Neetel Inside 文芸新都
表紙

永遠の如月
最後の五日間、そして(沙織、薫)

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「遊びに行くぞ!」
 最近何かにつけて人の世話を焼きたがる幼馴染が、高らかに宣言した。
「いってらっしゃい」
 私は淹れたばかりの熱い緑茶をすすりながら、テレビの画面から目を離さずに言った。
「今すぐじゃない――何時だと思ってんだ」
 助はリビングの壁にかかった時計を指差した。二本の針は、あと半時間も立たないうちに真上を指して重なるだろう。
「じゃあ、いつ?」
 日付が変わる直前まで続くニュース。私はアナウンサーの口の動きを追ってはいたが、助が話しかけてくるせいで肝心の声を聞きとれていなかった。
「明日だよ、決まってるだろ?」
「いってらっしゃい」
 別に決まってもいないことを決まっていると言い切ったことに一切触れず、私はまたお茶をすする。
「沙織もだよ」
 ……もちろん、感づいてはいた。
「そう、いってらっしゃい」
「話を聞けよ」
 さすがにかわいそうなので、私はようやく助の方に向き直って尋ねた。
「誰と?」
「弥生と、薫もだ」
「ふーん……どこへ?」
「決めてない。弥生が発案者だから、あいつと相談して決めてくれ」
 誘っておいて、いい加減なものだ。
「まあ、行くけどね……」
「行くけど、何だよ」
 思わず語尾に不満の色が滲み出てしまい、それを助に追及される。
「その……ちょっと急すぎないかなって」
 別に、最大の不満の種はそんなことじゃない。急な誘いのことは、大して不満に思っているわけでもない。
 もっと大きな不安、疑問、悩みの種は、すでに私の心に植わって芽吹きつつある。
 そう、だよね……。
 ――二人きりで出かけたりなんか、しないよね。
「都合、悪いか?」
「ううん」
 私は何を期待しているのだろう。
 ここ数日、滑稽なほど「いつも通りの二人」をお互いに演じ続けているのに。
「まあ、急なのは認めるよ。でも――」
 お母さんが亡くなってからの疲れのせいか、なんとなく荒れている自分の手を見つめている私に、さっきまでとは打って変わって優しい声がかかる。
「弥生がもっとみんなと仲良くなりたいって……もちろんそんな恥ずかしいこと、直接口には出さないぜ? だけど、そう思ってるんだ。――叶えてやろう」
 考え事をしていて少しボーっとしていたのではっきりとは分からなかった――けれど、助の声が憂いや悲しみの色を帯びていたのは、気のせいではない気がした。



 翌日は寒かった。ここ数日、春の近さを感じさせる暖かさだったのに、その日は雪がちらついていた。
 例のごとく、私と助は分厚く着込んで集合場所へ向かう。
「結局、今日はどうするの? 買い物に行って、またご飯でも――」
 隣を歩く助に尋ねた。
「それだけじゃ味気ないからな……ちょっと遠出しようかと思ってる」
「遠出?」
 大通りに出る角を曲がった。
 しばらくは裸の街路樹に沿って真っ直ぐ行き、この街で一番大きな交差点を左に曲がる。
「……駅?」
 街の中心とも言える最寄りの駅。三路線が乗り入れ、駅ビルもある、この街の都会化の象徴のような存在だ。
「ああ、来た来た」
 改札口の前で、弥生ちゃんと一緒に待っていた薫がこちらに手を振っている。
「待たせたか」
 助が言ったが、弥生ちゃんが首を横に振った。
「そうか、よかった。それで、どこに行くかだけど――結構迷ったんだけどな――……温泉にしようかと思って」
「温泉?」
 助は自動券売機の上にある料金表のうち、十数駅先の位置を指した。
「知ってるだろ、あそこ」
 ここから山側へずっと向かっていったところにある温泉街。日帰りで行くのも問題ない距離で、近場なので私も一度か二度は行ったことがある。
「いいね、寒いしちょうどいい」
 薫が目を輝かせた。
「体を温めて、何かおいしいものでも食べて帰ろう」
 助の言葉に、私も弥生ちゃんも頷いた。

