Neetel Inside 文芸新都
表紙

永遠の如月
2/11 : 誓い

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「いやあ、良かった。あんな取り調べ、もう二度と受けたくないね」
「本当に良かったわ……」
 両親が自宅の居間で会話を交わしている。
 その「異常な光景」を、私は信じられない思いで見つめていた。
「まさか、あいつらがひったくりなんかもやってたなんてな。バカな奴らもいるもんだ――」
 安堵し切った表情の父親が、こちらを見た。
「どうした、弥生?」
 父は私に微笑んでみせた。
 心臓を掴まれたような衝撃だった。
「ううん、安心したから……」
 取り繕うように言葉を紡ぐと、父は納得したように頷いて、母との会話に戻った。
 ――見たことがない。
 二月九日以降、父は自宅に帰ってこない。今回も再び二月一日に戻ったとき、また同じように父は家から姿を消すものだと思っていた。
 汗ばんだ掌を揉んだ。信じられなかった。未だに心臓が大きく、早く脈打っている。熱い血が体を流れる。家の中だとはいえ二月であるはずなのに、身につけている服の中は汗でじっとりと濡れて気持ち悪かった。
 昼過ぎにいきなり警察署からかかってきた電話を取ったら、担当の警官らしき人に父を釈放するから家族の誰かに迎えに来てほしいと言われた。
 私は動揺した。
 ――どうして?
 やっぱり、助くんが――でも、どうやって?
 安堵も喜びも通り過ぎて、ただ驚いているうちに夜になって、父と家に帰ってきた。
 母はすっかり血色も良くなって、夕飯の支度に取りかかろうとしている。
「会社にも説明すれば分かってもらえそうだから、居づらくなるようなことはないだろ」
 父は二日ぶりの缶ビールで喉を潤しながら言った。
「本当に安心したわ。テレビなんかを見てると、悲鳴を上げられただけでクビにされたりしちゃうかもって――」
「欠勤したといっても二日だけだし、大丈夫だとは思うがな」
 当の父は、ケラケラと笑った。
 ――お父さん、どうして家にいるの?
 拭い切れない違和感に襲われる。積み重ねた二百ヶ月が、この状況は異常だと私に訴えていた。
「しかし、でっち上げとは……危うくこっちは一生を棒に振るところだった……今度はこっちから訴えてやらないと」
 どうやら父は、犯人たちを相手取って民事訴訟を起こすつもりらしい。
「慰謝料やなんかはどうでもいいが、自分たちのやったことをわからせてやる」
 父は昔から責任感ある人で義理堅く、けじめやら何やらには人一倍うるさかった。
 その父は、右手に持った缶を再び口につけて傾けた。そして、自分を見つめている私の眼差しに気が付いたのか、こちらを向いた。
「さっきからどうした?」
 ここにいるはずのない父が、私に話しかけてくれている。それも、こんなに平和に、愉快そうに――。
 そうだ。多少の違和感がなんだ。受け入れればいい。素直に喜べばいい。
 だから私はこう言った。
「おかえりなさい」



