慰めあう。
「遊園地?」
 そう聞く幼い子供は、しかし目になんの力もなく…
「そう、遊園地。遊園地ではね、人はみんな笑顔でいるんだよ。おとうさんもおかあさんもおにいさんもいもうとも。みんな笑顔で楽しそうに、幸せに過ごすんだ。」
 会話をするけれど、でも多分、二人とも何も考えていない。頭がゴチャゴチャで何も考えられない。

「ボクもそこに行っていいのかな?」
「もちろんさ。一緒にアイスクリームを食べような。」
「アイスクリームもあるの?」
「アイスクリームには幸せの魔法がかかっているんだ。当然あるのさ。」
「いつ行けるの。」
「そうだなぁ。幸せにはそれなりに時間がかかるからな。2003年の十一月十六日にしよう。」
「それっていつなの、明日?」
「そのうち来るよ。長いようだけど、絶対に来るから。だから安心して。」
「ホント?」
「うん、約束だよ。」

 こうして僕はあかりに嘘をつく。叶える気なんてない、偽りの約束。だから忘れた。でもあかりはそれをずっと覚えていた。忘れずに、僕を信じて。僕は忘れたのに。僕は…
 結局僕は繰り返した。父も母も何も変わらず、誰も救えず。昔はただただ父を憎み責めるだけだった僕は、しかしけれども成長して少しは変わったと思っていた。父の側にも立てる。母の気持ちだってわかる。自分の言いたいことも言える。あかりを泣かせないで守ってやれる。そう思っていた。だけどそうした想いが逆に僕を何も言えなくした。みんな悪くない。みんな悪くないんだ。そう思うほどに僕は何も言えなくなった。
「昔。あかりは覚えているかな?僕は父さんとキャッチボールをしたことがあるんだ。本当さ。でも嘘みたいだろ、あの父さんがさ。でも本当なんだ。あれも父さんなんだ。今が変わってしまったということなのだとしても、でもあの日の父さんも死んでいないよ。だから大丈夫。大丈夫さ。」
 そう、父と僕がキャッチボールをしたあの日は変わらない。僕が過去へ飛ぼうと未来へ行こうと真実であり続ける。だから大丈夫だよ、あかり。大丈夫なんだ。

でも父さんは繰り返しているんじゃないの
そういう悲しい連鎖はやめて
父さんはおじいちゃんとあまり話さないよね
僕が小さい頃は違和感もなかったけれど
自分の実家に伴侶と子供だけ行かせて自分は行かないとか
そういうことよくやっていたよね
また繰り返すよ
僕はあなたが父に向けた態度を取るよ
それは悲しいことだと思わない
思って

 僕は自分の部屋の中、横目にあかりを見ながら頭の中でさっき言えなかった言葉達を繋げていく。これは言わなくてよかったことか、それとも…。僕の力は無意味か。結局、何も変わらないのかな。僕の右腕がまたガクガクと震えだす。右腕が震えるこれは興奮した時に出る僕の癖で、押さえ込もう押さえ込もうと思うほどに強くなってしまう。
「お兄ちゃん?」
 あかりが読んでいた(目に入れていただけかもしれないけれど)漫画から顔を上げ僕の方を見る。
「ん?なんでもないよ。」
 笑顔。そして左手を使って、あかりに見えないよう手を両方とも後ろに回してから、僕は右手に鉛筆を刺す。痛みは僕の興奮を鎮め、少しの間だけ僕に冷静さと笑みを与えるのだ。
「お兄ちゃん。そういえば今日お兄ちゃんの学校の友達に会ったよ。」
 あかりはそんな僕には何も気が付かずに、そう、多分何も気が付かずに、話を続ける。
「ほら、お兄ちゃんがケイって呼んでいる人。」
 あかりの言葉に僕は、なんとか笑顔をあかりに向けよう、泣き顔ではなく、笑顔を、と思っていた。そして左手に持つ鉛筆に力を入れた。
「ああ、ケイか。あいつにはあかりもよく会っているだろ。」
 鋭い痛みが僕の右手に走り続ける。
「最近はそんなに会っていないよ。お兄ちゃん、友達をそんな家に呼ばないじゃん。」
 あかりのその言葉に僕は「まぁね」と答える。でも確かに僕は友達をあまり家に呼ばなかったな。いや、呼びたくなかったな。
「…でね。その人がお兄ちゃんが先に帰ったって言ったの。」
 あかりは僕のそんな思考を遮って話を続ける。
「でも帰ってもお兄ちゃんいなかった。」
 そう言ってあかりは少し顔を歪ませる。そんなあかりに僕は慌てて、
「うん……。まぁ、学校は結構早くに出たんだけど、ちょっと道草しててさ。」
 といいわけをした。
「ごめんね。」
 歯を食いしばって、涙を溜めて。顔を歪ませて、それ以上は話せない感じになってしまったあかりに僕はそう謝った。
「うん。でも…」
 でも…。そういったままあかりは溜めていた涙をボロボロとこぼし始める。声は出さずに、いや下にいる両親に聞かれないようにか、唇を噛み締めている。僕はそんなあかりの頭を撫で、そして抱きしめてあげる。あかりは素直に僕に身を委ねるがそれでも、蚊の泣いたような声、という表現が正しいのか声を押し殺し続けていた。
「泣ける時には泣いておいたほうがいいよ、あかり。泣きたいのに涙が出なくなってしまうことになっちゃうからさ。」
 僕はそっとあかりにそう呟く。きっと砂糖一瓶に牛乳八十パーセントのカプチーノぐらいの感じで。そしてその言葉を火種にあかりは小学生らしく大声で泣き始めたのだった。そう、小学生らしく。小学生にすすり泣きなんて似合わない。このあかりの声を聞いて下の人達は何を思うだろう。罪悪感か。それとも行き場のない怒り、やるせなさか。でもこれこそが嘘じゃない、本当の言葉だとも思うよ、僕は。あかりのこの叫びはカチカンノチガイだとかそんな理屈とかよりも、よっぽどわかりやすくて真実のものだと思うのだよ。ねぇ父さん。ねぇ母さん。
 僕の胸の中に小さく収まるあかりを見てふと思う。「泣いてばっかしだ。」と。
泣いてばかりで涙が出なくなって、けれど泣き続けて。頑張ることに疲れて、感情を亡くしていって、笑顔を造って。でも泣き続ける。だけどそんな僕が恋をした。今よりずっと後のお話だけど、こんな僕が恋をする。

