Neetel Inside 文芸新都
表紙

永遠の如月
2/9 : 可変か、不可変か

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 寒さで布団から出られないのはここ最近ずっとだが、今日はことさらに温かい布団が名残惜しくて、目が覚めてから何度も寝返りを打った。
 しかし、出かけなければならないという事実が俺を寝床から引きずり出した。
 俺はやっと立ち上がって、寒さに身震いをひとつ、眠さに欠伸をひとつすると昨日のことを思い返した。
 体が顔を洗う為に動いている間、昨日の電車の中での出来事を思い出す。
 目覚めのコーヒーを淹れるために湯を沸かそうと、やかんを手に取りながら駅員室でのことを回想する。
 服を着替えながら、弥生の様子を思い描いて、胸に小さな棘が刺さる。
 トーストとコーヒーという簡素な朝食を摂りながら、家に帰って来てからハルカが訪ねて来たのを思い出した。



 昨日、俺が部屋で横になってからしばらくしてのこと。
 頭の中でゆっくりと回転していた思考が単なる渦に変わっていき、俺がまどろみ始めたころ、呼び鈴が眠りの世界に落ちかけた俺を引っ張り上げた。
「入れよ」
 さっきまで半覚醒状態だったとは思えないくらい、俺の意識ははっきりしていた。
 今思えば、もしかしたら単なる新聞の勧誘だったかもしれないし、他の友人が訪ねてきただけかもしれなかった。
 でも俺は、ドア越しに訪問者の姿が見えているような気がした。
「やあ」
 言葉面は明るいが、ハルカの声にはいつもみたいな元気はない。
「やっぱりお前か」
「そんなに邪険にすることないじゃない?」
 呆れたように笑って、彼女はひとつ溜め息をついた。
「……気にしてる?」
 その言葉は遠慮がちだった。
 俺は思ったことをそのまま言った。
「似合わないな」
「何が?」
「こういう空気、お前に似合わない」
 俺は悪戯っぽくハルカに視線を向けた。
 彼女は初め、虚を突かれたといった感じに間抜けに口を開けていた。
 しかし、やがてその口が閉まったとき、口角は吊り上がっていた。
「悪かったわね」
 ――これでいい。
 お前は、いつも通り明るく俺たちに接してくれればいい。
「まあさ、気にしてないって言うと嘘になるけど――」
 そう言いかけて、俺は思いなおす。
「いや、正直、今責任を感じていっぱいいっぱいなんだわ」
 なるべく明るく、何でもないように努めたつもりだ。
 しかしそれも女神様には簡単に見破られてしまうようだった。
「仕方ないことだよ。そんなにうまくいくなんて、私は期待してなかった」
 単なる励ましだけじゃない、簡単にはうまくいかないというマイナスの事実をそのまま伝えてきたセリフは、俺の気持ちに効果的に作用する。
「それにちょっと、注意受けたというか……」
「注意?」
 上司からだろうか。彼女に注意を与えられるような存在は、そのくらいしか思い当たらない。
「積極的に運命に干渉しちゃうのがマズいってことは分かってるでしょ?」
「――だって、それは」
 反論しかけた俺を、ハルカは優しく諭すように遮った。
「……いくら弥生と一緒でも、ね」
 俺は何も言えなかった。
 今やハルカの顔には俺を労うような微笑みさえ湛えられていて、それはまるで聖母の与え賜いし慈愛の微笑――などと考えるのは大げさだろうか。
 ただ、電気も点いていない暗くて寒い部屋で彼女の表情を見ていると、時たま「あ、こいつは人間じゃない」と感じる瞬間があった。
「……じゃあ弥生の言う通り、これ以上はやめろって?」
「助のためでもあるし。上の人に目を付けられたら、私だけじゃ責任取れないから」
 さっきはいつも通りに明るく喋ってくれたはずなのに、いつの間にかハルカは真剣な表情になっていた。
 彼女の真剣な表情は、それを見た者をも真剣にさせる。
「責任って、なんだ?」
「意地の悪い官僚なんかにとって、助を消すことは簡単なの。特に今、この状態では」
「消すって……」
 さすがに俺も怯えた。
「本当に、死ぬよ?」
 ――脅しじゃない、警告。
 彼女の異常に澄んだ瞳はそれを真剣に物語っていた。
「こんなこと言いたくないけど、潮時じゃないかな」
「でも……」
「代わりと言ってはなんだけど、友達を続けてあげてよ。私たち、助のことも薫ちゃんのことも気に入ってんだから」
 そこにはもう、女神の姿はない。代わりに弥生を想う良き親友の姿があった。
「……わかった」
 俺は折れた。
「ありがとう」
 ハルカはまた、いつもの笑顔に戻った。
 ――その笑顔は卑怯だ、と思った。

