Neetel Inside 文芸新都
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永遠の如月
2/19 : 悪い癖

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 俺の住むこの部屋は隙間風こそ入ってこないものの、外の寒気が薄い壁を浸透してくるようにして室温を下げてしまう。俺と弥生の二人は、小さな電気ストーブの前でほとんど顔を突き合わせるようにして向かい合っている。
「あなたのお母さんとは、二人きりでいろいろ話したわ」
 弥生が寒さで色の薄くなった唇を動かした。
「……そうみたいだな」
「相談して、相談されて――余計なことも言ってしまったかもしれない……たまに言わなくてもいいことが口をついて出る、それが私の悪癖なのかもしれないけれど――あの人の、死ぬということについての考え方に触れた……というか、無理やり触れさせてもらったようなものね」
 俺はただ黙って、弥生が核心を突くのを待っていた。それは俺にとってショッキングな内容かもしれないし、喜ばしいことである可能性もある。
「……最期に『死にたくない』って正直に言うように勧めたのは、私なの」
「そんな気がしてたよ。今までずっとそんな素振りを見せなかったお母さんが、今際の際になっていきなりあんなことを言い出すなんて、おかしいぜ……」
 ここのところ掃除機をかけていない、ざらついたフローリングに目を落としたまま、弥生は言葉を口から零すように喋る。
「でもそのおかげで、私はあなたのお母さんが本当に生きたがっていたって納得したわ……死ぬのが怖くて仕方ないってことも」
 弥生はここで言葉を切ったが、俺は何も言わないでいた。そうすることで、弥生が俺に真に伝えたいことを引き出せそうな気がしたからだ。
 電気ストーブの赤い灯が、周りの空気を熱で歪ませる。脛のあたりが熱くなって、俺はあぐらをかいていた脚をもぞりと組み換えた。
「あの人は、本当に助くんや沙織さんと別れたくないって最期まで思ってたのよ。自分の命よりも、自分が居なくなった後の沙織さんのことを心配するくらい」
 こんな話を聞かされるのは辛くもあったが、ハルカに対して犯してしまった過ちを、弥生相手にも繰り返すわけにはいかなかった。
 そもそも、俺は弥生に感謝すべきなんだ。弥生がいなければ、お母さんは最後まで胸の内を明かさぬまま、文字通り秘密を墓場まで持っていくことになっていた。弥生のおかげで、俺たちはお母さんの本当の遺志を聞くことができた。
「そんな話を聞かせてもらって、それで最期に立ち会ってみてわかったの」
 ずっと床の溝を追うように視線を落としていた弥生が、顔を上げて俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
 その顔を見て、俺は、目の前にいるこいつも母親の死を悼んでくれた一人だということをはっきりと感じ取った。
 ――わずかに悲しみを内包しながらも、凛とした表情がこちらを向いている。
「生きてループの外に出てみたい」
 今まで弥生が俺に対して放ったどんなセリフよりも芯の通った主張。
 ――俺の母親が、こいつを変えてしまった。
 十七年間と等しい、終わらない一ヶ月を享受してきた弥生に「外に出る」ことを決意させたのだ。
「――そんなことはわかってたよ」
 わかりきったことだ。しかしそれは、一番弥生の口から直接聞きたかった言葉だ。
「まったく、言わなくてもいいことを言っちまうのが、お前の悪い癖だな」
 それには弥生は何も言い返さず、ただ優しく笑っていた。
「ずっとハルカくらいしか、特定の話し相手も友達も居なくて……、助くんと会って、皆と会って、『なんだか、今回は今までと違う』って思って……」
 弥生は、一転弱々しく、こうも言った。
「……それで、もし――もし、私がここから抜け出すことができたら――」
 俺に縋るかのような眼差しを送る瞳の中に、ストーブの赤い光と俺の顔が投影されている。
「助くんも、薫ちゃんも沙織さんも皆、また私と一緒に居てくれる……?」
 ――寂しがりな年頃の女の子の姿がそこにあった。
「――本気か?」
「ええ」
 頷く弥生の顔は、普段の勝ち気なものに戻っていた。
「本気なんだな……」
 弥生が半ば諦め、達観していた当初の様子を思い浮かべた。凄まじい変わりようだった。きっと、俺たちはきっかけを作ってやっただけなのだ。弥生は潜在的に、ずっとループから抜け出すことを望んでいた。考えてみれば当たり前のことだ。絶望のあまり抑圧されていた願望が今、解放されている。
「……わかった。何とかする」
 無責任に聞こえようが構わない。俺はすっかり、弥生の決意にあてられていた。
「いいの? 一度引き受けたら、必ず守ってもらうわよ」
「ああ」
 そうと決まれば、やらなくちゃならないことがある。
「弥生、話してくれてありがとな」
「どうして? お礼を言われるとは思いもしなかったわ」
「……いや……まあ、とにかく、今日は帰った方がいい。俺もやりたいことがあるんだ」
 そう言って、俺は立ち上がった。釣られるように弥生も倣った。