 神楽に恋をした。家族に対するモヤモヤとは違う、でも何かはわからないモヤモヤとした感情が僕の心に頭に張り巡らされた。家が近い彼女に偶然会いたくて外へ出る。それまで内にひきこもりがちだった僕が外へ飛び出す。だから僕は壊れた家族に苛まれた時も、彼女が亡くなった時も、家には閉じこもらなかった。外へ出た。旅をした。自転車で、寝袋を担いで、何も考えず全力で自転車を走らせた。僕はひきこもる力を全て外へ向けることができたのだ。そして旅は僕に一辺倒ではない色々な考えを持たせてくれたのだ。
 だけどこうして、全てを彼女のおかげにしようとするのはただの勘違いなのだろうか、おめでたい奴なのだろうか。でもいいじゃないか。それで僕は少しだけ幸せになれるのだから。

みんな嫌いだ。
喧嘩ばかりする親も
泣いてばかりのあかりも
何も気がついてくれない友達も
そう思うことしかできない壊れた自分も
みんな嫌いだ
みんな死ねばいい
………
ああ
でも
でもあいつだけは
あの子だけは嫌いになりたくないなぁ

「あとね、女の人も一緒にいたの。」
 あかりが僕から顔を離して唐突に口を開く。僕はなんのことかわからず「え?」と言ってしまう。
「お兄ちゃんの友達に会ったって言ったでしょ。」
 どうやらさっきケイに会ったという話がまだ続いているらしい。僕はケイと一緒に帰る女の子というと誰かな、と思う。
「なんか優しいかんじの人だったよ。」
 そういうあかりはなにか不機嫌そう。優しそうではあったけれど何かひっかかるようなことでも言われたのだろうか。
「そう、あかりはその人と話をしたの?」
「うん。」
「どんな話?」
「秘密。」
 気になる。
「秘密だよ。」
 あかりはそう言って、僕が無理にでも口を割らせるとでも思ったのか、僕から離れて、そしてそのまま部屋を出て行ってしまった。気がつかなかったけれどもう時計は九時を回っている。小学生はお風呂に入ってさくっと寝る時間だ。
僕は何か急に一人になった感じがして虚無感を感じたので、昨日読みかけだった僕の日記を取り出した。後ろからパラパラとめくりながら過去へと遡るように読んでいく。読んでいて、昨日は共鳴できなかった日記が今はなんとなく共鳴して過去の僕と重なれているような気がした。結局僕は何も変わっていないのだろうか。
 ふと僕は神楽にとても会いたくなった。いや、「会いたい」というのは前から思っていることなのだけれど、そうではなく現実に存在するようになった彼女と会いたいと思う。同じ「会いたい」かもしれないけれど感じとしては違う。神楽は今「会おうとすれば会える」存在なのだ。僕は少し自分の心臓がドキドキと脈打ちはじめるのに気付く。会いたいな。今から会えないかな。だめかな、小学生が寝る時間の今は中学生にも十分遅い時間だ。夜になると元気になりだすフクロウのような大学生とは違う。頭の中はそのフクロウのはずの僕でさえ、生活の規則正しさからか「後は宿題やって適当に就寝」と本能から囁かれているようなありさまなのだ。
「電話………してみるかな。」
 僕はそう一人ごとを呟く。ちなみに自分で言った「電話」という単語で僕が思い描いたのは、着信音がドボルザークのユーモレスクであり、猫の歯型がついている「携帯電話」であった。僕はかなりケイタイが普及して僕の周りの人々が持ち出すようになっても、それでもしばらくは買わず、そのさらに後の後についに購入にいたるのであったが、今の時代はそんな機材は形すらない。僕の勝手な想像による進化の系図、糸電話→ポケベル→PHS→携帯の、ポケベルの段階ですら出現していないのだ(PHSも携帯か?)。
