Neetel Inside 文芸新都
表紙

Angel Knights
第3幕 贖罪と彷徨の果てに

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 第3幕 贖罪と彷徨の果てに

 1

 私はお兄ちゃんのすぐ後ろまで歩み寄り、光を背にして空中で静止しているヘキサと向かい合った。眩しさに目が慣れてくるにつれて、私ではなくお兄ちゃんをじっと見つめているヘキサの姿がはっきりとしてくる。ヘキサはお兄ちゃんへの敵意をむき出しにしていた。

「君は『解き放つ者』だね。まずはお礼を言うよ。
 ジュリアを目覚めさせてくれてありがとう」

 お兄ちゃんはヘキサの敵意を全身に受けながら、余裕たっぷりに言った。
 
 私よりも頭ひとつ小さくて、か弱い女の子にしか見えないお兄ちゃんなのに、どうしてこんなに強いんだろう?もし私が普通の女の子だったら、絶対お兄ちゃんみたいにはできない。恐ろしいことが起こったら、普通の人たちのように逃げ惑って、泣き喚くだけだ。
 運命に生かされているだけの哀れな存在。そんなのは嫌だから、私は強くなった。でもお兄ちゃんは弱いのに私よりずっと強い。だからお兄ちゃんは特別で、私はお兄ちゃんが大好きなんだ。


「・・・・・・あんた、記憶があるのか?」


 ヘキサは明らかに動揺していた。
 たった今までみなぎっていた敵意は跡形もなく消え失せている。


「うん。ジュリアとマリアが生まれた時にぜんぶ思い出した。
 それからは地獄だったよ。

 母はジュリアとマリアを産んだ直後に自殺してしまうし、
 父はそれが原因で狂ってしまった。

 何の役にも立たない記憶だけが戻った僕は、
 この醜い人の世でも最下層の暮らしを強いられたんだ。

 まるでゴキブリの世界で、ゴキブリのルールに従って生きているようだった」


 お兄ちゃんは淡々と語った。口調だけ聞けば本当に何でもないことのように聞こえる。
 でも、私にはお兄ちゃんの心の震えが伝わってくる気がした。

 母が死に、父が行方不明になった後、叔父夫婦が私たちを引き取り、すぐに一人暮らしをしていた目の見えないおばあちゃんに押し付けたと聞いたことがある。実際、私たちはボロボロの家でおばあちゃんと一緒に暮らしていた。

 私たちが外を歩けば、立ち話をしている近所の大人たちの会話がすれ違いざまに止まる。おばあちゃんの目が見えないと思って、汚い異質なものを見る視線が無遠慮に投げつけられる。
私はその度に醜い大人たちを睨み返していた。
 家にいればクソガキ共が家の前で「メクラババァ!」と叫んで逃げていく。そいつらを待ち伏せて石を投げつけていたら、逆に袋叩きにあって路地裏で丸裸にされた。

 まだ弱かった頃の私は、いつも悔しさでわんわん泣く毎日を過ごしていた。

 そんな私にお兄ちゃんは天使の話をしてくれた。私もマリアもお兄ちゃんも天使の生まれ変わりで、いつか空の彼方から羽を持った天使が迎えに来てくれる。そして、この醜い世界から私たちを救い出してくれる。
 お兄ちゃんは何度も何度もその話をしてくれた。私は小学校に入るくらいまでその話を信じていた。だけど、だんだんエスカレートしていく周りの悪意、お兄ちゃんの身体に刻まれる無数の傷跡、いつまでたっても来ない迎えに、いつしか私は天使をおとぎ話だと思うようになっていた。


 人も天使も誰も助けてなんかくれない。
 私は天使じゃないし、迎えなんか来ない。
 だったら私がお兄ちゃんとマリアを守る。

 そう決めて、私は強くなったんだ。


 ・・・・・・でも、自分が天使だって本当にわかっていたとしたら?
 ・・・・・・天使なのにクズみたいな人間に貶められる日々を過ごしていたとしたら?

 私はそれでも自分を保っていられただろうか?
 誇り高く生きていることができただろうか?
 お兄ちゃんのように、今日という日を信じて生きていられただろうか?


 お兄ちゃんは地獄の中をたったひとりで生きてきたんだ。
 私は信じることをやめて、手の届くものを求めた。
 私はバカだった。本当に、本当に、私はバカだった。
 私はずっとお兄ちゃんをひとりぼっちにしていたんだ。


 私はマリアに目を向けた。マリアは少し離れた所からお兄ちゃんを見ている。その表情にはさっきまでの醜い怒りの表情はなく、やるせない思いだけが浮かんでいた。きっとマリアも私と同じことを考え、私と同じことに気付いたんだ。
 私の視線に気付き、私とマリアの目が合う。マリアは綺麗だった。マリアにも羽が生えればいいと素直に思った。


「・・・・・・遅くなって悪かった、すまない」


 ヘキサはうなだれて、ポツリと言った。
 ・・・・・・ヘキサにも伝わったんだ。お兄ちゃんの気持ちが。

 お兄ちゃんは黙ってヘキサを見つめていた。ヘキサも顔を上げない。私もピンと張り詰めた空気を感じて動くことができなかった。時間の止まったような空間の中で、マリアがお兄ちゃんに近づき、その肩に手を置いた。


「お兄ちゃん、この時をずっと待ってたんでしょう?
 早く儀式を済ませて、本当のお兄ちゃんに戻らなくちゃ」

「・・・・・・そうだね。
 僕たちを待たせた罰として、ただの人間だったジュリアに負けたことをなじってやろうと思ってたけど、彼はいい人そうだからやめておくよ。あまり時間も無さそうだしね」


 ・・・・・・ねえ、なんなの、マリア?
 ・・・・・・あんた、なに話してんの?


「ずっと待ち望んでいたんだ、今日という日を。
 僕はやっと本当の僕にもどれ・・・・・・」

「待って!待ってよ!お兄ちゃん!マリア!」


 大声を出した私をお兄ちゃんが振り返って睨み、マリアが呆れたようなため息をつく。


「ねえ、ジュリア。くだらないことだったら後にしてくれないかな?
 僕にとって、これから始まる儀式以上に大事なことなんてないんだよ」

「アンタさぁ、なんにもわかってないのはしょうがないけど、邪魔するのだけはやめてくれないかな。すごく迷惑なんだけど」


 ちょっと、なんなのこれ?
 なんで私だけ仲間はずれなの?!


「マリア!あんたも記憶とかいうのあるの?」
「はぁ?そんなことが聞きたいの?」
「いいから答えてよ!」
「そんなのないわよ」
「じゃあ、儀式だとか本当のお兄ちゃんとかなんなの?」
「あぁ、そのこと」


 マリアはいつものバカにした笑いをする。私を裸にして押さえつけて、私の股と泣き顔を見下ろしていたゲスな男子と同じ顔だ。吐き気がする。


「お兄ちゃんから聞いたに決まってるでしょ」
「私、聞いてない!なんで?
 なんでマリアだけなの!お兄ちゃん!」


 お兄ちゃんはマリアみたいに大きなため息をついた。
 心の底からうんざりしているのが痛いほどわかる。

 でも、あんまりだよ!こんなのってない!
 いちばん大事なことでしょ!

