狭くて整然とした、立方体を感じさせる部屋の中に三人の男がいる。
部屋の中に置いてあるのはテーブルと椅子が二脚だけで、その安定の悪いテーブルの上には電気スタンドが一灯置いてある。
三人のうちで一番若い、スーツを着た男は部屋の出入り口の傍らに立ち続けている。
そして、椅子に座っているのはスーツを着た中年の男性と、妻が持ってきた着替えのセーターを身に付けた太り気味の男だ。
「――埒が明きませんね」
椅子に座った刑事が、取り調べ中の対面の男を皮肉った。
セーターを着た弥生の父親は、仏頂面で鼻から息を漏らした。
「私は何もしていない」
「そうは言ってもですねえ……被害者の女性と、一緒に居た男性二人、計三人があなたの痴漢行為について供述しているんですよ?」
困った、という風な表情をしながらも、刑事は目の前に居る男を追及する。
「昨日から言ってるじゃないですか。あいつらの言っていることはデタラメです、と」
取り調べを受けながらも、彼は落ち着きを保っていた。
逆上することもなく、ただ事実のみを淡々と述べる。
「しかしですね、火のないところに煙は立たないといいますか――」
「それなら、火種が別のところにあったんでしょう」
出入り口の扉の脇に立っている若い刑事は、「火種」の後頭部を見つめているようだったが、何も言わずに取り調べの様子を確かめていた。
「正直になりましょうよ。こちらとしても、あなたを何日も拘置しておくのは本意ではないんですよ」
刑事は口をへの字に曲げながら、髪の薄くなっている頭を掻いた。
「私は無実です。認めませんよ」
彼は真摯な態度のまま、自身の無実を主張し続けている。
最初に痴漢の嫌疑をかけられて捕まったときこそ動揺はしていたものの、彼は真実を曲げないという信念の下に取り調べを受けている。
「被害者の女性も慰謝料さえ払えば示談でいいと言っているんですよ。正直、こちらとしては痴漢にはあまり介入したくなくてですね……」
「それは警察側の事情でしょう。私の無実が認められないなら、法廷で争うことも――」
彼は頑なだった。
それが合図だったかのように、刑事の態度が豹変した。
「いい加減にして下さいよ」
言葉遣いこそ敬語のままであったものの、その話し方は高圧的で、何としてでも吐かせるという執念が見て取れる。
刑事はテーブルの上の電気スタンドを掴むと、その首の角度を変え、対面の標的の顔に向けた。
「獲物」は眩しそうに顔をしかめる。
「何ですか、やめて下さい」
「ねえ、認めてしまえば多少の示談金だけでここから出られるんですよ? 保釈金と思えば安いもんでしょう」
まるであくどい商人の密談のように話を持ちかける。
だが、彼のその眼は狩人のそれだった。
スタンドの光は獲物の思考機能を低下させることを、狩人は知っている。
「そんなに私に認めさせたいんですか……罪をひっ被せたいんですか」
男の目は、目の前の理不尽に燃えていた。
「それが私の仕事でしてね」
刑事は長く息を吐いた。
「そうだとしても、私は――」
「やったんだろ?」
被疑者の弁解に覆い被せるようにして問う。
――右の拳がテーブルにぶつかって、揺れた。
「私はやってないと言ってるでしょう!」
刑事は負けじと両手でテーブルを叩く。
「お前がやったんだろ!」
――扉の近くの刑事には、第二取り調べ室の机の脚がやけに不安定で、ガタガタと揺れる理由がわかった気がした。
「――隣が騒がしいがね、気にしないでくれるとありがたい」
岡村刑事は、向かいに座っている金髪の女にそう言った。
「別に……」
一方の女は全く意に介さない様子で、右の人差し指に、自分の髪の毛を巻きつけては解き、巻きつけては解きを繰り返している。
この部屋も隣の部屋と全く同じ造りで、四角い無機質な箱だ。
「はあ……」
そして、これ見よがしに溜め息をついた。