 車内は空いていた。平日の下り電車は、少ない客を乗せてゆっくりと進む。同じ車両に他の乗客がいないのをいいことに、私たちは周囲をはばかることなく他愛無い話をし続けた。
 私たちの街は遠ざかり、代わりに茶色とも灰色ともつかない、冬の山が迫ってくる。
 トンネルの中は、気温だけでなくその暗さも相まって、車内までも底冷えするような錯覚に陥った。
 どうしてだろうか。友人と電車に揺られ、和気藹々と遊びに向かう。
 楽しいはずなのに――本来なら、外が寒かろうが、トンネルが暗かろうが気にならないほど楽しいはずなのに――そんな些細なことが心を捉える。
 助は……助はどうなのだろう。
 どうしてか、助ならこんな気持ちを共有してくれていそうな気がして、助の様子を窺ってみた。
 彼は、窓の外を眺めていた。
 でも、流れる景色は見ていない。もちろん、ガラスに映り込む自分の髪型を気にしているわけでもない。
 何かもっと、つかみ難いもの……灰色の空から降る粉雪よりももっと、儚いことを考えているに違いなかった。
 助はふと、話に夢中になっている薫と弥生ちゃんに視線を移した。まるで二人が考え事の答えを持っているかのように。
 ややあって、彼はこちらを見た。
 ようやく私に見つめられていることに気づいた助は、「どうした?」と明るい表情を作った。
「いや、なんでも」
 私は視線を逸らし、薫と弥生ちゃんとの会話に戻っていった。
 ――そうか。
 こんな気持ちになるのは、ずっと助がどこか憂鬱そうだったからだ。

 雪は少しずつ強まり、一時間弱かけて目的の駅に着く直前には、窓から望むのどかな景色は白く染まりはじめていた。
 電車を降りた私たちは、口をそろえて寒い寒いと言いながら、目的の温泉へと向かった。

     

 曇ったガラス戸の向こう側に、雪がちらついている。
 湯けむりの充満した室内の浴場から、素肌をさらしたままで真冬の露天風呂へ移動するには若干の勇気が必要だった。
 手をかけて濡れた扉を開けると、予想通り、凍りつくような空気が肌を刺す。
 私は弥生ちゃんとともに、寒さから逃げるようにして、首まで温泉に浸かった。
「……気持ちいいね」
「ええ」
 雪雲に覆われた真っ白な空を仰ぐ。ちらつく雪は、雲の一部が地上に降りてきている様子にも見えた。
 白く濁った湯の底を見透かそうとしているかのように、弥生ちゃんは俯いている。
「どうして?」
 助に温泉行きを決めさせた張本人に尋ねた。
「……何がかしら」
「皆で出かけようって、助に言ったんでしょ?」
 何気ない問いかけに、彼女は息を吐いた。
「それは……」
 刹那、弥生ちゃんの背中がとてつもなく小さくなったような気がした。
 彼女はゆっくりと顔を上げて、何もかも吸い込んでしまいそうな、真っ黒な瞳を真っ直ぐに私に向けた。
 私は今まで、この子の顔をまともに見たことがなかったのではないか。当然そんなことはないにせよ、そう感じたことは確かだ。
 そして、彼女は湯気に交じって消え入りそうな声でこう言った。
「……私、友達いないから」
 遠くを見るような眼差し。
「こういうのが、懐かしく――恋しく、なったのかもしれないわ」
「懐かしく?」
 その言葉がどういう意味を孕んでいるのか私が尋ねようとしたのを敏感に察知して、彼女はごくごく自然に目をそらしたのかもしれない。
「昔はいたけど、今はほとんどね……」
 長くて黒くてつやつやで、正直少し羨ましくなるような弥生ちゃんの髪の毛の先が、乳白色の湯の上に漂っている。
「寂しかったわけね」
「はっきり言われると恥ずかしいけど、まあ、そういうことね」
 照れているのか、顔を背けて話す弥生ちゃん。
 悪戯心が起こって、私は彼女にゆっくり近づいて、背中から抱きついた。
「可愛いなあ、もう」
「ちょ、ちょっと――」
「ふふ、照れてる照れてる」
 憎らしいほどきれいな黒髪を、湯に濡れた手のひらでくしゃくしゃにしてやる。
「やめて、か、からかわないで」
「仲良くしたいんでしょー?」
 彼女のクールな表情はきっと仮面なのだ。それがわかった途端、私は彼女がとてつもなく愛おしく感じられてきた。
「私、本当にこういうの苦手で、というか久しぶりで――!」
 弥生ちゃんの顔が赤く染まっているのが、嬉しさを含んだ恥ずかしさのせいだったらいいな、と思う。
 だから私はあえて、顔が赤いことは口に出して指摘しなかった。
 ――だって、「温泉のせいよ」って言われたら悔しいから。



