付け合わせのサラダもとっくに出来て、米も炊けた。
俺と弥生は家主の居ないリビングで、ソファーに座って話をしていた。静けさのあまりに耳鳴りがするよりは、つまらない話をしていた方がよっぽどいい。
適当な話題もなかったから、俺は弥生を誘うことにした。
「――もし明日も暇だったら、また見舞いについて来てくれないか?」
「ええ、いいわよ」
誘いは突然だったが、弥生は簡単に受けてくれた。
「私もまたお話したいと思ってたわ」
「……そうか」
弥生が母に興味を持っていることが、果たして本当にプラスに作用するのか俺には分からなくなってきていた。それでも彼女を見舞いに誘ったのは、会わせてみればどうにかなるだろうと思ったからだ。
「……沙織、遅いな」
手持ち無沙汰になって腕時計を確認すると、とっくに普段の夕食の時刻を過ぎていた。
「連絡を取ればいいのに」
弥生が指摘したが、俺の沙織を驚かせてやりたいという子供っぽい考えが邪魔をする。
「いや、そろそろだろ」
彼女は呆れたような顔をしたが、何も言わなかった。
沈黙が続くことに耐えきれなくなったのか、しばらくして別の話題を切り出してきた。
「……助くんと沙織さん、仲いいわよね」
「……そりゃ、昔からずっと一緒だからな」
弥生の質問の意図が分からなくて、無難な返事しかできなかった。
「そうだな……昔から、友達みたいな……兄妹みたいな」
「――恋人みたいな」
薫と一緒に食事をしたときにも思ったが、どうやら弥生はこういう話題が好きらしい。そもそも女性は総じて他人の恋愛の話を好む、と俺は思う。
「それはないぞ」
余計なことを言わずに否定する。必要以上にそういったことを意識しなくていいのが、俺と沙織との関係だと思っている。
「長く一緒に居るなら、何かあってもおかしくないと思うわ」
「……まあ、な」
弥生の言葉は、俺に沙織との幼い頃のことを思い出させた。
「やっぱり、何かあるんじゃない」
弥生は探るような上目づかいでこちらの方を窺ってくる。黒髪の向こうから覗く彼女の眼は、好奇心に輝いているようにも見えた。
こいつ、こういう顔もできるんだな――。
「ガキの頃だよ。よくあるだろ? 『大きくなったらお嫁さんにして』とか何とか」
不思議なもので、口に出してみるとその時の映像までもが頭の中で再生される。何だか照れ臭くなった。
「可愛くはあるけど……それは『何か』のうちに入らないわね」
弥生はくすりと笑う。
「まあ、確かに仲は良いけど、本当にそういうことはない」
「……わかった。信じるわ」
最近、弥生にいいようにあしらわれている気がする。
それに、彼女の父親を助けてから、どうも接しにくくなっていた。これは完全に俺の気持ちの問題だ。
そんなことを考えていると、玄関の方から聞き慣れた声がした。噂をすれば影が差す、そんな言葉が浮かんだ。
「ただいまー……って、あれ?」
誰もいないはずの家に気配があるのを不審に思ったのか、玄関から間抜けな声が聞こえる。
「おかえり」
「……お邪魔してます」
俺と弥生が玄関まで沙織を迎え出ると、彼女は不思議そうな顔をした。
沙織は普段は外で掛けていないはずの眼鏡を身に着けている。髪型もいつもとは違って、頭の後ろで一本にまとめている。オシャレではなさそうだが、普段と違っているのは確かだった。
「どうした、その格好」
不思議に思って尋ねたが、沙織は答えずに質問で返してきた。
「弥生ちゃんまで、何しに来たの? それにこの匂い」
「夕飯作ってやろうと思ってな。弥生は暇だったから手伝ってもらった」
沙織はしばし不思議そうに俺たちのことを見ていたが、そっか、とだけ言って上着を置きに自室へと消えた。
「もう食べるだろー?」
「食べるー」
俺が姿の見えない沙織に呼びかけると、返事が聞こえた。シチューを温め直して、食卓にご飯、サラダとともに三人分並べる。俺の心が無意味に弾んでいたのは、いつも夕食を作ってくれる沙織に、逆に夕食を作ってやったからだと思う。
「珍しいね、助が私に気を利かすなんて」
食卓の上に並べられた夕食を見て、沙織が言った。
「たまにはな。弥生にも手伝ってもらったけど」
「稀に、ね。弥生ちゃん、ありがとうね」
「……ふふ」
俺たちのやり取りに、弥生が笑う。
「何かおかしい?」
「いえ、なんでも。食べましょう」
弥生は誤魔化すように箸を取った。
