「――と言うわけでだ。今晩は俺が飯作るからさ、三人で食おう」
「どういうわけなのか、さっぱりなんだけど……」
沙織との玄関先でのやり取り。
弥生を引き連れて金沢家に戻ってきた俺は、事情を説明せずに沙織に告げた。
「弥生がお前と仲良くなりたいんだとさ、仲良く」
「ちょっと助くん、私はそんなこと――」
「いいから、とにかくあがれよ」
俺は強引に弥生の背中を押す。納得できないという表情のまま、弥生はブーツを脱いで丁寧に揃え、広い玄関の隅に置いた。
今はとにかく、弥生に俺たちと過ごす時間を与えたかった。一人にさせたくなかった。
「お、お邪魔します……」
「なんだかよくわからないけど、いらっしゃい」
沙織は笑って弥生を迎え入れる。元々賑やかなのは嫌いでない性格だから、夕食の席に一人増えるのは逆に喜ばしく思っているだろう。
「お前もずっと家事とかで働き詰めだろ? だから少し休んどけよ」
「助が優しいときは何か裏がある――弥生ちゃん、覚えときな」
沙織は真顔でそう弥生にそう言うと、今度は俺に向き直った。
「助、お茶入れて。棚を探せば何かしらお菓子もあるからそれも」
「……はいはい」
「弥生ちゃんはこっち」
「え、ええ」
沙織が戸惑う弥生の背中を押す。休めと言った手前断ることもできず、俺は二人がリビングへ向かうのを横目に見つつ、沙織の言うがままに台所へと向かった。
主を失った台所は、その娘のおかげで清潔さを保っている。
刹那、コンロの前に彼女が今も立っているような気がして切なくなった。自分では心の整理がついているつもりでも、ふとした瞬間に喪失感が形となって目の前に現れる。
五秒、十秒と、かつて彼女が立っていた場所を見つめた後、網膜に焼きついた残像を振り払うかのように、俺は冷蔵庫を開けて中身を確認した。
「んー……こりゃ、買い出しだな」
何も作れないほど冷蔵庫の中身が少ないわけではない。ただ、俺の場合は作れる献立が一種類しかないため、極端な話、人参が一本ないだけで何も作れなくなる。
さすがに、これからは他にもレパートリーを増やした方がいいだろう。今日のところはクリームシチューで妥協することにして、俺は野菜室の扉を閉めた。
緑茶に適当なお茶請けを添えて二人の元に運んで行くと、弥生は改まって沙織にこんなことを話していた。
「おばさまのことは、本当に……お悔やみ申し上げるわ」
俺は黙ったまま二人の間のテーブルに湯のみを置いて、自分は二人から少し離れ、三人がけのソファーに一人で腰を下ろした。
「うん……まあちょっと元気なくしてたけど、なんとか」
沙織の気丈な声が聞こえる。
「……なら、よかったわ」
「助もここにいてくれるって言ってるしね――……ちょっと助、そんなとこにいないでこっちに来なよ」
「いや、俺はここでいいよ」
俺は余計な口を挟まず、二人の会話を聞いていたい気分だった。
それに、二脚ずつ向かい合うように並べられた四脚の椅子――互いに対面に座る二人のうち、どちらの隣に入ればいいのか判断に困ったというのもある。
「助が弥生ちゃん連れて来たんでしょうが」
「まあ、そうだけどな……とにかく俺はここでいいよ」
何を今さら恥ずかしがっているのか。自分でもおかしく思ったが、それも仕方がない。
沙織は諦めて、弥生と話をすることに決めたようだ。
――ああ、なんだか眠い。
ゆっくりとまぶたを閉じて、二人が他愛もない話をする傍ら、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。
どれくらい経っただろうか。
沙織と弥生の話し声がする。意識が覚醒してきて、耳から二人の声を拾い始めた。
まぶたを開けて、ぼんやりと時計を見る。
日も傾き、買い物に出るにはいい時間だ。
「やっと起きた」
「よく寝てたわね」
「……ああ」
重たい頭を振り、伸びをする。
そして俺は立ち上がり、こう提案した。
「夕飯の買い出し行ってくるけど、一緒に行こうか」