 なんでマリアだけなの・・・・・・。


「ジュリア」

















「君が天使を信じなくなったからだよ」

















「わかったら、黙ってて」












 私は・・・・・・私は・・・・・・。


「バァーカ」


 私は小声で馬鹿にするマリアを思いっきり睨んだ。
 きっと恐ろしく醜い顔をしているんだろう。

 お兄ちゃんは私に背を向けている。
 まるで私なんかこの世界に存在していないかのように。

 ・・・・・・バカは私だけだったんだ。
 ひとりでわかったような顔をしていた自分が恥ずかしい。

 お兄ちゃんを守る存在『Angel Knights』。
 聞いて呆れる。
 私は醜い存在に成り下がっていたというのに。

 さすがにお兄ちゃんも私に愛想が尽きたろう。
 もう死ぬ気にもならない。


「じゃあ、始めようか。頼むよ」


 お兄ちゃんはそう言って、窓の外に浮かぶヘキサめがけて力の限りにその身を投げた。ヘキサは慌ててお兄ちゃんを抱きとめる。

 私は、ただそれを見ていた。
 ただ、見ていた。

     


 2

 お兄ちゃんはヘキサの胸に耳を押し当て、目を閉じた横顔の脇に小さな両手を添えていた。大樹の内側を流れる水の音を聞くようにして、ヘキサの鼓動を聞いているんだろう。私はお兄ちゃんを強く抱きしめるヘキサが羨ましくて仕方がなかった。


「受け止めてくれるって信じてたけど・・・・・・
 やっぱり怖いものだね。震えが止まらないよ・・・・・・」


 お兄ちゃんは甘える猫みたいにヘキサの胸へ顔をこすりつけた。ヘキサは戸惑いながらも、次第にお兄ちゃんを抱きしめる手に力を込めていく。


「・・・・・・なんで、飛び降りたりしたんだ」

「笑うから言わない」

「笑わねえよ・・・・・・」


 お兄ちゃんの綺麗な横顔は嬉しそうに微笑んでいた。
 魂を吸い取られたみたいにヘキサはお兄ちゃんをじっと見つめている。
 2人はまるで恋人同士のようだった。

 お兄ちゃんはさっき、地獄のようだった日々をほんの少しだけ話し、それだけでヘキサはお兄ちゃんが抱いてきた思いを理解してしまった。だからお兄ちゃんはヘキサを信じて身を任せている。

 誰かとわかりあうなんて簡単なことだ。お互いにただ相手を想えばいい。
 嘘をついたり、見栄を張ったり、相手を嫌っていたり、相手に嫌われていたり。
 そんな異常事態でなければ、私たちはすぐにわかりあえる。

 事実、お兄ちゃんとヘキサの心は、こんなにもわずかな時間で、嫉妬するほどに強く結びついていた。ずっとお兄ちゃんと一緒にいた私よりも、ずっと。


 お兄ちゃんはヘキサのポロシャツをぎゅっと掴み、ヘキサの胸に顔を埋めた。
 当たり前のようにヘキサがお兄ちゃんの髪を撫でる。
 お兄ちゃんは呟くようにゆっくりと話し始めた。


「・・・・・・僕はね、ずっとずっとこの日を待っていた。

 だからね・・・・・・、僕が生まれ変わるこの瞬間は
 ドラマチックなものにしたかったんだ。
 運命的で、情熱的で、輝くような瞬間・・・・・・。

 そう・・・・・・
 ちょうど、さっきまでの君とジュリアみたいにね・・・・・・。

 ・・・・・・子供っぽいかな? 僕は」

 お兄ちゃんがうっとりと言葉を紡ぎ出している間、ヘキサはお兄ちゃんの真っすぐな髪を、しなやかな手で何度も撫でつけていた。お兄ちゃんはその感触に導かれるようにして、ゆっくりと顎を上げる。自然に上を向いたお兄ちゃんは、わずかに唇を開き、何もかもを委ねるかのような焦点の定まらない目で、ヘキサの瞳の奥を見やった。
 ヘキサの瞳は曇りのないガラス球のようで、愛しいという心を隠すものは何もなかった。私を心配して、お兄ちゃんに敵意を向けていたヘキサなんて、もうどこにもいない。目の前にいるのはお兄ちゃんへの愛を体現しているようなヘキサだけだった。

 私とヘキサがドラマチックだなんて、お兄ちゃんの勘違いだ。
 私たちは、子犬みたいにじゃれついていただけ。
 真実の前では、悲しいぐらいにあっさりと、まがい物は消し飛んでしまう。

 私は惨めになり、すぐにでもここを逃げ出して、成層圏の彼方まで飛んでいきたくなった。
 私は天使なんていないと思った裏切り者。お兄ちゃんの側にいる資格なんてない。

 それなのに・・・・・・

 私は恥を晒してここにグズグズと留まっている。
 マリアの言っていた『本当のお兄ちゃん』の姿をどうしても見たかったから。
 その姿を見れば、きっとルーベンスの絵を見たネロのように満たされると思ったから。

 それが私の最後の望み。
 望みが叶ったら、私はひっそりと消えるつもりだ。



 ・・・・・・でも、悔しいな
 ・・・・・・私、もっと、やれそうなのに



 お兄ちゃんとヘキサは静かに見つめ合っていた。
 ヘキサを見上げるお兄ちゃんの瞳から、一粒だけ涙がこぼれ落ちる。
 お兄ちゃんの頬をすべる涙は太陽を反射してきらきらと輝いていた。
 夏の夜空に燦然と輝くベガだって、あんなに美しい輝きは持っていない。

 私はこの一瞬の輝きを心に刻み付けた。
 たとえ死んでも、忘れないように。


「・・・・・・待ってたんだから、ずっと」


 お兄ちゃんの声がほんの少しだけ掠れた。
 でも、その美しい瞳から涙が溢れることは、もうなかった。

 ヘキサはその思いをただ受け入れる。
 お兄ちゃんの苦しみは、そのままヘキサの苦しみになっていくようだった。


「・・・・・・おまえの地獄は、ここで終わりだ。
 ・・・・・・俺が・・・・・・終わらせてやる」

「・・・・・・うん」


 お兄ちゃんとヘキサの唇が引き寄せあうように近づき、優しく触れ合った。
 その瞬間、風はぴたりと止み、世界から音という音が遠ざかる。
 2人のくちづけに時さえも止まってしまったようだった。

 お兄ちゃんとヘキサはピクリとも動かない。
 私は中世の天使画を見ているような気になっていた。
 こんな綺麗なものが自然に生まれる筈がない。
 神に愛された者同士だけが許された美しさ。
 このまま時が動き出さなければいいと、私は強く願っていた。



「・・・・・・えっ!なんでっ?!」



 マリアの甲高い声が静寂を破って、無遠慮に耳へと飛び込んでくる。
 マリアは両手を口に当て、目をまん丸にしてお兄ちゃんたちを凝視していた。
 くちづけに驚くならタイミングが遅すぎるし、いったい何だというんだろう?

