(じゃあ、あの声が言っていた事は、本当だったのか)
僕は、自分の手を呆然と見つめていた。
部屋を見渡す。
見慣れた自分の部屋だ。家具の配置も、カーテンの色も、何もかもがいつもと同じだった。……割れて粉々になった鏡を除いては。
(懐かしいな)
もう二度と戻ってこれないと思っていた。だから、余計に懐かしく感じる。
僕は、この世界に戻ってきた。もう一度、自分の過去をやり直すために。
(このチャンスは、逃さない)
こぶしをぎゅっと握り締める。
(こんどこそ、絶対に手に入れてみせる。僕の、未来を)
足元に目を下ろす。
(しかし……気絶するとは、我ながら情けない)
ベッドの上には、僕と同じ顔をした男が、口を半開きにして倒れていた。
5.二日前、朝(第一章)
眩しい光で、目を覚ました。
珍しく、朝のうちに起きたらしい。刺すような日光は、ダンゴムシの僕には強烈だった。
おかしいな、カーテンは閉めていたはずなのに。
重いまぶたをこすりながら、ベッドから足を下ろす。
「いてっ」
足に鋭い痛みが走り、僕は思わず声をあげた。ベッドに腰掛けて、足の裏を確認すると、何かの小さな破片が、足の裏に刺さっていた。血が滲み出している。引き抜いて目の前にかざすと、それは光を反射して、きらきらと輝いた。
記憶が、一瞬で蘇った。眠気が吹き飛ぶ。
僕の目の前には、無残に砕け散った鏡の残骸があった。粉々になった破片の山が、カーテンから漏れる光を乱反射して、鋭い光を部屋中にばら撒いている。その内の一つが、僕の顔を直撃したと言うわけだった。
呆然と鏡を見つめる僕の背筋に、冷たいものが走る。
背後に、得体のしれない気配を感じたからだ。それは、昨日も味わった感覚だった。
「夢じゃ……なかったのか」
思わず、呟く。
「その通りだよ、長瀬秀明」
突然、背後から名前を呼ばれて、僕は跳ね上がった。
素早く振り返ったが、そこには誰もいない。
視界には、ベッドと、白い壁があるのみだ。
誰だ? どこにいる? 息を詰めて、すばやく部屋を見渡す。
「窓、窓」
「ひゃぁ」
また突然背後から声がして、僕は思わず声を出してしまった。
我ながら、なんという情けない声だ。言った後で恥ずかしくなる。
「なんだ、まだ怖がってんの?これだけ意気地がないと、情けないのを通りこして、なんだか悲しくなってくるな」
僕の心を見透かすように、声がからかうような調子で言う。……何故だろう。その声を、僕はどこかで聞いたことがあるような気がした。
「ほら、窓をのぞいてみろって。まぁ、怖いんなら強制はしないけど、さ」
姿無き声は続ける。ニヤニヤと笑っている顔が、目に浮かぶような物言いだった。
急速に恐怖は消え、代わりに気まずさと怒りとが湧き上がってくる。
……馬鹿にしやがって。
どうやら、すぐに僕に危害を与えると言う様子ではなさそうだ。僕はベッドから起き上がり、窓に近づいてみることにした。
「カーテン開けて」
背後からの声。言われるまま、薄緑色のカーテンを開ける。
眩しい。
僕は思わず目を細める。こんなに光を浴びたのは久しぶりだった。
おでこに手の平を垂直に当てて、ひさしを作る。
窓には、窓を覗き込む僕と……もう一人、映っていた。僕の後ろに、誰かが立っている。
「ひっ」
またしても情けない声を出してしまう僕。振り向くが、誰もいない。荒い息をつきながら、僕は後ずさる。後頭部が、ガラスの表面に触れるのがわかった。
「そんなに怖がるなよ」
すぐ耳元で、声がした。思わず振り向くと、僕の背後に映るそいつと……すぐ近くで目が合った。
その姿は……僕?
「僕は君を助けに来たんだからさ」
そう言って、僕そっくりのそいつはニヤリと笑った。
こんな状況……どこかで……。僕は記憶を探る。思い出すのにそう時間はかからなかった。
思い出した。つい最近見たテレビの心霊特集だ。
記憶の糸はするするとほぐれていった。
確かこれ、ドッペルゲンガーとかいう奴だな。
昔見たテレビのナレーションが脳裏に蘇る。
ドッペルゲンガーとは、自分自身の生霊である。
彼らは、その宿主の意思とは無関係に歩き回り、勝手に知人と会話をしたり、妙なイタズラをしたりする。
宿主はというと、自身のエネルギーを生霊に奪われるため、徐々に衰弱していく。それと平行して、自分の生霊が段々と自分のすぐ近くにやってくる気配を感じ始め……。
自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。最も大事な事を思い出したからだ。
……そして、自分とそっくりなその姿を見てしまったが最後……魂を抜かれて、殺される。
窓ガラスの向こうで、あいつは何かを喋っている。
「安心して、これから僕の言うとおりにさえしてくれれば大丈夫……」
僕は急いでカーテンを閉めた。
「うぉっ」
驚いたような声を残したっきり、話は止んだ。
急いで体を確かめる。異常はなかった。魂を抜かれた様子もない。
油断していたのだろうか。とにかく、僕はほっと一息ついた。
「ひどいことするなぁ」
「うわぁ!」
僕はまた飛び上がった。一体朝からこれで何回目だろう。いい加減心臓に良くない。
「とりあえず、落ち着いて話を聞いてくれよ」
なだめるような声だったが、僕はその提案に従う気は起きなかった。
僕は混乱していた。なんだこれは? 夢なのか?
そう願う僕の思いを、足の裏の痛みが即座に否定した。見ると、フローリングの床が血で濡れている。
「あぁ、その前に止血した方が良いかな」
姿無き声は言った。
「こんな所で死なれてもらっちゃ、困るし」