ストレンジャーズ
三日前(序章)
2.三日前(序章)
僕の部屋は、もう昼だというのに薄暗かった。
一日中日当たりが良いと言う触れ込みは大嘘で、実際のところ、部屋に日が差すのは朝と夕方だけ。日が高くなった今の時期ともなると、電気をつけないですむ時間の方が短いくらいだ。
寝転んでいる布団からは、早くも黴の臭いがする。今年買ったばかりの布団は、上京して最初の梅雨を過ぎると、もう十年ほど使ったかのようにくたびれてしまった。
僕と、同じだ。
上京してきた大学生の八割は、きっとこんな心境でいるに違いない。
寝返りを打ちながら、一人そんな事を考える。
窓の外は明るかった。穏やかな鳥の声。遠くからは、小さくさおだけ屋の声が聞こえる。時折、涼しい風が吹いては、部屋のカーテンを揺らし、部屋の淀んだ空気をかき混ぜる。
六月十五日の昼下がりは、いつもと同じく、のどかそのものと言った風情で過ぎていた。
それが、かえって僕の心を淀ませる。重い頭を抱えながら、僕は溢れる光に背を向けて、薄い布団を頭から引っかぶることにした。
今日も、サボることにしよう。
これで三日連続だ。最近では、特に珍しいことでもない。
特に理由はなかった。ただ、なんとなく行く気になれないのだ。強いて言うなら、天気がいいからだった。ひきこもるようになってからというもの、明るい日差しは僕の苦手なものになっていた。どうしても居心地が悪い。太陽が、無言で僕の不正を責めているような気分になるのだ。
小学生のとき、よくダンゴムシを捕まえたことを思い出す。大きめの石を持ち上げると、彼らは日の光を嫌って、必死で土の中に逃げようとしていた。
今の僕にそっくりだ。自嘲気味に、そう思う。
光を嫌い、薄暗い部屋に閉じこもって、布団で丸くなっている僕。
自分で言っちゃなんだが、ダンゴムシという例えは、今の僕にこれ以上ないほどぴったりであるように、思えた。
それもこれも、全部あの、松平とかいう担任のせいだ。
「お前の学力なら、進学、考えても良いんじゃないか」
高校のころ、彼に言われた言葉が脳裏に蘇る。愛想が良くていつも笑顔だったれど、生徒の事より自分の進学実績のことしか頭に無い奴だった。
その言葉に乗せられて、結局一浪してまで入った大学は、想像以上に退屈なところだった。
何も教える気のない先生。勢いだけで中身の無い人間関係。
わくわくするような出来事もなければ、真面目に何かをしようとしている人もいやしない。生徒がやることといったら、くだらないどんちゃん騒ぎくらいだ。
そんな環境で、僕は早くも、学校に対する情熱を完全に失っていた。
今、タイムマシンで過去をやりなおせるなら、問い質してやりたかった。先生、進学したあとはどうすれば良いんですか、って。
僕はため息をつく。
あいつの口車に乗せられていなければなぁ。
進学していなければ今頃、僕は親父の工務店で働いているはずだったのだ。
親父の会社は、最近はすこぶる羽振りが良かった。団塊世代がリフォームに走っているだとかなんとかで、相談に来る人が後を絶たないらしい。
バイト代わりに家の手伝いをしていた僕は、長男と言うこともあり、ゆくゆくは二代目となる期待を一心に負っていた。面と向かって言われたことはないけど、多分、そうだ。
進学するなんてわがままを言わずに就職さえしていれば、今頃、仕事で忙しいながらも充実した日々を送り、たっぷり給料もらって(これが重要だ)、週末には気心知れた地元の仲間達と遊び、そして……いずれは後を継いで社長に納まるはずだったのに。
それが、今じゃこの通り、ダンゴムシ。
自然と頭に血が上る。
それもこれも、全部あの、松平とかいうハゲ教師のせいだ。
――おい、いい加減にしろよ。
ひとしきり高校のころの担任に悪態をついている僕に、良心が棘を刺す。
例え先生に勧められたにしたって、結局、ここを受けるのを決心したのはお前じゃないか。
それに、お前がダンゴムシなのはお前のやる気が無いせいで、大学のせいじゃないぞ。今さら、人のせいにするんじゃない。
正論だけに、耳が痛い。……自分で自分に言っておいて、おかしな話だけれど。
なんだか居心地が悪くなった僕は、今度は弁解を始める。先ほど僕を諭した、自分自身にだ。
わかってるさ。でもどうすればいい?何をしようにも、周りはくだらないやつばっかだし、目標になるような事もない。
こんな状況じゃ、どうしようもないじゃないか?