 人間は都合のいい生き物だ。理性があるから、自分の行動に自分自身で理由付けができる。その理由は場合によって大義名分に変わったり、言い訳に変わったりする。
 俺は弥生の運命を変えることを諦めて、彼女の良き友達に、理解者になってやることを選んだ。例えそれが、ほんの一ヶ月の間の話だったとしてもだ。
 ――そうでもしないと、俺は消されるんだという。そうでなくとも、これが弥生のためになるんだ。
 ほら、こうしてちゃんとした理由があるだろう。言い訳なんかじゃないだろう。これなら、誰もが納得するだろう。
 ――俺を除いては、誰もが納得してくれるだろう?

 数分間の沈黙の後、俺はこう言った。
「ひとつ、いいか?」
「うん」
「……ハルカには俺たちの今後の運命が分かるのか? 知ってたりするのか?」
 この質問に、意外にもハルカは柔らかく笑った。
「知らないね。そういうのは、神のみぞ知るってとこでしょ」
「……お前がその神だろ」
「あー、そうだったそうだった。こりゃ失礼」
 なんだかはぐらかされた気もしないでもないが、まあいいだろう。
「じゃあ帰るね」
 突然ではあるが、自然なタイミングだった。
「おう」
 俺も無駄に引き留めようとは思わない。
 そして彼女が玄関の扉を開いた。冷たい風が部屋に吹き込んできた。
 その状態で止まったハルカに、俺は言った。
「おいおい、出るなら寒いから早くして――」
「私も知りたいな。知りたいけどね、知ってたらこんな仕事必要ないでしょ」
 ――冷たい金属の扉が閉まった。



 ――そろそろ出るか。
 俺はコートを羽織って、警察署へ向かう為、昨日ハルカが閉めた扉を開けた。
 今度は俺の方から冷たい風の中へと飛び込んでいく番だった。

     