 訝しげな私の視線に気付いて、マリアは甲高い声の矛先を私に向けた。


「ちょっとジュリア!
 あんたの大きな目は飾り?どこに目つけてんのよ!」


 マリアが私に絡みだす。意味がわからない。


「ねぇ、なに慌ててんのか、わかんないんだけど?」

「バカ!お兄ちゃんの足元見てみなさいよ!」


 私はマリアの剣幕に押されるようにして、指差されたお兄ちゃんの足元に目を向けた。


「・・・・・・えっ? 嘘、そんな・・・・・・」


 私は驚きの声を上げたきり、動けなくなってしまった。

 お兄ちゃんの足は、靴ごとメロンソーダみたいな緑色の液体になって、爪先からドロドロと溶け始めていた。ぽたぽたと滴り落ちる緑の液体は、身体から離れるとすぐに蒸発してしまって、私たちが呆然と見ている間にも、お兄ちゃんは現在進行形でどんどん消失していく。


「わかったでしょ!
 あんた飛べるんなら、何とかしてよ!

 早くしないと、お兄ちゃん無くなっちゃう!」


 マリアが喚き立てる。
 私もお兄ちゃんをヘキサから引き離さなければいけない気がした。

 でも・・・・・・。


「・・・・・・駄目だよ、マリア」

「はぁ? 何が?」

「・・・・・・お兄ちゃんの邪魔しちゃ、駄目」

「邪魔って・・・・・・」


 マリアは私の言葉を聞いて文句を言おうとしたが、お兄ちゃんたちがまるで慌てていないことに気付き、それをぐっと飲み込んだ。

 お兄ちゃんが本当の姿になるために、これが必要な儀式なのだとしたら、
 私たちは絶対にその邪魔をしてはいけない。

 私とマリアはそう感じて、成り行きを黙って見つめていた。

 お兄ちゃんの足は既に溶けて無くなり、腰を輪切りにしたような断面からは、相変わらず緑色の液体が流れ落ち続けている。お兄ちゃんはヘキサの胸に当てていた両手を首に回し、ぶら下がるような格好でヘキサに抱きついていた。
 緑色の液体はヘキサの白いポロシャツに吸い込まれて、すぐに消えていく。私がつけた血の跡とは違って、お兄ちゃんから滴り落ちるメロンソーダのような液体は、染みになることがなさそうだった。


「本当に、いいの・・・・・・?」


 頭と腕だけになったお兄ちゃんの後姿に向けてマリアが呟いた。
 壊されたマネキンみたいになっているお兄ちゃんを見ていると、私も胸が苦しくなる。

 腰に回されていたヘキサの手は、お兄ちゃんの身体が溶けるにつれて上へ上へと移動していき、今はお兄ちゃんの両頬を挟み込んで、その頭を支えていた。首の断面から緑色の液体をボタボタと垂れ流して溶けていくお兄ちゃんの生首は、その美しい髪を溶かし、後頭部を斑にしながらも、ヘキサの唇に吸い付いている。

 私は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないかと、不安を感じていた。

     


 3

 お兄ちゃんの後頭部はすっかり溶け落ち、お面のように前半分だけが残った顔も、外側からしゅわしゅわと小さな泡がはじけるようにして消えていく。お兄ちゃんの顔はどんどん小さくなり、大きくてまん丸な黒目がちの目も、小さくて控え目な鼻も、みんなみんな、なくなっていく。ヘキサとキスしているお兄ちゃんのふわっとした唇は、名残りを惜しむように最後まで残っていたけど、それも風に溶けるようにして消え、お兄ちゃんという存在はこの世界から完全に消滅してしまった。
 ヘキサは閉じていた目をゆっくりと開き、お兄ちゃんの頭を支えていた両の手のひらをじっと見つめた。それきり身動きひとつしないヘキサは抜け殻のようで、ヘキサの魂もお兄ちゃんと一緒に消えてしまったみたいだった。

 私とマリアは目を合わせ、お互いにこくんと小さく頷いた。私は羽をはばたかせて、窓の向こうに浮かぶヘキサの正面へと身を移す。
 ヘキサは自分の手から私の顔へと視線を上げた。その動作はひどく緩慢で口が半開きになっている。男はイッたあとにバカになるってクラスの子から聞いたけど、たぶんこんな感じなんだろう。
 そんなヘキサを前にして、私は不思議なほど落ち着いていた。お兄ちゃんが目の前でドロドロになって消えてしまったけど、それは生まれ変わるのに必要な過程なんだって確信がある。もうすぐお兄ちゃんは本当の姿を取り戻し、望みを叶える筈だ。

 その時が私の物語の終わり。
 お兄ちゃんと一緒にその先へ行けないのは哀しいけど仕方がない。

 今日、私は生と死の境界線上を何度も行ったり来たりした。
 運命の歯車がほんの少しでもずれていたら、今の私はなかった。


 ヘキサに負けていたら。
 ヘキサを殺していたら。
 私が地上に叩きつけられていたら。
 ヘキサとキスをしなければ。
 私に羽がなかったら。
 お兄ちゃんに認めてもらえなかったら。


 何もかもが死と隣り合わせだったけど、私は自分の力と、少しの運を味方にして最高の選択肢をつかみ取ってきた。ヘキサに勝ち、天使の羽を手に入れ、お兄ちゃんに認められた。
 それなのに、私は最後の最後で、お兄ちゃんの望みよりも自分の嫉妬を優先させ、そのせいでお兄ちゃんを裏切っていたことに気付かされてしまった。


 つまらない小さな躓きで、全ては終わってしまった。
 だから私はこんなにも落ち着いているんだと思う。


 今日みたいに生と死の狭間で必死にもがくことは、もう2度とないだろうから。


「・・・・・・ヘキサ、お兄ちゃんは?」


 ヘキサは問い掛けた私をぼんやりと見つめ、不思議そうな顔をしている。反応が鈍い。私はもたもたしたヘキサに腹が立ち、みぞおちに拳を入れてやった。


「グハッ!」

「だらしない顔をいつまでも晒してないでよ。
 お兄ちゃんはどうなったの? 答えて」


 ヘキサが凶悪な目で私を見る。
 それでいい。


「おまえ、いきなりこれか・・・・・・?
 力を解放するのはきつい・・・・・・グフッ!」


 無駄口を叩くヘキサに、もう一発パンチをお見舞いする。
 いろんなものを手に入れる前みたいに、私は自由だった。
 もし、大事なものが何もなかったら、私は誰よりも強くなれるのに。


