Neetel Inside 文芸新都
表紙

永遠の如月
最後の三日間、そして(1)

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 椅子に座りうつむいたまま目を開くと、無機質な硬い床が目に入った。頭がうまく働かない。
 眠っていた……のだろうか。
 周りを見回す。静かな小部屋だ。椅子と出入り口と思しきドア以外には何もない。どうしてここで眠っていたのか思い出せなくて、気味が悪かった。
 俺は落ち着かず、何もない壁を見て、天井を見て、ドアを見て、を繰り返していた。
 ――真っ白な壁面にシミを見つけられないうちに、扉が開いた。
「来たね」
 躊躇なくドアから中に入ってくるハルの姿は、俺にあらゆることを思い出させた。
「……そうか」
 納得して、思わず口から零れ出る。
 「そうか」の真意を、ハルは何も聞かなかった。
 俺は口の中でもう一度「そうか」を転がした。
「終わったんだな」
「まあ、その……お疲れ様、かな」
 ハルも足元のタイルに目を落とす。そこに何も落ちていないのは重々わかっている。
「……いやあ、それにしてもよかった! 何事もなく助は生き返れるわけだし」
 明るさを繕っている糸は、とっくの昔にほつれている。
「何か手続きは要るのか?」
 そんなことに気づきもしないフリをして、俺は尋ねた。
「ううん、何も」
 そう言うと、ハルは立ち上がるよう俺に促した。そのまま俺に背を向けて部屋の扉を開け、向こう側へと進んでいく。ついてこい、ということだろう。
 四角四面の味気ない部屋。この立方体の中にいて、ここが現世でないなんて信じられない。俺はハルについて、あの世の臭いがしない箱を後にした。
 静かな廊下を通って案内されたのは、鍵のかかった大きな扉の前だ。ハルはどこからともなく鍵の束を取り出して、その扉を開けるための鍵を握った。何故か心拍が増えている。これから日常に戻るだけ、それだけなのに、俺は緊張しているのだ。
 重そうなドアはあっけなく開いた。
 その向こうにあったのは――……。
「と、扉?」
 縁に仰々しい飾りのついた巨大な扉だ。高さは俺の身長の倍、幅に至っては俺が五、六人は悠々並んで通れそうなほど。
 ただこの扉が特に異質なのは、戸板が白く光っている――いや、白い光が集まってドアを成しているという点だろう。
「『扉』、というよりは『門』かな」
 確かに白い光は掴みどころがない。――これは文字通りの意味であり、つまりは扉に手をかけるべき場所が見当たらないということだ。
「これが、ここと向こうを繋ぐ『ゲート』なんだ」
 ハルはどこか誇らしげに言った。
「このまま通れ、ってことか」
「そう、そうすればすぐ、ホントにすぐだよ」
「もう通っても?」
「私に別れの言葉がないなら、いいよ」
 俺は目の前の分厚いゲートをマジマジと眺めた。光に厚みなんてないはずだった。けれど、「分厚い」としか形容できないほどの白色光が確かにそこを満たしている。
「……質問、いいか」
「なんでもどうぞ」
 ハルは「なんでも」をやけに強調して言った。
「俺の記憶はどうなる?」
「そりゃ、核心だね……やっぱり感づいてたか」
 ハルは悲しそうな笑いを浮かべている。
「消えるよ。死ななきゃ知り得なかったことについては全部」
「……全部、か」
 きっと、こういう場所が存在するってことだけじゃない。弥生のことも含まれている。
「一ヶ月間のこと、全部忘れるわけじゃないよ。例えば、沙織さんとの間にあったことなんかはちゃんと覚えてるはず」
「はず、じゃちょっと困るな」
「私は記憶を消されたことがないから、わからなくてね」
「……そうか、残念だな」
 眩しいほどの光が『門』の中でたゆたっている。
「弥生とまた会えたら、ちゃんと友達で居てやるって約束したんだけどな」
「いつそんなことを?」
「多分、ついさっきなんだろうな」
 時間の感覚が曖昧で、ここで覚醒する直前の出来事が、今の時間と繋がっていないような感じがした。
「最後まで、弥生といたんだ」
「一日中って約束だったしな」
「……一日中って、何してたの?」
 答えは決まっている。
「秘密だ」
 それも約束だった。
「それじゃ」
 さらに追及されないように、俺は無理やり会話を区切った。
 姿勢を正す。ハルもつられてか、俺と同様に背筋を伸ばした。
「これでさよならだな」
「うん」
「ありがとうな」
 右手を差し出した。
「こちらこそ」
 ハルが握り返した。
 固く握った手を、どちらからともなく解く。
 世界の仕組み上、もともと出会うはずのない二人だ。人間と神様の間の友情なんて、奇妙だった。
 背を向けて『門』を真正面から見つめる。実体があってこのまま進めばぶつかりそうだと感じるほどの濃い光が、俺を誘っている。
 一歩、二歩と踏み出す。
「助、ごめんね……頑張って」
 背中越しに謝罪と励ましが聞こえた。どちらも、何に向けられているのかわからなかったが、そんなことは関係なかった。
 そう――そんな些細なことは、何もかもを埋め尽くすほどの白い光にすべて掻き消されていった。

