Angel Knights
第2幕 Noah's ark with Angel Knights
第2幕 Noah's ark with Angel Knights
1
私たちはお兄ちゃんお気に入りの喫茶店「ノアズ・アーク」で1200円のクリームソーダを飲んでいた。店内はお兄ちゃんの好きそうな落ち着いた雰囲気で、壁一面が木目調の壁紙で覆われている。夜はバーになるのか、カウンターの奥にある棚には何段にもわたってボトルが並べられていた。
そんな棚の前では胡散臭い整ったヒゲの男がこれ見よがしにグラスを磨いている。いつ来ても店員はこのおっさんしかいない。お客がいることはまれで、今日は珍しく隅の席にイヤホンを耳に突っ込んだ若い男が1人でコーヒーを飲みながら文庫本を読んでいた。
ここのクリームソーダは高いけどそんなにおいしくない。いつもそうだけど、今日は特別まずい。バニラアイスがどろどろに溶けて、メロンソーダと混ざっているところを見ていたら気持ちが悪くなってきた。バニラアイスをぜんぶ溶かしてぐちゃぐちゃにしたのが大好きだった昔の私が信じられない。
お兄ちゃんはここに来てから「クリームソーダ3つね」としか言っていない。頬杖をついて窓の外を見たり、店内をぼんやりと見渡しているだけだ。私もマリアもお兄ちゃんが話したくない時は話さない。私たちは音を消したテレビみたいに黙りこくっていた。
私は気分を変えようと窓の外に目を向けた。ビルの37階にあるこの店からは下を歩く人がゴミのように見える。上を向けば、真っ青な空が広がっていて、ジェット機が長い長い飛行機雲を後ろにくっつけて、窓を斜めに横切っていく。あそこから見れば、私も地べたを歩く人と同じくゴミに見えるだろう。
私はいつまでゴミの中にいなくちゃいけないんだろう?
早く、早くあの青い空に帰りたい。
気付かないうちに、私の目からはまた涙が溢れていた。ぽたりと腕に落ちた涙で私ははっとして顔を上げた。マリアにだけは涙を見られたくなかった。
でもマリアは、私の涙に気付いていなかった。
だってマリアも青い空を見て泣いていたから。
マリアは空を見て泣いた。
私はマリアを見て泣いた。
お兄ちゃんは空っぽになったクリームソーダのグラスに刺さったストローをつまんで、カラコロと氷を転がしていた。その仕草はとても物憂げで、世界に希望なんてないように感じた。
「ジュリア、マリア、ごめんね。
とても長い時間、僕は2人を待たせてしまった」
お兄ちゃんは小さな声で呟いた。
私とマリアは涙も拭かずにお兄ちゃんを見つめた。
「でも、ようやく時は来たんだ。
始まりはとても静かだけれど、せめて僕はジュリアとマリアのために
小さな花火をプレゼントするよ」
お兄ちゃんはテーブルに置かれていたベルを手に取って、チリンチリンと鳴らした。あのヒゲの男が舌打ち混じりに磨いていたグラスをがちゃんとテーブルに置いて、カウンターから出てきた。お兄ちゃんのお気に入りじゃなかったら、こんな店すぐに燃やしてやるのに。
「追加?何?」
「いえ、追加ではないんです」
「はあ?」
「このお店、落ち着いていて、とても素敵ですね。
僕、大好きなんです」
「へえ、お嬢ちゃんいい趣味してるじゃない。
そういえば君たち何度か見たことあるな。お姉さんたちは高校生?」
口元を歪めて不細工なオッサンが笑う。開いた口から黄ばんだ歯が顔を見せた。だらしなく垂れたそいつの細い目は、私の脚やマリアの胸を舐めまわすようにじろじろと見ていた。
嫌だ。これ以上、こんな奴とお兄ちゃんが話しているのは嫌だ。
拳を握りしめてクソジジイを睨んでいる私を見て、お兄ちゃんはこくりと頷いた。お兄ちゃんは何もかもわかっていた。
「でも、あなたがいると台無しだ。だから消えて下さい」
やった、お兄ちゃんから死刑執行の許可が下りた。
私はぱあっと笑顔になって、飛び上がるように席を立ち上がると、言われた意味も分からずにむっとしていた男の腕をつかんでねじり上げた。ぎゃああああ!という叫び声が私を心地よくさせる。目の前にいるマリアも恍惚とした笑みを浮かべていた。きっといま、私とマリアは見分けがつかないほど、そっくりな顔をしているだろう。
「な、何なんだ!お前ら!け、警察呼ぶぞ!」
「へえ、やってみてよ」
私は手に力を込める。男は甲高い叫び声を上げた。汚れた皺だらけの男の手からは、ネバネバした汗がじんわりと吹き出している。そろそろ触っているのも嫌になってきた。
「ジュリア、なるべくお店を汚さないように窓から捨ててしまって」
「はぁい」
お兄ちゃんはすごい。私の気持ちが手に取るようにわかっている。
私は全面がガラス張りになっている窓に近づいた。窓の前では、マリアがうっとりとした薄笑いを浮かべたままで、スラリと長い人差し指の先をふっくらした下唇にあてがっている。男は私の手を振りほどこうと懸命にもがいているけど、子猫がじたばたしているぐらいにしか感じない。
「マリア、窓あけてよ」
「いひゃあああああ!
やめてください!助けてください!
やめてください!助けてください!
お願いします!お願いします!お願いします!」
「え?無理言わないでよ。こんなとこ、あくわけないじゃない」
「開かないです!そこは開かないです!」
「ハァ?あかなくてもあけてよ」
「ジュリアってホントにバカね。
バカはバカらしく馬鹿力で破っちゃったら」
お兄ちゃんがマリアの言葉を聞いて、胸の前でパンと手を叩いた。こんな何でもないお兄ちゃんの仕草ひとつで、どうして私の胸はドキリとしてしまうんだろうか。
「それいいね。きっと綺麗だよ。
やれる?ジュリア?」
「簡単だよ!見ててね。お兄ちゃん」
「いやあああああ!いやあああああ!」
私は窓に背を向け、手をねじり上げているのとは反対の手で男の襟首をつかみ、私と向かい合うように男の身体を反転させた。涙と鼻水にまみれた顔が私の前に現れる。いい気分に少し水が差された。
私は男の着ていた趣味の悪いベストを両手でつかむと、そいつを巴投げで思い切り蹴り飛ばした。ガラスに向かって大砲の玉のように飛んでいったそいつは、ガシャアアアン!という派手な音を響かせて、ガラスを突き破った。
宙に浮かぶ男の周りを、粉々になったガラスの欠片が太陽を浴びてダイヤモンドのようにきらきらと輝いていた。ほんの一瞬、男はきらびやかな光に包まれて、その後は笑っちゃうほどのスピードで地上へと吸い込まれていった。
「それほど綺麗でもなかったね」
お兄ちゃんはしょんぼりと地上を見下ろしていた。
2
おでこを窓にコツンとあてて、つまらなそうにしているお兄ちゃんを見て、私はとてつもない自己嫌悪に襲われた。窓に開いた大穴からは汚らわしい熱風がじわじわと押し寄せ、嫌がらせのように冷えていた室内の空気を掻き分けて私にまとわりついてくる。まるで巨大な舌に身体中を嘗め回されているようだ。これはお兄ちゃんをがっかりさせてしまった罰なんだと思って、私はその屈辱的な感触に身を任せていた。
ふいに店の隅でカタリとテーブルの揺れる音がした。
忘れていた。この店にはもう1人客がいたんだ。
2人掛けの小さなテーブルの向こうから男が私たちを呆然と眺めていた。大学生ぐらいだろうか、柔らかそうな髪を茶色に染め、上品な顔立ちをしている。男の表情には驚きはあっても恐怖はなかった。きっと自分は特別な存在で悪いことなど何も起こらないと思っているんだろう。
私は無性に腹が立って、ぐちゃぐちゃになったクリームソーダの残っているグラスを手に取り、15メートル先の男の眉間に向かって、思いっきり投げつけた。死ね。
男ははっとして、咄嗟に目の前のテーブルを蹴り上げた。ふわりと浮かんだテーブルはこれまでコーヒーカップやiPodを載せていた四角い面を私の方に向け、男めがけてまっすぐに飛ぶグラスを盾のように遮った。
パリイィィンと甲高い音を立てて粉々にグラスは砕け、次いでゴォンと机の落ちる低い音が響く。睨みつける私の視線など感じないかのように、男はゆっくりと立ち上がった。
白いポロシャツにベージュのパンツ。どこにでもいそうなキレイめの若い男。
そんな外見に騙された。この男はまともじゃない。
男はゆったりと私に近づき、間合いを取って立ち止まった。服の上からでもしなやかそうな筋肉が透けて見える。そのバランスの取れた身体に乗っている美しい顔。お兄ちゃんや私とは違うカテゴリーの美しさ。私はお兄ちゃん以外の男を初めて心から美しいと思った。
「てめぇ!いきなり何しやがんだ!」
男はよく通るテノールな声質で、クソのような言葉を叫んだ。
「フフフ、私を本気にさせるとはね・・・・・・」ぐらい言ってほしかったのにガッカリだ。これではさっき絡んできた童貞野郎と変わらない。
私は急激にどうでもよくなって、面倒なことになる前に逃げてしまおうかと、お兄ちゃんとマリアの方に顔を向けた。マリアは穴の開いた窓から身を乗り出すようにして地上を見下ろしている。マリアの見たいものは小さすぎて見えないだろうから、同じ所に叩き落してやろうかと思った。
お兄ちゃんは私をじっと見ている。もう、がっかりした顔はしていない。私に何か期待するような目をしている。
なんだろう?お兄ちゃんは何を望んでいるんだろう?私は何をすればいいの?
