子供の頃、凍える朝に目を覚まし、窓から外を窺って、外が一面真っ白になっていたとき、俺はどうしようもなくわくわくした覚えがある。子供心は雪に惹かれて当たり前なのだ。
「こりゃ、沙織の家まで行くのも大変だな……」
自室で覚醒して、尋常でない寒さにもしやと思って表を覗いた。朝も早いせいで、まだ足跡のない、純白を保ったままの絨毯が広がっている。
雪に憧れなくなったのは、大人になった証なのか。果たしてこれは成長か、それとも何かを失ってしまったのか。
いらぬ感傷に浸っていると、ふと、冬以外の季節を失ってしまった知り合いのことを思い出した。
そいつのことでハルカに頼みごとをした後、俺はいつの間にか眠りに落ちてしまったらしい。例え乗り気でなかったとしても、弥生のことに関してこれほど頼りになる人物はいないだろう。
そう思うと少しだけ気が楽になった俺は、もう一度銀白色の通りを眺める。
――誰も踏み込んでいない真っ白な領域に、最初に足跡をつけてみたい。
唐突に、くだらなくて子供じみた衝動が湧き上がる。気がつけば俺は、必要以上に急いで出かける支度を始めていた。
肌を痺れさせるような冷気は、大通りの排気ガスと混ざって濁る。人と車の往来で、せっかくの純白は黒く汚れてしまう。
幼い楽しみに浸れるのも、真っ白な住宅街の通りの上だけだった。俺は通い慣れた道を滑らないように注意しながらゆっくり歩き、金沢家へと向かった。
合鍵を使って玄関の扉を開いても、俺を迎え入れてくれる声はしない。昔は必ず「おかえり」――そう、「いらっしゃい」でなく「おかえり」と出迎えてくれる人が居た。
日が沈むころ、大して重くもない学生カバンを提げながら帰宅を告げると、作りかけの夕食のいい匂いが鼻を掠めるのと同時に、台所の方から「おかえり」とか、「今日は遅かったわね」、とか、たまに沙織と二人一緒になって帰ってくれば「あら、今日は二人とも一緒だったの?」なんて声をかけてもらったことが思い出される。
今や物音一つしない、父と娘二人で暮らしていくには若干広すぎる家の中の寒々しい廊下を通り抜けて、物置部屋に荷物を置くと、俺はすぐに沙織の部屋へと向かった。
沙織を驚かせてしまわないように、優しく木製の扉をノックした。
「さお、俺だ。入ってもいいか?」
一瞬の空白の後、開いてる、とくぐもった声が聞こえる。
静かにドアを開けると、自室のベッドの上に寂しげに座り込んでいた沙織がこちらを見上げる。
顔を合わせて、最初に口をついて出たのは謝罪の言葉だ。
「悪いな、帰ってくるつもりだったんだけど……少しボーっとしてたらそのまま寝ちまったんだ」
「助も疲れてたんでしょ、しょうがないよ」
不安はなかった。
あの時、手を握ってやったから。ただそれだけのことだったが、明らかに前回とは沙織の憔悴の加減が違っていたからだ。前に母親が血を吐くところを目の当たりにしたときは、沙織は口も利けない状態にまで陥った。そのままの沙織を放っておいたとしたら、沙織はまた消耗し、沈みこみ、周りが見えなくなる。
――それこそ、突っ込んでくるトラックにさえ気付かないほどに。
「いや、一緒に居てやろうと思ったんだけどな……」
「大丈夫、大丈夫」
沙織は気丈に笑ってみせる。目尻同様に赤くなった目までは笑い切れない、口角を釣りあげるだけの笑いでも、当面俺を安心させるには充分だった。
「無理するなよ」
「……いつまでも、悲しんでばかりいられないし」
沙織は、ぐしぐしと音がしそうなほど強く目を擦り、そして声を上げた。
「――あっ」
「どうした?」
「コンタクトがズレちゃった」
沙織は瞬きを何度も繰り返しながら、不快そうに顔をしかめる。
「バカ、早く直してこい」
「ん」
ベッドから立ち上がって、沙織は俺の横を通り抜け、洗面所へと向かった。
目の周りが濡れていたのはズレたコンタクトのせいか、それとも――。
「……いつまでも悲しんではいられない、か」
悲劇に遭った人間がよく吐くセリフだ。だからと言って、バカにはできないセリフでもある。
彼らはそう言って振り払わなければやっていけないのだから。
俺たちは何をするでもなく、憂鬱な一日を過ごした。
俺は何度か窓から外に積もった雪に目をやったが、その回数を重ねる度に雪は氷の塊に近づき、汚れ、より固く、より黒くなっていくのが見て取れた。
暖房を効かせすぎたのか、喉が渇いた俺は、我が家のもののように冷蔵庫を開けた。緑茶の入ったペットボトルを右手でつかんだとき、チルド室から淡い水色の細長いものがはみ出しているのに気がついた。
どうしてか、その色合いに強烈な既視感を覚えた俺は、チルド室の引き出しを手前へと引く。
「……もう一週間経つんだぞ……」
見なかったことにしておきたい、ウィンナーやらハムやらと一緒にしておくにはもったいなさすぎる代物が、そこにはあった。
「買い物に行ってくるね」
冷蔵庫の中身に釘付けになっている俺に、廊下から沙織の声がかかる。俺は慌てて扉を閉めた。