「お兄ちゃんは?」

「・・・・・・心配すんなって。
 後ろ、見てみな」


 私は窓の外から店内を振り返った。
 私の視線に引き摺られるようにしてマリアも後ろを振り返る。

 私たちの視線の先にはアルコールの並んだ棚とバーカウンター。
 照明の届かない部分は仄暗くなっている。

 蛍みたいに小さな光が、闇の中からふわりとひとつ。
 ゆらゆら、ゆらゆら、頼りなく揺れている。

 私はノアズ・アークの店内に戻り、マリアの側に立つ。
 後ろからはヘキサ。私の隣に並ぶ。

 ふわふわしていた小さな光は、カウンターの前でぴたりと止まった。

 私の目の高さで、空間に縫い付けられたように光は静止する。

 柔らかに、でも、確実に光はその輝きを増していく。

 蛍ぐらいだった光は、お餅がぷーっと膨らむみたいに、
 だんだん、だんだん、膨らんでいく。

 真白な光は私を包んだとしても、なお余るほどの大きさになり、
 暖かな光源を内部に秘めた、大きな卵のオブジェにも見えた。

 そこに、ほんのりと輪郭らしきものが浮かぶ。
 錯覚かと思うほどのささやかな陰影。
 あると思えばあり、ないと思えばない程度のもの。

 いったん知覚すれば、次第に輪郭は形を成していく。
 柔らかな光に浮かぶ、可憐な少女のシルエット。

 腰まで伸びた緩やかに波打つ髪。
 美しく上品なAラインを描くお姫様のようなワンピース。

 光はシルエットに吸い込まれ、光そのものが少女を組成していく。
 華奢な身体から溢れ出す光は背中に集まり、大きな大きな羽を織り上げていく。

 気付けば、私たちの前には光り輝く天使様の姿があった。
 羽が生えただけの私とは違う、本当の『天使』という存在。

 光に包まれていた顔の中に、整った目鼻立ちが浮かび上がった。
 大きな瞳は閉じられていて、眠っているように見える。

 閉じた瞼の合わせ目に規則正しく並ぶ長い睫毛。
 真っすぐに通った鼻筋と、そのすぐ下に位置する、ふっくらとした小さな唇。

 私の脳に焼き付けられている、美しくて愛しいパーツたちは
 記憶と寸分違わない、あるべき場所に収まっている。



 その天使様は間違いなくお兄ちゃんだった。



「・・・・・・これが・・・・・・お兄ちゃんの本当の姿・・・・・・」


 マリアが呟く。その瞳からは涙が静かに溢れ出していた。

 この醜い世界を這い回るうちに、垢のようにこびりついてしまう汚れ。
 それを洗い流し、お兄ちゃんは美しい無垢な存在に生まれ変わっていた。

 苦しみなど存在しないかのように柔らかな光を湛えるお兄ちゃんは、
 どんなに美しいものも汚していく世界への反逆の証しだ。

 醜いものが生き残るために、綺麗なものを生贄に捧げる。
 醜い集団が築き上げた歪んだルール。

 お兄ちゃんはこのルールを破壊するために戦っていくのだろう。
 悪魔と。そして醜い普通の人々と。



 すなわち、世界と。




 生まれ変わったお兄ちゃんの姿を見るという、私の願いは叶った。
 だから、もう消えなくてはいけないのに、動くことができない。
 私はマリアと同じように涙を流しながら、美しい天使となったお兄ちゃんを見つめていた。


 心を決めた筈なのに。
 もう終わりなんだってわかってる筈なのに。


 お兄ちゃんの側にいたい気持ちを抑えることができない。
 私はお兄ちゃんの側で、お兄ちゃんのために戦いたい。


 ・・・・・・でも、それは駄目。


 私は裏切り者だから。
 お兄ちゃんが私を許しても、私が私を許せないから。


 ・・・・・・だから、諦めろ、私。

 ・・・・・・動けよっ! 私の身体っ!


 でも、どんなに力を入れても、私の身体はどうしても動かない。お兄ちゃんから目を逸らすことも、まばたきをすることも、涙を止めることもできなかった。傍から見れば、私は木偶坊みたいに突っ立っているだけに見えたことだろう。
 私たちが見つめる中、お兄ちゃんはゆっくりと目を開いた。お昼寝から目覚めたばかりのように、とろんとした瞳をして、あたりを見回す。
 お兄ちゃんは私たちに気付くと、とても悲しそうな表情をした。そして、両手を大きく広げ、こちらに向かい、よたよたと歩いてくる。まだ、ぼんやりと白く輝いているお兄ちゃんの足下は、生まれたての子馬のようにおぼつかなくて、少し歩いたところでお兄ちゃんは体勢を崩した。


「危ないっ!」


 私は床を蹴り、信じられない速さでお兄ちゃんに近づいて、倒れ込むお兄ちゃんをぎゅっと抱きとめる。あれだけ動かなかった身体が反射的に動いてくれた。ヘキサが戦っている時に消えた秘密も、いま、わかった。
 私の胸にお兄ちゃんの顔が埋まる。お兄ちゃんの身体は羽のように軽かった。きっと背中に生えた大きな羽のせいだろう。お兄ちゃんの羽は私のよりもずっと大きくて、お兄ちゃんを抱きしめている私ごと、すっぽりとくるんでしまえる程だった。
 Tシャツとジーンズ姿だったお兄ちゃんは、シフォン素材のふわふわした白いドレスを身に纏っている。大きな羽とこの装いで空を飛んだら、天使が降臨したと誰もが思うだろう。

 私は愛しさが溢れ出して、お兄ちゃんを抱く手にぎゅっと力を込めた。


「・・・・・・ジュリア・・・・・・君の悲しみがずっと聴こえてた」


 お兄ちゃんが私の胸の中で呟いた。
 お兄ちゃんの声は今までよりも、少し高くて、柔らかくなっている。
 お兄ちゃんは優しい言葉を奏でながら、私の胸をそっと揉んだ。


「・・・・・・たしかにジュリアは天使を信じなくなったけど、
 その代わりに僕とマリアをこの世界の脅威から守ってくれたよね。

 ・・・・・・それでも、ジュリアは自分を許せないの?」

「・・・・・・だって私は、
 いちばん信じなきゃいけないことを信じなかったんだもん・・・・・・」

「だから、僕と一緒にいる資格はないってこと?」

「・・・・・・うん」


 お兄ちゃんは黙って私の胸を優しく揉み続けた。柔らかく胸を揉まれていると、心の奥が満たされて、その手に全てを委ねたくなってしまう。時折、Tシャツの上から私の乳首にお兄ちゃんの指がチョンと触れる。その度に私は、あっ、という小さな声を上げて、身体をピクンとふるわせてしまう。

 ふざけて鷲掴みにしたヘキサとはぜんぜん違う。
 お兄ちゃんは私を必要としていることが、はっきりと伝わってきた。


 ・・・・・・でも。


 私は荒れた息をむりやり整え、お兄ちゃんの手を握った。


「・・・・・・ジュリア?」

「ごめん、お兄ちゃん・・・・・・。
 駄目なの、私・・・・・・」


 私はお兄ちゃんの手を押し戻し、握っていた手をそっと離した。
 お兄ちゃんはポカンとした顔で私を見上げている。


 潮時だ。


「お兄ちゃん、マリア、ヘキサ」


 私はお兄ちゃんたちの顔を順に見つめた。



「じゃあね、バイバイ」



 私はそう言うと、青い空がどこまでも広がる外の世界に窓から飛び出し、太陽に向かって猛スピードで空を駆けていった。みんな、私が消えたように感じたことだろう。
 お兄ちゃんも、マリアも、ヘキサも、一様に間の抜けた表情をしていた。可笑しかった。


