ホーの解
「志工 香矢の不調」
ーーーーーーー
その少女が現れたとき香矢は全ての音が聞こえなくなった。その少女が持つ何かに香矢は痛いほど共感させられている。
葵 古都という少女をその目に収めた瞬間、香矢はどこか奇妙な懐かしさを感じた。単なる錯覚ではないことは分かる。だけど香矢はこのときに古都とは初対面であったことは間違いない。それなのに古都には他人という雰囲気は感じ取れなかった。
まるで何時も傍にいたかのようなどこか親しみの沸く少女だった。士友の口から出たからどういう女かと思ったが、香矢はこのとき古都がそこら辺にいる女性とはどこか違うと肌で感じていた。
士友が鳥肌が立つような猫なで声を出して古都に話をしているときも、香矢はちょっと古都が気になってそれを悟られないようにするために口笛で「信念」を吹くことに必死だった。
なぜ士友はこの娘に興味を持ったのだろうか。士友が口説いている古都を横目で伺ってみる。絹糸のようなさらさらとした手触りを持つであろう彼女の髪の毛は水気を十分に含んで湿っている。
それだけを見ただけで香矢はまた視線を戻す。やはり彼女から伝わってきた懐かしさの原因を見出すことはできなかった。
そして肝心の士友の提案だが、古都は飲むわけがないだろう。思ったとおり結果はさんざんだった。古都は訳の分からない士友の主張に辟易して、会話を途中で打ち切るとさっさと帰ってしまった。後に残された士友と香矢の間にはお約束のように気まずい空気が漂う。
「まぁ。予想通りの結果ということか」
寄りかかっていた柱から背を離し香矢は帰ろうとする。雨粒は銀糸のような軌跡を残し、大地に叩きつけられては無数に分かれてはじけていた。霧のように目の前の視界がかすむけどその先では古都が離れていくのが分かる。
香矢は見えるわけないのにその姿を見ようとしていた。士友は香矢の言葉に動じていなく、そして帰ろうとする香矢の肩を掴む。
「さぁ。香矢。お前の出番がやってきたぞ。今すぐ葵君を追え」
「ふざけるな」
香矢の中に悪い予感が芽を出す。士友のことだ。彼女の同意を得ないで香矢につきまとえと言い出しかねないとは思っていた。士友のさっきの言葉にそうなる可能性が小さな破片となって香矢の肌をつついていた。
早いところそれをどうにかしなければいけないのだが、士友はにへらと笑う。香矢がなぜこんなに不機嫌かを微塵にも考えていないようなうえに自分の発言に指先ほどの間違いを見つけていないようだ。
香矢はその顔を見て、士友の胸倉を掴もうとした自分の手を制服のポケットにもどす。これから士友が言うことだけは避けたいのにどうやらそれはもう自分の眼前にまで迫っていたらしい。
「ふざけてなんかいない。葵君の同意を得られなかったら黙って傍にいればいい。君の得意技だろう?香矢なら誰にも正体をばれずにあの子の近くを二十四時間立っていられるぜ」
親指をぐっとたてる士友に香矢は返事をする気力さえ尽きていた。こっちが反論できないからといって調子に乗りやがって。何かをすりつぶすように自分の口を動かすと香矢は力なく柱に寄りかかる。
遠くで浮ぶ古都の影はその輪郭をおぼろげに視覚できるだけだった。いるのかいないのか分からない。存在感が希薄。まるで幽霊。香矢はふと忘れかけていたある疑問を思い出した。
「あのさ。前から疑問だったんだけどどうしてあの葵とかいうやつのことを注視しているんだ?また襲われるという確証でもあるのか?」
振り返ると士友はいなかった。自分の目の前に広がるどうということない空間が香矢の目にはとても大きな黒い穴のように映る。どこか足りない空虚感が以前虫に食われて穴が開いた自分の服を連想させた。
士友を今から探しても無駄だろう。香矢は自分の選択権が士友の手の中にあることを心底思い知った。
ーーーーーーー
葵 古都のことは士友からいくつか聞いている。寮の裏で倒れていたこと。全身に傷痕が残っていること。そのための包帯のこと。復学して何事もなく生活していること。
自分の部屋に戻ってきた香矢はベットの上で寝転んで士友からもらった古都の写真を見ていた。そっと部屋の蛍光灯にすかしてみる。生徒手帳のために作ったとしか思えない無機質な顔をしていても、光にすかしててみれば表情が変わることを期待した。
だがそんな遊びもすぐに飽きて、むくりと上体を起こし携帯電話で時刻を確認する。もう古都も自分の部屋で休んでいるところだろう。
士友の注文では二十四時間見張っていろとのことだ。だがこの時勢に男が女子寮のあたりをうろうろしていたら勘違いして欲しいといっているようなものだ。しかも誰かの様子を伺うようなそぶりを見せていたらそれこそ弁明する機会すらあたえてもらえないだろう。
要は見つかってはいけないということだ。ならこの方法で行くしかないだろう。香矢は自分の鞄を開くと身支度を整える。士友の命令に従うのは気に入らないが人選は間違っていない。それを一番理解しているのは香矢自身だった。
その少女が現れたとき香矢は全ての音が聞こえなくなった。その少女が持つ何かに香矢は痛いほど共感させられている。
葵 古都という少女をその目に収めた瞬間、香矢はどこか奇妙な懐かしさを感じた。単なる錯覚ではないことは分かる。だけど香矢はこのときに古都とは初対面であったことは間違いない。それなのに古都には他人という雰囲気は感じ取れなかった。
まるで何時も傍にいたかのようなどこか親しみの沸く少女だった。士友の口から出たからどういう女かと思ったが、香矢はこのとき古都がそこら辺にいる女性とはどこか違うと肌で感じていた。
士友が鳥肌が立つような猫なで声を出して古都に話をしているときも、香矢はちょっと古都が気になってそれを悟られないようにするために口笛で「信念」を吹くことに必死だった。
なぜ士友はこの娘に興味を持ったのだろうか。士友が口説いている古都を横目で伺ってみる。絹糸のようなさらさらとした手触りを持つであろう彼女の髪の毛は水気を十分に含んで湿っている。
それだけを見ただけで香矢はまた視線を戻す。やはり彼女から伝わってきた懐かしさの原因を見出すことはできなかった。
そして肝心の士友の提案だが、古都は飲むわけがないだろう。思ったとおり結果はさんざんだった。古都は訳の分からない士友の主張に辟易して、会話を途中で打ち切るとさっさと帰ってしまった。後に残された士友と香矢の間にはお約束のように気まずい空気が漂う。