分厚い雲が冬の太陽を完全に覆い隠しているせいでわかりづらいが、もう日没も近い時間だ。
「夕飯か?」
俺は廊下の方を振り返り、沙織の姿を目で追うが、声はすれども姿はなかった。
「うん」
言いながら、沙織の足音は玄関へと向かっていった。
「……出前でもとりゃいいだろ? 無理して作ることもない」
「ううん、作る」
俺が玄関に出ていくと、沙織はスニーカーを下駄箱から引っ張り出すところだった。すでに玄関に置いてあるブーツで雪上を歩くのは若干心許ない。
「疲れてないのか?」
「うん、まあ」
肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をしながら、沙織はスニーカーの紐を結ぶ。
何でもいいからやることがあった方が落ち着くのだろう。ただ、沙織を一人で出かけさせるのは不安だった。
「俺も行くよ。やることないし」
「……うん、じゃ待ってる」
通行人たちに一日中踏まれ続けた雪は半透明の氷へと姿を変え、アイスバーンを形成している。そのせいで歩道はますます歩きづらいものになっていた。
沙織を待たせないようにと、コートでなく羽織りやすいジャケットを身につけて出てきたことが後悔されるほどの寒さに、俺は身を縮こまらせながら沙織の隣を歩いた。
俺のそんな様子を呆れた目で見ながら沙織が言う。
「そんな薄着で出かけてきて、また風邪ひいても知らないよ?」
「まあ、今度はわざわざ来てもらわなくても看病してもらえるからな……」
俺の隣の呆れた横顔から、少しだけ笑いが漏れた。
二人きりの夕食。俺たちは食卓の空席を意識しないよう、バカみたいに喋り続けた。落ち着いたらバイトに戻らなくちゃいけないとか、また薫を家に呼ぼうかとか、他愛もない話ばかり、いくらでもできるような気がした。
「それなら、弥生ちゃんも呼べばいいじゃない」
凄まじい速さで移り変わる会話の流れの中で、弥生の名前が出た。すると、俺の胃が嫌な揺れ方をした。
――告白された実感が湧かない。
弥生に思いを打ち明けられたことを沙織に話して、どうするべきか相談しようかとも思った。今さら、自分の色恋沙汰について意見を仰ぐのが躊躇われるような仲じゃない。沙織ならいい相談相手になってくれそうではある。
でも、俺には相談できない理由がある。
なんだか、いつもと雰囲気が違うことだけはわかっていた。沙織の様子はいやによそよそしいし、真剣な目でチョコレートの包装に手をかけた俺を見つめている。
俺が事故に遭う前、死ぬ直前のバレンタイン。その記憶が蘇る。普段は暖色系の包装がされたビターの義理チョコをよこす沙織が、その時だけは、水色のリボンのかかった少々俺には甘すぎるチョコレートを差し出してきた。
一ヶ月前の俺は答えを保留にした。兄妹のようにしか見ていなかった、あまりにも近すぎる関係は俺を戸惑わせるだけだったのだ。
そして、俺が答えを出さないまま、お母さんは亡くなった。その後のごたごたのせいで、沙織の告白の件はうやむやになったままだった。
おこがましい言い方になるが、本当はまたバレンタインに「告白してもらう予定」だった。しかし、はっきりとした理由はわからないが、恐らくは今回の俺が風邪をひいてしまっていたせいでそれもなくなった。
沙織の本当の気持ちを知っている今の俺には、彼女に恋の話をする勇気なんてない。今の沙織にショックを与えたくない上に、なんだか重大なルールを犯しているような気がするからだ。
俺だけが、沙織の気持ちを知っている。沙織は俺の気持ちを知らない。それどころか、並行世界で自分が俺に告白したことさえ覚えていない。
――でも俺は知ってしまっている。忘れることはできない。
人間の記憶も電気信号でできているというのならば、どうして電子機器のデータのように都合よく削除してしまえないのだろうか。
沙織が弥生の話を出してから、俺の頭から昨日の弥生の表情がこびりついて離れなくなってしまった。その映像は、夕食を終えてから食器を洗っていても、風呂に入っていても消えることがない。脳細胞の一部でテナントを募集してしまったかのように、そこだけ別領域になって、占められている。
そんな俺に、夜も遅くなってから沙織がこう言ったのだ。
「……一緒に寝てくれないかな?」
上目遣い、昼間の気丈な仮面は剥がれ落ちていた。寂しさだけが浮かぶ弱々しい表情。やはり、強がってはいたが、昨日の夜も寂しくて仕方なかったのだろう。俺は頷く他なかった。
「ああ、今、布団持っていくから――」
「……いらない」
――私のベッドで、一緒に寝てほしいの。
甘えるような呟きが、確かに俺の鼓膜を震わせる。抗えない。いつもの沙織とは明らかに異質な様子だ。
沙織の部屋に足を踏み入れるその瞬間、耳元で弥生の声が聞こえた。
『私、きっと助くんのことが好きだから――』
――何事もなく眠れそうにはない。
俺の直感が、そう告げていた。