もう一人の僕が反論する。
だからといって、文句ばかり言っていても、仕方ないだろ。環境なんて、自分から動いていくらでも変えられるじゃないか。少なくとも、学校サボってダラダラしてるよりは、マシだ。
またしても、耳が痛い言葉だ。
…こんなふうに、一人で自問自答を繰り返すのが、最近の僕の日課だった。
話し相手も友達もいない大学生の、悲しくて不毛な、一人芝居だ。
声は続ける。
ほら、お前サークルに入ってたじゃないか。オールラウンド遊びサークルとかいう訳の判らないアレ。あそこの先輩、意外と面倒見よかったし、新入生歓迎の飲み会に参加したお前、楽しそうだったじゃないか。
もう一度、飲み会行ってみろよ。……そうすりゃ何か、変わるかもしれない。
僕は言い返す。
馬鹿だな。入学して一、二回しか行ってない上に、二回ともベロンベロンに潰れて吐きまくった俺を、誰も覚えてるわきゃないだろ。よしんば覚えられてたとして、煙たがられてるに決まってる。今さら顔出したとして、良い事が起こるとは思えないね。
それに……確かに世話を焼いてくれる先輩はいたけれど、それと同じくらい、嫌な先輩だっていた。なんで俺があんだけ吐いたのか思い出してみろよ。先輩たちに目をつけられて、無茶苦茶に飲まされたせいじゃないか。
あんな思いするのは、もう二度とごめんだ。
だったら他のサークルに入れば良いだけの話だろ。ほんとに自分から何も出来ない奴だな。
だいたいさぁ、お前、高校のころ、進学する同級生のこと、羨ましがってなかったか?お前等は大学で自由に一人暮らしできていいな。俺は親の店を無条件で継がされるから、お前らみたいな生き方はしたくてもできないんだ、って、さんざん文句言ってたじゃないか。……継がせるなんて言葉、親父から一度も聞いたことないくせに。
で、結局親に駄々こねて大学に行ったあげく、何だ、そのザマは?
「相手」は間髪入れず返してくる。昔の言動を蒸し返されて、僕は言葉に詰まる。
有利なのは、いつも向こうのほうだ。
だ、だって、僕はもともと進学するつもりなんてなかったから、同級生達みたいに、賢くも無きゃ、意思も強くないんだよ。友達連中がどこの大学に行ったか、知ってるか? 僕の第一志望なんかがクズに見えるところだぜ。
結局……あいつらと俺じゃ、今まで積み重ねてきた努力の量も違えば、育ってきた環境だって違うのさ。……今さら、僕が何かやろうとしたって、遅いんだよ。
苦しい言い訳だ。「相手」は、ふんと鼻で笑って、僕に言う。
……お前は、言い訳しかしないんだな。
ぐうの音も出ない。出ないかわりに起き上がって、パソコンの電源を入れる。
起動音がして、パソコンの冷却ファンが勢いよく回り始めた。
やがて、ディスプレイに青い画面が表示され、各種のアイコンが現れる。マウスを持つのももどかしく、そのうちの一つをクリック。ウィンドウに色とりどりの情報と文字の洪水が溢れ出すと、そこでようやく僕は安心する。
ここは、数少ない僕のユートピアだ。
毎日更新されている大量の情報。これを見つめている間だけは、何も考えないでいられる。
くだらない自問自答をして、自己嫌悪に陥ることもない。
それに、ここには、僕と同じような境遇の人が大量にいる。僕は決して、世間におけるマイノリティではないことを教えてくれる。
そうだ、そうだよ。
上京してきた大学生の八割は、きっと僕と同じような心境に違いないんだ。
