Neetel Inside 文芸新都
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永遠の如月
最後の三日間、そして(2)

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 何かを忘れている……そんな感覚がある。
 脳の奥に大切な情報を封じ込めて鍵をかけたはいいが、その鍵を失くしてしまったような感じだ。
 もしくは、あまりに分かりづらいところにしまいこんだせいで鍵穴の位置が思い出せなくなってしまったのかもしれない。
 しかも、そのすべてが俺の気のせいで、鍵も鍵穴も、そしてそれらに守られた大切なことでさえも、最初からありもしないことだなどという可能性すらある。
 けれど、俺はこうも考える。
 火のないところに煙は立たない。骨がなければ魚を食べても喉に引っ掛からない。
 そして、初めからありもしないことだったら、忘れているような気さえもしない。
 だから俺はきっと、何かを忘れているのだ。

 寝床に入ってから日が昇るまで、思い出せない何かが頭の中で脈を打ち続けた。眠れない夜が終わり、三月三日の朝は来た。眠ったから夜が明けるのではなくて、普段俺たちは、たまたま夜の間に眠っているに過ぎないことを実感した。
 明日からまた働きに出ることを考えると、生活リズムを乱すことはしたくない。
 俺は飛び飛びなりそうな意識、崩れ落ちそうな体をどうにか布団から引きずり出して、冷水を顔面に浴びせて自分に無理やり活を入れたが、効き目は薄かった。

「今日は暖かくなるみたいだね」
 沙織はやけに元気だった。
「んー……」
『――今日は桃の節句ですね――』
 テレビからそんな声が聞こえた。
 ――桃の節句って……なんだっけ? ……ああ、ひな祭りか……。
 頭の働きがとても鈍い。
 一緒に朝食を摂りつつ天気予報を見ていたのだが、半分寝ている俺は本当に「見て」いただけで、予報の中身はほとんど理解していなかった。
「天気もいいみたいだし、あとで買い物に付き合ってよ」
「んー」
 唸り声のような返事をするが、沙織が何を言っているのか分かってなどいなかった。
「……ちゃんと聞いてる?」
「んー……」
 その時、目の前で何かが弾けた。
「目、覚めた?」
 沙織が悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
 俺は猫だましをかけられたのだと理解するまでに数秒かかった。
「悪い。なんだかあんまり眠れなかったんだ」
 本当は「あんまり」でなく「まったく」だったが、わざわざ言う必要もないだろう。
「買い物。行ける?」
 沙織に再度尋ねられる。
「ああ、行くよ」
 沙織は表面上、もうほとんど立ち直りかけている様子だったが、俺はなるべく付き合ってやると決めていた。
 まだきっと、こいつの心には大きくて重い、どうしようもないほどの悲しみがのしかかっているだろうから。

 外は暖かかった。
 見上げた太陽は、春の日差しを大通りに降り注がせている。ジャケットの中で肌が若干汗ばむのを感じた。
「シャツの上にパーカーだけ着てくればよかったな……暑い」
 俺がそう漏らすと、「今日は暖かいって言ってたじゃない……朝、ボーっとしてて何も聞いてなかったんだから」と沙織は呆れ顔で鼻を鳴らした。
「今日は何を買いに行くんだ?」
「まずは春物。そろそろ暖かくなってきたし……そのあとは今晩のおかずとか……あと卵も切らしてたし――」
 沙織は指を折って冷蔵庫の中の足りないものを思い出しては挙げ始めた。
「……大変だったらちゃんと言えよ。飯くらいだったら俺が作ったっていいんだから」
「シチューとカップ麺くらいしかレパートリーがないのに?」
 バカにした風な表情だ。
「本当に手伝った方がいいなら、これから他にも覚えるよ」
 何か言い返されると思っていたんだろう。沙織は少し間を空けてから、ゆっくり言った。
「うん、ありがと」