「まぁ。予想通りの結果ということか」
寄りかかっていた柱から背を離し香矢は帰ろうとする。雨粒は銀糸のような軌跡を残し、大地に叩きつけられては無数に分かれてはじけていた。霧のように目の前の視界がかすむけどその先では古都が離れていくのが分かる。
香矢は見えるわけないのにその姿を見ようとしていた。士友は香矢の言葉に動じていなく、そして帰ろうとする香矢の肩を掴む。
「さぁ。香矢。お前の出番がやってきたぞ。今すぐ葵君を追え」
「ふざけるな」
香矢の中に悪い予感が芽を出す。士友のことだ。彼女の同意を得ないで香矢につきまとえと言い出しかねないとは思っていた。士友のさっきの言葉にそうなる可能性が小さな破片となって香矢の肌をつついていた。
早いところそれをどうにかしなければいけないのだが、士友はにへらと笑う。香矢がなぜこんなに不機嫌かを微塵にも考えていないようなうえに自分の発言に指先ほどの間違いを見つけていないようだ。
香矢はその顔を見て、士友の胸倉を掴もうとした自分の手を制服のポケットにもどす。これから士友が言うことだけは避けたいのにどうやらそれはもう自分の眼前にまで迫っていたらしい。
「ふざけてなんかいない。葵君の同意を得られなかったら黙って傍にいればいい。君の得意技だろう?香矢なら誰にも正体をばれずにあの子の近くを二十四時間立っていられるぜ」
親指をぐっとたてる士友に香矢は返事をする気力さえ尽きていた。こっちが反論できないからといって調子に乗りやがって。何かをすりつぶすように自分の口を動かすと香矢は力なく柱に寄りかかる。
遠くで浮ぶ古都の影はその輪郭をおぼろげに視覚できるだけだった。いるのかいないのか分からない。存在感が希薄。まるで幽霊。香矢はふと忘れかけていたある疑問を思い出した。
「あのさ。前から疑問だったんだけどどうしてあの葵とかいうやつのことを注視しているんだ?また襲われるという確証でもあるのか?」
振り返ると士友はいなかった。自分の目の前に広がるどうということない空間が香矢の目にはとても大きな黒い穴のように映る。どこか足りない空虚感が以前虫に食われて穴が開いた自分の服を連想させた。
士友を今から探しても無駄だろう。香矢は自分の選択権が士友の手の中にあることを心底思い知った。
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葵 古都のことは士友からいくつか聞いている。寮の裏で倒れていたこと。全身に傷痕が残っていること。そのための包帯のこと。復学して何事もなく生活していること。
自分の部屋に戻ってきた香矢はベットの上で寝転んで士友からもらった古都の写真を見ていた。そっと部屋の蛍光灯にすかしてみる。生徒手帳のために作ったとしか思えない無機質な顔をしていても、光にすかしててみれば表情が変わることを期待した。
だがそんな遊びもすぐに飽きて、むくりと上体を起こし携帯電話で時刻を確認する。もう古都も自分の部屋で休んでいるところだろう。
士友の注文では二十四時間見張っていろとのことだ。だがこの時勢に男が女子寮のあたりをうろうろしていたら勘違いして欲しいといっているようなものだ。しかも誰かの様子を伺うようなそぶりを見せていたらそれこそ弁明する機会すらあたえてもらえないだろう。
要は見つかってはいけないということだ。ならこの方法で行くしかないだろう。香矢は自分の鞄を開くと身支度を整える。士友の命令に従うのは気に入らないが人選は間違っていない。それを一番理解しているのは香矢自身だった。
ーーーーーーー
女子寮の裏手に回り香矢は木陰に隠れてそっと息を潜める。雨音が足音を消してくれるからどこに隠れても都合がよかったのだが、この夜にセーラー服だけどいう服装は精神的にも肉体的にも寒気が止まらないものだった。
だからといってあのマントと帽子があればいいというものでもないので、そこは我慢しなければいけない。つまり士友にいう恨み言がまた一つ増えたということだ。木の幹に寄りかかりすこし遠くから古都の部屋を観察する。
ぽつぽつと明かりがついている部屋の一つが古都の部屋だ。暗くなっている部屋の方が多いのは男子寮と同じで人気がないことの表れだろう。士友から事前に教わったとおり、古都の部屋を確認して、香矢は予め買っておいたコーヒーのプルタブを開く。
行く途中で自動販売機から買ってきた百円のコーヒーだ。これで身が温まるというのだから自分は思った以上に安上がりの人間なのだろう。開いた口から立ち上る湯気に頬が温められる。
古都は自分の部屋で何をしているのだろう。一目も見ていない彼女の部屋を自分の思うとおりに想像して、すぐに恥ずかしくなってそれを打ち消した。柔らかい地面を自分の足で練りつぶすとさっきまで古都のことを考えていた自分を踏み潰しているようだった。
士友があの占い部屋に現れてから香矢は不機嫌なままだ。香矢に対する士友の扱いがありえないほどに悪いということだけが原因でそれをどうすることもできないのがその不機嫌さに拍車をかけている。
ただ今の不機嫌な理由が本当に士友のことであるのだろうか。どこかそれに疑問がもてないのは再び古都のことが頭の中に浮かび上がってきたからだった。古都のことを考えてしまう自分が説明できないからこう不機嫌になっているのではないだろうか。
その仮説が一番妥当であるようだけど……。頭を振って自分が脳内に書き連ねていたことを白紙に戻す。今はただ古都のことを見張っていればいいだろう。
突然古都の部屋が暗くなった。香矢は残ったコーヒーを全て飲み干す。波がもどってゆくように眠気が引き、頭が軽くなる。日常で考えれば見過ごすであろう変化も香矢にとってはそういうわけにはいかない。
古都の部屋が暗くなったのは何か理由があるわけだ。それは見つけなければいけないだろう。
まだ時間的には寝る時間ではない。古都の生活サイクルは知らないがまさかということがある。もしかしたら部屋から出て行ったのかもしれない。トイレという短時間で部屋に戻ってくることではなく、例えば少し遠出をすることだとしたら。
「ここはやはり後を追うべき」
ぼそりと香矢は香としての声を出して雨で冷たくなった体を動かす。