「そうね、いただこうかな」
そう言って、沙織は目の前の食事を見回した。ご飯にサラダ、ホワイトシチューという簡素な献立だ。
それでも、外の寒さを思うと、このシチューから立ち上る湯気は幸せの象徴のようにも思えてくる。
「助が、ホワイトシチューなんか作れるなんて知らなかったよ」
「教えなかったからな」
沙織は苦笑いしながらスプーンを取った。
俺は弥生が使い終わったドレッシングを受け取り、サラダにかけようとしていたが――。
ホワイトシチューを口にした沙織の様子がおかしい。彼女は怪訝そうに顔をしかめて、深皿の中のシチューを見つめていた。
「どうした?」
何か作り方でも間違えたかと不安になって、慌てて尋ねた。
「……いや、何でもない。おいしくてちょっとビックリしただけ」
沙織はいつもの顔に戻って笑うと、俺の料理を褒めた。
「だろ?」
「どこで習ったの?」
沙織は俺のシチューに興味を持ったような面持ちで聞いてくる。
「俺の父さん」
「……ふーん」
納得の行かないような顔でとろとろのシチューを見つめている沙織が何を考えているのかよく分からなかったが、不味くて食べられない訳でもなさそうだったので、いい加減に空腹だった俺はそれ以上大して気にせずに食事を始めた。
しばらくして、気になっていたことを尋ね直した。
「髪型と眼鏡、どうしたんだよ?」
「……ああ、あれね」
沙織は普段、外でも家でも、寝る直前までコンタクトレンズを着けている。眼鏡ももちろん持っているが、「似合わないから」との理由でほとんどかけない。その沙織が外出時に眼鏡をかけているところは見たことがなかった。
「お母さんの病室でうたた寝しちゃうことが多くって。酷いときは寝癖もついちゃうし」
「ああ、なるほどな」
何気なく受け応えた俺だったが、沙織だけに一生懸命看病させていることに心の内側が痛んだ。
「そうだ、明日、弥生と薫も連れて見舞い行くから」
そう言うことで、胸の痛みが和らぐのではないかと期待したが、さして変わりはしない。見舞いに行くことくらいで罪悪感は消えない。
「ホント?」
沙織は嬉しそうな顔で弥生の方を見た。
「ええ、お邪魔じゃなければ」
「全然いいって」
「そりゃお母さんのセリフだ」
沙織も退屈なんだろう。こんな言い方はしたくないが、実際、病人と二人きりでは気分が滅入る。あのお母さんこそ気にしていないような素振りを見せているが、沙織にとってはそれすらも辛いのではないかと思う。
俺が今までほとんど見舞いに行かなかったのは、そういう思いをしたくなかったからという最低な理由からだった。
途切れがちな会話の合間に、沙織はよく溜め息をついた。
「溜め息多いな」
「……ん」
認めざるを得ない、という風に沙織は頷いた。
「疲れているところ押しかけてごめんなさい」
弥生が言ったが、沙織はほぼ片付いた皿を眺めながら、そんなことはない、と言った。
「おいしかった。助、ありがとね」
「ああ、いつでも作ってやるよ」
ありがとう、の一言で、俺は今日ここに来た価値を十分に見い出せた。
「じゃあ、今度は和食でも作ってほしいかな」
「残念、レパートリーはホワイトシチューだけだ」
「少なっ」
ツッコミにもどこか元気がなく、疲れが透けて見える。
「もう今日は早く寝ろよ。ちゃんと片付けてから帰るから」
「……悪いね」
そう言ってソファーに横になった沙織は、何かに上から押さえつけられているかのように動かなくなった。
「弥生、付き合わせて悪かったな」
「いいのよ。楽しかったわ」
「助かるよ」
皿洗いまで弥生に手伝ってもらい、もう帰ろうかというところで、ソファーで寝ていた沙織が起きて来て、玄関にまで送りに出てきた。
「無理すんな、寝てろよ」
「お礼くらい言わせてよ」
眠たげな目をこすりながら沙織が言った。
「……ありがと」
「おう」
「弥生ちゃんも」
「ええ」
靴を履き終えた俺たちを、玄関より少し高い廊下から見下ろしながら沙織は笑った。
「……シチューだけでもいいから、また作ってくれる?」
沙織らしくない、しおらしい言い方だった。普段は掛けない眼鏡のせいもあってか、まるで別人のような感じがした。
「ああ、いくらでもな」
そして、俺は玄関の扉を開け、じゃあな、と沙織に手を振った。弥生は沙織に頭を下げてから外へ出てきた。
――シチューくらい、いくらでも作ってやるさ。