 一人っきりの夕食も済ませ、テレビを見ながら布団の上に横たわった。そこに映る映像や流れてくる音声には少しも興味がなくて、俺はぼんやりと今日のことを思い返した。

 短い昼が終わって、辺りが暗くなってきた頃に岡村さんから電話があり、来月の一日に表彰状と金一封が貰えると教えてくれた。それと同時に警察署に出向くようにも言われ、多少の面倒くささを覚えたが、ささやかな富と名誉が同時に手に入る機会を無碍にするのもどうかと思い、了承した。
 その電話を切り、思い出したように俺はそのまま別の番号にダイヤルした。
『何か用?』
 聞き慣れた声が聞こえる。
「やっぱりもう帰って来てたか」
 金沢家にかけた電話を取ったのは沙織だった。
『……うん。お母さんのとこにも行ったんだけど、最近ちょっと疲れちゃって……』
 電話が伝えてくれる幼馴染の声には、確かに元気がなかった。
「……そうか。お前に任せっきりだからな」
『助もお見舞い来るでしょ?』
「そうだな――あ……さって、かな」
 明日と言いたいところだったのだが、弥生のことが気になっていた俺は方向転換して、日付をスライドさせた。
 弥生の父親は昼過ぎに釈放されたと電話口で岡村さんが言っていたが、彼女自身からの連絡はない。何か連絡があるまで、こちらから動くのはやめようと決めていた。もしかしたら彼女は、経験したことのない、家に父がいるという状況のせいで俺に連絡するのを忘れているのかもしれない。それに、こちらから連絡するのも恩着せがましい感じがして躊躇われた。
『そっか』
 弥生は短く答えた。
「薫と……来られるかどうかは分からないけど弥生も呼ぶよ」
『……そう』
 沙織はもう一度短く息を吐いた。
「さお、本当に疲れてそうだな――」
 無理もない。毎日母親の看病で、ここのところ大学にも満足に出席できていない。父は相変わらず仕事に忙しくしている。
 その上、優しすぎる彼女には母の前で疲れた素振りを見せることなどできない。
『私が頑張らないとね』
 ――俺が支えてやらなければならない。
「俺も手伝うよ」
『……当然』
 お礼の言葉を一つ受け取るよりも、こうして憎まれ口を叩いてくれた方が俺たちらしくていい。
「……無理するなよ」
『うん』
 沙織は小さな声で言ったが、受話器はその声も拾った。よほど強く受話器を押しつけて話しているのか、彼女の吐息の音さえも聞こえてきた。
「じゃあな」
 俺は通話を終えて、電話を右手に握りしめたまま、しばし考え込んだ。
 俺が考えなくちゃいけないのは、弥生のことだけじゃない。それを忘れるな。
 実の兄妹のような関係のあの子が潰されないように、かばってやらなければならない。