 とても、可笑しかった。


 私は太陽を目指し飛んでいく。
 ずっと昔、翼を作って太陽を目指した男がいたって聞いたことがある。

 太陽に行ってどうするんだって思ってたけど、いまならわかるよ。

 どこにも行くところが無ければ、誰でも光に向かうんだ。
 人でも、動物でも、鳥でも、虫でも。

 太陽を目指した男は、途中で翼が燃え尽きて落ちてしまった。
 せめて私は太陽までたどり着き、流星になって燃え尽きたい。

 ・・・・・・この期に及んでも新しい望みを抱いてしまうなんて、私は欲深だ。
 だから、私の涙はいつまでたっても、溢れ続けているんだろう。



 もう、枯れ果てろ。
 涙。

     


 4

 太陽はいちばん高いところを過ぎて、退屈そうにギラギラと輝いていた。当たり前のようにエネルギーを注ぎ続ける太陽はのんきな顔をして、私よりもずっとずっと高みにいる。太陽は自分が凄いなんて思わないんだろう。見上げる存在も見下す存在も周りには無いのだから。
 私は髪を振り乱して、ともすれば押し戻されそうになる向かい風の中を、太陽に向かってひたすらに羽ばたいていた。地上はどんどん遠ざかっていくのに、太陽にはちっとも近づかない。

 遥か彼方に輝く太陽。
 どこまでも広がる、青い、青い、空。

 私は公園の芝生に寝転んで、空を見上げていたことを思い出した。仰向けになって、真っ青な空を見ていると、ふとした時にガクッ!と空に落ちていきそうになる。その瞬間が怖くて、でも気持ちよくて、私は何度も同じことを繰り返していた。

 この感覚に身を任せたら、空に落ちていけるんじゃないかって。

 それが空を飛ぶための試練のような気がして、ある時、私は緑の芝生をぎゅっと掴み、目を逸らさないように、身体を逃がさないようにして、ひとつ先の世界を見ようと歯を食い縛って空を睨んだ。

 いつもと同じ、ガクッとする感覚。
 私は身体に力を入れ、目を見開いていた。

 そしたら、その先には何も無かった。

 落ちていくような、ぞわぞわする感覚に慣れただけで、私はあいかわらず、豚みたいに地上を転がっていた。この行為は試練でもなんでもなくて、私の世界から秘密がひとつ消えた。

 それからも私の世界からは、どんどん秘密がなくなっていった。

 暗闇の中に私を見つめるお化けはいないし、鏡の向こうに、もうひとつの世界はない。テレビをつけたままコンセントを抜いても中の人は死ななかったし、死んだ金魚をオレンジジュースに浮かべても生き返りはしなかった。

 こんなものはない、そんなことはあるはずがないと、いろんなことを知っていくうちに、
 私は、どんどん馬鹿でくだらないものになっていったんだ。
 
 この世界に私たちを救う天使なんていなくて、
 お兄ちゃんは夢を見ているだけなんだって思っちゃうくらいに。

 私は私の裏切りを決して許せない。
 取り返しがつかないほど、汚れてしまった私は消えるしかない。


 いつしか、私は海に出ていた。

 海原は太陽に照らされてキラキラと輝き、水平線の彼方で空とひとつに溶け合っている。私は空と海でできた檻に閉じ込められたように感じ、羽ばたくのをやめて、あたりを見回した。どこまでも広がる、終わりのない青い世界は、私の身体から力を奪っていく。ジリジリと照りつける太陽は肌を焼き、ゴウゴウと吹き付ける風は私の羽や髪を毟り取るほどの勢いだった。


 世界は果てしなく広大で、太陽はあまりにも遠い。


 ひときわ強く吹いた風に体勢を崩された瞬間、私の心の中で張り詰めていたものがふっと消え失せてしまった。私は風に逆らうことをやめ、遥かに広がる青い世界の中心で、もみくちゃにされ、クルクルと回転していた。上下がしだいにわからなくなり、空へ落ちていく感覚が久しぶりに蘇ってくる。


 (ここまでかな・・・・・・)


 私は自然にそう思った。

 風はしだいに弱くなっていき、私の回転もスピードを落としていく。羽ばたいてもいないのに、ゆっくりとしか落ちていかない。あの時のヘキサと同じだった。

 空と海との間をゆらゆら漂う私は、まるでクラゲのように、ふにゃふにゃで、ぽわぽわだ。
 再び羽ばたく気力は、もうなくなっていた。

 こうやって、されるがままになっていると、世界から受ける痛みなんて、たいしたことはないと思えてくる。太陽は私の肌を黒ずませて染みを作るくらいで、命までは奪わない。

 逆らわず、受け入れれば、楽になる。
 醜く変わった自分の姿を、仕方がないと諦められるなら。



 それは・・・・・・嫌だな・・・・・・

 ・・・・・・醜いババアになってまで、生きていたくない



 そう思うと、私の心に、もやもやとした気力が湧き上がってくる。
 私は体勢を整え、一片の曇りもない、輝く青の世界を睨みつけた。

 どこまでも、どこまでも続く、青、青、青。
 追い求めていたはずの青い空の中で、
 私は自分の小ささに、無力さに、イラついていた。



「お兄ちゃーーーーーーーん!!! お兄ちゃーーーーーーーん!!!」



 私は衝動に突き上げられて、誰にも聞こえない、どこにも届かない、叫び声を上げた。

 私は世界と戦いたい。
 お兄ちゃんの側で世界と戦いたい。

 でも、私は汚れてる。
 お兄ちゃんの側になんかいちゃいけない。

 消えるしかない。消えるしかないけど・・・・・・。



「お兄ちゃーーーーーーーん!!! お兄ちゃーーーーーーーん!!!」



(・・・・・・たしかにジュリアは天使を信じなくなったけど、
 その代わりに僕とマリアをこの世界の脅威から守ってくれたよね。

 ・・・・・・それでも、ジュリアは自分を許せないの?)



 ・・・・・・お兄ちゃんの優しい言葉が蘇る。
 ・・・・・・お兄ちゃんはわかってくれてた。


 でも、お兄ちゃんたちを守ってきたことと、
 天使を信じなくなったことは何の関係もなくて、

 やっぱり私は裏切り者で、
 でも、やっぱりお兄ちゃんの側にいたくて、
 それなのに、私は汚れてるからって飛び出してきてしまって、

 太陽は遠くて、たどり着けなくて、
 そもそもなんで、太陽まで飛んでいかなくちゃいけないのかって思って、
 結局、何にもできなくて、
 羽を毟り取って消えてしまいたくて、
 でも、何にもできないまま消えてしまうのは悔しくて、
 何かしたくて、戦いたくて、イライラして、
 どうしたらいいのかわからなくて、どうしたいのかわからなくて、
 お兄ちゃんの側にいたくて、
 でも、そんなこと許せないって思って、
 どうしたらいいのかわからなくて、どうしたいのかわからなくて、
 何が何だかわからなくなって、どうしようもなくて、



「お兄ちゃーーーーーーーん!!! お兄ちゃーーーーーーーん!!!」



 私は虚空に叫んでいるんだ。

 バカだ、私はバカだ。



「お兄ちゃーーーーーーーん!!! お兄ちゃーーーーーーーん!!!」



 わからない・・・・・・
 わからないよ・・・・・・



「お兄ちゃーーーーーーーん!!! お兄ちゃーーーーーーーん!!!」



 お願い、教えて
 私、どうすればいいの?