入り口へ急ぐ香矢の後を追うように梟たちが飛び立った。木の枝が震える音とそれらの羽ばたきの音は雨音よりも勝っていた。
ーーーーーーー
古都は別に特異な行動をするわけではなかった。ただ学校から一番近いコンビニに向かっただけだった。けれども近いといっても歩いて半時間ほどかかる。遠くから街灯に照らされる古都の後姿を時折確認して、手を伸ばそうにもつかめないようなもどかしさを抱えていた。自分が今まで体験したこともない長さの三十分だった。
古都はコンビニの中に入り、立ち読みを始めている。結構長居をするつもりなのだろう。香矢は中に入るべきかどうか迷っていた。
変装をしているとはいえ油断は大敵というものであまり近づきすぎると香矢がいることに気づいてしまう恐れがある。女の感ほど怖いものはない。
寂しさだけが募る音を出す雨がセーラー服の端を濡らしている。夜の絶対的な暗さを頑張って打ち消しているようなコンビニの明るさはただ明るいというだけで人の気配というものを感じなかった。
ただそれでもちらほらと店内に人影を数えることができる。その中の一人に古都がいるのを確認できる。香矢はまだコンビニの中に入ることに決心が付かなかったが、駐車場で明らかにそれっぽい人間が集まっているので中に入ることにした。セーラー服の自分がこの時間に外で棒立ちでいるといろいろな奴に捕まりかねない。
店員と目が合うときまずくなるから目線は足元を固定しつつたまに古都の様子を観察する。少し近くで見た古都の横顔は放課後に見たときと同じで親しみやすさといったものが胸に溜まってゆく。他人と顔を合わしたときに自分を縛るよそよそしさはでない。
あの無表情な顔からなぜそのようなことを感じてしまうのだろう。みずみずしい唇とか、まっすぐに垂れている髪の毛とか薄く開いた目とかからにじみでる日本人らしい古都の顔つきは和風人形のようだった。
そしてそれを考えている自分が自分の知らない別人のようでばかかかしくなってきた。
香矢はお菓子の棚からたまたま目に付いたたけのこの里を手に取る。だが財布の中を覗いたらそれさえ買う金もなく自分の不運に嫌気が差してくる。
陰鬱な気持ちが引き金となって疑問が喉をついてきた。自分はなぜここにいるのだろう。しかしそれは香矢が考えていることではない。ここにいるのは士友がそう指示をだしたから仕方なくいるだけだ。
だがそれが理由ではなくなっていることはうすうす理解していた。古都のことばかり気にしてしまう。自分から古都の姿を見ている。香矢はそれに気づいて、持っていたたけのこの里を乱暴に棚に戻す。今日の自分はどこかおかしい。
古都の何に香矢はひかれているのだろう。放課後からそうだった。香矢は古都に他人とは違う何かを感じている。それをよく知りたくて古都を見ると、彼女は自動ドアの前に立っていた。つまらなさを鉄面皮の下に隠して傘を広げている。
この時間ならもう帰るのだろうが見失うとまずい。古都について思うことはひとまず置いといて香矢もある程度距離をとる。だがここで予想にならないことがおきた。コンビニを出た古都は駐車場で群れを成していたろくでなしに囲まれ帰り道とは反対の方へと進んでいったのだ。
一部始終をじっくり眺め、今日になって初めて香矢はためいきをつく。古都はどこか見知らぬ人間に声をかけられるような星の下で生きているのではないだろうか。のんきなことを考えながら傘を開く。
すさまじい速度で花が開いたかのように傘は広がり、それを見てくすりと笑みがこぼれる。場を理解していないかのようだが事は簡単に終わるだろう。軽く口笛で「信念」のイントロを口ずさみながら香矢は古都の後を追った。
女子寮の裏手に回り香矢は木陰に隠れてそっと息を潜める。雨音が足音を消してくれるからどこに隠れても都合がよかったのだが、この夜にセーラー服だけどいう服装は精神的にも肉体的にも寒気が止まらないものだった。
だからといってあのマントと帽子があればいいというものでもないので、そこは我慢しなければいけない。つまり士友にいう恨み言がまた一つ増えたということだ。木の幹に寄りかかりすこし遠くから古都の部屋を観察する。
ぽつぽつと明かりがついている部屋の一つが古都の部屋だ。暗くなっている部屋の方が多いのは男子寮と同じで人気がないことの表れだろう。士友から事前に教わったとおり、古都の部屋を確認して、香矢は予め買っておいたコーヒーのプルタブを開く。
行く途中で自動販売機から買ってきた百円のコーヒーだ。これで身が温まるというのだから自分は思った以上に安上がりの人間なのだろう。開いた口から立ち上る湯気に頬が温められる。
古都は自分の部屋で何をしているのだろう。一目も見ていない彼女の部屋を自分の思うとおりに想像して、すぐに恥ずかしくなってそれを打ち消した。柔らかい地面を自分の足で練りつぶすとさっきまで古都のことを考えていた自分を踏み潰しているようだった。
士友があの占い部屋に現れてから香矢は不機嫌なままだ。香矢に対する士友の扱いがありえないほどに悪いということだけが原因でそれをどうすることもできないのがその不機嫌さに拍車をかけている。
ただ今の不機嫌な理由が本当に士友のことであるのだろうか。どこかそれに疑問がもてないのは再び古都のことが頭の中に浮かび上がってきたからだった。古都のことを考えてしまう自分が説明できないからこう不機嫌になっているのではないだろうか。
その仮説が一番妥当であるようだけど……。頭を振って自分が脳内に書き連ねていたことを白紙に戻す。今はただ古都のことを見張っていればいいだろう。
突然古都の部屋が暗くなった。香矢は残ったコーヒーを全て飲み干す。波がもどってゆくように眠気が引き、頭が軽くなる。日常で考えれば見過ごすであろう変化も香矢にとってはそういうわけにはいかない。
古都の部屋が暗くなったのは何か理由があるわけだ。それは見つけなければいけないだろう。
まだ時間的には寝る時間ではない。古都の生活サイクルは知らないがまさかということがある。もしかしたら部屋から出て行ったのかもしれない。トイレという短時間で部屋に戻ってくることではなく、例えば少し遠出をすることだとしたら。
「ここはやはり後を追うべき」
ぼそりと香矢は香としての声を出して雨で冷たくなった体を動かす。