 なんかのドラマや映画であるように未来のヒット商品でもってお金儲けという道も僕にはあるんだろうなぁ、と思う。でもまぁ今はやる気がしないな。幸福に値段はつくけれど、幸福はお金で買えるものではないと思うのだ、僕は。お金があったほうが幸せになれる確率は高そうな気もするけれど、ただそれだけのこと。所詮確率だ。僕のような中流階級の庶民には大金は夢であるままのほうがいいような、そんな貧乏人の哲学を並べてみる。でもなんだかだとお金はないよりあったほうがいいよね。うん、やろうかな金儲け。
 そんなダメっぽい想いを馳せながらも僕は両親のいる居間からワイヤレスの電話を持ってくる。両親は電話を部屋へ持ち出す思春期の恥ずかしがり屋の息子には何も言わなかった。まぁもとよりなにも言わないだろうとは思っていたけれど。あかりは予想どうりお風呂の時間だから邪魔者の心配もなし(ちょっと罪悪感)。こころなしか僕は電話を持つ手に力が入る。
彼女の親御さんが出たら、連絡網ですとかなんとかで誤魔化すことにしよう。うん、そうさ。電話くらい罪じゃないや。僕はピポパと学校の連絡網に書いてある彼女の自宅の番号を押していく。だけど一押しするごとに鼓動が高まっていく。僕は緊張している。

ピポパポ……パ……

 手が震えた。トゥルルルルルルルルル。トルルルルルルルルル。ガチャッ。
「はい。神楽です。」
 受話器の向こう側から神楽本人の声が伝わってくる。瞬間、僕は頭が真っ白になった。
「もしもし?」
 ああ、どうしよう。なにか話さないと。えっと、でも…。ええと。

「加奈。」
 僕は頭が本当に真っ白になった。


「え…と、周ちゃん?」
「うん。ごめんね。」
「え、何が?」
「え、いや、こんな遅くに電話しちゃってさ」
「ああ。いいよ、大丈夫。気にしなくていいよ。」
「うん。」
「どうしたの?」
「え?」
「電話。なんか用があるんじゃないの?」
「ああ、ちょっと…その…君の声が聞きたくてさ。」
「……」
「その……それだけなんだ。ごめん。でも本当に聞きたかったんだよ。」
「うん。ありがとう。」
「え……」
「ありがとうって言ったの。」
「うん。どういたしまして。」
「……クスッ」
「……フフ」
「おかしいね。私達。」
「うん。」
「そうだ、今日周ちゃんの妹に会ったよ。」
「え、加奈がそうだったの?」
「あかりちゃんだっけ?私のこと話してた?」
「うん。学校の帰りにケイと、それから女の人に会ったって。その女の人が加奈だったのか。」
「うん。そうみたいだね。」
「どんな話をしたの?」
「え………」
「いや、あかりに聞いても教えてくれなくてさ。秘密って言われた。」
「じゃあ私も秘密かな。」
「え、なんだよそれ。気になるなあ。」
「フフ、残念でした。」
「うん。でもありがとう。本当に君の声が聞けて良かった。」
「どういたしまして。」
「加奈」
「ん?」
「あの…昨日…急に抱きしめたりして、ごめんね。」
「……大丈夫、気にしてないよ。それにあれは昨日じゃないよ。」
「…………ごめんね。でも僕は。僕は加奈に会えて本当に嬉しかったんだ。」
「…あのね、音が聞こえたの。」
「音?」
「うん。周ちゃんに抱きしめられた時にね。周ちゃんの音がさ。」
「?」
「ううん。いい。なんでもない。」
「……あのさ、加奈。」
「なぁに?周ちゃん。」
「今度デートしてくれないかな。」




