石
4.〜僕のお父さん〜 <10.8> <10.15>
4
五年前、ロイの住む国ネティオは平和そのものであった。
当時ロイは十一歳。両親と三人で、ささやかながらも幸せな日々を送っていた。
「ただいま」
「おかえり、父さん!」
テーブルについていたロイは、扉を開けて帰ってきた父の姿を見るや、勢いよく立ち上がった。豪快でいつも笑顔を絶やさない父のことが、彼は好きだった。
父はいつものように、ロイの頭を大きな手でがしがしと撫でた。食事の準備をしていた母が振り返り、二人を見て微笑む。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま」
「ちょっと待っててね、すぐにできるから」
父は頷き、椅子に腰掛けた。それを待っていたかのようにロイが口を開き、今日あった出来事を父に話し始める。
テーブルに食事が並び、準備を終えた母も二人の会話に加わる。彼らは毎日、途切れる事のない会話を楽しみながら、長い時間をかけて夕食をとった。
ある日の夜、ベッドで眠っていたロイはふと目を覚ました。少し離れたところにあるテーブルから、父と母の話す声が聞こえる。
「王の容態は、もうかなり深刻なんだそうだ」
「そんなに……?」
「ああ、王もかなりの高齢だからな。それで街は今、世継ぎの話で持ちきりだ。王の座を継ぐのはどっちだろうってな。失礼な奴らだ、まだ王は亡くなっちゃいねえってのに」
「立派な方だものね……」
「そうさ。俺達が今平和に暮らしてられるのは、王のおかげなんだからな。全く、惜しい人ばかりが早く寿命を迎えちまう」
難しい話をしているな、ロイはそう思った。
世継ぎの話などロイには全く理解できなかったが、かつて父がこの国の王に会ったことがあるという話は聞いたことがあった。
ロイの父は国でも指折りの大工職人で、王の住む城の建築に携わったことがあったのだった。
「でもやっぱり気になるわね、後継ぎ」
「まぁ、な。順当にいけば兄王子のカルツ君なんだが」
「そうね。弟のウル様の方は……あまりいい噂を聞かないわ。こないだも城の武道大会で、相手を半殺しにしたって」
「そうだな。大分前に仕事で城に行った時に、二人にも会ったが……カルツ君はあの頃から、非の打ち所のない好青年だった。いつも穏やかに笑っていて、子供とは思えないくらいに頭も良かった。逆にウル君はあの頃から少し、乱暴なところがあった。まぁ俺が言うのもなんだけどな」
母は口に手を当て、くすっと笑った。
「あなた、ウル様をひっぱたいたのよね」
「ま、軽いしつけのつもりだったんだけどな」
「もう。王様がとりなしてくれなかったら、今頃は首がないわよ」
「はは、王が話のわかる方で助かったよ」
父は大きな口を開けて笑った。母も仕方なさそうに笑う。
二人の仲睦まじい様子は、布団の中にいるロイにも伝わった。ロイは幸せな気分で微笑みながら、再び眠りに落ちていった。
それから数日後、王は帰らぬ人となった。そして、大多数の国民の予想に反し、王の座を継ぐのは彼の息子である二人の王子のうち、弟であるウルとなった。
新しい王となったウルの暴力性については、以前より国民の間で噂されており、対して兄であるカルツの人柄の良さ、知能の高さにも定評があった。
国からは、世継ぎの決定に関する詳細を知らされなかった。その為に国民はこの事態を理解できず、情報は錯綜する。徐々に国民に不安が広がっていった。
王の死から、一週間が過ぎた。
家に戻ってきたロイの父に、白い封書を手に持った母が歩み寄る。
「あなた、これ……」
「ん?」
父は封を切り、折りたたまれている一枚の紙を取り出した。二人は顔を見合わせた後、文書を目で追っていった。
「新しい王の就任セレモニー、か」
「あなたが、代表って……?」
「代表のうちの一人ってことみたいだな。代表として何をするのかはわからんが」
母は父から目を逸らし、不安げな表情を浮かべた。
「なにか、嫌な予感がするわ。どうして一週間も経ってから、こんなこと……。それに、何故カルツ様じゃなくウル様が後を継いだのか、その説明も未だにないのよ」
「ふむ……」
父は顎に手をやった。少しの間の後で父が再び口を開こうとした時、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ただいま!」