「何か?」
岡村が尋ねた。
年齢差も気にかけない彼女は、高慢な態度で言った。
「もう私に聞くことはないんでしょ? それなら帰して欲しいんだけど」
「すまないね、君の友人たちへの事情聴取がまだだから」
岡村はあくまで優しく諭した。
「……灰皿もないし」
彼女は不満そうに対面の刑事を睨んだ。
「調書によれば君は未成年のはずだが」
「あと一ヶ月なんだから、今から吸ってたっていいでしょ」
現役の警察官の前だというのに少しも悪びれる様子を見せない彼女に、岡村は呆れた。
「私でさえ署内では禁煙してるからな……最近はうるさくてね」
「……ふん」
アタシが被害者なのに、などとぶつぶつ言っていた彼女も、掴みどころのない岡村の話術に文句を言う気を削がれたのか、それっきり押し黙った。
「そうだ、退屈なら他の話をしようか」
しばらくしてから、岡村がこう切り出した。
「……興味ない。アタシは慰謝料さえ貰えればそれで――」
「まあまあ」
岡村は彼女の言葉を遮ると、続けて言った。
「少し待っていてくれ」
そう言って、金髪の女を一人、第一取り調べ室に残して出て行ってしまった。
「……ったく、何だって言うのよ」
常に何かに不満を持っていそうな彼女が、ことさらに不満そうにこぼして待っていると、一分もしないうちに彼が戻ってくる。
「待たせたな」
彼の手に握られているものを見て、彼女が言った。
「アンタ、それ――」
岡村は悪戯っぽく笑うと、手中の銀の灰皿を机の上へと置いた。
「喫煙所から拝借してきた――どうせ他愛もない世間話だから、くつろいで聞いて貰おうと思ってな」
「意外と話が分かるね」
彼女の不満に満ちた表情が、初めて笑顔に変わる。
そしてお互いに懐からタバコを取り出して、口にくわえる。
「火、貸してくれないか」
「アンタ、さっき自分で禁煙って――」
「黙ってりゃおまわりも気付かない」
無邪気な刑事が言うと、呆れた、と女がライターを寄こした。
「悪いね」
岡村はくわえたタバコに火を付けた。
「どうも」
そう言って、テーブルの上を介してライターを返し、煙を大きく吸い込んだ。
取り調べ室の中で発生するはずのない紫煙が部屋に立ち込めていくと、女もリラックスしてきたのか、岡村に質問した。
「――で、どんな話なの?」
「ああ、そうだったな」
岡村は灰皿に一度灰を落とすと、切り出した。
「ひったくりに遭遇したお婆さんと少年の話――だな」
女の眉が少しだけ動いた。
鍛えられた彼の眼はそれを見逃さなかった。
――部屋の中には、タバコの煙が充満していった。
「ん……」
軽く伸びをして、首を回す。
――デスクワークは肩が凝るし、性に合っていないと思う。
同僚たちはほとんど出払っていて、雑然としたオフィスには誰もいない。
テンゴクに回した死亡者たちについての報告書をまとめ終わった私は、椅子の背にもたれかかったまま、下界でのことを回想していた。
――本当にこれで良かったんだろうか。
もしかしたら、助なら――などということは有り得ないが、弥生の希望を、あんな風に潰してしまったことが正しいのか正しくないのか、分からなくなっていた。
今の弥生は今までに比べるととても楽しそうで、見ていてとても――……。
――とても、痛々しい。
一か月だけ夢を見たその後、彼女の理解者はまた私だけになってしまう。
彼女はそれで納得するのだろうか。
私は……。
「まだあの娘の監視を続けているみたいだね」
聞きたくない声は、真空中でもない限り、嫌でも私の耳に入ってくる。
「私が正式な担当ということになっていますので」
局長は暇なのかどうかは分からないが、こうして頻繁に私のところを訪ねてきては厭味を垂れて帰っていく。
私はそんな彼の相手をすることに辟易していたし、無論、彼のことも大嫌いだった。