入り口へ急ぐ香矢の後を追うように梟たちが飛び立った。木の枝が震える音とそれらの羽ばたきの音は雨音よりも勝っていた。
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古都は別に特異な行動をするわけではなかった。ただ学校から一番近いコンビニに向かっただけだった。けれども近いといっても歩いて半時間ほどかかる。遠くから街灯に照らされる古都の後姿を時折確認して、手を伸ばそうにもつかめないようなもどかしさを抱えていた。自分が今まで体験したこともない長さの三十分だった。
古都はコンビニの中に入り、立ち読みを始めている。結構長居をするつもりなのだろう。香矢は中に入るべきかどうか迷っていた。
変装をしているとはいえ油断は大敵というものであまり近づきすぎると香矢がいることに気づいてしまう恐れがある。女の感ほど怖いものはない。
寂しさだけが募る音を出す雨がセーラー服の端を濡らしている。夜の絶対的な暗さを頑張って打ち消しているようなコンビニの明るさはただ明るいというだけで人の気配というものを感じなかった。
ただそれでもちらほらと店内に人影を数えることができる。その中の一人に古都がいるのを確認できる。香矢はまだコンビニの中に入ることに決心が付かなかったが、駐車場で明らかにそれっぽい人間が集まっているので中に入ることにした。セーラー服の自分がこの時間に外で棒立ちでいるといろいろな奴に捕まりかねない。
店員と目が合うときまずくなるから目線は足元を固定しつつたまに古都の様子を観察する。少し近くで見た古都の横顔は放課後に見たときと同じで親しみやすさといったものが胸に溜まってゆく。他人と顔を合わしたときに自分を縛るよそよそしさはでない。
あの無表情な顔からなぜそのようなことを感じてしまうのだろう。みずみずしい唇とか、まっすぐに垂れている髪の毛とか薄く開いた目とかからにじみでる日本人らしい古都の顔つきは和風人形のようだった。
そしてそれを考えている自分が自分の知らない別人のようでばかかかしくなってきた。
香矢はお菓子の棚からたまたま目に付いたたけのこの里を手に取る。だが財布の中を覗いたらそれさえ買う金もなく自分の不運に嫌気が差してくる。
陰鬱な気持ちが引き金となって疑問が喉をついてきた。自分はなぜここにいるのだろう。しかしそれは香矢が考えていることではない。ここにいるのは士友がそう指示をだしたから仕方なくいるだけだ。
だがそれが理由ではなくなっていることはうすうす理解していた。古都のことばかり気にしてしまう。自分から古都の姿を見ている。香矢はそれに気づいて、持っていたたけのこの里を乱暴に棚に戻す。今日の自分はどこかおかしい。
古都の何に香矢はひかれているのだろう。放課後からそうだった。香矢は古都に他人とは違う何かを感じている。それをよく知りたくて古都を見ると、彼女は自動ドアの前に立っていた。つまらなさを鉄面皮の下に隠して傘を広げている。
この時間ならもう帰るのだろうが見失うとまずい。古都について思うことはひとまず置いといて香矢もある程度距離をとる。だがここで予想にならないことがおきた。コンビニを出た古都は駐車場で群れを成していたろくでなしに囲まれ帰り道とは反対の方へと進んでいったのだ。
一部始終をじっくり眺め、今日になって初めて香矢はためいきをつく。古都はどこか見知らぬ人間に声をかけられるような星の下で生きているのではないだろうか。のんきなことを考えながら傘を開く。
すさまじい速度で花が開いたかのように傘は広がり、それを見てくすりと笑みがこぼれる。場を理解していないかのようだが事は簡単に終わるだろう。軽く口笛で「信念」のイントロを口ずさみながら香矢は古都の後を追った。
ーーーーーーー
士友が香矢を古都の護衛として選んだ理由について、女装ができるからの他にもう一つ存在する。古都を囲んでいる集団の後ろに立ち香矢は小さく息を吸い込んだ。今は香矢と古都、そして不良たちしかいない。他に見ているのは梟ぐらいだ。
コンビニからそれほど離れていない最寄り駅の前はそれなりに開発が進んでいる。欲しいものならほとんどのものがここでそろうということだ。だが寮生活をしている生徒がここまで来ることはほとんどない。足りないものは学校の購買部で集めることができるからだ。
だから香矢がここまで来るのも久しぶりだ。このようなことがなければ高校生活でここまで来ることはなかっただろう。
古都たちを追って香矢が来た場所は線路に沿うように立ち並ぶ建物の隙間だった。何もすることがない場所だからこそ口ではいえない何かをするのに最適なのだろう。古都は不良たちに囲まれてその姿が見えない。
漫画のような展開にきりきりと頭が痛くなる。だが与えられた役は自分の意思とは関係なく演じなければいけないだろう。
自分が持っていた傘を放り投げる。傘は空中をくるくると回り、そして羽根のように地面に着地した。水しぶきが飛び散る音は日常では気にも止めない無価値な音だ。だけどこの時だけは古都を囲んでいる奴らの視線を集めることができる。
名前も知らない奴らが一斉に振り向いた。その瞬間に香矢はもう一番近かった場所に立っていた一人の懐にもぐりこんでいる。
金髪や肩にかかるぐらいの長さの髪の毛や、ピアスなど、まるで道を外している奴のお手本とでもいうような格好をしている。ここまで容姿を徹底した記号にしてくれるとほめてやりたいぐらいだ。
身長差では勝てないことは知っている。だがその身長差を逆に利用してやればいい。相手はまだ状況が飲み込めていないのか目を丸くしている。香矢はそいつに考える猶予を与えることなく利き腕に力を込めた。
全身を押し込めたばねが一気に伸び広がるように動かし、曲げた腕を伸ばしながら天へ突き上げる。目指す場所は相手の顎。狙い通りに香矢の拳はそこへ到達し、わずかな抵抗と共に力任せに拳を押し上げた。
自分の耳の中でスパーンと切れ味のいい音を聞いた。目も覚めるような快音に香矢の拳がしびれる。香矢のアッパーを身構えもせずに受けた相手は数秒間空中を浮び、そして背中から地面に落ちた。
誰もがあっけに取られたように口を中途半端に開いている。奴らに連れ去れようとしていた古都も同じだった。香矢はそのまま呼吸を要れずに残りの人間へと突っ込んでいく。倒した奴も含めて人数は四人。