お兄ちゃんは私から視線を逸らして、男の方を見た。私もつられて男の方を見る。拍子抜けしたような男は私が視線を戻すと軽く身構えた。黙っていれば見とれるくらい美しいのに。
その時、私にピィンとインスピレーションがやってきた。
そうだ、喋れないようにしてしまえばいいんだ。傷だらけのボコボコにして、指1本動かせなくなった美しい身体をここからそっと地上に帰してあげる。
服は破れ、身体は血に染まり、十字架に縛られたように腕を広げて落ちていく男を想像すると、私は胸が高鳴った。
私はもう1度お兄ちゃんを見た。お兄ちゃんはこくりと頷いた。
わかったよ!今度こそお兄ちゃんの期待に答えてみせるからね!
私は男に向かってニヤリと笑った。男の顔に初めて緊張が走った。
「おい!ちょっと待て!俺は・・・・・・」
「喋んなああああぁぁぁぁ!!」
私は一気に間合いを詰め、男の足にローキックを放った。男は後ろにステップを踏んでこれをかわす。計算通りだ。
私はそのままの勢いで蹴りを放った足を軸にして、反対の足で男の腹に弾丸のような蹴りをお見舞いした。
「ぐふぉ!」
男は吹っ飛んでゴロゴロと転がり、壁に背中と頭をぶつけた。鼻血とか出さないでよ。綺麗じゃないから。
男はふらふらと立ち上がって私を睨みつけた。
「・・・・・・この野郎、もう勘弁ならねえ」
スカした顔もいいけど、これはこれで何だかいい感じだ。この表情でこの喋り方ならアリかもしれない。私はコイツとちょっと話してみたくなった。
「アンタさ、もうちょっと綺麗な言葉使えないの?もったいない」
「てめえに言われたかねえよ!このメスゴリラが!」
「なっ!誰がメスゴリラだ!」
「丸太みたいな脚しやがって。なに食ったらこんなパワー出んだよ」
前言撤回。
やっぱりこいつは黙らせる。地上に落とした後、拾ってきて3回は落としてやる。
「・・・・・・殺す」
「へっ!やってみろよ、メスゴリラ」
「メスゴリラって言うんじゃねえっ!」
私はまだふらふらとしている男に向かって走り出し、さっきと同じ腹に蹴りを突き出した。今度は後ろに転がるスペースはない。動けなくして意識が、ううん、生命がなくなるまで殴り続けてやる。
私の蹴りが入る寸前、男は口元に笑みを浮かべ、消えた。
勢い、私は壁に渾身の蹴りをブチ当てることになってしまい、見かけだけが豪華な薄い壁に大穴をあけてしまった。悪いことに脚は壁を突き抜け、腿の根元まで壁に埋まった状態になり、私は身動きできなくなってしまった。
慌てた私は迂闊にも男のことを忘れて、必死に脚を引き抜こうとした。そのせいで背後に近づいた気配にもまったく気がつかなかった。
3
むにゅ。
「いやぁっ!!」
私はぎゅっと目をつぶり両腕で胸を抱えて、こんな声が私に出せたのかと思うような、か弱くて甲高い悲鳴を上げてしまった。背後から私のおっぱいを鷲掴みにして、むにゅむにゅと揉みしだいた手は一瞬びくっとして、さっと私のおっぱいから離れた。その拍子に私の脚は壁から抜け、私は背中から床にどてんと転がった。
私が体勢を整えて、あたりをきょろきょろと見回すと、あの男は店の真ん中で叱られた子犬のような顔をして私を見ていた。私がぎっ!と睨むと、男は取り繕うように無理に怒った顔をした。
「ゴ、ゴリラが気色わりぃ声出してんじゃねえぞ!それに何でお前ノーブラなんだよ!」
「関係ねえだろ!この短小野郎!」
「な、なにぃ!俺様のを見たことあんのかよ!結構スゲェぞ!」
「興味ねぇよ!バカヤロウ!」
「興味ねぇ割には顔が真っ赤じゃねえか!
メスゴリラちゃんもそういうのに興味がわくお年頃か?ああ?」
「うっ・・・・・・」
私の目からは今にも涙が溢れそうになっていた。
男の顔がまた申し訳なさそうに気弱な顔になる。何なんだコイツは?
上品な顔をしたり、獣みたいな顔になったり、子犬みたいな顔をしたり。私はこれまでの短い人生でこんな奴に出会ったことはなかったし、あんなふうにおっぱいを揉まれたこともなかったから、だから、アイツの顔を見ていると胸がドキドキしてしょうがなかった。
はぁ・・・・・・。
お兄ちゃんがため息をついたのが見えた。
え?なんで?どうして私を軽蔑した目で見るの?
お兄ちゃんは横にいたマリアに何か話しかけた。私には何を言っているのか聞こえない。マリアは私をバカにしたような目で見てクックッと笑う。お兄ちゃんも私を横目で見て、呆れた顔で笑っている。
哀しくなってうつむくと、私の真っ白な右脚は壁から引き抜く時についた傷から流れ出す幾本もの血の筋で赤く模様づいていた。真っ白な肌を滴り落ちる真っ赤な血。私の腿はズキズキと痛んだ。
ねえ、お兄ちゃん
私、頑張ってるよ
だから、そんな目で見ないでよ・・・・・・
「あのさ・・・・・・もう終いにしないか?
俺もカーッとなって、ひでぇこと言っちまった気がするけど、
別にお前とやり合いたいわけじゃないしさ・・・・・・」
奴は薄ら笑いを浮かべて私に言った。
私、情けをかけられたのか・・・・・・?
最悪じゃないか・・・・・・私・・・・・・。
「・・・・・・バカにすんなよ」
「あ?」
「バカにすんなって言ってんだあっ!!」
許さない。私をバカにする奴は絶対に許さない。
私は男に向かってさっきと同じ蹴りを放った。男はまた私の目の前で消える。
舌打ちをした私の背中を激しい衝撃が襲い、私は前のめりに倒れた。身体を回転させ素早く立ち上がると、男は私の背後に悠然と立っていた。よけようとする動きも地面を蹴る音もなかったのに。奴は瞬間移動でも使えるのか?