私の返事には何も反応せずに、彼は私の机の上に目をやった。
そこには、さっき仕上げたばかりの報告書が置いてある。
「律儀だねえ……」
目を細めてその束を取り上げた局長が言った。
「局長のセリフとは思えませんね」
仕事に真面目に取り組んだことなどないであろう彼は、報告書を苦々しげに見つめている。
「……黙れ」
彼は私の机の上に報告書の束を戻した。
「わざわざ人間の運命なんて確認する必要を感じないね――非業の現象が起こることも含めて運命だろう」
かつて多くの人間の運命を弄んでいた男が言った。
「それが私たちの仕事ですので」
「……余計な事をする」
「……仕事ですので」
彼は今にも唾を吐きかけてきそうな態度だった。
オフィスには私たち以外いないため、遠くで窓口応対をする声が時々漏れてくるだけで、静かなものだ。
「自ら喜んで余計な仕事を請け負うような君にはわからないかもな」
「私が担当した方が都合がいいだけです。合理的な配置だと思いますが」
乱雑に置かれた書類の束をまとめ直しながら反論する。
「お前は楽しんでいる」
「楽しんでなどいません。あるのは責任感です」
局長の声が徐々に熱く、憎悪を孕んでくる様子に愉快ささえ覚えながら、私はあくまで冷たく対応した。
「あの娘の件は、確かにお前の正規の担当だがな……もう一件は違うだろう」
私は黙ったまま、書類の整理を続ける。
「いい加減にしないと、正規の担当の方からも外れてもらうことになるが――」
この言葉に、私は初めて焦った。
「それは……!」
目の前の男が意地悪く笑う様子を見て急に冷めた私は、静かに続けた。
「それは、困ります」
「……それならやめろ」
「もう対応はしました。私は問題ないと考えます」
局長は舌打ちをすると、背を向けてこう言った。
「『私は』じゃない。『俺が』どう考えるかだ」
「局長には良識がありますから」
それを聞くと、彼はもう一度舌打ちをして、何も言わずに離れていった。
私は緊張で伸びきった背筋を緩めて、局長が来る前のように背もたれに体を預けた。
「……弥生の担当から外されたら、困る――あっ」
呟きながら書類の束を揃えようとして、指を切った。
私は染み出してくる血液をティッシュで拭って、書類が汚れないように机の端に置いた。
「絆創膏――」
私は席を立った。
――指の傷が、少し疼いた。
永遠の如月
2/10 : 可変か、不可変か(2)
私以外は誰もいない家の中で、提出しても意味のないレポートを書く。今の私に大学の単位など無価値なものだ。
それでも元々の気質のせいか、課題は出さなければならないと思えてきてしまう。
それに、こんなことでもしていなければ退屈に押し潰されてしまう。
何もない時間は、人間に強制的に考える隙を与える。今の状況のことを考えるのが怖くて、私はレポート用紙と睨めっこしていた。
しばらくはシャーペンが机にぶつかり、芯と紙が擦れる音しかしていなかったが、玄関の方から物音が聞こえた。
私は投げ出すようにしてシャーペンを机の上に置くと、階下へとゆっくり降りていった。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
家に帰って来たのは、今朝父のもとに着替えや身の回りの品を届けに行った母だ。
心なしか顔色が良くない。
「お父さんの様子、どうだった?」
母は分厚いコートを脱いでハンガーに掛けながら答えた。
「……大丈夫よ。心配いらない」
私は、母のこの表情を見るのが辛くて嫌だった。
母の表情からは、心配しなければならない要素が嫌でも見て取れる。
「うちのお父さんが、ちか――あんなこと、するわけないでしょう」
痴漢、と口に出すのに抵抗を感じるのか、母は濁すようにして言った。
「……そうよね」
私は母の青い顔に微笑みかけた。