やっと状況を理解したのか残りの三人が香矢を囲む。大きな声を出さないのは誰かに気づかれるのを恐れているからだろう。統制が取れている上に冷静な判断だ。だけど所詮はお手本のような不良どもである。
足音を立てず香矢は次の行動をとる。奴らにしてみればそれは闇の中に浮かび上がる亡霊のように見えただろう。
ーーーーーーー
遠くに投げられていた傘を拾うと、もう一つ傘があるのに気づいた。たぶん古都の傘だろう。香矢はそれを拾うと室外機を椅子にしている古都に突き出した。
「大丈夫?」
見るからに古都は大丈夫ではなかった。雨に全身を打たれてずぶぬれになっている。服が密着して体の線があらわになっている。不謹慎だが目のやり場に困る姿だった。
少し服装が乱れている。それに片で息をしているようだ。茫然自失としているのだろうか。香矢の言葉が届いていないようだった。しかし古都が香也を見ているのは分かる。
香矢はそれに少しおののいてそして古都とこう近くでいられることが幸運なのか不運なのか判断する天秤が頭の中で揺れていた。古都を見れば見るほど自分の中で複雑な感情が編み合わさってゆく。
こう距離を縮めれば古都から感じる親近感の正体をつかめるかもしれない。香矢の耳に甘いささやきが聞こえてくる。けど本当なら古都の目の届かない場所でそっと見守っているだけにしておきたかった。だからここで自分が姿を見せ、しかも拳を振るうことになるのは正直香矢自身も驚きだった。
そしてもう一つ誤算があるとすればこうして女の格好をしたまま古都の前に現れたということだ。もう顔を見られているかもしれない。
このまま走り去れば暗闇が香矢の体の輪郭を隠してくれるだろう。そのまま古都が記憶の底にうずめてくれればありがたい。だがこれからもこの姿で古都の前に現れる可能性が考えられる。
何度も同じ人影を自分の周りで見るようになればどんな鈍感な人間でも何かを感づくだろう。
それにこの夜道で古都を一人きりにさせるのは忍びないことだった。また何か余計なことに巻き込まれるかもしれない。二度あることは三度あるということを目の前で実現されるのはごめんだ。
なら古都をつれて帰るしかないな。香矢は自分が考えられるあらゆる状況を頭の中で演算して古都をどう納得させるかを考え、その結論を考えた。自分がセーラー服を着ていたことにこれほど感謝した日はなかっただろう。
この言い方なら大丈夫だろう。古都は私服だが香矢は学校の制服を着ている。このまま話の流れで古都も寮で住んでいることを引っ張り出し、そして自分も寮に住んでいることを明かして二人で帰ればいい。嘘はついていないのだから動作にぎこちなさは出ないはずだ。
よし。これでいこう。寮に付いたら適当なことを言って消えればいい。
「立てる?」
なるべくさりげなさを装って香矢は手を差し伸べた。古都は室外機に腰をおろしたまま動かない。冷えた体から血の気がないのがよく分かる。大理石のように白い顔とそして両腕に巻かれている包帯がほつれていた。
古都はそれに気づいて両腕を背中で隠す。そのまま形のいい唇が開かれる。雨が降りしきる音にのって古都はぼそりと呟いた。
「志工先輩ですか?」
一瞬、ガラスにヒビが入る音を聞いた。古都の目の色が変わる。香矢を見知らぬ他人としてではなく、それより一つ扱いが上の顔を覚えている人としての顔つきになる。香矢は二度目のため息をついた。
声で判断されたのではない。自分の声を古都は一回しか聞いていないのにそしてなにより声は変えている。それならなぜ古都は目の前にいる少女が香矢はどきづいたのだろう
しかし今の香矢はもはやそれを考える気も否定をする気にもなれない。古都の瞳は香矢が御託を並べたところで変えられない確信のまなざしを帯びていたからだ。これでまた予定が狂う。士友になんと言ったらいいだろう。
「あ。でも先輩が殴った人たちはどうしましょう」
「適当に寝転がせておけ」
拳の痛みよりも頭が痛む。頭の中でピンポン球がポンポン跳ね回っているようだ。どうして古都は他人のことを心配できるんだ。この状況で。
士友が香矢を古都の護衛として選んだ理由について、女装ができるからの他にもう一つ存在する。古都を囲んでいる集団の後ろに立ち香矢は小さく息を吸い込んだ。今は香矢と古都、そして不良たちしかいない。他に見ているのは梟ぐらいだ。
コンビニからそれほど離れていない最寄り駅の前はそれなりに開発が進んでいる。欲しいものならほとんどのものがここでそろうということだ。だが寮生活をしている生徒がここまで来ることはほとんどない。足りないものは学校の購買部で集めることができるからだ。
だから香矢がここまで来るのも久しぶりだ。このようなことがなければ高校生活でここまで来ることはなかっただろう。
古都たちを追って香矢が来た場所は線路に沿うように立ち並ぶ建物の隙間だった。何もすることがない場所だからこそ口ではいえない何かをするのに最適なのだろう。古都は不良たちに囲まれてその姿が見えない。
漫画のような展開にきりきりと頭が痛くなる。だが与えられた役は自分の意思とは関係なく演じなければいけないだろう。
自分が持っていた傘を放り投げる。傘は空中をくるくると回り、そして羽根のように地面に着地した。水しぶきが飛び散る音は日常では気にも止めない無価値な音だ。だけどこの時だけは古都を囲んでいる奴らの視線を集めることができる。
名前も知らない奴らが一斉に振り向いた。その瞬間に香矢はもう一番近かった場所に立っていた一人の懐にもぐりこんでいる。
金髪や肩にかかるぐらいの長さの髪の毛や、ピアスなど、まるで道を外している奴のお手本とでもいうような格好をしている。ここまで容姿を徹底した記号にしてくれるとほめてやりたいぐらいだ。
身長差では勝てないことは知っている。だがその身長差を逆に利用してやればいい。相手はまだ状況が飲み込めていないのか目を丸くしている。香矢はそいつに考える猶予を与えることなく利き腕に力を込めた。
全身を押し込めたばねが一気に伸び広がるように動かし、曲げた腕を伸ばしながら天へ突き上げる。目指す場所は相手の顎。狙い通りに香矢の拳はそこへ到達し、わずかな抵抗と共に力任せに拳を押し上げた。