起きがけに考えたセリフを自分に言い聞かせながら、僕は何の意味もない、ただ時間を消費するためだけの情報に、身を沈めるのだった。
3.三日前、夜(序章、その二)
出不精の僕も、夜になれば、少しは外に出てみようかという気分になる。
暑くないし、苦手な太陽がいないから、動きやすい。
どこか暗い顔をして歩く人の群れの中を、僕も同じくらい希望のなさそうな顔をしながら、それでも昼よりは生き生きと歩く。
手に持った紙袋には、今日発売された漫画の新刊と、前から目をつけていたゲームソフトが入っている。巨大なモンスターを狩人となって倒していくゲームで、その面白さもさることながら、クリアするのに数百時間以上かかるというボリュームの多さを何よりの売りにしていた。
これでしばらくは暇をつぶせるな。そう思って僕はほくそ笑む。
駅前の喧騒の中で、僕は珍しく上機嫌だった。
だから、いつもは無視するような呼び込みにも、少し応じてみようかと言う気分になったのだ。
「ちょっとお兄さん、あんた良うない相が出とるよ。お題はいいから、ちょっと見せてごらんなさい」
声をかけてきたのは、小柄な老婆だった。擦り切れた紫の着物を着ている。歩道橋の下にある広場に小さな机と椅子を置いて、そこに腰掛けていた。机から垂らした布には、毛筆で「占い」とだけ書かれている。
「ほんとに、お金いらないの?」
探るように、聞いてみる。
「いらんいらん。別にお守り買えとか入信しろとかも言やぁせんから、とりあえずいっぺん見してみんさい」
老婆の屈託のない声。うさんくさいな、と思いながらも、その声と、皺の奥の澄んだ瞳に惹かれて、足を止めることにした。
「じゃあ、一度見てもらおうかな」
「よっしゃ、じゃあお座り」
老婆は机の前にある椅子を指差した。
向かい合うようにして座る。椅子は木製で、手作りなのか、表面はゴツゴツしていた。座りが悪くて、なんだか安定しない気分になる。
「どーれ……」
彼女がまじまじと見つめてきた。深い海のような澄んだ目が、まっすぐに僕を捉える。
なんだか気恥ずかしくなって、僕は思わずうつむいてしまう。
「こりゃ、うつむいたら解りゃあせんがな」
怒られた。頬を両手で挟みこまれて、ぐいっと顔を上げさせられる。
顔が火照っていくのがわかる。相手は老婆だというのに、変に緊張するのは、きっと彼女の目があまりに綺麗で優しい色をしているせいだ。
それにしても、こんなに熱い視線を浴びたのは、いつ以来だったっけ。
「なるほどなぁ」
しばらくして、老婆は僕を解放した。どうやら結論が出たらしい。僕はうつむいて、大きく息を吐く。
疲れた。けれど、嫌な気はしない。
「あんた、どうも近いうちに事故……におうて怪我すると出とるわ。それも多分近いうちじゃなぁ……」
いかにも、という風に神妙な顔つきをしながら、彼女は厳かに告げる。
僕はそれを静かに聞いていた。
ついさっきまで老婆に抱いていた良い印象が、すうっと引いて行くのがわかる。
大きな落胆が、僕を捉えた。あんなに綺麗な目をしている人も、結局は他の汚い人間と同じだったという事実が、なんだか悲しかった。
あぁ、やっぱりな。
ため息をつきながら、心の中で言う。
やっぱり、そうやって脅して金を取ろうって魂胆だったわけだ。
気弱そうな顔をしているせいか、僕はこの手のセールスに、しょっちゅう声をかけられていた。だから、こう言う奴等への対処は、自然と上手くなっていた。……人に誇れるような特技じゃないけれど。
さあ、次はなんだ。お守りじゃなけりゃ、お札か? それとも壷か?