「お兄ちゃーーーーーーーん!!! お兄ちゃーーーーーーーん!!!
 お兄ちゃーーーーーーーん!!! お兄ちゃーーーーーーーん!!!
 お兄ちゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!」



 叫び続ける私の視界の彼方で、キラッ、と、何かが光った。


 お兄ちゃん?


 咄嗟にそう思った私は、光の方向を見つめた。青しかない世界の中で、遥か彼方に、ポツンと浮かぶ小さな黒い点は、染みのようにじわじわと大きくなっていく。
 私よりもずっと低いところを、こちらに向かってかなりのスピードで近づいてくる謎の飛行物体は、イルカのようにつるりとした光沢を放ち、左右にシャープな翼を広げていた。そのフォルムは水族館で見たエイのようで、後ろには、ちょうど尻尾のような長い棒状のものが、ぴたりとくっついている。
 まだ、かなりの距離がある筈なのに、その姿は異常に巨大に見えた。ジャンボジェットより大きなものが空を飛んでいるところは、アニメでしか見たことがない。

 私は身構えていた。

 勘でしかないけれど、あれは、味方じゃない。
 私に対して、敵意とか、そんなものを持って、近づいてきている。

 そのエイに似た飛行物体は、飛行機が離陸する時のように、その頭を上空に向けた。
 飛行物体の先端が指し示す先は私。


 ――間違いない、あいつは私を狙っている。


 私はそう確信して、羽を広げた。
 なぜか、顔には笑みが浮かぶ。

 戦うものがある。壊せるものがある。
 それは私にとって、幸せと同じこと。

 そいつは打ち出されたロケットのように私に向かってきている。
 さっきは巨大なエイのようだと思ったが、そうではなかった。

 五角形と楕円の中間みたいな、平べったい形。
 黒光りする背中側と、かいま見える真っ白な腹側。
 ぬめりを持った表皮は、海の生物特有の光沢で、
 尻尾のように見えたのは、間違いなく、尻尾そのもの。

 そいつは、全長500メートルはある、巨大な空飛ぶエイ、そのものだった。

 醜悪な魔法の絨毯。
 コイツはいったいなんなのか? どうして私に向かってくるのか?

 それは、コイツを八つ裂きにしてから考えよう。
 太陽を相手にするよりは、よほど、勝ち目もありそうだ。

 私は、思い切り羽をはばたかせ、軸をずらしながら空飛ぶエイに突っ込んでいく。

 おまえ、運が悪いね。
 私は、いま、機嫌が悪いんだ。

     


 5

 グラウンドの隅でうつ伏せになって、顔だけ上げてみたことがある。小さなグラウンドはサハラ砂漠ぐらい広大に見えた。

 空飛ぶエイとの距離が縮まるにつれて、そんなことを思い出す。

 奴の横幅は視界に収まりきらなくなっていき、世界を上下に分断する境界線になっている。横幅に比べれば厚みはないに等しく、ぐんぐん近づいてくる奴を見ていると、落ちてくるギロチンの刃を真下から見上げている気分になった。


 普通に立てば、グラウンドはいつものみすぼらしい姿に戻る。
 どんなに巨大なギロチンも、脇によければ、無駄に大きな野菜カッターでしかない。


 何にでも、その力を最大に生かせる位置関係がある。私と奴の最大の違いは大きさ。だから、私の小ささが生かせ、奴の大きさが邪魔になる位置を取ればいい。
 私は奴と交差してから急旋回し、後ろを取るつもりでいた。そして一気に加速して背中に乗りつける。そうなれば、皮を剥ぐのも、肉をエグるのも私の自由だ。奴はなす術もなく、その身を毟られていくしかない。
 奴は私の意図に気付いているのか、それともただの本能なのか、正面衝突を避けようと上下に動く私にピッタリと狙いを合わせてくる。平べったい頭をわずかに上げ下げして、空気の抵抗を使い、思いのほか素早い動きで進路を変更していた。

 私は小細工をやめ、真っすぐ奴に突っ込んでいく。離れた場所でチマチマ動いても意味がないからだ。ギリギリまで近づいてから、一気に振り切る。


 かわしきれば私の勝ち、かわせなければ負けの分かりやすい勝負。
 こういう動物的なのは嫌いじゃない。


 私はさらにスピードを上げた。
 奴からは、ゴオオオオオ・・・・・・と低い音が響き、空気はビリビリと震え、虫が這うようなむず痒さを身体中に感じる。
 私は唾を飲み、世界を切り裂くギロチンの刃先を見つめた。

 限界まで奴を引きつけた私は、奴と私を結ぶ直線の下方へと潜り込む。奴はさっきまでと同じように、私の動きに合わせて頭を下げた。
 さらに奴をひきつけてから、私は身体を起こして一気に上昇する。
 最初の動きはフェイント。下を向かせてから、急速に反転、上昇すれば、広く平べったい体の奴は抵抗が大きすぎて、同じようには動けない。

 案の定、奴は反応もできずに、そのまま下方へと向かっていく。

 ぐにゃりと折れ曲がったエイの姿は、コテから端がずり落ちているお好み焼きみたいで滑稽だった。奴は私を追うのを諦めたのか、頭を斜め下に向けた勢いを使って、そのまま真下を向き、さらにはやってきた方向へ反転しようとしている。ちょうど、大きなカーペットが丸まっていくみたいだった。

 奴の頭の先を見下ろしていた私に、すっと影が射した。

 その瞬間、奴の意図に気付いた私は血の気が引いた。
 考えるよりも先に、羽をはばたかせて、全力で上昇する。

 私の目の前には、津波のようにせり上がってくる奴の巨大な背中が迫っていた。

 私が反転した時、奴は反応できなかったんじゃない。
 別のやり方を選んだだけなんだ。

 奴は巨大な体をハエ叩きのように使って、私を叩き潰そうとしていた。
 間合いに入った獲物に向かって、前方宙返りで飛び込むようなものだ。
 それは皮肉にも、引っくり返されるお好み焼きにそっくりだった。
 こんなマヌケなものに潰されるわけにいかない。

 私に覆いかぶさる影は、その濃さを増し、太陽の姿を隠していく。
 私は少しでも奴から離れようと、身体を思い切り反らせ、ねじったままの羽を力の限りにはばたかせた。無理な姿勢で、無理な力をかけているのは承知の上だ。

 羽がねじ切れても構わない。
 いま、生き延びなかったら、この先なんてない。


 こんなところで・・・・・・こんなところで・・・・・・





 「死んで、たまるかあっ!!!」





 私はさらに加速度を上げた。
 羽からはぶちぶちと何かが切れる音がする。


 お願い! もっと! もっと動いて!!