「いい加減にしろよ。お前じゃ俺に触ることもできねえよ」
奴はうんざりしたように言った。私なんか相手にもならないと言っているようだ。悔しいけど、たしかに奴が消える謎を解かない限り私に勝機はない。逆にその秘密が分かれば対応もできる。そのためには考えられる可能性を1つ1つ潰していく必要があった。
私は立ち上がると爪先立ちでトントンと跳ね、戦い方をボクシングスタイルに変えた。
スッと間合いを詰め、男にジャブを繰り出す。男はやりにくそうな顔をして、私のパンチを腕で払いのけたり、身体を開いてよけたりはするが、消えることはない。つまり私の隙が少なければ消えることができないようだ。
この段階で私が幻覚を見せられている可能性と奴が瞬間移動をしている可能性が消えた。どちらも私に隙があるかないかは関係なく、いつでも使える筈だから。つまり奴は一瞬だけ私が目で追えないほどのスピードで動くことができるということだ。それも普通ではない方法で。
私のパンチは何発に1発かはどこかしら男の身体にヒットする。ただ、スピードでは奴の方が上らしく、私は奴に当てた3倍ぐらいのパンチをボディに貰っている。顔は絶対に殴らせない分、ボディの守りは薄くなっていたからだ。このままでは私の方が先に根を上げる。
でも、すでに確認と仕込みは終わった。奴は私がバカだと思っているだろう。それが間違っていることをイヤと言うほど教えてやる。私は仕上げに入った。
「くっそお!埒があかねえ!こんなチンタラやってらんねえよ!」
私はそう叫んで間合いを取り、踵をベタリと地面につけた。蹴りが来ると奴が思っているのが丸わかりだ。私は男の脇腹をめがけて円を描くように蹴りを放った。男は同じように姿を消す。かかった!
私はそのままの勢いでぐるりと蹴りの円を描く。手応えなし。それなら残るのは、
「上しかねえだろ!」
私は高い天井に届く程の勢いでジャンプした。
「グハッ!」
私の頭突きが奴の鳩尾に埋まる。想像以上の出来だ。どこかに当たって体勢を崩せればいいぐらいに思っていたけど、運命は私に味方しているようだった。私は奴のふわふわした髪の毛を空中でガッシリと鷲掴みにした。
「つっ・か・ま・え・たあっ!」
私は地面に落ちるスピードも利用して、奴の後頭部を床に叩きつけた。ゴォン!と音がして奴の身体が跳ねる。壁と違って床はコンクリ。突き破ってしまう心配もない。
仰向けに転がって呻き声を上げる奴の腹を、私は踏み抜くつもりで何度も何度も踏んだ。
「グホッ!ブホッ!ウボッ!ゴフォ!」
踏みつける度に口から汚い吐息が漏れる。吐息にはやがて血が混じり、奴は次第に反応を示さなくなってしまった。
傷だらけの血まみれ。奴は私の思い描いていた状態になった。
後は美しく落とすだけだったけれど、コイツにはそんな綺麗なシチュエーションは似合わないだろう。私は奴の髪を掴み、ずるずると窓まで引っ張っていった。
「捨てちゃうの?もったいなくない?」
自分では何ひとつせずに口だけは出してくるマリアが、爛々とした目をして言った。マリアにとって、今日はいい日だったろうね。クズが。
私はマリアを無視して、下界へのゲートである大穴の前で奴を転がした。真っ白なポロシャツには点々と血の跡が付き、顔には傷ひとつない。まだ息があるのか、ほんの少し胸が上下している。我ながらいい調整具合だ。
見れば見るほどコイツは美しかった。剥製にして持って帰りたい。それが叶わないなら、コイツを抱きしめて、一緒に落ちてしまいたい。
・・・・・・駄目だ、コイツの存在は私の心を惑わせる。
だから捨てよう。なんの躊躇いもなく無造作に。
私は大穴の前でポロの胸元を両手で掴み、奴を高く掲げた。
私は目を瞑った奴の美しい顔を正面からじっと見つめる。
バイバイ、変態。
私は、とん、と奴を宙へ押し出した。
奴は信じられないくらい、ゆっくりと落ちていく。
少なくとも私にはそう感じた。
でも、それは錯覚ではなかった。
4
宇宙船の中から重力のない宇宙へものを投げたらこんな感じなんだろうか?奴は首ねっこを掴まれた猫みたいな格好で、ダウンジャケットを飛び出した羽のようにじわりじわりと私から離れ落ちていく。
5秒もすれば奴の綺麗だった姿は大地に叩きつけられて、ただのバラバラ死体になり、私のもやもやした気持ちもきれいさっぱりなくなる筈だった。それなのに、奴はまだ私の手の届く所でぷかぷかと浮かんでいる。高く掲げた状態から押し出された奴の身体は、ようやく私と同じ高さまで落ちてきたところだ。
お互いに手を伸ばせばギリギリ届くぐらいの距離。
「おい!目ぇ覚ませよ!目ぇ覚ませって!!」
気がつけば私は窓枠に片手をかけて宙に身を乗り出し、奴に向かって思いっきり叫んでいた。ほんの何秒か前、自分で落としたくせに私はバカだ。ううん、あいつを落としたちょっと前の私がバカだったんだ。
あいつは私の声が届いたのか、ほんの少し表情を歪ませた。
「起きろお!
起きろ!起きろ!起きろおお!!」
「・・・・・・う、うるせえな・・・・・・」
あいつはうっすらと目を開いた。小さな声だったけど、喋ったのも聞こえた。そして、苦痛に歪んだ顔にあいつはむりやり笑みを浮かべた。私はあいつに抱きついて、いっぱいいっぱいキスしたい衝動に駆られた。
「つかまれ!」
私は窓枠に手をかけ、あいつに向かってもう片方の手を千切れそうなくらいに伸ばした。あいつも苦しそうに手を伸ばして、私の手をつかもうとする。
その時、強い風に煽られて私の身体が揺れた。ウサギを捕らえる罠のように尖ったガラスの断面が私の体重を支えていた腕に深々と刺さった。
「・・・・・・あっ」
バランスを失った私の身体は空へ飛び出した。
眼下にはおもちゃのような灰色の街並。リアリティのない風景。
世界が私の終わりを待ちわびているような感覚。
こんなにもあっさりと人は死ぬ。
落ちゆく私はあいつの顔を見た。
あいつは必死な顔で私を見つめ、私に向かって手をいっぱいに伸ばしていた。
その後ろには真っ青な空がどこまでもどこまでも広がっている。
人生の最後に見るものとして悪くない。
死ぬ瞬間に私を見つめてくれる人がいたんだ。
私は飛べない。
だから私は空に浮かぶあいつの姿を最後の風景にするため、そっと目を閉じた。
「あんたは飛べてよかったね・・・・・・」
それが私の最後の言葉になる筈だった。
ぐんぐんと加速度を増していく私の身体にがくんと衝撃がきた。
こんなものなの?それほど痛くもない。もしかしたら私の身体が地面に激突してバラバラになる前に、魂が肉体を離れてしまったんじゃないかなんて、私はぼんやりと考えていた。
「おい!大丈夫か!しっかりしろ!」
この声・・・・・・。あいつ?