 それっきり、会話は途切れっぱなしになった。別に今さら沈黙が気まずい間柄でもないから、不快ではなかった。
 ただ、何も話さずにただ歩いているだけになってしまったせいか、また頭の中で何かが疼きだした。
 ――何を忘れているんだろう。
 ここ三日間ずっと喉に引っ掛かり続けている魚の骨は、まったく外れそうにないままだ。
 加えて、寝不足の脳では思い出せるものも思い出せない。
 それでも大切なことのような気がして、思い出したくて、気になって仕方なくて、おぼろがかかる意識の中、ずっと考え込んでいた。
 ――それが、いけなかった。
 誰かが俺を呼んでいる。そこで初めて気がついた。
 ここはこの街で一番大きい交差点。歩行者用の信号は赤。俺はと言えば、横断歩道のど真ん中に差し掛かろうといていた。
 後ろの方で沙織が俺の名前を叫んでいる。右からは、鼓膜を破らんとするほど強烈なクラクションの音が迫ってきている。
 恐怖? 焦燥? 後悔?
 ここに立ってみればいい。そんなものを感じる暇なんて与えられない。
 ただ、迫ってくるトラックの姿に、そしてこの状況に、強烈なデジャヴだけを感じ――……俺の意識は消えた。



「ようこそ、こちらへどうぞ」
 気がつくと、目の前にスーツ姿の男がいた。
 疑問はなかった。俺は彼についていく。それが当たり前のことであるように思われたからだ。
「ご説明申し上げます。あなたは下界にてお亡くなりになりましたので、お手数ですがこちらの中身と――」
 スーツの男は茶色い封筒を丁寧に俺に差し出す。
「こちらの書類に必要事項を記入していただいたうえで、あちらの窓口へとお持ちください」
 何故だろうか。俺は事故に遭ったはずだった。目が覚めるなら病院のベッドの上か、天国か……事故自体が夢だったとしても、それなら布団の中のはずだ。
 それがどうして、こんな役所のようなところで目を覚ましているのか。
 不思議なことはいくらでもあったが、知る必要はない。俺は目の前の書類の空欄を埋めさえすればいいのだ。
 封筒から出てきた「死亡証明書」にサインを済ませ、俺はもう一枚に取り掛かった。
 「死亡状況調査書(日本語圏用)」の指示通りに、氏名、フリガナ、生年月日、国籍に住所、そして死因の欄を――もちろん「交通事故」だ――埋めていく。
 「死亡時の自身及び周囲の状況」には「寝不足で考え事をしていたところ、赤信号に気付かずトラックに轢かれる」と記して、あまりに間抜けな死に様に、我ながら笑いを漏らしかけた。

 二枚の書類を提出しに窓口へ向かう。
 書き上がった書類を手渡すと、担当の女性は「少々お待ちください」と素っ気なく言った。
 彼女の手が書類の上を忙しなく動き、視線もそれについて目がぐるぐる回っている。
 おそらく、二分ほどしてからのことだったと思う。
「……これは……」
 窓口の女は驚きとも呆れともつかない溜め息を漏らした。
 書類に不備でもあったのだろうかと、俺は不安になる。
 それとは別に、俺はこうも感じた。
 これは、過去に出くわしたことがある場面だ。
「あなたは……」
 担当の彼女が口を開きかけた。
 まさにその時、脳の中で閂が外れ、無数の点が飛び出した。
 点は瞬く間に線となり、線の数々は幾多の面となり、連なる面は立体をなし……記憶は、再び蘇った――!
「『非業の死』だ!」
 役所然とした静かな空間に、俺の叫びがこだました。
 周りの人間――いや、違う。今なら思い出せる。
 周囲の神たちは、みんな目を丸くしている。当然だ。何も知らないはずの下界からやってきた人間が、この世界の者にしかわからない言葉を発したのだ。
「あなた、何者……?」
 窓口の女が驚いた表情で俺に尋ねるが、俺は質問で返す。
「ハルは? あいつはどこだ」
「あ、あの人なら局長に連れられて行きましたけど……」
 あまりの剣幕に、素直に答えるしかなかった様子だ。
「……あいつ、俺を殺しやがった!」
 記憶を取り戻してすべてが繋がった今、ハルが弥生を助けるために俺を殺したことは明白だった。
「と、とりあえず『非業の死』者用の応接室へ通せ!」
 さっきのスーツの男が焦って言う。
 だが、俺は構わず叫んだ。
「ハルに会わせろ!」
 俺はスーツの男にも詰め寄る。
「な、何があったかは知らないが……『非業の死』なら死んではいない! だから殺されてはいないんじゃないか!?」
「だからハルに……え?」
 思考が凍りつく。頭に昇っていた血は一瞬にして下がり、溜飲を呑み込むほかなかった。
 混乱しているのは俺ばかりではない。
 それどころか、何が起こっているのか分かっている者はこの場に一人としていないようだった。
 何も分からなかった。
 きっと、ただ彼女だけが真実を握っているのだ。