 外に出るために再び着込む弥生の背中をボーっと見つめていた俺は、弥生が振り返るのと同時に我に返った。
「失礼するわ」
 弥生はドアに手をかけて、外に出て行こうとしていた。
「じゃあな」
 俺が別れの言葉を投げると、弥生は外を見たまま静止し、そして言った。
「助くん」
「……どうした、まだ何かあるのか」
「ん、言わないと後悔するかもしれないと思って」
 どういうわけか、俺の心拍数は大きく上がっている。
「今言うべきじゃないかもしれないし、余計なことかもしれない」
 弥生は大きく息を吸い込んだ。
「私、きっと助くんのことが好きだから――」
 ――俺はたぶん、何か言おうとしたんだろう。でも、言いたいことは声にならなかった。
「言わなくてもよかったかもしれないわ……でも、これは私の悪い癖だから……」
 そう言って、照れたようにはにかむ。
 ……最近よく笑うようになったその顔は、すぐに外を向きなおしてしまった。
「――二月が終わるまでに、考えておいて」
 弥生の言葉は白い靄となり、数瞬だけ凍てつく空気の中に残って消えた。
 そして、本人の姿も外へと消えていた。
 何故? まだ会ってひと月も経っていないのに――。
 あいつの父親を危機的な状況から救ったからなのか……、もしかして、からかっているだけなのかもしれない。
 しかし、何にせよ、こうしてあれこれ理由を考えてしまうのは野暮なんだろう――。
 暫し固まった後、我に返る。
 俺は今一度、弥生の言葉を思い返した。

「ループの外に出たい」

 俺のことが好き云々の件は、今は保留にしておくとしても。
 ――この願いだけは、どうにかして叶えてやろうじゃないか。
「ハルカ」
 誰もいないはずの部屋に向かって、俺は呼びかける。
「どうせいるんだろ、ハルカ」
 お前の力が必要だ。
「出てきてくれよ……ハル」
「何度も呼ばなくても、もう来てるって」
 瞬く間――これはそのまま、瞬き一回の間という意味だが――に、ハルカが俺の部屋の中に立っていた。
「聞いてたな?」
 ハルカは何も答えない。
「聞いてたんだな、なら力を貸してくれるだろ? 正直、あれだけ言っておいて、お前がいないと俺は何もできないんだ」
「……今すぐには無理よ」
「どうにか、抜け道を調べて欲しい。調べるだけでいい」
 必死に頼み込む。ただ熱意をぶつけるだけ、情に訴えるだけの依頼だった。
「……二三日はかかるし、あまり期待しないでね?」
「さすがだ」
 こいつは弥生のためなら必ず動く。そんな俺の予想の通り、渋々ハルカは承諾した。

 時計の短針は十二を指そうとしていた。二月も三分の二以上が終わっている。
 ――二十日目がやってくる。

       

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