私はそっと目を開いた。すぐそばにあいつの顔。
私はあいつにお姫様のように抱きかかえられて、宙に浮かんでいた。
あいつの背中には両手を広げたよりも大きな羽が生えている。
真っ白でふわふわとした羽。それはタンポポの綿毛のように柔らかそうだった。
「・・・・・・ねぇ」
「ん?なんだ?」
「その羽、さわってもいい?」
あいつはちょっとびっくりした顔になって、それから今まで見た中でいちばん優しい笑顔になった。
「いいぜ。ほら」
私は近づけてもらった羽にそっと触れる。ふわふわで柔らかくて暖かい。
「・・・・・・いいな、これ・・・・・・」
あいつは悪魔みたいに優しい笑顔で羽に触れる私を見つめていた。
それに気付いた私もあいつの目を見つめ返す。
自然に顔と顔が近付き、それにつれて私は瞼を閉じた。
私たちはそっと唇を重ね、暖かくて柔らかいぬめぬめした舌を絡ませ合った。
頭の芯が溶けたようになって、身体から力という力が抜けてしまう。
キスがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
私は生きててよかったと思った。
触れた時と同じように唇がそっと離れた。私はすごく物欲しそうな顔をしていたに違いない。あいつは私の何もかもを手に入れたような勝ち誇った顔をしていたから。私は、私の心が私を取り戻しつつあるのをはっきりと感じていた。
「・・・・・・ねぇ、あんた一体何者なの?」
私はようやく最初に聞くべきだった質問をした。私と同じくらい強くて、背中に羽の生えた美しい生き物。そんなものが存在しているのは、お兄ちゃんのおとぎ話の中だけだ。私はお兄ちゃんの理想に近付きたくて、ありえない生き物を目指していた。
そんな私と同じような生き物が、いま目の前にいる。しかも、努力だけでは手に入れられない羽を背中に持って、あたりまえのように空に浮かんでいる。そう思うと、私はこいつの羽を1本残らず毟り取ってしまいたくなった。
「俺はヘキサ。『解き放つ者』としてお前たちを目覚めさせるためにここに来た」
「『解き放つ者』・・・・・・?意味わかんない」
「すぐに分かるさ。お前の儀式はもう終わっている」
「お前なんて呼ばないでくれる?馴れ馴れしいよ」
「そう怒るなよ、ジュリア」
「・・・・・・私、まだ名乗ってないけど」
「言ったろ。俺は『解き放つ者』としてお前たちを・・・・・・おっと、
ジュリアたちを目覚めさせるために来たんだ」
「やっぱり意味わかんないよ。ちゃんと説明して」
私はヘキサを睨みつけたが、ヘキサは余裕たっぷりの表情をしている。
やっぱりコイツ勘違いしてるよ。
「じゃあ、ひとつだけ先に教えといてやるよ」
ヘキサは言った。
「お前にも羽はある」
ヘキサがそう言うのと同時に、私の身体に味わったことのない激痛が走った。
宇宙船の中から重力のない宇宙へものを投げたらこんな感じなんだろうか?奴は首ねっこを掴まれた猫みたいな格好で、ダウンジャケットを飛び出した羽のようにじわりじわりと私から離れ落ちていく。
5秒もすれば奴の綺麗だった姿は大地に叩きつけられて、ただのバラバラ死体になり、私のもやもやした気持ちもきれいさっぱりなくなる筈だった。それなのに、奴はまだ私の手の届く所でぷかぷかと浮かんでいる。高く掲げた状態から押し出された奴の身体は、ようやく私と同じ高さまで落ちてきたところだ。
お互いに手を伸ばせばギリギリ届くぐらいの距離。
「おい!目ぇ覚ませよ!目ぇ覚ませって!!」
気がつけば私は窓枠に片手をかけて宙に身を乗り出し、奴に向かって思いっきり叫んでいた。ほんの何秒か前、自分で落としたくせに私はバカだ。ううん、あいつを落としたちょっと前の私がバカだったんだ。
あいつは私の声が届いたのか、ほんの少し表情を歪ませた。
「起きろお!
起きろ!起きろ!起きろおお!!」
「・・・・・・う、うるせえな・・・・・・」
あいつはうっすらと目を開いた。小さな声だったけど、喋ったのも聞こえた。そして、苦痛に歪んだ顔にあいつはむりやり笑みを浮かべた。私はあいつに抱きついて、いっぱいいっぱいキスしたい衝動に駆られた。
「つかまれ!」
私は窓枠に手をかけ、あいつに向かってもう片方の手を千切れそうなくらいに伸ばした。あいつも苦しそうに手を伸ばして、私の手をつかもうとする。
その時、強い風に煽られて私の身体が揺れた。ウサギを捕らえる罠のように尖ったガラスの断面が私の体重を支えていた腕に深々と刺さった。
「・・・・・・あっ」
バランスを失った私の身体は空へ飛び出した。
眼下にはおもちゃのような灰色の街並。リアリティのない風景。
世界が私の終わりを待ちわびているような感覚。
こんなにもあっさりと人は死ぬ。
落ちゆく私はあいつの顔を見た。
あいつは必死な顔で私を見つめ、私に向かって手をいっぱいに伸ばしていた。
その後ろには真っ青な空がどこまでもどこまでも広がっている。
人生の最後に見るものとして悪くない。
死ぬ瞬間に私を見つめてくれる人がいたんだ。
私は飛べない。
だから私は空に浮かぶあいつの姿を最後の風景にするため、そっと目を閉じた。
「あんたは飛べてよかったね・・・・・・」
それが私の最後の言葉になる筈だった。
ぐんぐんと加速度を増していく私の身体にがくんと衝撃がきた。
こんなものなの?それほど痛くもない。もしかしたら私の身体が地面に激突してバラバラになる前に、魂が肉体を離れてしまったんじゃないかなんて、私はぼんやりと考えていた。
「おい!大丈夫か!しっかりしろ!」
この声・・・・・・。あいつ?
私はそっと目を開いた。すぐそばにあいつの顔。
私はあいつにお姫様のように抱きかかえられて、宙に浮かんでいた。
あいつの背中には両手を広げたよりも大きな羽が生えている。
真っ白でふわふわとした羽。それはタンポポの綿毛のように柔らかそうだった。
「・・・・・・ねぇ」
「ん?なんだ?」
「その羽、さわってもいい?」
あいつはちょっとびっくりした顔になって、それから今まで見た中でいちばん優しい笑顔になった。
「いいぜ。ほら」
私は近づけてもらった羽にそっと触れる。ふわふわで柔らかくて暖かい。
「・・・・・・いいな、これ・・・・・・」
あいつは悪魔みたいに優しい笑顔で羽に触れる私を見つめていた。
それに気付いた私もあいつの目を見つめ返す。
自然に顔と顔が近付き、それにつれて私は瞼を閉じた。
私たちはそっと唇を重ね、暖かくて柔らかいぬめぬめした舌を絡ませ合った。
頭の芯が溶けたようになって、身体から力という力が抜けてしまう。
キスがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
私は生きててよかったと思った。
触れた時と同じように唇がそっと離れた。私はすごく物欲しそうな顔をしていたに違いない。あいつは私の何もかもを手に入れたような勝ち誇った顔をしていたから。私は、私の心が私を取り戻しつつあるのをはっきりと感じていた。
「・・・・・・ねぇ、あんた一体何者なの?」
私はようやく最初に聞くべきだった質問をした。私と同じくらい強くて、背中に羽の生えた美しい生き物。そんなものが存在しているのは、お兄ちゃんのおとぎ話の中だけだ。私はお兄ちゃんの理想に近付きたくて、ありえない生き物を目指していた。
そんな私と同じような生き物が、いま目の前にいる。しかも、努力だけでは手に入れられない羽を背中に持って、あたりまえのように空に浮かんでいる。そう思うと、私はこいつの羽を1本残らず毟り取ってしまいたくなった。
「俺はヘキサ。『解き放つ者』としてお前たちを目覚めさせるためにここに来た」
「『解き放つ者』・・・・・・?意味わかんない」
「すぐに分かるさ。お前の儀式はもう終わっている」
「お前なんて呼ばないでくれる?馴れ馴れしいよ」
「そう怒るなよ、ジュリア」
「・・・・・・私、まだ名乗ってないけど」
「言ったろ。俺は『解き放つ者』としてお前たちを・・・・・・おっと、
ジュリアたちを目覚めさせるために来たんだ」
「やっぱり意味わかんないよ。ちゃんと説明して」
私はヘキサを睨みつけたが、ヘキサは余裕たっぷりの表情をしている。
やっぱりコイツ勘違いしてるよ。
「じゃあ、ひとつだけ先に教えといてやるよ」
ヘキサは言った。
「お前にも羽はある」
ヘキサがそう言うのと同時に、私の身体に味わったことのない激痛が走った。
5
「ぐうっ・・・・・・・
うあっ・・・・・・う、うあっ・・・・・・」
「・・・・・・始まったな」
身体を内側から焼かれているような感覚に襲われた私は、呻き声を漏らし、ヘキサの首に巻きつけていた手に力を込めた。私のローズピンクに塗られた爪がヘキサの首筋の皮膚を破って肉の中へと食い込んでいく。ヘキサは痛みに耐えるように身体を固くした。その拍子にお姫様抱っこをされていた私の脚がヘキサの腕から滑り落ちる。ヘキサは空いた手を私の背中に回して、最後の別れを惜しむ恋人のように私を強く抱きしめた。私はヘキサの胸に顔を埋め、首筋に立てた爪をさらに奥へと食い込ませる。私の指はずぶずぶとヘキサの首にめり込んでいった。
存在が焼き尽くされてしまいそうな痛みが身体の中を激しく駆け回る。私は火炙りにかけられている気がした。私の身体も、私の心も、私の罪も、全てが焼き尽くされる。何もなくなって、私がいたことなんてみんな忘れて、私なんて最初からいなかったことになる。
それは完璧な消滅、最高に綺麗な死。
私を見つめる瞳も、私を抱きしめる腕も、私を愛する心もすべて消えてしまえばいい。
私は無になって消えてしまいたい。
この世界に私はなにひとつ残していきたくはない。
私は無慈悲な痛みに蹂躙されながら、すべてが終わるその時をただ待っていた。
救いを待つように、赦しを待つように。
気の狂うような痛みがふっと消えた時、私の存在自体が消えてしまったように感じた。
私は待ち望んだその時が来たと思い、何もないその世界をゆらゆらと漂っていた。
「・・・・・・ジュリア、目を開けてみろよ」
からっぽの私に言葉がかけられた。
染み渡るような優しい声が私の細胞を目覚めさせていく。
もしかして、これは終わりではなくて始まりなの?