二人とも頷いて、立ち上がった。
夕方のスーパーは活気に溢れている。食品フロアを回っている客の多くは主婦たちで、俺くらいの年の男はあまり見かけない。それでも、彼女らと同じように、俺も今晩のメニューのことを考えながらカートを押す。
「なあ」
シチュー用のジャガイモを品定めする沙織に話しかける。カートの番を任された俺は、さすがに手持ち無沙汰だった。
「俺が寝てる間、二人で何の話をしてたんだ?」
「んー?」
これは芽が伸びすぎてる、これはえぐれてる、などと呟きながら、沙織は生返事をする。
「いろいろ」
「そりゃ、いろいろだろうよ……」
要領を得ない答えに、俺は満足しない。
「なあ、弥生、何話してたんだ?」
「いろいろよ」
愉快そうに笑いながら、弥生が答えた。
「そりゃまあ、いろいろだろうな……」
まともな答えが返ってこないとわかり、俺はこの話題を諦めた。
「ねえ、助」
ジャガイモを買い物かごに放り込みながら、今度は沙織が言った。
「なんだよ」
「これって、やっぱりシチューに使うの?」
「悪いけど、俺はそれしか作れないっての」
「……そう」
どことなく憂いを帯びた沙織の表情に、不安が生まれる。
「嫌か? あんまりうまくなかったか」
「ううん、この前作ってもらったのもおいしかった」
そう言って、沙織は笑う。
「――助くん、これでいいの?」
ホワイトソースに使う牛乳を調達しに行っていた弥生が戻ってきた。
「ああ、別にどの銘柄でも構わないしな」
「他には?」
尋ねられて、俺は買い物かごの中身を確認する。野菜類はすべて揃っているし、鶏肉は冷蔵庫の中に十分あったはずだ。
「これでいい」
「じゃあ、行きましょう」
そう言ってレジへ向かう二人の後を、カートを押しながらついていく。
主婦じみた思考をする自分自身が滑稽に思えて、俺は苦笑いした。
「包丁はこう、指を揃えて添えて使うんだ」
父さんは、背中越しに俺の手をとって、正しい包丁の使い方を教えてくれていた。
「こう?」
「そうだ、うまいぞ」
初めて握るその鋭利な刃が怖くて、俺は恐る恐る力を込める。手前に引かず、真下に力を込めるせいでスムーズにはいかず、時々包丁とまな板が強くぶつかって危なげな音を立てた。
「違うんだ、こう、手前に引くように――」
息子に料理を教えるのが楽しいのか、父さんは笑いながら間違いを優しく正した。
外は寒かったが、家の中は暖房が効いて暖かい。腕の中に抱かれる温もりと、いつしか鍋から沸き上がる湯気の熱は、幸福感をことさらに増幅させた。
「――お父さん、どうやってシチューを作れるようになったの?」
料理なんてほとんどできなかった父さんが、初めてまともに作ってくれた献立。
「それはな」
家で練習する素振りも見せなかった彼がどうやってシチューを習得したのかを尋ねると、父さんはいつも得意顔をするだけで、真実を教えてはくれなかった。
「――秘密だ」
記憶は淡いパステルカラーになりつつあるが、その自慢げな笑みは今もはっきりと覚えている。
「おいしそうね」
「そりゃどうも」
この前と同じように、ホワイトシチューを囲んで俺たち三人が座る。
「食べよう」
俺はスプーンをとって、自分が作った夕食に手をつけ始めた。
「いただきます」
続いて弥生も手を伸ばす。
自分の作った料理を誰かに食べてもらう瞬間というのは、実にドキドキする。
「おいしいわ」
そしてそれを褒めてもらう瞬間は、もっと胸が躍る。
「そうか、よかった」
照れ隠しに、自分もシチューを口へと運んだ。
「――どうした、沙織も食えよ」
まだ手を動かしていない沙織を促す。
「……うん」
「……どうした? 食欲ないのか」
ホワイトシチューを見つめたまま固まっている沙織は、やはり普段の様子と違う。
「そういうわけじゃないけど」
「なら、ほら」
俺がスプーンを手渡してやると、沙織は右手でそれを握った。