母は膝から崩れるようにして椅子に腰かけると、何も言わず、力なく笑った。
「すぐに帰って来られるわよ」
自分の口が勝手に動いて、希望的観測を声にした。
痴漢容疑をかけられた男性がたとえ無実だったとしても、社会的評価を落としてしまうという現実――さらに言えば、その家族でさえも蔑まれるという懸念……。
昨今の報道を見ていると、その二つが否応なく頭に浮かんできてしまう。
きっと母も、同じことを考えている。
自分の不安と母の蒼白な表情の両方に板挟みになって、それから逃げ出すようにして階段を上った。
自室の扉を開けて、そのまま書きかけのレポートには目もくれずにベットに倒れ込んだ。
――眠いわけじゃない。この眼に映るあらゆる光景が、光が、うざったいだけだ。
だから、目を閉じよう。少しだけ、目を閉じよう。
目を閉じると、誰かさんの真剣な目が私に訴えかけてくる。
――もう少し、待っててくれ。
なんだか体中がむず痒くなったような感じがして、ベッドに体を出来るだけ擦りつけるようにして、目は閉じたままで仰向けに寝返った。
それもいい。彼が何を考えているのかはよく分からないが、彼は間違ったことはしないと思う。
――少しだけ、待っていよう。
もう少しだけ――。
「――なあ、可哀想とは思わないか?」
煙たい取り調べ室の中で、岡村が対面の女に尋ねた。
「……そのお婆さんは、運が悪かったね」
そう言って女は煙を吐き出した。
「ていうか、そんな話をして何がしたいわけ?」
「現役の刑事から事件の話を聞ける機会なんて、そうそうないと思うがな」
何が可笑しいのか、岡村は愉快そうに笑って、灰皿に自分の吸殻を押しつけて火を消した。
そして机に肩肘をつくと、上目遣いに向かいの女を見つめた。
「……な、何よ」
「そのひったくりの犯人は、男女の二人組でなあ」
岡村は優しく語りかける。
「わざわざ力のある男の方を後ろに乗せて婆さんからバッグをひったくったんだがな、証言者の少年によれば、そのバイクにステッカーが貼ってあったらしいんだ」
女は落ち着かない様子でタバコの煙を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返している。
それから数分間、岡村は何も言わなかった。
女は相変わらずタバコをふかしていたが、灰を落とすのを忘れているのか、指の間のタバコは、その長さの半分近くが灰の塊に変化していた。
そしてその灰が重力に逆らえなくなって、灰皿の中でなく、机の上に落ちてしまったとき――。
「犯行に使ったバイクで警察まで出かけてくるのはいただけないな」
女に事件のことを話して聞かせていた岡村は、一転、女を犯人として扱う発言で動揺を誘った。
女は何も言わない。……いや、言えないのだ。
彼女は思い出してしまった。目の前の男が、犯罪捜査のプロであることを――。
「それに、ひったくりの次に、警察を仲介しなくちゃならなくなるような痴漢でっち上げで儲けようってのも賢い選択じゃあないだろう」
「……で、でっち上げはしてないわよ!」
――そして、獲物は罠にかかった。
「でっち上げは、か。なるほど、ひったくりはしたんだな?」
女は息を呑んだ。
どうやらその息と一緒に、反論するための言葉も飲み込んでしまったようで、否定できす、ただ口をパクパクと動かすことしかできないでいる。
「そうなると、痴漢の件についても怪しくなってくるな――きちんと取り調べないとダメか」
「だから、私は――」
「まあ、退屈するほど時間が余ってたからな。じっくりと聞いてやろう」
そして刑事は、本物の取り調べを始める。ゆっくりと、獲物を落としにかかった。
二月の昼は短くて、今日みたいに正午近くまで惰眠を貪っていると、すぐに日が落ちてしまうように感じる。
西日の差した薄暗い部屋で、俺はとうの昔に読み切った漫画を暇に任せて最初から読み返していた。