 昨日俺と弥生が通勤特急に乗り込んだ駅から徒歩十分くらいの場所、俺の家からは大体十五分。
 警察署は大通り沿いにあるものの、駅前の賑わいから少し離れた場所にあった。
「……さっさと終わらせよう」
 これ以上余計なことはしないようにするとなれば、警察での事情聴取などは速やかに済ませてしまうのが得策だろうと考えた。
 無駄な迷いを消すために、わざと口に出してみたのだ。
 俺の言葉はやがて息とともに白くなって消えてしまったが、俺の迷いが消えたかどうかは微妙なところだ。
 だが、昨日のハルカの警告が頭の中で響いた。まるで、近くで囁かれたようだった。
『本当に、死ぬよ?』
 ――さしもの俺も、さすがに命ばかりは惜しい。
 これは臆病なんかじゃない。人間の本能だ。
 やっぱり、弥生とハルカに従うか――。
 そう決心しかけて、警察署の入口の扉に手をかけたその時だった。
「――高宮君じゃないか」
 男性の声に俺は振り返った。
 そこには、髭を蓄えた厳格そうな顔つきの中年男性がタバコをくわえながら立っていた。
「ああ、岡村さん」
 俺は軽く会釈して答えた。
「あのときは協力してくれてありがとうな」
「いえ、偶然近くにいただけです」
「……だがな、申し訳ないことにまだ犯人は分かってないんだ。それどころか、君の証言してくれたナンバーのバイクを探したんだが、どうにも君の言っていたものと特徴が違いすぎてな」
 もしかしたら、偽装ナンバープレートだったのかもしれないな。
 俺がそんな推理をしていると、彼は紫煙を大きく溜息といっしょに吐き出し、携帯灰皿に吸殻をしまった。
 確かこの区では路上喫煙全面禁止だったはずだが……。
 彼が吸殻をしまった携帯灰皿を見つめていると、彼は弁明するように口を開いた。
「いくら刑事と言えども、こればっかりはどうにもやめられなくてな」
 申し訳なさそうな口調だった。
「え……あ、いや、そんなつもりでは」
「……喫煙者が煙たがられるのは仕方ないことだ」
 顔に似合わず随分優しい彼は、目を細めながらそう言った。
「……はあ」
 俺自身タバコは吸わないし、吸いたいとも思わない。
 むしろ興味がないので、返答に困った。
「そんなことより、中に入りなさい。高宮君がどうしてここに来たのかは分かっているよ。今日君の証言を聞くのは私だ」
「岡村さんが?」
 促されるままに扉を開いて中に入りながら聞き返した。
 彼の言うことが本当なら、多少は楽だ。
 岡村さんは、俺が弥生と会った日に遭遇したひったくり事件を担当している、刑事課強行犯係に属する刑事だ。
「同じ事情聴取をされるなら、顔見知りの方が気楽でいいだろう? ひったくり事件のことは同僚がまだ捜査しているし、他にこれと言った事件もないんでね」
「結構、融通が利くんですね」
「君は被疑者じゃないからな――おっと、こっちだ」
 彼が指差した方には刑事課のプレートが掛かった部屋がある。
 案内されるままにその部屋へと足を踏み入れると、岡村さんは俺に部屋の奥にあるソファーに腰掛けるように言った。
「じゃあ、少し待っていてくれ」
「はい」
 岡村さんは自身のデスクの方へ向かった。
 俺が何気なくポケットから携帯電話を取り出して液晶画面に目をやると、新着メール一件という表示があった。
 警察署に来るために予めマナーモードに設定していて、受信に気がつかなかったらしい。
 内容を確認しようと、受信ボックスを開いた。
 ――送信元は薫になっていた。
『今日の午後暇なんだけど、うち来ないか?』
 こんな突然の誘いも、俺たちの間では何ら珍しいことじゃない。
 薫の家に行って何をするのかなんてのは別に決める必要もないから、いつも決めていない。ただ単に駄弁って終わるときもあれば、二人とも無言のまま漫画を読み耽ることもあるし、対戦ゲームに熱中するときもある。
 俺は薫とのそういう時間が好きだったので、こういう誘いはできるだけ受ける。
「あ、あの、岡村さん」
「何だ?」
 どうやら、調書と思しき書類を挟んだバインダーを持ってきた岡村さんに声をかける。
「どれくらいで終わりますかね?」
「ああ、そんなに長くはしないつもりだよ。昼前には帰れるだろう――何か用事か?」
「ああ、いえ、それなら大丈夫です。気にしないでください」
 昼前に解放されるなら、薫の誘いに乗るのは十分可能だ。
「今、取り調べ室が空いてなくてね……。他の四人で塞がってるんだ」
「……ああ」
 被害者側の三人組と、弥生の父親のことだろう。
「だから済まないけど、ここで始めさせてもらうよ」
「ええ、構いません」
「じゃあ、早速だが――」
 こうして、俺の人生で二度目となる事情聴取が始まった。

