――寒い。大雪だ。降り方も積もり方も尋常じゃない。柔らかい雪は、何とかして歩き続けようとする俺の脚を、両膝まで飲み込んでしまう。
この街は雪が珍しい土地じゃない。そのはずなのに、子どものころからずっとここに住んでいる俺だってこれほどの雪は見たことがない。
「家を出るときから覚悟してたとはいえ、これは凄いな……」
二月の冷たい風に乗って、細雪が頬に何度も何度も当たる。絶えることなく当たり続ける。
「ちくしょう……。何も今日じゃなくたっていいだろうが」
天気に対して漏らした不満も、当たり前のように白い靄となって消えてしまう。だからといって帰るわけにはいかない。大雪だろうと嵐だろうと、今日という日は絶対に出かけなくてはならないのだ。
目的地は何度も通った場所だ。もしも街ごと雪にうずもれてしまっても、その場所を忘れることはないと思う。幸いにして家からも近い。それがせめてもの救いだった。
「いやー、やっと着いた」
なるべく近い方がいいだろう、と言ったのは沙織の父親だった。
深い雪の中で歩くには体力がいる。行く手を阻む白い氷の塊をかき分けるようにして進む。ここまで誰ともすれ違わなかった。車も一台として通りかからなかった。それは当然だと思った。同時に、俺がここに来なければいけないのも当然だと思う。
「ここ一年、机にばっかり向かってるからな……」
手先が痺れるほどの寒さの中、俺は息を切らしながら膝を曲げて屈み、二人目の母親が眠る墓に向かって言った。
「……もう一年か」
都会に降り積もる雪がその白さを保っていられるのは、ほんの少しの間だけだ。たいていはすぐ灰色に汚れてしまう。真っ白な雪を踏みつけるのには抵抗があるが、どこかが少しでも汚れていればためらいなど生まれない。なにしろ、もともと汚れているのだから。それに、たかが雪が積もったくらいで自分の生活を止めるわけにはいかないだろう。たとえ行く先が純白に染まっていたとしても、時間は決して止まらないのだ。
「あー……完全に被っちまってるな」
墓石の上にもどっさりと雪が積もっている。もちろん、雪は真っ白なままだ。墓の上に乗るような罰当たりはそうそういないだろう。まるで墓の周りだけ時間が止まっているかのような光景だ。
「ちょっと失礼」
その下にいるはずの彼女に断ってから、墓石の上の雪を払いのける。この天気ではそれも無駄だろうが、このままではあまりに不憫だ。
「……そのうち、ここの坊さんが雪かきしてくれるだろ」
自分一人でどうにかすることはあきらめて、もう一度屈みなおす。
「……今日は一周忌だよ。早いな」
墓に向けて語りかける。
「お母さんがいなくなってから一年。俺がどういうわけか、今さら進学を目指すことになってからもだいたい一年……早いよな」
独り言に過ぎない、それはもちろんわかっている。
「もうすぐ試験なんだけどな、俺。こんなことしてていいのかね……」
そんなこと、微塵も思っていなかった。口にするだけしてみただけだ。今ここでこうしているのも、俺にとっては大切なことだから。
「このあと法事だろ? だからお父さんが忙しそうにしててさ……手伝おうとしたんだけど、断られちゃったんだよな」
でも、俺には確かに相槌が聞こえる。そう言った俺を笑った奴は、俺の周りにはいなかった。
「だから法事の前に沙織も誘って様子を見に来ようとしたんだけど、あいつは来たくないって。……もうすっかり元気なんだけどな。それでも、ここに来るとちょっと泣きたくなるみたいで」
それを隠し通そうとするいじらしさが、あいつらしくもある。
「もちろん、薫もあとで来るよ。……あいつ、最近ますます女っぽくなってきてるよ。身体の方をどうするかはまだ迷ってるみたいだけど……どうするんだろうな」
――本当に、どうするんだろうか。
「相変わらずちょくちょく会っては馬鹿話ばかりしてる。……楽しいよ」
手首にはめた時計を見る。まだ時間はあるけれど、ずっとこうしていては凍えてしまいそうだ。
「……うん、そうだな。とりあえず本堂にお邪魔させてもらって待つことにするよ。……喪服がかなり濡れちゃったな。法事までに乾くかな、これ」
ぶつくさ言いながら立ち上がろうとした瞬間、思い出したことがあった。
「――そうだ。前から気になってたんだけどさ、お母さんと弥生ってどこで知り合ったんだ?」
あいつとの出会いはもの凄く奇妙だった。あれも一年くらい前の話……母親が亡くなる少し前のことだ。
「そんな様子、なかったけどなあ」
弥生はお母さんと知り合いだと言った。けれど、病室で会った二人はまるで初対面のようだった。
「……わからないもんだよな、どういうところから友達ができるのかなんて」
お母さんが亡くなってからも付き合いは続き、今でも四人で仲良くやっている。今では「助」、「弥生」と呼び合うくらい親しい友人だ。
「春にちょっと旅行してくるよ。暖かいところに四人で」
――きっと、楽しくなるだろう。
「まあ、俺たち四人はそんな感じかな……」
そう言って改めて立ち上がろうとすると、後ろの方から声が聞こえた。
「たすくー」
――ああ、聞き慣れたあいつの声だ。
「……大変だっただろ、ここまで来るの」
俺は立ち上がり、墓石の前から離れていった。