自分の耳の中でスパーンと切れ味のいい音を聞いた。目も覚めるような快音に香矢の拳がしびれる。香矢のアッパーを身構えもせずに受けた相手は数秒間空中を浮び、そして背中から地面に落ちた。
誰もがあっけに取られたように口を中途半端に開いている。奴らに連れ去れようとしていた古都も同じだった。香矢はそのまま呼吸を要れずに残りの人間へと突っ込んでいく。倒した奴も含めて人数は四人。
やっと状況を理解したのか残りの三人が香矢を囲む。大きな声を出さないのは誰かに気づかれるのを恐れているからだろう。統制が取れている上に冷静な判断だ。だけど所詮はお手本のような不良どもである。
足音を立てず香矢は次の行動をとる。奴らにしてみればそれは闇の中に浮かび上がる亡霊のように見えただろう。
ーーーーーーー
遠くに投げられていた傘を拾うと、もう一つ傘があるのに気づいた。たぶん古都の傘だろう。香矢はそれを拾うと室外機を椅子にしている古都に突き出した。
「大丈夫?」
見るからに古都は大丈夫ではなかった。雨に全身を打たれてずぶぬれになっている。服が密着して体の線があらわになっている。不謹慎だが目のやり場に困る姿だった。
少し服装が乱れている。それに片で息をしているようだ。茫然自失としているのだろうか。香矢の言葉が届いていないようだった。しかし古都が香也を見ているのは分かる。
香矢はそれに少しおののいてそして古都とこう近くでいられることが幸運なのか不運なのか判断する天秤が頭の中で揺れていた。古都を見れば見るほど自分の中で複雑な感情が編み合わさってゆく。
こう距離を縮めれば古都から感じる親近感の正体をつかめるかもしれない。香矢の耳に甘いささやきが聞こえてくる。けど本当なら古都の目の届かない場所でそっと見守っているだけにしておきたかった。だからここで自分が姿を見せ、しかも拳を振るうことになるのは正直香矢自身も驚きだった。
そしてもう一つ誤算があるとすればこうして女の格好をしたまま古都の前に現れたということだ。もう顔を見られているかもしれない。
このまま走り去れば暗闇が香矢の体の輪郭を隠してくれるだろう。そのまま古都が記憶の底にうずめてくれればありがたい。だがこれからもこの姿で古都の前に現れる可能性が考えられる。
何度も同じ人影を自分の周りで見るようになればどんな鈍感な人間でも何かを感づくだろう。
それにこの夜道で古都を一人きりにさせるのは忍びないことだった。また何か余計なことに巻き込まれるかもしれない。二度あることは三度あるということを目の前で実現されるのはごめんだ。
なら古都をつれて帰るしかないな。香矢は自分が考えられるあらゆる状況を頭の中で演算して古都をどう納得させるかを考え、その結論を考えた。自分がセーラー服を着ていたことにこれほど感謝した日はなかっただろう。
この言い方なら大丈夫だろう。古都は私服だが香矢は学校の制服を着ている。このまま話の流れで古都も寮で住んでいることを引っ張り出し、そして自分も寮に住んでいることを明かして二人で帰ればいい。嘘はついていないのだから動作にぎこちなさは出ないはずだ。
よし。これでいこう。寮に付いたら適当なことを言って消えればいい。
「立てる?」
なるべくさりげなさを装って香矢は手を差し伸べた。古都は室外機に腰をおろしたまま動かない。冷えた体から血の気がないのがよく分かる。大理石のように白い顔とそして両腕に巻かれている包帯がほつれていた。
古都はそれに気づいて両腕を背中で隠す。そのまま形のいい唇が開かれる。雨が降りしきる音にのって古都はぼそりと呟いた。
「志工先輩ですか?」
一瞬、ガラスにヒビが入る音を聞いた。古都の目の色が変わる。香矢を見知らぬ他人としてではなく、それより一つ扱いが上の顔を覚えている人としての顔つきになる。香矢は二度目のため息をついた。
声で判断されたのではない。自分の声を古都は一回しか聞いていないのにそしてなにより声は変えている。それならなぜ古都は目の前にいる少女が香矢はどきづいたのだろう
しかし今の香矢はもはやそれを考える気も否定をする気にもなれない。古都の瞳は香矢が御託を並べたところで変えられない確信のまなざしを帯びていたからだ。これでまた予定が狂う。士友になんと言ったらいいだろう。
「あ。でも先輩が殴った人たちはどうしましょう」
「適当に寝転がせておけ」
拳の痛みよりも頭が痛む。頭の中でピンポン球がポンポン跳ね回っているようだ。どうして古都は他人のことを心配できるんだ。この状況で。
ーーーーーーー
寮に戻るまでの三十分は何事にも変えられない苦痛だった。香矢の後ろをただついてくる古都の足音が聞こえてくる。ぱしゃぱしゃと小さな音が二人の周りの空気を冷やし凍らせていくように感じた。
古都は何も言わない。香矢が女装をしていることも、なぜあの時にあの場所にいるのかも古都は追求しなかった。脚だけを動かしている。傘に阻まれてその表情を見ることはできなかった。
古都が言葉を発しないことに香矢は良い思いを抱かなかった。逆に香矢はただ怖かった。古都にではなく、自分の変装が他人にばれてしまったことでだ。これで自分が幾度に渡って女装をしていることを知っている人間は三人になってしまう。
何とか古都との会話の糸口を見つけて自分が好きで女装をしているわけではないことだけでも説明するべきだろうか。しかし何も思いつかない。焦りと緊張で頭の中が真っ白になっている。不良たちと対峙したときだってこんなに神経が張り詰めていなかった。
そして後に残るのはどうしようもない自己嫌悪だ。会話をしようと思っている人間とでさえ話すことができない。自分はそんな不器用な人間だ。分かっているのに変えられないのは少し心に響く。
自然とくしゃみがこぼれる。その寒さに体が反応しているのだろうか。香矢はほくそえみながら後ろを振り返る。古都は傘の柄を抱きかかえるようにして腕を自分の体に巻きつけている。古都は自覚していないようだがふるふると体を痙攣させていた。
なんとかしなければいけない。そう理由のない責任感が生まれるが結局何もできないまま女子寮の前まで来てしまった。薄暗い女子寮の入り口はまるで化け物が大きな口を開いているように見える。
振り返ると傘をたたんだ古都が怪訝な表情をしていた。香矢はその理由が分かる。香矢がここに来る必要性がない。
