――昨日までと比べればある程度片付いた俺の部屋に、彼女がやってきた。
玄関の扉を開けたところに立っていた弥生は、何やらバツが悪そうな様子ながらも「おはよう」と挨拶をする。
「おう、あがれよ。遠慮しなくていいから」
「……うん」
初めてこの部屋に入れてやったときはもっと無遠慮な印象だったが、今回は恥じらいさえ見え隠れしている。
ドアを閉めるとき、明るく晴れた空が彼女越しに見えた。何故か、ハルカのことを思い出した。
「まあ、座ってくれ」
そう言いながら彼女に紅茶を差し出す。
すると、弥生は俺から受け取った紅茶には目もくれないで唐突にこう言った。
「お父さんのこと――本当にありがとう」
弥生は今日、これを言うためにここに来たのだ。
「どうしても諦めきれなくてな」
照れくさくなった俺は、頬を掻きながら受け応えた。
「私、本当にダメかと思ってたわ――」
「……ああ」
それを言うなら、俺だって諦めかけた。
「私――」
「もういいだろ」
わざわざ弥生の目の前に掌をかざして、制止する。
「正直に言う。俺も、弥生に『もういいよ』って言われたとき――それと、あの後ハルカにもやめるように言われて、本当に一度諦めたんだ」
それまでうつむいていた弥生が顔を上げた。
「だけどなんていうか、運が良くて――それで」
俺は弥生に頭を下げた。
「お前のおかげで、やらなくちゃいけないことに気づいたんだ」
――感謝するのは、俺の方なんだ。
「……やらなくちゃいけないこと?」
弥生は不思議そうに俺の顔を見つめる。
「本当は、弥生と会う前にやっておかなくちゃいけなかった」
「それって、どういう――」
「……そうだ」
俺は弥生の質問も耳に入れず、勝手に今思いついたことを提案しようと、彼女の予定を確認した。
「今日、夜まで大丈夫か?」
「ええ、大丈夫だけど……」
弥生は戸惑いを隠せていない。
「じゃあ、行こう。帰ってこないうちに」
「え?」
俺は弥生の手を引くと、壁のフックにかかったコートを引っ掴んで家を出ようとした。
「わ、私のコートも」
弥生が慌てて、椅子にかかりっ放しになった彼女のコートを指差した。
「ああ、悪い」
俺が手を放してやると、弥生も自分のコートを掴んで羽織った。
「ねえ、どこに行くの?」
「もう一つの俺の家」
そうして俺たちは、金沢家へと向かった。
青い屋根の二階建ての一軒家の門扉をくぐり、玄関のドアに合鍵を挿した。当然ロックが解け、金沢家の玄関が俺と弥生を迎え入れる。
沙織は恐らく病院に行っていて、夜になるまで帰ってこないだろう。お父さんは仕事だ。
「留守なのに勝手にあがるのは……」
「俺の家でもあるんだって、大丈夫だから」
尻込みする弥生にそういうと、彼女も仕方なしについてくる。
「だってここ、沙織さんとおばさまの」
「俺の実家だ」
そう言いながらスニーカーを脱いで、見慣れた廊下を奥へと進む。
「ああ……」
弥生も何か思い出して納得したようで、あとは黙ってついてきた。
俺は台所に辿り着くと、一直線に冷蔵庫へと向かった。その大きな扉を開いて、中身を確認する。
「んー……」
「何を……?」
俺の行動に振り回されっ放しの弥生は、質問するのも遠慮がちになってきた。
「沙織に晩飯を作ってやりたくて」
「ご飯を?」
俺は一番上の扉を閉めると、その下の野菜室を除いた。
「だいぶ足りないな」
弥生は黙って俺が冷蔵庫を漁る様子を見ている。
「ホワイトシチュー作りたいから、足りないものを買いに行こう」
「え、ええ」
そうして俺たちは今来たばかりの金沢家を後にして、スーパーへと向かった。
「――やらなくちゃいけないことなんだよ」
「……シチューを作ることが?」
スーパーに着いた俺たちはカートの上に買い物かごを用意すると、店内を回り始めた。
「違うって。沙織のこと」
俺は人参を手に取って眺める。弥生がその隣の玉ねぎをかごに入れた。
「沙織さん?」
「あいつお母さんの看病で忙しくしてて、相当溜めこんでるんだ。俺がいろいろ助けてやらないと」
なるべく傷の少ない人参をかごに放り込んで、次の食材を探しにカートを押す。
「でも、それなら私と会う前からできたんじゃない?」
「……できなかったんだ」
思い出して、情けなさが胸を埋め尽くした。
「できなかった?」
弥生はオウム返しに聞き返してきた。
「ゴメン、詳しくは言いたくない」
これは弥生に言うわけにはいかない。
「……無理には言わなくてもいいわ。でも、私に手伝えることがあるなら――」
「そのうち……そのうち分かるさ」
そう言って俺は、ジャガイモに手を伸ばす。