 影から逃れようと懸命に羽を動かす私に、ぱあっと太陽の光が降りそそいだ。
 トンネルを抜けたような眩しさと開放感が私を包む。



 ・・・・・・かわした?



 力を抜きかけた私を突風が襲う。奴がその体を回転させることによって起こった風だった。私は勢いよく吹っ飛ばされて、一瞬、自分の位置が分からなくなる。混乱する私にどこかから、風を切る甲高い音が迫ってきた。
 私は咄嗟に右の羽を身体に巻きつけて、音から遠ざかるように進路を右へとずらした。たった今まで私がいた場所を、東京タワーみたいな尻尾がなぎ払った。

 巨大な尻尾は私から遠ざかっていき、その先に野球場のような奴の本体がくっついていた。
 遠ざかっていくエイの後姿を見て、私は勝負に勝ったことを理解する。

 私はぐるりと一回転して、奴を追った。
 奴も私を再び狙おうと、その巨大な体で旋回を始める。

 私は奴が旋回を終える前に背後につくことができた。スピードを落とした奴に近づくのは簡単で、私の目の前には、狩られる運命である憐れなエイの全身が曝け出されている。

 奴の黒々とした広い背中の中央には、ダイヤの形をした白い部分があった。まるでここを狙ってくださいと言わんばかりだ。私は吸い込まれるように、そのダイヤを目掛けて、エイの背中に取り付いた。表皮はつるりとしていて、触り心地がいい。もっとぬめぬめしていると思っていたから意外な感じがした。

 私はダイヤの中央に拳をめり込ませた。
 皮が破れ、内部のぷるぷるした肉の感触が私の手に伝わってくるが、エイに反応はない。
 大きさからして、蚊に刺されたほどにも感じていないのだろう。

 私は穴の空いた部分に両手を突っ込んで皮を掴み、そのまま身体を浮かせて尻尾側に思い切り引っぱった。分厚い皮はミリミリと音を立て、斜めに2つ、裂け目が走っていく。私はさらに皮を引っ張った。

 ビーッ! と音がしてさらに裂け目が広がる。
 皮と肉の間に空気が入り込むと、面白いように皮がめくれていき、エイの背中に、私の持っている所を頂点とした三角形の巨大な帆ができた。

 プシュー! と音がして、奴が体を波打たせる。
 さすがに少しは痛かったのかな?

 私は笑みを浮かべて、斜め後ろに皮を引っ張る。
 皮は淵に沿って扇形に裂けていき、最後に、ぶつん! と大きな音を立てて、エイから完全に分離してしまった。

 破れた皮はイチョウの葉のように、風に吹かれて空をひらひらと舞っている。
 風流じゃないか。

 裂いた皮の下では、ぷるぷるとした白い生肉が無防備にその姿を晒していた。
 私は再び、その背中に降り立つ。本当にやりたい放題だ。
 でも、どうすればコイツが死ぬのか分からないから、徹底的にやるしかない。
 バラバラにして、メチャクチャにして、骨も残らないようにしてやる。

 まずは、この肉を削ぎ落としてやろうと、柔らかな感触を足の裏で楽しんだ。
 どうしても顔が笑ってしまう。これじゃ、マリアと同じだ。



 私は完全に油断していた。
 背後に奴の尻尾が近づいているのに、まったく気が付かなかったのだから。



 バチッ! と音がして、初めて私は振り返った。
 蠍のように弧を描いた尻尾の先が、すぐ間近まで迫っている。


「・・・・・・・! しまっ・・・・・・」


 尻尾の先に稲妻が走った。


 電気?


 そう思った瞬間、爆音とともに私は激しい衝撃を受けて吹き飛んだ。





 ・・・・・・おそらく、私はほんの少しだけ意識を失っていたんだろう。



 目を開けると、ずいぶん離れた所に、背中をこちらに向けて海へと落ちていくエイの姿が見えた。皮を剥ぎ取った部分は、肉も爛れ落ち、背骨らしきものがのぞいている。

 私も逆さまになって、海へと落ちていた。
 ただ、私はやっぱり、羽のようにふわふわとしか落ちていかない。
 いまは重力に身を任せたい気分だったから、イラついて仕方がなかった。


 ・・・・・・電気ショック

 そんな隠し玉、持ってたのかよ・・・・・・


 私は自分の詰めの甘さに歯噛みした。
 知能もないような、あんな生物に気合で競り負けたのが悔しかった。


 意識がはっきりしてくるにつれて、右半身がズキズキと痛んでくる。
 私は左手で、自分の右腕を抑えようとした。





 ?





 あれ?





 右腕、ないよ・・・・・・





 右腕があるはずの場所には何もなくて、そのまま手を進めると、ぬめりとした感触に、手をちくちくと刺激する硬いものがいくつかある。

 私はふわふわと落ちながら、そっと右を向いた。


 私の右半身はエグり取られていて、腕は欠片も残っていなかった。
 肋骨が飛び出し、右胸も半分ぐらいなくなっている。



「・・・・・・アネ・・・・・・ワタイノアネワ・・・・・・?」



 首を右に傾けるが、肩越しの羽がどうしても見えない。
 左目を瞑ると何も見えないことに気付き、私は顔の右側に手を当てた。

 頭の部分で、ぷよんとしたものに触れる。
 これって・・・・・・脳・・・・・・なのかな?

 右目らしき穴には何も入っていなくて、指を入れることができた。その穴からは太い紐のようなものが飛び出していて、それを辿っていくと、先に丸いものがついている。

 戻しても・・・・・・たぶん、使い物にならないだろう。


 遠くで、奴が海面に打ちつけられ、高さ1キロぐらいの水柱を上げた。

 天高く舞い上がった水柱は花のように開き、
 水しぶきが太陽を反射してあたり一面をキラキラと輝かせる。



 見渡す限り生き物のいない、青い世界に咲いた水花火。



 すごく綺麗・・・・・・。
 お兄ちゃんに見せたら、喜んでくれたかな・・・・・・?

 携帯があったら・・・・・・写真にとってお兄ちゃんに見せてあげるのに・・・・・・。



 ・・・・・・アイツ、何て華々しく散ったんだろう。
 ・・・・・・私も死ぬなら、あんなふうに死にたかったのに。



 私は泣いていた。
 メソメソ泣いていた。


 カッコよくない。
 情けない。



 でも、私、やっぱりお兄ちゃんと一緒に戦いたい。
 私は私を許せなくても、許せないままでも、まだ死にたくない。
 自分を軽蔑したままでも、お兄ちゃんの側にいたい。



 どんなに汚れていても、私はお兄ちゃんと一緒にいたい!!



「オイイヤーン! オイイヤーン!」



 私はぐちゃぐちゃの姿で、叫んだ。
 でも、声が出ない。ちゃんと喋れない。

 もう遅いの? もう駄目なの?