「被告人、ハル=カタルジナ=アーヴィス」
「はい」
 大法廷。ここはそう呼ばれていて、重大な事件の裁判の時だけ扉が開かれる。
 知っていることはそれだけだ。私がここで働き始めて以来、ここを使わなければならないような大事件は一度として起こったことがないから。
 厳かな造りの部屋だ。裁判官たちの席がある方は高く、被告人や参考人の立つ証言台側が低くなっているのは、司法の権力誇示願望の表れか。
 ここには、人間界で弥生に教えてもらったような三権分立の思想なんてない。弁護士も検事もいない。この世界では立法も行政も司法も、そんな概念自体がなく、すべては絶対的権力を構成する要素として一体化して融合し、その力を振りかざす。
 ――そう、好都合だ。
 参考人の席には今にも私に殴りかかってきそうな目をした「元」局長が座っている。
「彼もまた罪人であるが、今はお前の起こした事件についての参考人としてここい呼んでいる」
 私の視線の先を察して、よそ見を咎めるように裁判長は言う。
 この世界の法を司る神。普通に暮らしていれば、私が会うことさえ叶わない方だ。
「被告人の罪状を読み上げる。事実関係に誤りがあることを主張したければ、読み上げの後にその旨を伝えること」
「はい」
 私は裁判長の方へ向き直り、姿勢を正した。
「よろしい」
 彼は重々しい声で、私の犯した罪を読み上げ始めた。
 
「ここにいる参考人は、本来の下界とは切り離した時間にある「永遠の二月」に人間を閉じ込めていた。
 司法局は今までこの人間の扱いについて留保し、運命の改変による処理を避けていた。だが、参考人の行為は明らかに違法かつ人間に対する重大な干渉であるから、すでにこちら側で解放の処理は施しておいた。
 話を戻そう。
 被告人はその人間の観察を請け負っていた。
 そして先月から他に担当していたたまたま「非業の死」を遂げた人間と、閉じ込められていた人間が二月において出会ってしまった。
 前者は軽度にではあるが、未来を改竄してしまった疑いがある。しかしこれは二月中の出来事をすでに知っている後者との出会いによるものが大きく、こちらの世界の責任であると考えられるので、前者については不問に付すこととすでに決定している。
 長年観察対象となっていた後者を助けたいと思っていた被告人に、参考人は「未来を変えてしまった蘇生中の前者を殺せば、後者を助けられる局長のポストを譲る」と持ちかけた。
 その条件を了承した被告人は「運命を改変して蘇生中の人間を殺す」と言い、運命を改変した。
 未来を変えた蘇生中の者を運命の改変により殺すこと自体は合法的手続きだ。
 しかし、ここで被告人は「非業の死」者の二度目の死をまた「非業の死」になるように改変した。
 つまり、「非業の死」者は本来の手続きの結果通り蘇生することとなった。
 だが、合法的手続きを経ない運命の改竄は見逃すことのできない重罪である」

 読み上げは終わり、少し間をためてから裁判長は言う。
「事実関係に間違いはあるか?」
「読み上げられた内容に間違いはありません」
 はっきりと言った。
 弥生と助、二人のうち両方を助けるためにはどうすればいいか悩みに悩んで決行した策だ。
 これが間違っていてたまるものか。

 本当の勝負はここからだ。ここからの受け応えは間違えられない。
 与えられる刑罰を、計画通りに誘導しなければならない。
 私は唇を固く結び、法の壁に正面から向き合った。

       

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Neetsha