 それ以外は一日中手持ち無沙汰に過ごし、本を読んだり、ネットサーフィンしたり、暇潰しに電話をかけてきた薫とバカな話で盛り上がったりと、家から一歩も出なかった。
 家から出なかったのは、弥生からの連絡を待っていたからだ。恐らくは連絡があるなら携帯の方にしてくるとは思ったが、万が一家を訪ねてきたときに留守にしていては申し訳ない。
 警察署からの着信を待っていたときのように携帯電話を気にかけてみても、今回は鳴らない。
「何か異常は?」
 テレビのチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばしたとき、突然女の声がして、驚きのあまり体が震えた。
「……変な女がいきなり部屋に入ってきたこと以外は」
 俺は声がした後ろの方をあえて振り返らず、リモコンを取ってチャンネルを変えた。
「じゃあ何も問題なし」
 いつの間にか勝手に部屋に上がり込んでいたハルカは、勝手ついでに俺に何も言わずに隣に腰を下ろしてきた。
「お前、ここ布団の上!」
「別にいいでしょ」
 人間ではないとはいえ、女性が自分の布団の上にいるのは精神衛生上よくない。
「椅子に座れ」
「えー……」
 ハルカは渋々といった感じで再び立ち上がると、改めて椅子に腰かけた。
「……どうした?」
「たまには来ないと」
 ハルカは簡単に答えると、台所で勝手にコーヒーを作ろうとしていた。
「そうか」
 彼女はカップを二つ用意すると、コーヒーの粉を入れてお湯を注いだ。温かそうな湯気が立ち上るのが見えた。
「――弥生、驚いてた」
「……だろうな」
 俺の予想と裏腹に、ハルカは浮かない顔だ。
 ハルカは無言のまま、スプーンを入れたカップを俺に渡してきた。
「サンキュ」
「ん」
 一体どうしたのか、ハルカは沙織以上に元気がないようにも見えた。
 弥生の父親が罪をかぶせられることを回避できたとなれば、ハルカとしても当然大喜びするだろうと思っていた。
「どうしたんだ、ハルカ」
「……できちゃうもんなんだなあ」
 ハルカはまるで独り言のように呟いた。その眼は俺ではなく、コーヒーカップを映している。
「まさか、本当に変えちゃうとは……やめた方がいいって言ったのにね」
「……おい、待てよ。お前だって弥生が喜んでるなら――」
「うん。私も嬉しい」
 まるで棒読み。本当に喜んでいるのかどうか疑わしい。
 あのハルカが、弥生の運命が変わったというのにこんな態度でいるのは明らかにおかしい。
「いい加減にしろ! 偶然だったかもしれないけど、俺は確かに親父さんを救ったはずだ! 何が気に食わない!?」
 手に持ったカップの中で、黒い液面が危なっかしく揺らいだ。波紋の頂点がカップの淵を超えてしまいそうになる。
「ちょ、ちょっと、落ち着いてよ。本当にこれでも嬉しいの」
 ハルカは相変わらず静かに言った。
「いつものお前だったら――」
「いつも明るくしてないと、ダメ?」
 女神は優しく笑った。
 俺は口大きく開け、目を見開いた。
「助が本当にやってのけるなんてってね。ちょっと驚いてるだけ」
「……そ、そうか。悪いな」
 落ち着いているときのハルカには、人間である俺には到底抗えないと思わせる何かがある。
「ううん――弥生もびっくりしちゃってね、助にお礼言うの忘れてたみたい。明日来ると思う」
 俺は黙ってカップに口をつけた。ただの雑音にしか聞こえなくなったテレビの電源を落とした。部屋は静かだ。俺たちの立てる音以外は、遠くで車の走る音くらいしか聞こえない。
「異常ないならいいや。私は仕事に行くから」
「……もう帰るのか?」
「ゴメンね」
 彼女の言葉は冷たかった。
「いや、いいけどよ……」
 ハルカにこういった態度をとられると、なんだかやるせなくなる。
「最後に一つだけ聞きたいことがあるの」
 彼女は立ち上がって俺を見下ろしながら言った。俺の部屋の空気は今、この女神によって支配されている。
 外より寒い、そんな気がした。
「聞けよ」
 本当は少しだけ怖かったが、俺の態度は挑戦的だった。
 ハルカはいつもより深めに息を吸い込むと、ゆっくりと言った。
「助……あんた、死にたいの?」
 俺が見上げる彼女の顔には、冷たく俺を見下ろす二つの眼球がある。きっと、これは彼女の仕事だ。
「死にたくはない……でも、死んでも仕方ない」
 はっきりと言ってやった。
「きっと、弥生と一緒だ」
 弥生もきっと、本当は死にたくない。でもループからは脱出できそうにない。だから仕方ない。
 死にたくない。それでも俺にしかできないことがあるから、その結果死ぬならそれはそれでいい。
「――一緒だけど、弥生のは諦めで、俺のは覚悟だな。そこが違う」
 何も言わないハルカに、俺は言ってやった。口が渇く。
「神様の世界じゃ、死がずいぶんと安いみたいじゃないか」
「バカ言わないで」
 彼女から感じられていた硬くて冷たい雰囲気が氷解した。いつもの彼女に戻った、と思った。
「それでもさ、今回のことは運命が変えられることを実証してくれた。だから、可能性があるなら俺は挑戦してみるよ」
 ハルカが大きく息をつくのが聞こえた。
「決意したんだ」
 ――彼女たちを助けるためなら、俺の命を投げ捨ててやろう。
「……弥生がループから抜け出した後のことはどうするつもり?」
「――この二月が終わる前に何とかしてやるさ」
 もしも、間に合わなかったときは――。
 ハルカは突然俺に背を向けると、そのまま玄関の扉の前に立った。
「……あんまり心配させないでよね」
 俺が何か聞き返す暇もないまま、彼女はあっけなく俺の前から姿を消した。ハルカが何を考えているのか俺には全く分からない。神の考えなど、ただの人間には知ることはできないのだろうか。
 俺は、一人取り残されて、ハルカとの間に生物としての違いをひしひしと感じていた。
 彼女の分のカップはほとんど手が付けられていないままで、コーヒーがもうもうと湯気を立てつづけていた。

       

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Neetsha