手にしていた四冊目も読み終わり、三冊目までを積んだその上に積み重ねると、暗くなった部屋で本を読むのに明かりが欲しくなって立ち上がる。
天井から吊り下がった紐を二度引っ張ると、蛍光灯が明るく室内を照らしだした。
夕陽の赤みを遮るために、窓際まで歩み寄ってカーテンを引くと、テーブルの上に無造作に置きっ放しの携帯電話が目に留まる。
着信はない。
マナーモードにはしていないから、着信すれば気づくはずなのは分かっている。それでも目線は勝手に液晶の上を走る。
弥生に待っていてくれと頼んだ自分が、警察からの着信を待っている。つまり、弥生は俺を待っているのではなく、俺が待っている警察からの着信を待っているにすぎないわけだ。
――まるで、自分がどうにかするかのような口ぶりだったくせに。
部屋で一人、そんなことを考えている自分が滑稽に思えてきて、携帯を元の場所に置こうとした。しかし、俺の中の期待がそれを許さず、俺はこれから読むはずの漫画の束でできた塔の傍らに携帯電話を持ったまま戻った。
そして、右手に携帯を握りながら、器用に漫画を読む。一度頭に入れたはずのストーリーが、脳を素通りしてしまって読んでも何も残らない。
ただ聴覚だけが敏感で、敏感すぎる聴覚のせいで、静かな部屋に響いた着信音に俺の心臓が一瞬止まったような感覚に襲われた。
誰からの着信かも確かめず、鳴ってから何秒と経っていない電話を耳に当てた。
『――終わったよ』
電話の向こうの男性の声は、勝ち誇っていた。
「……本当ですか!」
思わず俺は立ち上がった。
『仕事だからな』
「それで、やっぱり犯人は……」
『ああ、あいつらは君が目撃したひったくり犯だ。そして、被害者だと主張していた女が痴漢のでっち上げも認めた。君に目撃されて、ひったくりは危ないと判断して痴漢のでっち上げで金を得ようとしたらしい――』
――勝った。
『だが少々頭が足りなかったな。痴漢だなんだと騒いだら、警察沙汰になるのは目に見えていただろうに』
――変えてやった。
『でっち上げの被害者の男性は、明日にでも釈放されるだろう――彼の家族にも連絡しなくちゃな……』
「そうですか、わざわざ教えて下さってありがとうございました。じゃあ、俺はこれで」
震えそうになる声を必死に抑えながら、俺は電話を切ろうとした。
ここで変に喜んで、一方的とはいえ、弥生の父親を知っていることがバレると面倒だ。
『きっと君にも金一封が出るぞ。追って連絡しよう』
そんなものに興味はなかったが、早いところ通話を終えたかった俺は簡単に答えた。
「お願いします――それでは」
そして、求めていたはずの電話は、待ち望んでいたとは思えないほどに早く終わった。
俺は布団に仰向けに寝転がると、右腕を目の上に乗せた。
笑いが漏れた。勝手に口角が吊り上がる。
「やった――」
口に出すと、実感がさらに強いものとして心を埋め尽くす。
俺はこぼれてくる笑いを噛み殺しながら、傍らの漫画で出来たタワーが崩れるまでずっと、そのままでいた。
今なら弥生とハルカにだって、自信を持って言いきってやれる。
――運命は変えられるものだ、と。
それでも元々の気質のせいか、課題は出さなければならないと思えてきてしまう。
それに、こんなことでもしていなければ退屈に押し潰されてしまう。
何もない時間は、人間に強制的に考える隙を与える。今の状況のことを考えるのが怖くて、私はレポート用紙と睨めっこしていた。
しばらくはシャーペンが机にぶつかり、芯と紙が擦れる音しかしていなかったが、玄関の方から物音が聞こえた。
私は投げ出すようにしてシャーペンを机の上に置くと、階下へとゆっくり降りていった。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