私が望んだのは終わり?それとも始まり?
(・・・・・・そんなの、わかりきっている)
そっと目を開けた私が最初に見たのは、胸元を血に染めたヘキサの白いポロシャツだった。
白地のキャンパスに描かれた真っ赤な血しぶき。
生まれ変わって最初に見たのが血なんて、私らしくていいじゃないか。
私はヘキサの胸に埋めていた顔を上に向けた。
真っ青な空を背景に天使のような美しいヘキサの顔が浮かんでいる。
私の人差し指と中指は第一関節のあたりまでヘキサの首に埋まっていた。
暖かい真っ赤な血が私の白い腕を伝って滑り落ちてくる。
空の青、血の赤、肌の白、ごちゃごちゃな世界の中で私の周りは原色に包まれている。
私は嬉しくなってヘキサに微笑んだ。
「・・・・・・とりあえずさ、指、抜いてくんないかな?けっこう痛ぇんだよ」
ヘキサも微笑みを返して言う。私はゆっくりと首筋から指を抜いた。
ヘキサの首についた傷はみるみるうちに塞がり、なめらかな肌を取り戻していく。私とヘキサの繋がりが簡単に消えてしまった気がして面白くなかった。
「ジュリア」
「なに?」
「飛んでみるか?」
「飛ぶ?」
「言ったろ。ジュリアにも羽はあるって」
ヘキサは顎をしゃくって私の肩の後ろを示した。
私は首を捻って背中に生えたそれを見る。
私の肩越しには大きな白い羽が風に吹かれて柔らかく揺らめいていた。
「ヘキサ!
私、自分がどうなってるのか見たい!」
私はそびえ立つ高層ビルの窓を指差して、だだをこねる子供のように叫んだ。
ヘキサはやれやれといった顔で器用に私の後ろに回ると、私を抱えたままビルの大きな窓に近づき、私の全身をキラキラと輝くガラス窓に映した。
そこには大きく広がる真っ白な羽を持った美しい私がいた。
ずっと憧れていた天使以外の何者でもない。
私は、私が望んでいたものに生まれ変わったことをはっきりと知った。
そして、私を選んでくれた何かに、ただ感謝したい気持ちでいっぱいになった。
窓に映る私の肩越しにヘキサのにやにやした顔がある。ヘキサはたしかに綺麗だ。でも、いまの私ほどじゃない。そう思うと、私を抱いている腕が急に鬱陶しくなった。
ヘキサは窓に映る私の表情が変わったのに気付くと、私の脇の下に手を入れ、高い高いをするように私を高く掲げた。タイミングがよかったから、少しヘキサのことが好きになった。
「ほら、飛んでみろよ。巣立ちの時だ」
ヘキサは嬉しそうに言った。きっと私がヘキサを思うよりヘキサは私を好きなんだろう。私に忠誠を誓って、私だけを見ているヘキサはきっと素敵だ。そのうち、私のお人形にしてあげるからね。
ヘキサの腕に支えられた私は自分の羽を静かにはばたかせた。もう、この羽は私の一部だ。何の苦労もなくスムーズに動かすことができる。私はどうすれば飛べるのかをずっと前から知っているような気がした。
「そうだ・・・・・・ゆっくりとだ・・・・・・」
「ヘキサ」
「ん?怖いか?」
ヘキサは優しい笑みを私に向ける。
でも、優しいヘキサはもう飽きちゃった。
「私、もうあんたいらないかも」
私はふわりとヘキサの手から離れ、ぐんぐんと上昇していった。
じゃあね、バイバイ。
「・・・・・・わっかんねーな。情緒不安定なガキは・・・・・・」
後に残されたヘキサは何か言っているようだったが、私には聞こえなかった。
私はお兄ちゃんに向かってはばたいていく。
早くお兄ちゃんにこの羽を見てもらいたい。
私、お兄ちゃんがずっと望んでいた天使になれたんだよ。
だから、もうマリアなんかいらないよね?
私は37階まであっという間にたどり着いた。
後からおまけのようにヘキサがついてくる。
天使になった私を37階の窓辺で出迎えてくれたのは、訝しむような表情のマリアと、私を睨みつけるお兄ちゃんだった。お兄ちゃん怒ってる、なんで?
「・・・・・・お兄ちゃん、私ね、天使になれたんだよ」
私はおずおずとお兄ちゃんに言った。
「それで?」
感情のこもらないお兄ちゃんの言葉が私の胸に突き刺さった。身体がすっと冷たくなる。
黙り込む私を前に、マリアがバカみたいな甲高い声を上げた。
「アッハハハハハハ!
バッカみたい!アハハハハハハ!アハハハハハハ!
アハハハハハハ!アハハハハハハハハハハハ!」
マリアの高笑いを聞きながら、やっぱり私は死んでいた方がよかったのかなと思った。
私の肩にそっと置かれたヘキサの手を、私はぎゅっと握りしめた。
「ぐうっ・・・・・・・
うあっ・・・・・・う、うあっ・・・・・・」
「・・・・・・始まったな」
身体を内側から焼かれているような感覚に襲われた私は、呻き声を漏らし、ヘキサの首に巻きつけていた手に力を込めた。私のローズピンクに塗られた爪がヘキサの首筋の皮膚を破って肉の中へと食い込んでいく。ヘキサは痛みに耐えるように身体を固くした。その拍子にお姫様抱っこをされていた私の脚がヘキサの腕から滑り落ちる。ヘキサは空いた手を私の背中に回して、最後の別れを惜しむ恋人のように私を強く抱きしめた。私はヘキサの胸に顔を埋め、首筋に立てた爪をさらに奥へと食い込ませる。私の指はずぶずぶとヘキサの首にめり込んでいった。
存在が焼き尽くされてしまいそうな痛みが身体の中を激しく駆け回る。私は火炙りにかけられている気がした。私の身体も、私の心も、私の罪も、全てが焼き尽くされる。何もなくなって、私がいたことなんてみんな忘れて、私なんて最初からいなかったことになる。
それは完璧な消滅、最高に綺麗な死。
私を見つめる瞳も、私を抱きしめる腕も、私を愛する心もすべて消えてしまえばいい。
私は無になって消えてしまいたい。
この世界に私はなにひとつ残していきたくはない。
私は無慈悲な痛みに蹂躙されながら、すべてが終わるその時をただ待っていた。
救いを待つように、赦しを待つように。
気の狂うような痛みがふっと消えた時、私の存在自体が消えてしまったように感じた。
私は待ち望んだその時が来たと思い、何もないその世界をゆらゆらと漂っていた。
「・・・・・・ジュリア、目を開けてみろよ」
からっぽの私に言葉がかけられた。
染み渡るような優しい声が私の細胞を目覚めさせていく。
もしかして、これは終わりではなくて始まりなの?
私が望んだのは終わり?それとも始まり?
(・・・・・・そんなの、わかりきっている)
そっと目を開けた私が最初に見たのは、胸元を血に染めたヘキサの白いポロシャツだった。
白地のキャンパスに描かれた真っ赤な血しぶき。
生まれ変わって最初に見たのが血なんて、私らしくていいじゃないか。
私はヘキサの胸に埋めていた顔を上に向けた。
真っ青な空を背景に天使のような美しいヘキサの顔が浮かんでいる。
私の人差し指と中指は第一関節のあたりまでヘキサの首に埋まっていた。
暖かい真っ赤な血が私の白い腕を伝って滑り落ちてくる。
空の青、血の赤、肌の白、ごちゃごちゃな世界の中で私の周りは原色に包まれている。
私は嬉しくなってヘキサに微笑んだ。
「・・・・・・とりあえずさ、指、抜いてくんないかな?けっこう痛ぇんだよ」
ヘキサも微笑みを返して言う。私はゆっくりと首筋から指を抜いた。
ヘキサの首についた傷はみるみるうちに塞がり、なめらかな肌を取り戻していく。私とヘキサの繋がりが簡単に消えてしまった気がして面白くなかった。
「ジュリア」
「なに?」
「飛んでみるか?」
「飛ぶ?」
「言ったろ。ジュリアにも羽はあるって」
ヘキサは顎をしゃくって私の肩の後ろを示した。
私は首を捻って背中に生えたそれを見る。
私の肩越しには大きな白い羽が風に吹かれて柔らかく揺らめいていた。
「ヘキサ!