 彼は俺が現場に居合わせたときの状況や、四人の様子についてを仔細に話すように求めてきた。俺が電車に乗ることになった経緯について聞かれなかったのは幸運だった。
 俺は彼の繰り出す質問に対し、出来るだけ克明に答えるように努めたつもりだったが、実際に見たかどうかは怪しいラインだったため、肝心なところをぼやかして答えざるを得なかった。
「――じゃあ、高宮君のいたところからは被疑者は痴漢行為に及んでいるように見えなかったと」
「はい」
「むう……正直言って、この証言だけでは弱いな」
 ――予想していたことではあった。
「やはりそうですか……」
 ここで食い下がる必要もない。
 弥生とハルカにああ言われた以上、無理に親父さんを救おうとしなくてもいい。
「まあでも、参考にはするから……じゃあ、こんなところで終わりでいいかな」
 そう言いながら、岡村さんは立ち上がった。
「そうですか、それじゃ俺はもう……?」
「ああ、構わないよ。協力感謝する」
「――それと、岡村さん」
「ん?」
「ひったくりの件もよろしくお願いしますね」
「分かってる」
 念を押した後、俺も立ち上がり、岡村さんに改めて挨拶をして出口へ向かった。
 俺が刑事課の出口に差し掛かったとき、ちょうど部屋の向こう側に位置する扉が開き、中から被害者の女が出てきて、「やっと終わったよ」と言ったのが聞こえた。
 予め事情聴取の済んでいた他二人と合流して、出口に向かってくるようだ。
 なんとなく気になって立ち止まってしまった俺の横を、三人が通過する。
 被害者の女が俺に気づいたようで、話しかけてきた。
「……ねえ、アンタどういうつもりなワケ?」
 事情聴取などという面倒なことで受けたストレスを、俺にぶつけるつもりか。
「アタシは確かに、あのオジサンに触られたんだけど。嘘の証言するの、ホントやめて欲しいんだわ」
 だるそうに喋る女の様子に、俺は嫌悪感を覚えた。
「あのオジサンはオジサンで、絶対に認めない、そこまで言うなら裁判まで行くとかほざくし――アタシは示談金もらえればどうでもいいっつーか、裁判なんてめんどくせえよ」
 だが、何だろうか。こいつらを改めて近くで見ていると、なんだか高校時代のことが思い出されるような――。
 俺が何も言わないまま必死に記憶を辿っていると、隣の男が口を挟んできた。
「たくよ、昔もお前は俺たちの邪魔をしてくれてよ」
「ああ、あったあった」
 ――昔?
「俺たちはあの女男をちょっとからかってただけだって言うのによ――なあ、高宮?」
「……!!」
 ほつれていた記憶の糸が今急に解け、俺はこいつらのことを思い出した。
 こいつらは――。
「お前ら……」
「何だ、忘れてたってか? 俺たちみたいなクズの、イジメっ子のことは」
「アンタさあ、あのときも『薫、薫』ってうるさかったよね」
 三人はまるでここが警察署の中であるのを忘れているかのように、勝手なことを口走っている。
 こいつらは高校のとき、薫を苦しめていた奴らの一部だ。
 こんな奴らのこと覚えておくだけ無駄だったから、最初に見たときは気がつかなかったんだろう。
 俺はこいつらのことを思い出しただけで、腸が煮え繰り返りそうになっていた。
「何、もしかしてまだあいつと一緒なの? まさか、付き合ってたりするの? 男同士で」
「女にモテないからって、女に見える男に手出すなよ」
 そう言って三人は汚い笑い声を上げる。
「……いい加減にしろ」
 俺はここがどこか忘れちゃいない。
 だからこいつらに殴りかかるなんてことはできなかった。
「おー、怖い怖い」
「もう行こうぜ」
「おう」
 好き勝手言いながら、奴らは出口へと歩いていく。
 ――悔しい。
 俺には何もできやしない。
 あいつらが人間的に最低の屑だってことは、高校時代に嫌というほど感じさせられたというのに。
 今回がもし、あいつらの示談金目当てのでっち上げだったとしても、俺は何もできない。
 とてつもない悔しさが、俺の胸に湧き上がる。
 ――本当は弥生のことだって、薫みたいになんとかしてやりたいのに。
 自分をごまかさなければならない現状に、俺は大きく苛立ちを覚えた。