家に帰って来たのは、今朝父のもとに着替えや身の回りの品を届けに行った母だ。
心なしか顔色が良くない。
「お父さんの様子、どうだった?」
母は分厚いコートを脱いでハンガーに掛けながら答えた。
「……大丈夫よ。心配いらない」
私は、母のこの表情を見るのが辛くて嫌だった。
母の表情からは、心配しなければならない要素が嫌でも見て取れる。
「うちのお父さんが、ちか――あんなこと、するわけないでしょう」
痴漢、と口に出すのに抵抗を感じるのか、母は濁すようにして言った。
「……そうよね」
私は母の青い顔に微笑みかけた。
母は膝から崩れるようにして椅子に腰かけると、何も言わず、力なく笑った。
「すぐに帰って来られるわよ」
自分の口が勝手に動いて、希望的観測を声にした。
痴漢容疑をかけられた男性がたとえ無実だったとしても、社会的評価を落としてしまうという現実――さらに言えば、その家族でさえも蔑まれるという懸念……。
昨今の報道を見ていると、その二つが否応なく頭に浮かんできてしまう。
きっと母も、同じことを考えている。
自分の不安と母の蒼白な表情の両方に板挟みになって、それから逃げ出すようにして階段を上った。
自室の扉を開けて、そのまま書きかけのレポートには目もくれずにベットに倒れ込んだ。
――眠いわけじゃない。この眼に映るあらゆる光景が、光が、うざったいだけだ。
だから、目を閉じよう。少しだけ、目を閉じよう。
目を閉じると、誰かさんの真剣な目が私に訴えかけてくる。
――もう少し、待っててくれ。
なんだか体中がむず痒くなったような感じがして、ベッドに体を出来るだけ擦りつけるようにして、目は閉じたままで仰向けに寝返った。
それもいい。彼が何を考えているのかはよく分からないが、彼は間違ったことはしないと思う。
――少しだけ、待っていよう。
もう少しだけ――。
「――なあ、可哀想とは思わないか?」
煙たい取り調べ室の中で、岡村が対面の女に尋ねた。
「……そのお婆さんは、運が悪かったね」
そう言って女は煙を吐き出した。
「ていうか、そんな話をして何がしたいわけ?」
「現役の刑事から事件の話を聞ける機会なんて、そうそうないと思うがな」
何が可笑しいのか、岡村は愉快そうに笑って、灰皿に自分の吸殻を押しつけて火を消した。
そして机に肩肘をつくと、上目遣いに向かいの女を見つめた。
「……な、何よ」
「そのひったくりの犯人は、男女の二人組でなあ」
岡村は優しく語りかける。
「わざわざ力のある男の方を後ろに乗せて婆さんからバッグをひったくったんだがな、証言者の少年によれば、そのバイクにステッカーが貼ってあったらしいんだ」
女は落ち着かない様子でタバコの煙を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返している。
それから数分間、岡村は何も言わなかった。
女は相変わらずタバコをふかしていたが、灰を落とすのを忘れているのか、指の間のタバコは、その長さの半分近くが灰の塊に変化していた。
そしてその灰が重力に逆らえなくなって、灰皿の中でなく、机の上に落ちてしまったとき――。
「犯行に使ったバイクで警察まで出かけてくるのはいただけないな」
女に事件のことを話して聞かせていた岡村は、一転、女を犯人として扱う発言で動揺を誘った。
女は何も言わない。……いや、言えないのだ。
彼女は思い出してしまった。目の前の男が、犯罪捜査のプロであることを――。
「それに、ひったくりの次に、警察を仲介しなくちゃならなくなるような痴漢でっち上げで儲けようってのも賢い選択じゃあないだろう」
「……で、でっち上げはしてないわよ!」
――そして、獲物は罠にかかった。
「でっち上げは、か。なるほど、ひったくりはしたんだな?」
女は息を呑んだ。