私、自分がどうなってるのか見たい!」
私はそびえ立つ高層ビルの窓を指差して、だだをこねる子供のように叫んだ。
ヘキサはやれやれといった顔で器用に私の後ろに回ると、私を抱えたままビルの大きな窓に近づき、私の全身をキラキラと輝くガラス窓に映した。
そこには大きく広がる真っ白な羽を持った美しい私がいた。
ずっと憧れていた天使以外の何者でもない。
私は、私が望んでいたものに生まれ変わったことをはっきりと知った。
そして、私を選んでくれた何かに、ただ感謝したい気持ちでいっぱいになった。
窓に映る私の肩越しにヘキサのにやにやした顔がある。ヘキサはたしかに綺麗だ。でも、いまの私ほどじゃない。そう思うと、私を抱いている腕が急に鬱陶しくなった。
ヘキサは窓に映る私の表情が変わったのに気付くと、私の脇の下に手を入れ、高い高いをするように私を高く掲げた。タイミングがよかったから、少しヘキサのことが好きになった。
「ほら、飛んでみろよ。巣立ちの時だ」
ヘキサは嬉しそうに言った。きっと私がヘキサを思うよりヘキサは私を好きなんだろう。私に忠誠を誓って、私だけを見ているヘキサはきっと素敵だ。そのうち、私のお人形にしてあげるからね。
ヘキサの腕に支えられた私は自分の羽を静かにはばたかせた。もう、この羽は私の一部だ。何の苦労もなくスムーズに動かすことができる。私はどうすれば飛べるのかをずっと前から知っているような気がした。
「そうだ・・・・・・ゆっくりとだ・・・・・・」
「ヘキサ」
「ん?怖いか?」
ヘキサは優しい笑みを私に向ける。
でも、優しいヘキサはもう飽きちゃった。
「私、もうあんたいらないかも」
私はふわりとヘキサの手から離れ、ぐんぐんと上昇していった。
じゃあね、バイバイ。
「・・・・・・わっかんねーな。情緒不安定なガキは・・・・・・」
後に残されたヘキサは何か言っているようだったが、私には聞こえなかった。
私はお兄ちゃんに向かってはばたいていく。
早くお兄ちゃんにこの羽を見てもらいたい。
私、お兄ちゃんがずっと望んでいた天使になれたんだよ。
だから、もうマリアなんかいらないよね?
私は37階まであっという間にたどり着いた。
後からおまけのようにヘキサがついてくる。
天使になった私を37階の窓辺で出迎えてくれたのは、訝しむような表情のマリアと、私を睨みつけるお兄ちゃんだった。お兄ちゃん怒ってる、なんで?
「・・・・・・お兄ちゃん、私ね、天使になれたんだよ」
私はおずおずとお兄ちゃんに言った。
「それで?」
感情のこもらないお兄ちゃんの言葉が私の胸に突き刺さった。身体がすっと冷たくなる。
黙り込む私を前に、マリアがバカみたいな甲高い声を上げた。
「アッハハハハハハ!
バッカみたい!アハハハハハハ!アハハハハハハ!
アハハハハハハ!アハハハハハハハハハハハ!」
マリアの高笑いを聞きながら、やっぱり私は死んでいた方がよかったのかなと思った。
私の肩にそっと置かれたヘキサの手を、私はぎゅっと握りしめた。
6
椅子やテーブルの転がる荒れたノアズ・アークの店内から、お兄ちゃんは私を冷たく見据えていた。お兄ちゃんの細くてサラサラした髪はビルに吹き付ける熱風に流されて、すべすべした頬をくすぐっている。
ゲタゲタと汚く笑っているマリアの声をBGMにして窓辺に立つお兄ちゃんはとても怖くて、容赦なく照りつける太陽に晒されているのに、私は震えが止まらなかった。
「ジュリア、こっちにおいで」
お兄ちゃんは表情を変えずに冷たく言った。
大きな声じゃないのに、その声は私の胸に重く響く。
きっと私はとんでもない過ちを犯してしまったんだ。
だから、その罪を償わなくてはいけない。
もし、お兄ちゃんに「いらない」って言われたら、死のう。
この羽を引きちぎって、ここから真っ逆さまに落ちてしまおう。
お兄ちゃんに捨てられたら、私の存在している意味なんてない。
でも、もしもお兄ちゃんが私を許してくれるなら、
私はお兄ちゃんを守る天使になる。
お兄ちゃんが話してくれたことは嘘じゃなかったから。
おとぎ話なんかじゃなかったから。
私は握っていたヘキサの手をそっと離した。ヘキサはほんの少しの戸惑いを残して、私の肩から黙って手をどける。ヘキサのくせに、よくわかってるじゃないか。こういう時は何も言わない方がカッコいいって。
空中を滑るようにして窓辺に身体を寄せた私は、ノアズ・アークへの入り口である割れた窓を挟んでお兄ちゃんと向かい合った。
お兄ちゃんはさっきまで私がいた場所に立っている。
私はさっきまでヘキサがいた場所に浮かんでいる。
お互いに手を伸ばせば届く距離。
「おいで、ジュリア」
お兄ちゃんは私に向けて、すっと右手を差し出した。私も右手を伸ばし、その小さくて柔らかな手を取る。私はお兄ちゃんに導かれるようにして、日の射さないノアズ・アークへと舞い戻り、窓から少し奥へ入ったところで、床に降り立った。強い陽射しの中から戻ると、店内は薄ぼんやりとした暗闇に思えた。
パシン!
私の手からお兄ちゃんの手が離れた途端、柔らかな音と共に私の頬がジンジンと痛んだ。
私は頬に手を当てて、お兄ちゃんを見つめる。
お兄ちゃんに、叩かれた。
今日はたくさん痛い思いをしたけど、そのどれよりも辛い。
お兄ちゃんに叩かれるのなんて初めてだから。
「どうして叩かれたかわかる?」
「・・・・・・私が悪いことをしたから?」
「そう。ジュリアはとても悪いことをしたよね」
パシン!
押さえていない側の頬をお兄ちゃんの翻った手に打たれた。
やっぱり私はとても悪いことをしたんだ。私はもっと罰を受けなくてはいけない。
お兄ちゃんが叩くのに邪魔だと思って、私は頬に当てていた手を下ろそうとした。
だけど、可笑しいぐらいに私の手は震えていて、なかなか思い通りに動かない。
真っすぐ立とうとしているのに、足もガクガクと震えて上半身がゆらゆら揺れる。
小さな子供みたいに啜り泣いている私は、ヒッ、ヒッ、と無様に息を吸っていた。
「何をしたかわかる?」
「わ、わかん、ない・・・・・・」
パシン!
「考えて、ジュリア。どうして僕が怒っているのか。
ジュリアがどれだけ罪深いことをしたのか」
「おにいちゃ、おにいちゃんのきたいに、こたえられな・・・・・・」
パシン!
「・・・・・・そんなことじゃないよ。もっともっと悪いことだ」
「あいっ、えっ、あいつを、ころせなかったから・・・・・・」
パシン!パシン!
「ジュリアは本当に馬鹿なんだね。本当に何もわかってない」
「ごっ、ごめな、さいっ。
で、でも、わた、あぅ、わたし、わかん、ない。わか、んない・・・・・・」
嗚咽が止まらなくて、まともに話すことができない。
止めようとすればするほど、涙がどんどん溢れてくる。
私は立っていられなくなって、その場にぺたんと座り込んでしまった。
ぜんぜん身体に力が入らなくて、私はおしっこを漏らしていた。
お尻のあたりがじんわりと生暖かく湿っていくのがわかる。
ホットパンツでは吸い込みきれず、床に私のおしっこがどんどん広がっていく。
私は情けなくて、堪え切れなくて、わんわんと声を上げて泣き出した。
「・・・・・・うわ、みっともない」
マリアの蔑む声が聞こえた。
・・・・・・ホントだよね。私はみっともなくてバカで最低だ。
生きている価値なんてないよ。
羽があったって天使なんかじゃない。
この羽はマリアに生えればよかったんだ。
全部マリアにあげる。
この羽もお兄ちゃんも全部。
だからお願い。こんな恥ずかしい私を殺して。
お兄ちゃんでも、マリアでも、ヘキサでもいい。
考える間もなく一瞬で殺して。
こんなバカ!今すぐ殺して!