「――おう、薫。これから行ってもいいよな」
 警察署から出るや否や、俺は薫に電話をかけた。
 あの三人のことを、今回の痴漢事件のことを、早く忘れたかった。
『ああ、いいよ。飯は食ったか?』
「……そういやまだだったな」
『じゃ、どっかで一緒に食ってからにしようか』
「いいね」
 俺は歩きながら通話を続け、署の建物の前に位置する駐車場の出口を通過しようとしていた。
 ――そのとき、俺の左側から二台の二輪車が通り抜けて行った。
 その持ち主は左にウィンカーを出しながら、ヘルメットの向こうから俺を嘲笑うかのような一瞥をくれた。
 そしてそのまま俺が今電話している相手を虐めた奴らは、バイクに乗って遠ざかって行った。
『ほんじゃ助、どこにする?』
「そうだな……」
 俺は考えた。今通り過ぎていったバイク――。
『うん』
 俺は考えていた。それも、今日のランチをどの店にするかについてではなく――。
「そうだ――ちょっと、ちょっと待ってろ!」
 そして今、俺が抱いた点のような違和感は線に変わった。
『へ? どうし――』
 俺は受話器越しに薫にそう伝えると、無理やり通話を終わらせた。
 踵を返し、さっき出てきたばかりの警察署の中へと走り込む。
 心臓は早鐘を打ち、携帯を握りしめたままポケットにしまうのも忘れ、俺は岡村さんの姿を探した。
 刑事課に駆け込む俺の姿に、そこにいた刑事たちは驚いていたようだった。
「ど、どうした。そんなに慌てて」
「お、岡村さん――」
 息も絶え絶えに、俺は岡村さんの方へ近づいた。
 ――俺は、自分に与えられた最後のカードを、ここで切ろうとしていた。
 こいつに賭けよう。
「あいつら、痴漢の被害者のあのバイク――ひったくりのと同じでした」
「――なんだと?」
 彼は一瞬にして刑事の顔に戻った。その鋭い目つきが、俺に「もう一度言ってみろ」と命令していた。
「す、ステッカーだ――ステッカーが一緒でした。ヘルメットにも同じのが」
 岡村さんは落ち着き払ったまま机の引き出しから何やら書類を取り出すと、それを確認するように読み上げた。
「ヘルメットと車体に筆記体の『Hot Rod』のステッカー……」
「岡村さん、あいつらですよ――」
 俺は興奮に我を忘れていたのかもしれない。
「あいつらが、ひったくりだ」

     

「――だけど、おかしいな。被害者と君の証言では、ひったくりは二人組だったはずだ」
「三人で二台のバイクを使ってたから――あのうちの二人がひったくりなんです! 男一人女一人で、辻褄も合うんです!」
 雑然とした刑事課のデスクに、俺の声が響き渡る。
 他の刑事が何人か、何事かとこちらを振り向いたようだったが俺は気にしなかった。
 彼にはなんでこんなに簡単なことがわからないのか。
 俺は焦りから苛立ちを覚えていた。
「まあ、そんなに慌てるな。彼らの名前も住所も、調書を取るときに分かってるんだ」
「え……あ」
 ――そうか、俺はこんなに簡単なことを見逃していた。
 別に慌てる必要はなかったのだ。
 そう思うとなんだか、自分の慌てっぷりがとても馬鹿らしく思えてきて、恥ずかしくなった。
「だからもう少し、ゆっくり話してくれないか」
 これが刑事の業なのか、彼は俺をいとも簡単に落ち着かせて話をさせようとしていた。
「……はい」
 そうして俺は、さっき俺の横を三人組が二台のバイクで通過していったこと、そのうち一台がひったくりの乗っていたものと特徴、ステッカーが一致していたこと、そしてそのバイクに乗っていた男のヘルメットにも同じステッカーが貼ってあったことを話した。
「……ナンバープレートは見なかったのか」
「すみません、なにぶん慌ててしまっていたもので」
 俺がもう少し冷静でいられたらな、と改めて自分の落ち着きのなさに恥入る。
「いや、そんなことはない。十分だ」
 壮年の刑事は随分と落ち着き払った様子で俺を見つめていた。
「当事者である彼女らには明日、もう一度出頭してもらう手はずになっているから、そこでそのバイクの件についても聞いてみよう」
「……お願いします」
 今日はもうこれで帰れ、ということだろう。
「――本当に、君にはいろいろと協力してもらっているな」
 自分の父親が生きていればこの人と同じくらいの年齢だ。そんな歳の人に頭を下げられるのはどうにも居心地が悪い。
「いえ、そんな、偶然ですよ……じゃあ、俺はこれで」
「ああ……何か進展があったら伝えてあげよう」
「ありがとうございます」
 俺は一礼すると、再び刑事課を後にした。