 俺の心臓は今まで止まっていたに違いない。そう感じるほどにこの世の感覚が鮮烈に感じられて、俺は目を開いた。
 二月が終わって、三月がやってきた。二月の次は三月。三月一日の朝だ。
 当たり前のことだったが、何故か長らくそんな感覚から遠ざかっていた気がする。
 頭の奥で、思い出せない何かが脈打っている。
 俺は違和感を振り払うように起き上がると、顔を洗いに洗面所へと向かった。

「おはよう、助」
 タオルで顔を拭っていると、沙織の声がした。
「ああ、おはよう――」
 水滴を拭ったタオルを再び洗面台の脇に掛けて、沙織の顔を覗く。
 彼女の笑顔に無理はない。顔色もいい。沙織は早くも、母親の死から立ち直り始めているようだった。
 そんな彼女を見て「そろそろまた働き始めよう」と決めた。

 翌日に、店長に直接休職させてもらった礼と詫びを伝えに行き、ついでに相談もした結果、コンビニのバイトには四日から復帰することにした。
「てことで、明後日からまたバイトするよ」
 二人きりの夕食の席で沙織に報告すると、「頑張って稼ぎなよ」と彼女は笑った。
「しかし、そろそろ定職を見つけないとな……」
 学校を卒業して十一ヶ月が経ってしまっている。
 一人でアパート暮らししている間はフリーターでもよかったが、再びこの家に世話になるからには最低限の金は入れたいと考えていた。
「……今からでも勉強して大学行ったら?」
「へ?」
 ハローワークの窓口で職を求める自分の姿を漠然と想像しているところに、沙織の唐突な提案だ。
「今さら学歴持ったって、就職が変わるのか? 第一、そんな金がどこにあるんだよ」
「お母さんが病気する前は共働きだったし、保険が降りるよ……かなり大きい額だし、私の学費も、向こう何年の生活費も賄えるし、何よりお父さんだって働いてるし」
 恐れ多いことだった。この家族は俺に対して、これまでだってずっと、あまりにも十分にお人よしすぎたのだ。
「助、『これ以上は迷惑かけられない』って、独立しようって、頭だって悪くないのに働くのを選んだでしょ。もったいないよ」
 いや、もう甘えるわけにはいかない。父親を亡くして以来、散々甘えさせてもらった存在はもうこの世にいないのだから。
 ましてや、その恩人の命と引き換えに手に入る金だ。
 俺なんかの学費に使えるような金ではなかった。
 でも――。
「お母さんもきっとその方が喜ぶと思うよ」
 そう言われると、あの人が本当にそう思っていそうで、断るのをためらってしまう自分がいた。あの人はそういう人だったから。
「就職が有利にならなくったって、勉強しながら将来を考えられる時間が出来るだけでも価値があると思うよ」
 沙織はまるで母親の魂が乗り移ったかのような、慈愛の瞳で俺を見つめている。
「か、考えとく」
 あの人の好意は、全く断れなかったなあ――。
 沙織に投影された母の面影に、俺はそんなことを思い出していたのだった。

       

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