「・・・・・・ころ、して、・・・・・・ころし、てよぉ・・・・・・」
私は自分を抱きしめるように両腕を抱えて泣き続けていた。
ピチャ、という音が私の前でした。
涙でくしゃくしゃになっている顔を上げると、お兄ちゃんが私のおしっこで濡れた床に膝をついて、私の顔を覗きこんでいた。
「・・・・・・馬鹿なジュリア。教えてあげるよ。
君がした悪いことを・・・・・・」
「おにいちゃん、よご、よごれちゃう・・・・・・」
お兄ちゃんは私の言ったことなんて聞こえなかったみたいに顔を近づけてきた。視界いっぱいにお兄ちゃんの綺麗な顔が広がる。
「ジュリアのした、とてもとても悪いこと・・・・・・
それはね、僕を置いて死にそうになったこと・・・・・・」
お兄ちゃんは私に優しく笑いかけた。
この素敵な笑顔がもう1度私に向けられるなんて思ってなかった。
「・・・・・・おにい、ちゃん、
わたしを・・・・・・ゆるして、くれるの?」
お兄ちゃんは問い掛けには答えず、私の肩を両手で抱き、私に唇を重ねた。
私の口の中にお兄ちゃんの舌が割り込んでくる。
私は乳を吸う赤ん坊のようにお兄ちゃんの舌を求めた。
私の虚ろが満たされるまで吸い続けなくては生きていられない。
舌を絡ませ合ううちに嗚咽は止まり、
涙は溢れ出すのをやめ、身体の震えは収まっていった。
私はただ、舌の絡み合う感触に身を任せていた。
「・・・・・・んぁっ・・・・・・」
いつの間にか、ホットパンツのボタンが外され、びしょびしょになった私のパンツの中にお兄ちゃんの手が入り込んでいる。優しく動くお兄ちゃんの手は自分でするのとは比べ物にならないくらい、私を気持ちよくさせた。
「ただの人間が天に属するものを打ち負かす・・・・・・
これはすごいことなんだよ、ジュリア」
「・・・・・・んっ・・・・・・あっ・・・・・・」
唇を離したお兄ちゃんは私に語りかけた。お兄ちゃんの言葉は飛びそうになる意識に刻みつけられていく。
「・・・・・・ジュリアはそれを成し遂げた。
そして背中に羽を生やし、天使になって戻ってきた。
僕がずっと、ずっと待っていた存在だ」
「・・・んっ・・・んっ・・・んあっ・・・・・・」
「これは、そのご褒美だよ、ジュリア・・・・・・」
「んあっ!あっ! あっ!・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・忘れないで。僕にはジュリアが必要だ。
マリアなんかより、ずっとね・・・・・・」
お兄ちゃんはぐったりとした私の耳元で囁いた。
優しい、優しい声。
・・・・・・私は・・・・・・選ばれたんだ
私は最高の幸せに包まれていた。
私はいま、この世界でいちばん幸せで美しい存在に違いない。
お兄ちゃんが私を必要だと言った。
マリアよりも必要だと言った。
私は生きていてもいい。
ううん、私は生きなければいけない。
お兄ちゃんのために!お兄ちゃんのために!
私はゆっくりと浮かぶように立ち上がった。
羽ばたいていないのに身体が信じられないくらい軽い。
ボタンの外れたホットパンツがずり落ちそうになり、慌てて手で押さえる。マリアがこれ以上ないくらい醜い顔で私を睨みつけているのが見えた。私は濡れた白いパンツをマリアに見せつけるようにして、ホットパンツのボタンを留め、ジッ、と音を立ててファスナーを上げた。マリアの顔は怒りで真っ赤になって、今にも爆発してしまいそうだった。
「・・・・・・綺麗だよ、ジュリア。最高の『Angel Knights』だ」
「・・・・・・エンジェル・・・・・・ナイツ・・・・・・?」
「美しい羽で大空を舞い、天を守るために戦う天使。
僕を守るジュリアの存在そのものだ」
お兄ちゃんは私の頬をいとおしそうに撫でた。
お兄ちゃんを守る存在『Angel Knights』。
私には存在する意味があった。
ボウフラのように湧いて死ぬだけの存在ではなかった。
私は微笑みながらお兄ちゃんを見つめる。
お兄ちゃんも私の頬に触れたまま、包み込む笑顔で私の目を見つめる。
私は残り香を集めるような気持ちで唇をお兄ちゃんに近づけていった。
「あんまり、調子に乗らないでね」
私はビクッと身体を震わせた。
お兄ちゃんは悲しいぐらい変わらない笑顔で私を見つめている。私の頬を撫でるお兄ちゃんの手が急に冷たくなったように感じた。お兄ちゃんは私の頬から、そのなめらかな手を離すと、窓辺に近づいていった。
窓の外にはヘキサがぷかぷかと浮かんでいる。ずっとあそこから見られていたかと思うと、私はいろいろなことが急に恥ずかしくなった。
お兄ちゃんとヘキサは割れた窓を挟んで向かい合っている。
まるであの窓は世界の境界線のようだ。
クズのような生命の蠢く外界と、選ばれた者だけが乗ることのできる箱舟を隔てる門。
ここは世界から隔離された理想郷で、私は箱舟に乗ることを許された。
早くヘキサもこちら側にくればいい。
選ばれた者には選ばれた者の世界があるのだから。
私は陽射しの中に浮かぶヘキサを見つめた。
暗さに慣れた私の目には、外の光は強すぎて、ぼんやりとした姿にしか見えない。
あの光の中に、ついさっきまでいたなんて、私には信じられなかった。
椅子やテーブルの転がる荒れたノアズ・アークの店内から、お兄ちゃんは私を冷たく見据えていた。お兄ちゃんの細くてサラサラした髪はビルに吹き付ける熱風に流されて、すべすべした頬をくすぐっている。
ゲタゲタと汚く笑っているマリアの声をBGMにして窓辺に立つお兄ちゃんはとても怖くて、容赦なく照りつける太陽に晒されているのに、私は震えが止まらなかった。
「ジュリア、こっちにおいで」
お兄ちゃんは表情を変えずに冷たく言った。
大きな声じゃないのに、その声は私の胸に重く響く。
きっと私はとんでもない過ちを犯してしまったんだ。
だから、その罪を償わなくてはいけない。
もし、お兄ちゃんに「いらない」って言われたら、死のう。
この羽を引きちぎって、ここから真っ逆さまに落ちてしまおう。
お兄ちゃんに捨てられたら、私の存在している意味なんてない。
でも、もしもお兄ちゃんが私を許してくれるなら、
私はお兄ちゃんを守る天使になる。
お兄ちゃんが話してくれたことは嘘じゃなかったから。
おとぎ話なんかじゃなかったから。
私は握っていたヘキサの手をそっと離した。ヘキサはほんの少しの戸惑いを残して、私の肩から黙って手をどける。ヘキサのくせに、よくわかってるじゃないか。こういう時は何も言わない方がカッコいいって。
空中を滑るようにして窓辺に身体を寄せた私は、ノアズ・アークへの入り口である割れた窓を挟んでお兄ちゃんと向かい合った。
お兄ちゃんはさっきまで私がいた場所に立っている。
私はさっきまでヘキサがいた場所に浮かんでいる。
お互いに手を伸ばせば届く距離。
「おいで、ジュリア」
お兄ちゃんは私に向けて、すっと右手を差し出した。私も右手を伸ばし、その小さくて柔らかな手を取る。私はお兄ちゃんに導かれるようにして、日の射さないノアズ・アークへと舞い戻り、窓から少し奥へ入ったところで、床に降り立った。強い陽射しの中から戻ると、店内は薄ぼんやりとした暗闇に思えた。
パシン!