『ったく、いきなりどうしたんだよ?』
 ――改めてかけ直した電話の向こうの薫の声は不機嫌で、まるで幼子が拗ねているようにも聞こえた。
「いや、ちょっとな」
 話せば長くなるし、弥生の問題を軽く当事者以外に話そうという気にはならなかった。
『……まあいいか。そんなことより、昼飯どこにする?』
「駅前のファミレス……がいいかもな」
 ここから近くて俺が楽だから、という身勝手な理由だが、薫の家からもそう遠くはない。
『そっか、じゃあそうしよう』
 薫も了承すると、俺は通話を切ることを伝えようとした。
 ――その直前、薫は受話器の向こうの誰かに話しかけたようだった。
『一緒に来るよね?』
「え、誰か一緒か?」
 俺が怪訝に思ってそう尋ねるのと同時に、受話器の向こうの遠くの方から女の声がした。
『……え、私は――』
 その声の主は、他でもない彼女だと分かる。
「……弥生か」
『一緒に飯食うくらいいいでしょ?』
 正直、昨日の今日で気まずくはあるが――。

 ――友達を続けてあげてよ。

「ああ、連れてきな」
 ここには居ないはずの女神が俺を後押しした。

 電話を切ってから大体三十分ぐらいして、俺が一人、店の奥のテーブル席に陣取っていると、相変わらずもこもこした服装の薫が入ってくるのが見えた。その後ろには、弥生を従えていた。
 こっちだ、と声には出さず手を振って合図すると、向こうもこちらに気づいて近づいてきた。
「おっす」
「おす」
「……こんにちは」
 薫と弥生の様子はまるで正反対で、弥生はあまりここに来るのが乗り気でなかったのがありありと分かった。
 二人して俺の向かいに並んで座る様子は、なんだか俺との間よりも仲が良さそうだ。
「……なんでお前らが一緒なんだ?」
「暇だからお茶でもって、うちに誘った」
 薫は事もなげにそう言うと、テーブルの上のメニューを開いて品定めを始めた。
 ――大学生ってそんなに暇なんだろうか。
 俺は弥生の方にも視線を送ったが、弥生は意識してかせずか、俺の方を見てこない。
 二人は同じメニューを肩を寄せ合うようにして覗き込んでいて、俺のことは気にしていないようだ。
 仕方なく、俺もテーブルの上のメニューを開くと、自分の昼食について思案し始めた。

「……お前ら、いつの間にそんなに仲良くなってんだよ」
 注文を終えた後、疎外感を抱くのを禁じ得なかった俺は二人に尋ねた。
「毎日のようにメールしてたら、結構気が合ってさ。ね」
「……ええ」
 二人がメールのやり取りをしてるなんて、全く知らなかった。
「――なんだ、嫉妬か?」
「そんなんじゃねえけどよ」
 からかうように意地悪く笑う薫に、それ以上は言い返せなかった。
「助には沙織がいるのに」
「あいつもそんなんじゃねえ」
 どうもこういう話になると、いつも薫に分がある。
「へえ、沙織さんと?」
 弥生も今日初めて俺に対して口を開いたと思えば、これか。
「違うって」
 この後もこんな感じで俺をからかうようなトークが続き、俺としては不本意だったが、薫の軽妙な話し方のお陰でだいぶ俺と弥生も話しやすくなった。