 電話を終えた僕は茫然と。昨日はうまく話せたのに何故だか今日は彼女と話せなくなってしまった感じがあった。デートの約束まで取り付けておいて今更な考えのような気もするけれど、その約束だって思いつきというか、つい口から出てしまった言葉なのだ。
僕は神楽に恋をした。だけどそれは「した」であって「している」ではなかった。悲しいことだけれど時間の流れは残酷に人を変えていく。とても好きだった。だけどその「とても好きだった」を彼女が亡くなった後もずっと同じ気持ちで持ちつづけることは僕にはできなかった。彼女が亡くなって一年、二年、そして三年が流れた。僕はそれでも彼女のことが好きだったけれど、初恋の時抱いていた感情はもう消えていた。「彼女のことは好きだよ。」と、そう静かに呟けるような、そういうふうな僕になっていた。
 でも僕は再び神楽に出会った。僕は多分、再び彼女に恋をしている。中学生の彼女に。このロリ○ン。いや、違う。彼女だから。僕は彼女が彼女だったから年齢に関係なく恋をする。
 今度は上手くいけるのかな。今度は。今度………。冷静なふりをしながらも結構僕は動揺している。気分転換に机の上で御座なりになっていた日記をめくってみる。僕の頭の中の想い出の神楽が今の神楽と重なる。幻想が現実となる。僕の想いも中学生の今に後退する。全てが重なりあい、そして今を基盤に再構成されていく。今度は……。日記の文字が目に入る。十一月十九日晴れ。今度は後悔しない。頭の中でキーンと音が鳴り響く。十一月十九日。昨日は十七日。今日は十九日。………?
 僕の茫然としていた頭が晴れる。僕は日記に集中する。十一月十九日。おかしい、昨日この文章は書かれていなかったはずだ。僕も何も書いていない。いや、でもこの日の僕は書いたのか?僕がこの日何も書かなかったということで未来はこの日は何も書かれなかったということに変わったんじゃあないのか?それにこの日付…。おかしい、今日はまだ十八日のはずだ。なんで明日のことが書かれているのだろう。間違いか。その可能性も十分にある。なんせ僕の仕事だ。
 僕は両親の寝室へ行って、お風呂から出て、もう睡眠に入ろうとしているあかりの元へ行く。
「あかり、起きてる?」
 僕はそっとあかりの枕下に座った。
「なぁに、お兄ちゃん。」
 あかりは布団からちょこんと出した小さな顔を僕のほうへ向けてそう答えた。まだ起きているようだ。あかりがもっとちっちゃかった頃、僕はこんな感じであかりに本を読んであげたっけ、と思い出す。そしていつも僕はあかりと一緒に寝てしまって、母や父に 自分の布団へと連れて行かれたのだ。
「ねぇ、あかり。昨日僕があかりに話した、自分や好きな人のことを小説にしてみるっていう話、覚えてる?」
 僕が言う。いまから寝ようとしているあかりを起こしてまで話をするのは少し気が引けることだけど、僕にはとても重要なことだった。
「んー。覚えているよ。好きな人の気持ちがわかるって言うお話でしょ?」
 よかった。僕は少し安堵する。
「でも」
 あかりが眠たそうに目をしばたかせて、そう続ける。
「でも?」
 僕は去ろうとして立ち上がりかけていた足を止める。
「その話をお兄ちゃんがしたのはきのうの昨日だったよ。」

 昨日の昨日―― 一昨日。

「お兄ちゃん、どうかしたの?」
「ん、いや、なんでもない。なんでもないよ。ごめんね、起こしちゃってさ。おやすみな。あかり。」
「うん。おやすみなさい。あ、お兄ちゃん。」
「何?」
「ボク、遊園地に行けるんだよね。」
「ああ。きっと、ね。」

 僕はそう言って寝室のドアを静かに閉めた。そして思う。なんてことだ。どこかで一日が過ぎている。この世界に来て僕は二日しか経っていないはずなのにどうやら三日が経っている。さっきの神楽との電話を思い出す。あれは昨日じゃないよ。そう神楽は言っていた。あかりは神楽に「今日」会ったと言い、神楽もさっき「今日」あかりに会ったと言った。だからその間はずっと今日である。だけど僕が神楽に抱きつき、あかりに小難しい話をしたのは昨日ではなく「一昨日」であるらしい。じゃあ、今日僕が学校へ行っていた時間は果たして今日なのか。もしかしたら、あそこら辺は「昨日」なのだろうか。なんにしろどこかで時間が跳んでいる。
神楽とのデートは日曜日で五日後。けれど早くも一日が過ぎた。だからあと四日。しかし果たして僕にその時間の概念が適用できるのだろうか。多分〈僕〉はずっと存在し続ける。昨日も今日も。日曜日も。だけどこの〈未来の記憶を持った僕の精神〉は在り続けられるのか?

その時また頭の中で「キーン」と音が鳴り響く。





















       

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