しかし現に香矢は古都をつれてここまで来てしまった。自分の服装のおかげで誰も自分を気にする人間はいないだろうが、そもそもこんな時間だから誰も通らない。それに気づいていながら女子寮の前に立っている自分がやけに滑稽に見えた。
本当ならこのまま帰ってもいい。しかし雨に打たれて野良猫のようにみすぼらしい古都を見過ごせない自分の気持ちのほうがやや勝っていた。
「財布持っている?」
古都は香矢の問いに答えなかった。かすかな息づかいから古都が狼狽しているのが伝わってくる。香矢は自分が香の声を出したからだろうと推測した。
「飲み物でも買ってきてやるよ。だから金よこせ」
「普通こういうときはおごってやるとかないのですか?」
「金がないんだよ」
古都はそれを聞いて何度か香矢に見せ付けるように頷いた後、ポケットの中から財布を出す。ブランド物でもない財布としての機能しか果たさない古都の財布からはなんとなく古都の人間性が出ているような気がした。
古都はそれごと香矢に預けるかと思ったがすぐに傘を開いて雨の中に飛び出した。広がる古都のスカートがまるで早送りで花の開花を見ているようだった。水しぶきも上げずに古都は地面に着地する。一連の動作がフィギュアスケートのジャンプのようだった。
「私も自動販売機まで行きます」
香矢の返答を待つ前に古都は歩き出す。香矢は黙ってそれについていった。
ーーーーーーー
飲み物をおごってもらう形になっているけどこっちは古都を助けたのだからこれぐらいのわがままを通してもよかったかもしれない。自販機の明かりのおかげで今いる場所は少しだけ明るい。
古都の顔がより鮮明に映る。幾分か落ち着いているようだ。そろそろ口火を切ってもいいかもしれない。
「ところで、何であいつらについていったんだよ」
古都は飲もうとしていたコーヒーから口を離す。そしてこほんと小さく咳をした。
「雨が降ったから家まで帰れなくて、だから傘を持っている私について来て欲しいとせがまれて、そしてこっちの道が近道だからって」
あほらしい。飲みかけたコーヒーを思わず吹き出しそうになった。古都は本当にそのような戯言を信じているとでもいうのだろうか。体を屈ませて丸くなってコーヒーをすすっている古都から、香矢は古都が本心からそのようなことを言っているとは思えなかった。
言っている本人の顔に自嘲じみた薄ら笑いが浮んでいたからである。
「嘘だろ。あいつらがどんな人間か分かってただろ」
まだ何かしゃべっていた古都の口が急に閉じられる。香矢はあの程度の嘘で自分が騙せると思われていたように考えてしまい、ちょっとだけ気分が悪くなった。
「自分が大切だったら少しは危険な人間を見極めろよ」
「どういう自分を大切にしたらいいのでしょう?」
香矢は古都が何を言おうとしているのかがよく分からなかった。屁理屈を言っているのかとも考えた。だが自分のコーヒーに手をつけないことから、古都は何か思いつめていることを感じ取る。
そして本人の顔は真剣そのものでさっきまでの古都はどこにもいなかった。古都は自分の言葉が説明不足だったことに気づいたのかばつが悪そうに目をそらしコーヒーを飲み始める。
「自信がもてないのです。記憶がないと私が私である確信が持てないのです」
それから古都は淡々と寮に入ってから誰かに襲われて、そして復学するまでの記憶がないことを教えてくれた。いやな記憶かもしれない。だけど過去の自分に何かあったのか分からないことはとても怖い。古都はそう話した後にまた自分の体を抱きしめる。
古都は自分に対しての評価と自信が薄れているというのか。あいまいな自分にとてつもない猜疑心を抱いているというのかもしれない。
このときに香矢はなぜ見初めたときに古都に親近感を受けたのかを分かることができた。原因はどうであれ彼女は自分と同じ孤独感と虚無感を持っているから香矢は親近感を抱いていたのではないだろうか。ふと自分の服装を見る。
男としての自分と女装している自分の二人が志工 香矢に内在している。本当の自分は男なのか、女装なのか、果てはその間で揺れているのかが分からない。自分がそんな濁った人間だから古都の不安には痛いほどに共感させられる。
だから香矢はこのとき古都を救いたいと願った。自分みたいな人間はいなくていい。それが古都のためだ。
「ならその記憶を探したらいいじゃないか」
「それができたら簡単ですよ」
「俺が手伝ってやるよ。こんな話を聞いた手前、そうなんだと言って帰ると夢見が悪くなりそうだ。まぁあれだ。乗りかかった船という奴」
口からさりげなくこぼれる言葉に古都は瞬時に反応する。古都に見つめられると雨の音が大きくなったような錯覚に襲われる。香矢は自分が何を言ったのかすっかり忘れて、古都のまなざしに絡めとられている。やがて古都のほうが語りだした。
「志工先輩がそのような事を言うとは思いませんでした」
古都は立ち上がる。空き缶を傍にあるゴミ箱に捨てる。
「でも素直にうれしいです。お願いします」
自然に差し伸ばされた手を香矢は自然に握り返した。包帯越しからでも伝わる柔らかい古都の手はほんのりとした温かさを帯びていた。香矢が古都の手を掴んだとき古都は初めて笑ってくれた。
香矢は笑えなかったけど古都の無表情を溶かしたという達成感に酔いしれていた。香矢は士友の思惑通りにはいたらなかったが古都と知り合いになってしまった。
寮に戻るまでの三十分は何事にも変えられない苦痛だった。香矢の後ろをただついてくる古都の足音が聞こえてくる。ぱしゃぱしゃと小さな音が二人の周りの空気を冷やし凍らせていくように感じた。
古都は何も言わない。香矢が女装をしていることも、なぜあの時にあの場所にいるのかも古都は追求しなかった。脚だけを動かしている。傘に阻まれてその表情を見ることはできなかった。
古都が言葉を発しないことに香矢は良い思いを抱かなかった。逆に香矢はただ怖かった。古都にではなく、自分の変装が他人にばれてしまったことでだ。これで自分が幾度に渡って女装をしていることを知っている人間は三人になってしまう。
何とか古都との会話の糸口を見つけて自分が好きで女装をしているわけではないことだけでも説明するべきだろうか。しかし何も思いつかない。焦りと緊張で頭の中が真っ白になっている。不良たちと対峙したときだってこんなに神経が張り詰めていなかった。