「オニイヤーン! オニイヤーン!」



 私は、ふわふわ、ふわふわ、いつまでもマヌケにゆっくりと落ちていく。
 何もできなくて、迷ってばかりで。



「オニイチャーーン!! オニイチャーーン!!」



 でも、もう迷わない
 だから・・・・・・だから、神様、もういちどだけ。



「お兄ちゃーーーーーーーん!!! お兄ちゃーーーーーーーん!!!」



 私にチャンスを下さい・・・・・・。





 私の意識はそこで途切れた。

     


 6

 目を覚ました時、私は自分がどこにいるかわからなかった。もっと言えば、生きているのか死んでいるのかさえもはっきりしない。私に見えている世界はどこまでも青く、自分と世界との境界線はぼやけてしまっていた。『自分』とか『世界』とかの区別がなくなって、私は静かに満たされていた。
 突然、視界がぐにゃりと歪み、鼻にツーンとした痛みが走る。その途端に私と世界は引き剥がされて別のものになった。世界そのものだった私はただの私に戻り、ちっぽけな身体を起こそうとしたけど、背中を引っ張られているようで思うように動けなかった。
 バチャバチャと水の跳ねる音がして、私は海に浮かんでいるんだと認識する。あお向けで海に浮かんでいた私は、身体を海中に沈めて顔だけを出し、水の入った鼻をフンフン鳴らしながら周囲を見回した。海面の高さで見る海はやけに広く感じるし、どちらを向いても同じ景色ばかりで気が狂いそうになる。
 上下の感覚が戻り、私は空を見上げた。顔に垂れる濡れた髪をかき上げ、少し傾いた太陽に目を向ける。まだ夕方にはなっていないし、それほど長い時間、気を失っていたわけではないようだ。



 あれ? いま、私・・・・・・?



 私は髪をかき上げていた右手を目の前に持ってきた。なめらかで真っ白な腕には傷ひとつ見あたらない。私はその手をグー、パー、グー、パーと動かしてみたけど、思い通りに動くし、痛みもまったくなかった。どうやらこの右手は、間違いなく私のものらしい。
 肩越しに振り返ってみると、白くて綺麗な羽もちゃんと私の背中にくっついている。私はゆっくりと羽ばたき、身体を海上へと浮かび上がらせた。

 海から出た私はほとんど裸だった。左肩まわりを覆うTシャツの切れ端と、左足のサンダルが残っているだけで、丸い胸も、つるんとした下半身も、ぜんぶ丸出しになっている。私は露わになった身体をまじまじと見つめ、あちこちに触った。跡形もなく吹き飛んでしまったはずの右半身に異常はなくて、いつもと同じように私の身体はなめらかで真っ白で綺麗だった。


 ・・・・・・駄目だ。さっきまでのことと、いまの状況が結びつかない。


 私はあの巨大なエイと相打ちになり、右半身をエグり取られて、絶対に死ぬってレベルのやられ方をした。それなのに、傷ひとつない状態で、いまこうして生きている。さっきまでのことがぜんぶ夢だったか、もしくは、私が不死身ででもなければ説明がつかない。



 ――不死身?



 突拍子もない思いつきに私ははっとした。

 ヘキサと戦った時、私はヘキサを本気でボコボコにした。執拗に踏みつけた腹の奥では内臓が破裂していただろうし、意識を取り戻したとしても、すぐに動ける筈がない。
 それなのに、ヘキサはあっという間に回復して、ビルから落ちた私を助けてくれた。あの驚異的な回復力も天使の力なのだとしたら、いまの状況にも説明がつく。
 私は左目を閉じてみた。右目だけでちゃんと見える。頭に触ってみても、割れていないし、ハゲてもいない。やっぱり私の身体は完全に元通りになっている。

 さっきの私は右腕を吹き飛ばされ、肋骨は肉を突き破り、頭が割れて脳が飛び出し、目玉まで飛び出しているような、ヘキサとは比べ物にならないくらいの酷い状態だった。そんな状態からでも、太陽がほんの少し傾くぐらいの時間で完全に回復してしまう・・・・・・。



 ――つまり私は、不死身の化け物ということか・・・・・・。



 そう思うと、私の身体はぶるぶる震えだした。
 不死身の肉体が、感情の昂ぶりを抑えられないのが可笑しい。

 私は拳を握り、膝を軽く曲げて、押し寄せる喜びを受け止めていた。

 いま、生きていていることが、
 そして、不死身の身体を手に入れたことが、
 嬉しくて、嬉しくて、仕方がなかったんだ。


「神様・・・・・・神様・・・・・・感謝します・・・・・・ありがとう・・・・・・ありがとう・・・・・・」


 私は泣いた。
 生まれて初めて、生きている喜びに泣いた。

 私は選ばれ、天使の羽を受け取った。

 そして、愚かでどうしようもない私に、
 神様はもういちど、やり直すチャンスをくれた。

 ゴミのように死んでいたはずの、私に。
 ゴミのような人間みたいに死んでいたはずの、私に・・・・・・。


 ――もう、決して迷わない。


 私は誓った。


 私はお兄ちゃんを信じる。
 私を必要だと言ってくれたお兄ちゃんを信じる。


「お兄ちゃん・・・・・・大好きだよ・・・・・・」


 私は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
 震える身体から力を抜いていく。

 深呼吸をもう1度、繰り返す。
 さらにもう1度、繰り返す。

 息を吐くたびに私の身体は落ち着きを取り戻していく。
 不死身の身体。天使の身体。


「これ、もういらないや」


 すっかり震えの収まった私は、左肩にまとわりついている浮遊霊のようなTシャツを破り捨て、左足のサンダルを手に取り、太陽に向かって思いっきり投げつけた。サンダルは大きな大きな放物線を描き、ずうっと向こうの海面に落ちて、小さな小さな水飛沫を上げた。


 余計なものをぜんぶ捨てて、いま、私は生まれた。
 身体も、心も、たったいま、本当に生まれ変わった。


 海の上にぷかぷかと浮いているものを見つけた。
 それは扇形に広がった薄っぺらい大きな皮。
 私が剥いだエイの皮だった。

 これはきっと海からの贈り物だ。

 私はその黒い皮を適当な大きさに引き裂いて胸に巻いた。
 もう一枚、今度は少し大きめに引き裂き、パレオのように腰に巻く。

 私の顔には自然と笑みが浮かぶ。
 いいじゃないか。気に入ったよ、これ。

 私は感謝の気持ちを込めて海を見つめた。
 そして晴れやかな気持ちで広い空を見上げる。

 太陽が、空が、海が、私の誕生を祝福している。
 世界はこんなにも優しく私を包んでくれている。


 約束するよ。


 私はこの世界から醜いものを取り除き、世界を綺麗なものにする。

 それがお兄ちゃんの闘いだから。
 それが私の闘いだから。


 私はお兄ちゃんを守る天使。


 ――『Angel Knights』だ。


 愛しくてたまらないお兄ちゃんを目指して、私は空を駆けた。
 どっちにお兄ちゃんがいるか、何となくわかる。
 私はその感覚を信じてひたすらに羽ばたいていた。


 お兄ちゃんのことで頭がいっぱいだった私は、サンダルの落ちた、さらに先の海の底で、息を吹き返そうとしている存在がいることに、まったく気が付いていなかった。

       

表紙

蝉丸 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha