病室を訪れるたびに思うのだが、この部屋の完璧すぎる清潔感は患者に生気を与えることはできないのではないか。それどころか、むしろ逆効果だろう。病院の醸し出す雰囲気は、生を意識させるにはあまりに静かで清廉すぎるのだ。
そんな建物の中の真っ白な一室のベッドに、俺の二人目の母親が横たわっている。
俺たちが病室に入るや否や、彼女はこちらの様子に気が付いたようだ。
「あら、また来てくれたのね」
俺たちに向けられている笑顔も、数日前に見たときよりも明らかに蒼い顔の上では映えない。ベッドに敷かれたシーツに負けず劣らず白い顔色は、俺の胃を揺さぶった。
一緒にいる薫と弥生が母に向けて一礼しているのを横目に、俺は無遠慮に病室の奥へと歩を進めた。
「果物買ってきたから、置いとくぜ」
「ありがとう」
果物入りのスーパーのビニール袋を傍らの机に置くと、窓際に重ねてある背もたれのない椅子を人数分だけ出して、母のベッドを取り囲むようにして座った。
「沙織は?」
「さっきまで寝てたから、その間にどこかへ行っちゃったみたい」
「……何やってんだ、あいつは。俺たちが来るの知ってるのに」
俺が溜め息をつくと、母はなだめるようにして言う。
「……沙織も忙しいのに、世話かけちゃって悪いと思ってるわ」
「最近疲れてるように見えるからな」
「だからかしら? 夕食を作ってあげたんでしょ?」
「……そうだな」
「喜んでたわよ、沙織」
母は俺と弥生の方を見て言った。
「そりゃよかった」
弥生は何も言わず、ただ黙って頷いた。
薫の方を見やると、無言のまま俺たちの会話を聞いているようだった。
「どうした、静かだな」
「病院では静かにするものだろ」
要領を得ない薫の回答は、何かを隠しているようにも思える。
「私に遠慮しないでいいのよ」
母が言った。
「……すみません」
バツが悪そうに薫が頭を下げる。
「なんでそんなに静かなんだ?」
「雰囲気が、ね」
薫は正直にそう言うと、苦笑いしてみせた。母の蒼い顔を見れば、さすがの彼も気分が滅入るのは分かる。
「お母さんも、無理しないでくれ」
「調子悪いこと、分かった?」
「……丸分かりだから」
気丈にも笑ってみせる母の姿は痛々しい。
「せっかくお見舞いに来てくれても、今にも死にそうなんじゃね」
今にも死にそう――。そんな言葉が母の口から飛び出ると、嫌な汗が皮膚を伝うかのように、背筋が寒くなる。
「……怖くはないんですか?」
突然、弥生が聞いた。俺は耳を疑った。
「おい、時と場合を考えろ! そんな質問するなよ」
出来るだけ強く、周りに響かないよう小声で諫める。
下手に母を刺激して欲しくはなかった。死の恐怖に震える母親など見たくない。
「いいのよ、聞きたいのよね」
弥生は頷いた。弥生は母親に明らかに興味を抱いていた。
「本当は怖いけどね――」
「……お母さん、やめてくれよ」
自分の声が震えているのが分かった。これは、俺が知ってはいけないことだ。お母さんの今抱いている感情は、お母さんの、お母さんだけのものであるべきだ。
「話を聞いてくれる人も沙織しかいなくて退屈なのよ。看護師さんは忙しそうだし」
「だからって、そんなこと話さなくていいだろ」
――俺は知っている。母が一度言い出したらきかない性格の持ち主だってことを。
ただでさえ弥生のことを気に入っている彼女のことだから、一度話し出してしまえば止まらないだろう。
……いや、もう止まらないか。
「いいじゃない。まあ、聞いてよ」
そう言って母は話を続けた。
「本当は怖いわ。夫と助と沙織のこともあるしね」
俺は覚悟を決め、話が終わるまで一切口を開くものかと唇を固く結んだ。
弥生は頷きながら母の話に耳を傾け、薫は真剣な面持ちを崩さないまま、時折俺の方を窺ってくる。
「私が居なくなったら、きっと沙織は――」
母が初めて不安の色を見せた。
俺は黙ったまま、母を見つめて力強く頷いた。任せろ、と。
「そうね」
今にも消えてしまいそうな笑みを貼り付けた顔を弥生の方に戻して、母は話し続ける。
「未練があるわ。たくさん」
「……未練」
弥生が小さく繰り返した。
「やりたいことはいくらでもあるし、何より、私が死んだ後の世界を見られないのは大きな未練よ。私の世界はそこで終わり」
弥生は何も言わなかった。それでも、俺には分かった。
今のセリフには、弥生の置かれている状況と通じるところがある。このままの状態では弥生の世界は、二月二十八日で完結するのだ。
「だからね、少し羨ましい。まだ生き続けられる人が」
硬い表情の弥生が思っているのは、恐らくこういうことだ。
――二月二十八日で終わらない世界を見たい。
「もちろん、助や沙織と居られなくなるのもかなりの未練だけど」
不意打ちのように、突然俺のことを未練だと口にする。
――やめてくれよ。
「やっぱり、もうちょっと長生きしたかったわ」
そんな風に言われたら、諦めきれなくなるだろ。素直に送ってやれなくなるだろ、お母さん。
俺の母は、俺が死ぬまで俺の未練であり続ける気なのか。
「……生きていても、未練はあります」
「生きている限りは、諦めなければそのうち何とかなることもあるわ」
今弥生の置かれている状況を知らないはずの母親は、随分と的を射たことを言う。
母が一言、弥生に話をしていく度に、彼女の顔がますます蒼くなっていくような気がした。
「まあ、でもいいのよ。心の整理はついてるの」
柔らかな表情で言う母を見て思う。
――なんで俺の母さんが死ななきゃならないんだ、くそったれ。
不安と恐怖に脳を直につつかれているような頭痛がして、頭を押さえた。
「助、どうした?」
「いや、ちょっと頭が痛いだけ」
心配そうな表情の薫に言ってみせるが、疼痛は収まりそうにない。
どうにか普段どおり振舞おうとするが、頭の中で響く痛みが邪魔をする。
「……本当に大丈夫か?」
「――悪い、先に帰る」
言うや否や俺は立ち上がった。
「大丈夫なの?」
ベッドの上の母が、俺のことを心配している。俺が心配しなければならない母が、俺のことを気にかけている。
「寝れば治るよ」
「体に気を付けるのよ」
母の言葉は皮肉にも聞こえた。
「ああ」
俺は手を振ると、素っ気なく病室を後にした。
さっきまでの母と弥生の会話を思い出すと、頭が痛んだ。気分が悪い。
「――体に気を付けろ、だって」
泣きたくなった。
エレベーターを出て、一階のロビーを抜ける時、外から帰ってきた沙織の姿が見えた。外の寒さのせいか、鼻の頭を赤くしているが、その赤さが顔の青白さと妙なコントラストを作り出していた。手に提げているビニール袋には、何やら母のための品が入っているに違いない。
声をかけようか――。
いや、頭痛が酷い。早く帰ろう。
大きなガラス張りのドアの向こう側へ出ればそこはかなりの寒さだろう。それでも、家に帰って眠りたかった。
俺まで病んでしまいそうだ、と思った。