身構える僕を見て、老婆はにっこりと笑う。
「そげぇな顔をせんでも、大丈夫じゃ。占いは所詮、占いじゃけえの。当たるも八卦、当たらぬも八卦。必ずしも占った通りになるっちゅうわけじゃないで。しっかり自分の運命と向き合って、最善の努力をすれば、きっと未来は良くなるもんじゃ。……結局、自分次第っちゅうことじゃな」
占い師がそれを言うたらおしまいじゃけどなぁ、と続けて、彼女は陽気に笑った。
予想外の言葉に肩透かしを食らわされた僕は、つられるように曖昧に笑うしかなかった。
結局、最初からだます気なんて、さらさらなかったってことか。
そう思うと、少しでも疑っていた自分が、急に恥ずかしくなった。
「ありがとうございました」
そう言ってそそくさと立ち上がると、老婆はいたずらっぽい笑顔で僕を見上げると、言った。
「壷もお札も売らんかったじゃろうが?」
見透かされた。思わず言葉に詰まる。
「顔に書いとるわ」
そう言って老婆は、愉快そうにまた、ヒャッヒャッと笑った。
この人、実は凄い占い師なのかもしれない。
そう思いながら、僕はまた、曖昧に笑うしかなかった。
4.三日前、深夜(序章、その三)
「ねぇ」
声をかけられた。
今日はよく声をかけられる日らしい。
僕は驚いて顔を上げたが、そこには誰も居なかった。
当然だ。この部屋には、僕しか住んでいないはずなのだから。
部屋を見渡す。
僕が腰掛けているのは安物のパイプベッド。部屋の真ん中にはプラスチックの白い机がある。上には、ノートパソコンと、コンビニ弁当。弁当のご飯が半分くらい残っていて、割り箸が刺さったままになっている。
向かい側の壁にはテレビと本棚。それから、隅の方には大きな姿見。これは中古屋で大安売りしてたやつで、古びた色の木枠は、安物のプラスチック家具ばかりの部屋で、一際浮いていた。
右側の壁にはクローゼットと、キッチンに続くドア。両方とも、やたらに立て付けが悪い。
左側の壁には、大きな窓。淡い緑色のカーテンが閉まっている。床にはゴミ袋が置いてあって、ここ三日分くらいの僕の生活がそこに収まっていた。弁当のゴミと、空き缶と、丸めたティッシュと、切った爪と……。
とにかく、僕の他に誰かがいる様子は見当たらなかった。
……気のせいか。
僕はそう結論付けて、手に持っている携帯ゲーム機に、再び目を落とす。
やっていたのは、今日買ってきたゲームソフトだ。途中までは順調に進んでいたのだが、ついさっき出てきた、鳥のような巨大なモンスターがどうしても倒せない。さっきインターネットで調べたところ、こいつは初心者が最初にぶつかる壁だそうだ。こいつを倒せば、ようやく一通りの操作は覚えたと言っていいらしい。
携帯の時計を見ると、夜二時を指していた。ここまででもう四時間近くプレイしていたことになる。
なるほど、これは確かに長く楽しめそうだ。
気を取り直して、もう一度挑もうとした時、
「ねえ」
また、声がした。
さっきよりも、はっきりした大きな声だ。
誰だ?
顔を上げる。やっぱり、誰もいなかった。
ただ、さっきとは決定的に違うことが一つある。
はっきりと、人の気配があったのだ。
背筋に、冷たいものが走る。
どこだ。
違和感の正体を突き止めようと、もう一度首を巡らせる。
安物のパイプベッド。青い色のシーツは汗の汚れでうっすらと黄ばんでいる。
プラスチックの白い机。黒い汚れが机の隅に溜まっている。パソコンは蛍光灯の光を鈍い銀色に照り返している。弁当のご飯はカチカチだ。
テレビ。液晶の薄いやつだ。
本棚。これもプラスチック製。買っただけでほとんど使っていない教科書や料理本などが、薄く埃を被っている。
クローゼット。誰かが中に隠れているのだろうか。耳を澄ますが、物音は聞こえない。
キッチンへと続くドア。天窓の向こうは真っ暗だ。人が居る様子はない。それに、気配はもっと近くから感じられるのだ。多分、この部屋のどこかに。
窓にはカーテンが降りている。外を伺う事はできない。
そして、鏡には呆然とした顔の僕が
瞬間、空気が張り裂けるような音。
同時に、鏡が雪崩のように木枠の表面を滑り落ちていく。破片が蛍光灯の光を受けて、ちかちかと瞬いた。
それを眺めながら、僕は手に持っていたはずの携帯ゲーム機が無くなっている事に気付く。
小山となった鏡の破片の中から、その無くなった携帯ゲーム機が、半分だけ突き出ていた。
ゲーム機を持っていたはずの手は、鏡に投げつけた格好のままで、宙に留まっている。手は、小刻みに震えていた。
震えていたのは手だけではなかった。全身が、まるで寒中水泳の後のように、震えていた。
息が荒い。
口の中がカラカラに乾いていく。
胸が苦しい。
心臓が物凄い速さで鼓動を打っている。
ゲーム機の心配も、騒音の苦情も、割ってしまった鏡の処理方法も全部思考の彼方に飛んで、僕の頭にはただ、さっき見た鏡の中の光景だけが、強く焼き付けられていた。
誰 かが、僕 の後ろ に立っ てい る。