弥生の好意は非常にありがたいものだったが、受けるわけにはいかない。弥生は今、とても安心しきっていて幸せな状態にあるであろうことは簡単に推測できた。
ジャガイモを握りしめて考える。俺の手の中のジャガイモはとても硬くて、素手では潰れそうにない。意固地なまでに、その形を保っている。
――そう、このままでは変わらない。
弥生は未だループの中を抜け出していない。そんな状況の中、父親が痴漢冤罪を被るのを避ける方法が見つかったことは、とてつもなく「不幸なこと」だ。
「……助くん?」
「ああ、悪い」
今はこうして平和そうに過ごしている弥生もいずれ気が付く。
――この成功は一回限りだと。
仮に俺が弥生をこのループから今回限りで脱出させることができれば、それで万事解決だ。俺は全力を尽くすし、そうなればいいと思っているが、実は策はない。
そもそも、神の力でこうして閉じ込められているものを、俺一人の力でどうにかできるとは思えない。だから弥生はハルカに頼って、ハルカがループを解除できる状態になるまで待つしかないだろう。あと何ヶ月かかるのか、俺には想像もつかない。
問題は、俺と弥生が別れた後のことだ。
今までと同様に、弥生が次のループでは俺以外の人物と共に過ごすとすると、彼女の父親が助かったという今回の成功は無に帰す。
一度手に入れたものを手放すのは、とても苦しいだろう。
弥生もそのことに気がついて、次回も同じように俺と過ごしたとしても……。次回俺が、同じように行動するとは限らない。彼女が次に会う俺は、俺であって俺でないからだ。
今回限りで決着を着けないと、彼女は永遠に自分の父親を救う手だてを失ってしまうかもしれない。
その上、ループを脱出したその後のこともある――。
不吉な思考を続けている俺を呼ぶ声があった。
「助くん、早く」
「……おう」
俺が真剣に彼女のことを考えているのを知ってか知らずか、弥生は精肉売り場へと俺を急かした。俺が追う彼女の小さな背中は、少し負荷をかければ今にも崩れ去ってしまいそうで怖い。
「鶏肉はこれでいいわよね」
安売りのモモ肉をかごに入れる弥生の様子は、今までに見たことがないほど生き生きとしていた。
そう言って、弥生はまた歩き出した。
弥生の父親を救ったことで一番大きな変化を受けたのは、実は俺自身だ。
今月の初め、俺は普段と変わらずにこの一ヶ月を過ごすつもりだった。でも、弥生と出会って気付かされたことがある。
俺は沙織を救ってやれるかもしれない――むしろ、俺しか沙織を救ってやれない。
母親が死んだ後、彼女がどうなってしまうか。俺には分かる。分かるからこそプレッシャーで、失敗できない。
これらのことで頭の中が満たされていて、買い物の詳しい記憶がない。気がつくと、俺たちは金沢家に戻ってきていた。
「――手慣れてる」
野菜の下ごしらえをする俺の手元を見ながら、弥生が感心するように言った。
「俺、昔から沙織とずっと一緒なんだけど、一度も料理を作ってやったことがないのを思い出したんだよね」
手を動かしつつ、口を動かした。
「だから、こんなときぐらいはな」
俺の胸の奥で何かがこみ上げるのを感じたが、無理やりに抑え込む。
「……助くん、無理してるわ」
弥生は鋭かった。彼女の鋭い眼は、俺の心を透かして見ることができるのか。
「凄く悲しそうよ」
図星だった。それでも弥生の手前、誤魔化した。
「――おかしなことを言うなよ。お母さんはまだ死んじゃいない」
弥生を誤魔化すことは、自分を誤魔化すことだった。
「まるで、もう亡くなったみたいね」
「冗談言うな――弥生も人参の皮、剥いてくれよ」
無理に笑って、弥生に手伝うよう頼んだ。
「ええ」
ここのところ弥生のことにかかりっきりで、自分のこと、沙織のこと、母親のことをすっかり忘れていた。
胸の中で込み上げる何かに圧されて、肋骨が軋んだ感じがした。
自家製のルーと材料を合わせて煮込みながら、焦げつかないように中身をかき混ぜる。
「料理上手いのね」
「シチューだけな」
笑う気分にはなれなかった。
「父さんもそうだった」
弥生は何も言わなかった。鍋から立ち上る湯気と、グツグツと中身が煮える音だけが聞こえる。
あまり乱暴にかき混ぜるとジャガイモが煮崩れるから、ゆっくりと攪拌する。
やがてジャガイモは柔らかくなってくる。スーパーの店頭に並んでいたときとは違って、少し押せば簡単に形を変えるだろう。
――運命って奴も、煮込めば変わるのだろうか。
だが俺は生憎、運命の煮込み方を知らない。天国の父さんも、そんなことは教えてくれないと思う。