私と彼女の間にはひとつの共通点がある。
それは、「囚われている」ということだ。
私はこの二月の中に延々と囚われつづけ、そして彼女――沙織さんの母親は、病にその命を絡めとられ、入院を余儀なくされ、ベッドの上に縛りつけられている。
死の影は人を怯えさせる。怯えさせて、生きる気力を削ぎ落していく。「死」が、その人を「死」そのものへと誘っていく。
だが、その逆に私は永遠の生に怯えた。だから、死んで何もかも終わらせようと思っていた。それも叶わないと知って久しいが、私はまだ死ぬことを諦めてはいなかった。
そんな私の前に現れた高宮助――そして、その育ての親である金沢京子。
一度、見舞いに連れてこられてから、私は彼女の居る病室へと通うようになった。そして、彼女の話を何度も聞いた。
「ここまで来たら、生きていても死んでいても変わらないわよ」
現世の向こう側に何を見ているのか、京子さんは私よりも上の視点から語る。
「ずっとここで寝ているだけだもの」
ずっとここで生きているだけだもの――心の中で呟きはしたものの、彼女に自分の境遇を話す気にはなれなかった。
「そうかも……しれませんね」
もはや彼女には安っぽい励ましなど必要ないだろう。
「あの人たちなら、きっと私がいなくてもうまくやっていくだろうし」
彼女は恐らく、夫をはじめとした家族たちのことを言っている。
「旦那さんのとは会ったことがないので分かりませんが、とにかくあの二人はいい姉弟ですよ」
「親バカかもしれないけれど、本当にそう思うわ」
「他人の目から見てもその通りです」
私は大げさに頷いて、病室の扉に目をやった。そうすれば、もしかしたらその二人がやってくるかもしれないと、どこかで期待していたのかもしれない。
「姉弟、か――……いっそのこと、二人が一緒になってくれればもっと安心できるのに」
京子さんは、そうはなりそうもないわね、とゆっくり首を振った。
「あなたでもいいのよ? 助と気が合いそうで」
「さあ、知りあったばかりですから」
そう言ってはぐらかしたが、私が助くんに恩義を感じていることだけは間違いなかった。
「沙織さんには敵わないでしょう」
「姉弟と勝負する必要はないわよ?」
私は口を閉ざしたまま、大げさにかぶりを振った。
「……そうね、こういう話は無理にするものでもないし、っと」
楽しそうに言いながら、京子さんは起き上がった。
「何より、あなたたちは、まだ、若いし――っ、もう」
どうやら傍らの机の上に置いてあるペットボトルのお茶を取ろうとしているが、届かないようだ。
私が代わりに取って手渡すと、ごめんね、と彼女は頭を下げた。
「ダメですよ、無理しちゃ」
「はいはい」
分かっているのかいないのか、彼女はペットボトルのふたを開けた。
「昔は、沙織や助なんかが風邪で寝込むと、私が看病してあげてたのに――」
彼女はペットボトルの置いてあった場所の隣にあるバスケットに目をやった。中に入っているのは、沙織さんや助くんがここを訪れるたびに持ってくる果物だ。
ほんの一口だけお茶を飲んで、ボトルのふたを閉める。
「案外、そんなものなんですよ。きっと……」
私はバスケットの中のリンゴを手に取った。
「剥きますか?」
「皮は剥かない方が好きかな」
私は傍らの果物ナイフを手に取って、ティッシュで拭った。
皮を剥かないままリンゴを食べやすくカットして、彼女に手渡した。
「……平和ね」
赤い皮が付いたままのリンゴを一切れ受け取りながら、京子さんは呟いた。
「ウソみたいに平和ね」
「……ウソみたいな落ち着き様ですね」
私もリンゴを一切れだけつまんでかじった。温室産のリンゴは真冬でも甘い。
「無理しなくても、沙織さんたちなら……」
「余計な心配はかけたくないの」
「死ぬのが嫌で嫌でたまらないのが、私にはバレバレです」
彼女はシャクシャクと小気味のいい音を立てつつ、リンゴを食べていく。
「弥生ちゃんになら、赤の他人だから遠慮なく迷惑掛けて、そしてそのまま掛けっ放しにしちゃえるでしょ?」
「いい迷惑ですよ」
本心ではなかった。それは彼女も同じことだ。
「どうですか、せめて居なくなる前に、家族に本音を教えてあげるのは」
「よしてよ、いいわよ」
「後悔しますよ? きっと」
「……後悔できるなら、してみたいものね」
私の言葉を痛烈に皮肉って、彼女はなおも笑っている。
「この期に及んで死にたくないだなんて、あの子たちに教えて何になるの?」
「さあ、私には分かりません。何になるのか、私が見てみたいだけです」
「無責任ね」
「――赤の他人ですから」
そう言って、今度は私が笑った。
「……ふふ」
彼女も笑みを漏らし、こう言った。
「分かった。考えておくわ」
今月に入ってから、何度も訪れた病室。
そこにいたはずの彼女は今、集中治療室の中で闘っている。
そこに、父親に京子さんが倒れたことを伝えるため、電話しに行っていた沙織さんが戻ってきた。
「……弥生ちゃん、帰ってもいいのに」
「付き合うわ」
沙織さんの気遣いも、私には無用のものだった。
「お父様は?」
「東北からじゃ、どうにも……」
彼のタイミングの悪すぎる出張が、京子さん自身の入院費を稼ぐためのものだと考えると胸が痛くなった。
逆隣の助くんに目をやると、落ち着かない様子で親指の爪を噛んでいる。
私の視線に気が付いたのか、彼はバツが悪そうに親指を口から離した。
「……本当に帰ってくれてもいいんだぞ」
私は首を横に振った。
「どうしてだ……? 好奇心か?」
沙織さんに聞こえないようにか、彼の声はほとんど呼吸の音と変わりなかった。
「私だって、もう他人じゃないのよ」
好奇心から「死ぬのが怖くないのか」などと尋ねた自分が恥ずかしかった。
助くんは意外そうな顔をして、そうか、と呟いたきり、何も言わなかった。
「金沢京子さんのご家族の方でしょうか」
永遠にも感じられた数時間の後、中から担当医らしき男性が出てきた。
沙織さんが立ち上がって少し話をした後に、私たちは集中治療室の中へと通された。
「非常に危険な状態です」
まるで医療ドラマが目の前で再生されているような光景に、非現実感を覚える。モニターに映された心拍を表す緑色の波形は、今にも途絶えそうなほど儚いものに思える。
「お母さん……」
力なく母親を呼ぶ沙織さんの肩には、助くんの手が置かれている。
彼は何を言おうか散々迷った挙句に、沈黙を守ることに決めたようだった。沙織さんは膝を折って屈むと、京子さんの手を取り、強く握りしめていた。
呼吸器をかぶせられた蒼白な顔を、そこから少し離れたところで眺めていると、自分の体の感覚が足元からなくなっていくような気がした。
「最後に、本音を聞かせてください」
誰にも聞こえないように、小さく呟いてみる。規則正しい電子音だけが響き、空しいだけだった。
どうですか、真っ暗ですか?
どんな感じですか? やっぱり怖い? それとも、何もかもから解き放たれて幸せになれるのですか?
――教えてください。
そうすれば、私は生きていけるような気がします。