どうやらその息と一緒に、反論するための言葉も飲み込んでしまったようで、否定できす、ただ口をパクパクと動かすことしかできないでいる。
「そうなると、痴漢の件についても怪しくなってくるな――きちんと取り調べないとダメか」
「だから、私は――」
「まあ、退屈するほど時間が余ってたからな。じっくりと聞いてやろう」
そして刑事は、本物の取り調べを始める。ゆっくりと、獲物を落としにかかった。
二月の昼は短くて、今日みたいに正午近くまで惰眠を貪っていると、すぐに日が落ちてしまうように感じる。
西日の差した薄暗い部屋で、俺はとうの昔に読み切った漫画を暇に任せて最初から読み返していた。
手にしていた四冊目も読み終わり、三冊目までを積んだその上に積み重ねると、暗くなった部屋で本を読むのに明かりが欲しくなって立ち上がる。
天井から吊り下がった紐を二度引っ張ると、蛍光灯が明るく室内を照らしだした。
夕陽の赤みを遮るために、窓際まで歩み寄ってカーテンを引くと、テーブルの上に無造作に置きっ放しの携帯電話が目に留まる。
着信はない。
マナーモードにはしていないから、着信すれば気づくはずなのは分かっている。それでも目線は勝手に液晶の上を走る。
弥生に待っていてくれと頼んだ自分が、警察からの着信を待っている。つまり、弥生は俺を待っているのではなく、俺が待っている警察からの着信を待っているにすぎないわけだ。
――まるで、自分がどうにかするかのような口ぶりだったくせに。
部屋で一人、そんなことを考えている自分が滑稽に思えてきて、携帯を元の場所に置こうとした。しかし、俺の中の期待がそれを許さず、俺はこれから読むはずの漫画の束でできた塔の傍らに携帯電話を持ったまま戻った。
そして、右手に携帯を握りながら、器用に漫画を読む。一度頭に入れたはずのストーリーが、脳を素通りしてしまって読んでも何も残らない。
ただ聴覚だけが敏感で、敏感すぎる聴覚のせいで、静かな部屋に響いた着信音に俺の心臓が一瞬止まったような感覚に襲われた。
誰からの着信かも確かめず、鳴ってから何秒と経っていない電話を耳に当てた。
『――終わったよ』
電話の向こうの男性の声は、勝ち誇っていた。
「……本当ですか!」
思わず俺は立ち上がった。
『仕事だからな』
「それで、やっぱり犯人は……」
『ああ、あいつらは君が目撃したひったくり犯だ。そして、被害者だと主張していた女が痴漢のでっち上げも認めた。君に目撃されて、ひったくりは危ないと判断して痴漢のでっち上げで金を得ようとしたらしい――』
――勝った。
『だが少々頭が足りなかったな。痴漢だなんだと騒いだら、警察沙汰になるのは目に見えていただろうに』
――変えてやった。
『でっち上げの被害者の男性は、明日にでも釈放されるだろう――彼の家族にも連絡しなくちゃな……』
「そうですか、わざわざ教えて下さってありがとうございました。じゃあ、俺はこれで」
震えそうになる声を必死に抑えながら、俺は電話を切ろうとした。
ここで変に喜んで、一方的とはいえ、弥生の父親を知っていることがバレると面倒だ。
『きっと君にも金一封が出るぞ。追って連絡しよう』
そんなものに興味はなかったが、早いところ通話を終えたかった俺は簡単に答えた。
「お願いします――それでは」
そして、求めていたはずの電話は、待ち望んでいたとは思えないほどに早く終わった。
俺は布団に仰向けに寝転がると、右腕を目の上に乗せた。
笑いが漏れた。勝手に口角が吊り上がる。
「やった――」
口に出すと、実感がさらに強いものとして心を埋め尽くす。
俺はこぼれてくる笑いを噛み殺しながら、傍らの漫画で出来たタワーが崩れるまでずっと、そのままでいた。
今なら弥生とハルカにだって、自信を持って言いきってやれる。
――運命は変えられるものだ、と。