「――まあでも、お前らはカップルじゃなくて、完全に女友達同士にしか見えないな」
 運ばれてきたばかりのペペロンチーノをフォークで巻き取りながら、俺は思った通りのことを口にしていた。
 もう少し薫が男らしければ違っただろうが――ともすれば性格的には弥生の方が男らしい。
「別にカップルじゃないからそれでいいよ。仲良くしてくれれば」
「私は薫ちゃんみたいな人、タイプよ」
 弥生がからかうように言うと、薫は赤くなった。
 ――おいおい、お前はそんな冗談飛ばすキャラじゃなかっただろ。
「……そりゃどうも」
 照れると出るお決まりのセリフを発すると、薫も自分のドリアに手を付けた。
 ――もしかしたら本当は、弥生ももっと明るい女の子なのかもしれない。
 ループで疲弊した精神が、活力を失ってしまうのは無理もない。
 人付き合いは苦手じゃなさそうだしな――。
 そんなことを考えていると、また薫に茶化された。
「――やっぱり弥生のこと気になるんだ?」
「……うっせえ」
 ――恋愛感情はない。
 これは嘘ではない。
 ただ、限られた範囲の中で生きる彼女に、大きな興味があるのは確かだった。

 メインの食事を摂り終えて、追加注文したデザートを待つ間、薫がトイレへと席を外した。
 二人きりになったところで気まずい沈黙が俺たちを支配してしまう前に、先手を打った。
「……もう大丈夫か」
「ええ」
 その様子を見る限り、彼女は本当に大丈夫そうだった。
「本当は今日、こっちから行こうと思ってたんだけどな」
 昨日別れるときにそう約束したはずだ。
「最近薫ちゃん、よくしてくれてるから」
 そう言って弥生は、さっき薫が空にした食器の方に目をやった。
「あいつも嬉しいんだよ」
 ――そして、沈黙が訪れた。
 けれど、この沈黙は決して気まずいものじゃない――。
「弥生」
 その平穏な空気に、俺は決心を固めさせられた。
「……何?」
 突然真面目な顔になった俺に、弥生は眉をしかめて聞き返す。
 言ってしまおう。
「――もう少し、待っててくれ」
「……え?」
 いつも冷静な彼女にしては珍しく、口が開きっ放しになっていた。
 もう、いいよ。
 昨日そう言われたばかりの俺が、懲りずに「待っててくれ」と頼んだ。
「悪いけど、もう――」
「少しだけだ」
 車体だけならともかく、ヘルメットまで一致しているとあれば、あの三人のうち、おそらく例のバイクに乗っていた二人はひったくりの犯人と同一人物とみて間違いない。
 例のバイクで警察署まで出向いてしまったのは彼らの完全なるミスであり、明日の事情聴取で、罪を認めざるをえないだろう。
 彼らがひったくりの犯人だったとなれば、警察だって馬鹿じゃない。痴漢の件についてもおそらく、多少は追及してくれるはずだ。
 その勢いのまま、証拠の出揃っていない痴漢のでっち上げまで自白してくれればこちらの勝ち。
 ――しなければ、俺は本当にあと三週間、単なる友達付き合いを弥生と続けていくことになるだろう。
「……何かあるのね……わかったわ」
 俺の真剣な眼差しは弥生に十分伝わってくれたようで、彼女はそれ以上何も言わなかった。
 まだ確定事項じゃないから、弥生に詳しいことは言わない。
 だけど、希望は捨ててほしくない。
 そんな勝手な俺の願いからの行動だった。
 それでもきっと、間違いじゃない。

「あれ、まだか」
 席に戻ってきた薫が、デザートの乗っていないテーブルを眺めて言った。
「お前に付き合わされてファミレスでデザートまで食べるの、これで何度目だろうな」
「うるさいな、ファミレスはデザートまで頼んで初めてファミレスたりえるんだよ」
 薫の勝手なファミレス学に弥生が少し呆れた笑みを漏らした。
 それに釣られて、俺も同じように苦笑いした。
「なんだよ、何がおかしいんだよ」
 ――今度は、薫が疎外感を抱かされる番だった。

 俺たちはすっかり満腹になり、暖かい店内から出ていくのは億劫だったが、いつまでも粘っているわけにもいかない。
 泣く泣く寒空の下へ出ると、冷たい風は容赦なく俺たちの肌を刺した。
「早くうちに戻ろうよ」
 寒さのあまり、自分で自分の肩を抱きながら薫が言った。
 俺は弥生に目配せをした。
「行きましょう」
 弥生は楽しげに笑った。
「……そうしようか」
 ――こうやって友達でいるのも悪くない。
 そう、思えた。

       

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