「あいつら、声大きすぎ……」
 男女の露天風呂は、竹を編まれて作られた、高い仕切り一枚のみで隔てられている。というわけで、どうやら沙織が弥生に抱きついたであろうことが俺と薫にも伝わってきたのである。
「仲良きことは美しき哉」
 まるで自分が初めて思いついた名言であるかのように、薫が得意げに言った。
「まあ、ほぼ貸し切り状態だし、いいけどよ」
 誰に言うでもなく、俺は仕切りの方へ向けていた首を前を向くように戻し、薫を見た。
「――ところで、ちょっといいかな、薫ちゃん」
「何?」
 どんな女より女らしいこいつは、「薫ちゃん」と呼ぶと決まって不機嫌な返事をする。
「なんでお前、男湯に入ってきてんだよ」
 中性を通り越してしまい、もはや女性的なその顔立ち、茶色い長髪、ホルモン投与のせいで微妙に膨らんでしまった胸、そしてその胸を隠すように、肩の下まで巻いたバスタオル。
 もはや慣れっこである俺がまったく動じないのは当たり前だが、ここが公共の場であることを忘れてはいけない。
「誰か入ってきたら絶対に勘違いされるぞ」
「体は男だししょうがないでしょ」
 つくべきものはついてるんだから、と言う。
「……真面目な話、体はどうするんだよ」
「まだ、考えてないけど……」
「不便だろ」
「お金かかるし、親にも相談しないといけないし」
「稼げ、説き伏せろ」
「簡単に言うなよな……」
 呆れ顔の薫は手で湯をすくっては戻し、すくっては戻しを繰り返している。
「ま、お前の体をどうするかは、お前の自由だからな」
 だから、俺はあえて言うのだ。
「まあ、このままでいたら、普段は女として過ごせるだろうけど……トイレ、風呂、更衣室、とにかく性差のある場所では違和感だらけだ。――もちろん、それが人付き合いをする上でのハンディキャップにもなりうるわけだ」
 薫だって、性別の違和感が人間関係にどういった影響を及ぼすかは、高校時代に嫌というほど体験済みだろう。
「かといって、一度体を変えちまえば、もう簡単には元に戻れない」
 それに――。
「俺に申し訳ない」
 薫が目を見開く。図星なのだろう。
 こんなことを考えていそうだってことは、丸わかりだった。
「ま、だからあえて俺が背中を押すけどさ、いっそのこと体も女にしちまった方がいいと思う」
 簡単な問題じゃないのは承知している。他人が口をはさむべきでないことも理解している。でもきっと、薫は俺のことを他人じゃないと思ってくれているから、少しばかりのアドバイスをしたかった。
 薫はしばらく何も言わなかったが、やがて口を開き、こう言った。
「……本当はショックだけどな」
 今度は俺が目を見開く番だった。図星なのだ。
 俺がこんな風に思っていそうだってことは、薫にしてみれば、丸わかりだったのかもしれない。

       

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Neetsha