私の手からお兄ちゃんの手が離れた途端、柔らかな音と共に私の頬がジンジンと痛んだ。
私は頬に手を当てて、お兄ちゃんを見つめる。
お兄ちゃんに、叩かれた。
今日はたくさん痛い思いをしたけど、そのどれよりも辛い。
お兄ちゃんに叩かれるのなんて初めてだから。
「どうして叩かれたかわかる?」
「・・・・・・私が悪いことをしたから?」
「そう。ジュリアはとても悪いことをしたよね」
パシン!
押さえていない側の頬をお兄ちゃんの翻った手に打たれた。
やっぱり私はとても悪いことをしたんだ。私はもっと罰を受けなくてはいけない。
お兄ちゃんが叩くのに邪魔だと思って、私は頬に当てていた手を下ろそうとした。
だけど、可笑しいぐらいに私の手は震えていて、なかなか思い通りに動かない。
真っすぐ立とうとしているのに、足もガクガクと震えて上半身がゆらゆら揺れる。
小さな子供みたいに啜り泣いている私は、ヒッ、ヒッ、と無様に息を吸っていた。
「何をしたかわかる?」
「わ、わかん、ない・・・・・・」
パシン!
「考えて、ジュリア。どうして僕が怒っているのか。
ジュリアがどれだけ罪深いことをしたのか」
「おにいちゃ、おにいちゃんのきたいに、こたえられな・・・・・・」
パシン!
「・・・・・・そんなことじゃないよ。もっともっと悪いことだ」
「あいっ、えっ、あいつを、ころせなかったから・・・・・・」
パシン!パシン!
「ジュリアは本当に馬鹿なんだね。本当に何もわかってない」
「ごっ、ごめな、さいっ。
で、でも、わた、あぅ、わたし、わかん、ない。わか、んない・・・・・・」
嗚咽が止まらなくて、まともに話すことができない。
止めようとすればするほど、涙がどんどん溢れてくる。
私は立っていられなくなって、その場にぺたんと座り込んでしまった。
ぜんぜん身体に力が入らなくて、私はおしっこを漏らしていた。
お尻のあたりがじんわりと生暖かく湿っていくのがわかる。
ホットパンツでは吸い込みきれず、床に私のおしっこがどんどん広がっていく。
私は情けなくて、堪え切れなくて、わんわんと声を上げて泣き出した。
「・・・・・・うわ、みっともない」
マリアの蔑む声が聞こえた。
・・・・・・ホントだよね。私はみっともなくてバカで最低だ。
生きている価値なんてないよ。
羽があったって天使なんかじゃない。
この羽はマリアに生えればよかったんだ。
全部マリアにあげる。
この羽もお兄ちゃんも全部。
だからお願い。こんな恥ずかしい私を殺して。
お兄ちゃんでも、マリアでも、ヘキサでもいい。
考える間もなく一瞬で殺して。
こんなバカ!今すぐ殺して!
「・・・・・・ころ、して、・・・・・・ころし、てよぉ・・・・・・」
私は自分を抱きしめるように両腕を抱えて泣き続けていた。
ピチャ、という音が私の前でした。
涙でくしゃくしゃになっている顔を上げると、お兄ちゃんが私のおしっこで濡れた床に膝をついて、私の顔を覗きこんでいた。
「・・・・・・馬鹿なジュリア。教えてあげるよ。
君がした悪いことを・・・・・・」
「おにいちゃん、よご、よごれちゃう・・・・・・」
お兄ちゃんは私の言ったことなんて聞こえなかったみたいに顔を近づけてきた。視界いっぱいにお兄ちゃんの綺麗な顔が広がる。
「ジュリアのした、とてもとても悪いこと・・・・・・
それはね、僕を置いて死にそうになったこと・・・・・・」
お兄ちゃんは私に優しく笑いかけた。
この素敵な笑顔がもう1度私に向けられるなんて思ってなかった。
「・・・・・・おにい、ちゃん、
わたしを・・・・・・ゆるして、くれるの?」
お兄ちゃんは問い掛けには答えず、私の肩を両手で抱き、私に唇を重ねた。
私の口の中にお兄ちゃんの舌が割り込んでくる。
私は乳を吸う赤ん坊のようにお兄ちゃんの舌を求めた。
私の虚ろが満たされるまで吸い続けなくては生きていられない。
舌を絡ませ合ううちに嗚咽は止まり、
涙は溢れ出すのをやめ、身体の震えは収まっていった。
私はただ、舌の絡み合う感触に身を任せていた。
「・・・・・・んぁっ・・・・・・」
いつの間にか、ホットパンツのボタンが外され、びしょびしょになった私のパンツの中にお兄ちゃんの手が入り込んでいる。優しく動くお兄ちゃんの手は自分でするのとは比べ物にならないくらい、私を気持ちよくさせた。
「ただの人間が天に属するものを打ち負かす・・・・・・
これはすごいことなんだよ、ジュリア」
「・・・・・・んっ・・・・・・あっ・・・・・・」
唇を離したお兄ちゃんは私に語りかけた。お兄ちゃんの言葉は飛びそうになる意識に刻みつけられていく。
「・・・・・・ジュリアはそれを成し遂げた。
そして背中に羽を生やし、天使になって戻ってきた。
僕がずっと、ずっと待っていた存在だ」
「・・・んっ・・・んっ・・・んあっ・・・・・・」
「これは、そのご褒美だよ、ジュリア・・・・・・」
「んあっ!あっ! あっ!・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・忘れないで。僕にはジュリアが必要だ。
マリアなんかより、ずっとね・・・・・・」
お兄ちゃんはぐったりとした私の耳元で囁いた。
優しい、優しい声。
・・・・・・私は・・・・・・選ばれたんだ
私は最高の幸せに包まれていた。
私はいま、この世界でいちばん幸せで美しい存在に違いない。
お兄ちゃんが私を必要だと言った。
マリアよりも必要だと言った。
私は生きていてもいい。
ううん、私は生きなければいけない。
お兄ちゃんのために!お兄ちゃんのために!
私はゆっくりと浮かぶように立ち上がった。
羽ばたいていないのに身体が信じられないくらい軽い。
ボタンの外れたホットパンツがずり落ちそうになり、慌てて手で押さえる。マリアがこれ以上ないくらい醜い顔で私を睨みつけているのが見えた。私は濡れた白いパンツをマリアに見せつけるようにして、ホットパンツのボタンを留め、ジッ、と音を立ててファスナーを上げた。マリアの顔は怒りで真っ赤になって、今にも爆発してしまいそうだった。
「・・・・・・綺麗だよ、ジュリア。最高の『Angel Knights』だ」
「・・・・・・エンジェル・・・・・・ナイツ・・・・・・?」
「美しい羽で大空を舞い、天を守るために戦う天使。
僕を守るジュリアの存在そのものだ」
お兄ちゃんは私の頬をいとおしそうに撫でた。
お兄ちゃんを守る存在『Angel Knights』。
私には存在する意味があった。
ボウフラのように湧いて死ぬだけの存在ではなかった。
私は微笑みながらお兄ちゃんを見つめる。
お兄ちゃんも私の頬に触れたまま、包み込む笑顔で私の目を見つめる。
私は残り香を集めるような気持ちで唇をお兄ちゃんに近づけていった。
「あんまり、調子に乗らないでね」
私はビクッと身体を震わせた。
お兄ちゃんは悲しいぐらい変わらない笑顔で私を見つめている。私の頬を撫でるお兄ちゃんの手が急に冷たくなったように感じた。お兄ちゃんは私の頬から、そのなめらかな手を離すと、窓辺に近づいていった。
窓の外にはヘキサがぷかぷかと浮かんでいる。ずっとあそこから見られていたかと思うと、私はいろいろなことが急に恥ずかしくなった。
お兄ちゃんとヘキサは割れた窓を挟んで向かい合っている。
まるであの窓は世界の境界線のようだ。
クズのような生命の蠢く外界と、選ばれた者だけが乗ることのできる箱舟を隔てる門。
ここは世界から隔離された理想郷で、私は箱舟に乗ることを許された。
早くヘキサもこちら側にくればいい。
選ばれた者には選ばれた者の世界があるのだから。
私は陽射しの中に浮かぶヘキサを見つめた。
暗さに慣れた私の目には、外の光は強すぎて、ぼんやりとした姿にしか見えない。
あの光の中に、ついさっきまでいたなんて、私には信じられなかった。