ゆっくりとした動作で、ようやく沙織がシチュー皿の中身をすくう。それを口元へと運び入れる。
「……おいしい」
その言葉に安心して、俺は食事を再開しようとした。
沙織が、二口、三口と俺の作ったホワイトシチューを味わう。
「おいしいなあ……」
……そして、一粒、二粒と、目から涙がこぼれおちていった。
「ど、どうした?」
俺が尋ね、弥生がどうしたことかと立ち上がった。
――やがて沙織は、スプーンを持った腕を止めてしまった。
「味がそっくりなの」
震える唇が言葉を紡ぐ。
「何に?」
「――お、お母さんのシチューと」
一瞬、沙織が何を言っているのか理解できなかった。
「ルーの味も、入ってる具も、切り方も、全部」
「どうして……」
「……わ、わからないけど」
袖で涙を拭い、しゃくりあげながら沙織が言う。
以前沙織にシチューを振る舞ったとき、シチューを口に含んだ沙織が少し考え込むようにして動きを止めていたことを思いだいた。
「これ、食べると……思いだしちゃって」
「わ、悪い」
まったく思い当たる節のないことだった。一体どうして、父さんに教わったシチューがお母さんのシチューとそっくりなのか。
どうすればいいかわからない俺は、何が悪いのかも知らないまま謝罪の言葉を口にしていた。
「食べられないなら、何か代わりに――」
「……いい、これ、食べさせて」
「けど――」
「……これ、好きなの」
俺と弥生は目を見合わせ、泣きながらシチューを食べる沙織を見ていることしかできなかった。
「どうしても、助にうまい手料理を食わせてやりたいんです」
助の父親が必死に頭を下げている。
「――いいお父さんですね」
「いえ、そんな……息子に料理のひとつも作ってやれない、ダメな親父ですよ」
悲しげな笑顔を浮かべて、彼は掃除の行き届いた金沢家のフローリングを見つめた。
「暖かいものがいいですね」
京子は微笑んだ。
「お父さんに作ってもらうんですから、きっと暖かいものの方がいいでしょう?」
「……教えて、いただけるんですか?」
「ええ、もちろん……何がいいですか?」
「それなら、家内が好きだった――ホワイトシチューがいいと思います」
「ホワイトシチュー、ですか」
京子はあごに指を当て、考える仕草をする。
「それならお父さんでも簡単に作れますよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
何度も何度も、彼は隣人に頭を下げる。
「そうですね……クリームシチューが『父親の味』になるように、助くんがうちに来てもシチューは出さないようにしましょう、ね。それに、私がお父さんに作り方を教えたという話も秘密にしましょう」
「秘密……」
「ええ、秘密です」
「ありがとうございます……」
いつからか、母親のいない一人息子に手料理を食べさせてやりたいと思うようになった。仕事で忙しいせいで、夕飯を一緒に食べることも多くはなかったが――それでも、彼は料理を作ってみたかった。
料理教室に通う時間もない。一からでは、自分一人で試すのも効率が悪い。
そんなとき持つべきものは、料理の得意で、人がよくて、息子と仲がいい隣人なのだ。
「できました」
教わりながら作ったシチューを、皿に盛って差し出す。
それをスプーンですくい、京子は味見をした。
「うん――これなら、助くんも喜びますよ、きっと」
お世辞などではない、心からの賛辞。
何より息子が喜ぶという言葉が、彼の心を昂ぶらせた。
「そうですか、よかった」
達成感があった。仕事で得られるものとは種類の違う、これまでの人生で経験したことのないような、温もりに溢れる達成感。
「助くんにも、おいしく作ってあげてくださいね」
「はい」
力強く頷く。京子の優しい教え方は、彼に自信を与えていた。
「それと――助くんにはちゃんと秘密にしてあげてくださいね」
「ええ、わかりました」
――助の舌は今でも、どこで習得したのかわからないその味を、鮮明に覚えている。