そして後に残るのはどうしようもない自己嫌悪だ。会話をしようと思っている人間とでさえ話すことができない。自分はそんな不器用な人間だ。分かっているのに変えられないのは少し心に響く。
自然とくしゃみがこぼれる。その寒さに体が反応しているのだろうか。香矢はほくそえみながら後ろを振り返る。古都は傘の柄を抱きかかえるようにして腕を自分の体に巻きつけている。古都は自覚していないようだがふるふると体を痙攣させていた。
なんとかしなければいけない。そう理由のない責任感が生まれるが結局何もできないまま女子寮の前まで来てしまった。薄暗い女子寮の入り口はまるで化け物が大きな口を開いているように見える。
振り返ると傘をたたんだ古都が怪訝な表情をしていた。香矢はその理由が分かる。香矢がここに来る必要性がない。
しかし現に香矢は古都をつれてここまで来てしまった。自分の服装のおかげで誰も自分を気にする人間はいないだろうが、そもそもこんな時間だから誰も通らない。それに気づいていながら女子寮の前に立っている自分がやけに滑稽に見えた。
本当ならこのまま帰ってもいい。しかし雨に打たれて野良猫のようにみすぼらしい古都を見過ごせない自分の気持ちのほうがやや勝っていた。
「財布持っている?」
古都は香矢の問いに答えなかった。かすかな息づかいから古都が狼狽しているのが伝わってくる。香矢は自分が香の声を出したからだろうと推測した。
「飲み物でも買ってきてやるよ。だから金よこせ」
「普通こういうときはおごってやるとかないのですか?」
「金がないんだよ」
古都はそれを聞いて何度か香矢に見せ付けるように頷いた後、ポケットの中から財布を出す。ブランド物でもない財布としての機能しか果たさない古都の財布からはなんとなく古都の人間性が出ているような気がした。
古都はそれごと香矢に預けるかと思ったがすぐに傘を開いて雨の中に飛び出した。広がる古都のスカートがまるで早送りで花の開花を見ているようだった。水しぶきも上げずに古都は地面に着地する。一連の動作がフィギュアスケートのジャンプのようだった。
「私も自動販売機まで行きます」
香矢の返答を待つ前に古都は歩き出す。香矢は黙ってそれについていった。
ーーーーーーー
飲み物をおごってもらう形になっているけどこっちは古都を助けたのだからこれぐらいのわがままを通してもよかったかもしれない。自販機の明かりのおかげで今いる場所は少しだけ明るい。
古都の顔がより鮮明に映る。幾分か落ち着いているようだ。そろそろ口火を切ってもいいかもしれない。
「ところで、何であいつらについていったんだよ」
古都は飲もうとしていたコーヒーから口を離す。そしてこほんと小さく咳をした。
「雨が降ったから家まで帰れなくて、だから傘を持っている私について来て欲しいとせがまれて、そしてこっちの道が近道だからって」
あほらしい。飲みかけたコーヒーを思わず吹き出しそうになった。古都は本当にそのような戯言を信じているとでもいうのだろうか。体を屈ませて丸くなってコーヒーをすすっている古都から、香矢は古都が本心からそのようなことを言っているとは思えなかった。
言っている本人の顔に自嘲じみた薄ら笑いが浮んでいたからである。
「嘘だろ。あいつらがどんな人間か分かってただろ」
まだ何かしゃべっていた古都の口が急に閉じられる。香矢はあの程度の嘘で自分が騙せると思われていたように考えてしまい、ちょっとだけ気分が悪くなった。
「自分が大切だったら少しは危険な人間を見極めろよ」
「どういう自分を大切にしたらいいのでしょう?」
香矢は古都が何を言おうとしているのかがよく分からなかった。屁理屈を言っているのかとも考えた。だが自分のコーヒーに手をつけないことから、古都は何か思いつめていることを感じ取る。
そして本人の顔は真剣そのものでさっきまでの古都はどこにもいなかった。古都は自分の言葉が説明不足だったことに気づいたのかばつが悪そうに目をそらしコーヒーを飲み始める。
「自信がもてないのです。記憶がないと私が私である確信が持てないのです」
それから古都は淡々と寮に入ってから誰かに襲われて、そして復学するまでの記憶がないことを教えてくれた。いやな記憶かもしれない。だけど過去の自分に何かあったのか分からないことはとても怖い。古都はそう話した後にまた自分の体を抱きしめる。
古都は自分に対しての評価と自信が薄れているというのか。あいまいな自分にとてつもない猜疑心を抱いているというのかもしれない。
このときに香矢はなぜ見初めたときに古都に親近感を受けたのかを分かることができた。原因はどうであれ彼女は自分と同じ孤独感と虚無感を持っているから香矢は親近感を抱いていたのではないだろうか。ふと自分の服装を見る。
男としての自分と女装している自分の二人が志工 香矢に内在している。本当の自分は男なのか、女装なのか、果てはその間で揺れているのかが分からない。自分がそんな濁った人間だから古都の不安には痛いほどに共感させられる。
だから香矢はこのとき古都を救いたいと願った。自分みたいな人間はいなくていい。それが古都のためだ。
「ならその記憶を探したらいいじゃないか」
「それができたら簡単ですよ」
「俺が手伝ってやるよ。こんな話を聞いた手前、そうなんだと言って帰ると夢見が悪くなりそうだ。まぁあれだ。乗りかかった船という奴」
口からさりげなくこぼれる言葉に古都は瞬時に反応する。古都に見つめられると雨の音が大きくなったような錯覚に襲われる。香矢は自分が何を言ったのかすっかり忘れて、古都のまなざしに絡めとられている。やがて古都のほうが語りだした。
「志工先輩がそのような事を言うとは思いませんでした」
古都は立ち上がる。空き缶を傍にあるゴミ箱に捨てる。
「でも素直にうれしいです。お願いします」
自然に差し伸ばされた手を香矢は自然に握り返した。包帯越しからでも伝わる柔らかい古都の手はほんのりとした温かさを帯びていた。香矢が古都の手を掴んだとき古都は初めて笑ってくれた。
香矢は笑えなかったけど古都の無表情を溶かしたという達成感に酔いしれていた。香矢は士友の思惑通りにはいたらなかったが古都と知り合いになってしまった。