「おう、おかえり」
元気よく挨拶するロイを振り返り、父はいつもの笑顔で迎える。しかし、母の表情は沈んだままだった。
「……どうかしたの? 母さん」
怪訝そうに母を見つめるロイを、母は見つめ返した。答えない母に代わり、父がロイの肩に両手を置いた。
「一週間前に、この国の王様が変わったのは知ってるな?」
ロイは黙って父を見上げ、頷いた。
「明日な、広場で新しい王様の挨拶があるんだ。国中の人達が集まってくるぞ」
「僕も行ってもいいの?」
「ああ、もちろんだ。父さんは途中でちょっと出て行くかもしれんが、母さんから離れるんじゃないぞ。何せ凄い数の人だからな、迷子になっちまう」
「うん!」
ロイは目を輝かせ、頷いた。嬉しそうな顔で母を見る。母も、ぎこちなくはあるが、笑顔を浮かべてロイに応えた。
セレモニー当日、ロイは両親に連れられてネティオ中央広場に向かった。
広場に近づくにつれて視界に映る人の数は増えていく。
「どうだ、凄い人だろう」
「うん、凄いや。ネティオにはこんなに人がいたんだね」
はぐれないよう、父はロイに手を差し出した。ロイはその手を取り、もう片方の手で母の手を取った。
手を繋いだ三人が広場の入り口に近づくと、付近を監視していたらしい兵士がこちらに駆け寄り、父に軽く礼をした。
「お待ちしておりました、どうぞこちらへ。ご家族の方もご一緒に」
兵士は返事を待たずに歩き出した。三人は怪訝そうに顔を見合わせたが、言われるままに兵士についていった。
案内された先には簡素な椅子が並んでおり、既に数十人の人達が座っていた。ここに座っているのは皆、代表に選ばれた者とその家族である。ロイの父は他の席に知り合いを見つけ、雑談を始めた。
ロイは父と母に挟まれて椅子に座り、正面を見つめた。彼らが座る場所は、ちょうど広場の中央を見渡せる位置で、特等席と言ってもよかった。
広場の中央からは城の方角に向けて、赤く長い絨毯が敷かれている。おそらくこの絨毯の上を通り、新しい王が現れるのだろう。ロイの胸は期待に高鳴った。
側に立っていた兵士が席を振り返り、口にくわえた笛を大きく鳴らした。椅子に座っているロイ達は一斉に会話をやめ、兵士に注目する。
「代表者の方はこちらへお願いします。ご家族の方はそのまま、椅子にかけてお待ちください」
兵士は広場の中央を手で指し示した。座っていた数人が立ち上がり、ぞろぞろと兵士の後につく。ロイの父も立ち上がり、妻と息子を振り返った。
「じゃあ、ちょっと行ってくるからな」
言いながら父はロイの頭に手を乗せ、顔を近づけた。
「いい子にしてるんだぞ」
ロイは父を見上げて大きく頷く。父は満足そうに微笑んだ。
「よし」
父は母に視線を移した。母はロイの手を握りながら、真剣な顔で父を見上げている。父は穏やかに笑った。
「ロイを頼むぞ」
母は無言で頷いた。
父は二人に背中を向け、広場の中央に歩いていった。
人々のざわめきが大きくなった。城の方角からこちらに向かってくる大きな馬車が視界に映ったのだ。
馬車は十数頭の馬に引かれており、その周りにはおよそ百名の兵士が規則正しく行進している。
広場の中央には新しい王を待ち構えるように数十名の兵士が整列し、馬車に顔を向けて待機している。
国民代表として選ばれたロイの父達は、待機している兵士達のさらに数メートル後ろで横一列に並び、兵士達と同じく馬車に向かって待機していた。
「ねえ、父さんはどうしてあんなところにいるの?」
「お父さんはね、みんなの代表に選ばれたのよ」
「凄いや!」
ロイは嬉しそうな顔で、広場の中央に立っている父を見つめた。
国中の人々が集まったこの広場で、ほとんどの者が立ったまま、人だかりの中で窮屈そうに喘いでいる。比べてロイは特等席に用意された椅子に悠々と座り、その父は皆の視線の集まる広場の中央に堂々と立っているのだ。ロイは父を誇りに思った。
馬車が広場の中央に到着し、兵士は行進を止めた。人々の声が徐々に消えていく。
少しの間があった後、兵士の手によって馬車の幌が開かれた。
中央に座っていたウルの姿があらわになり、兵士達は一斉に敬礼する。人々の間には拍手が起こり、広場全体を包み込んだ。
しかし拍手が鳴り止もうとする頃、人々は再びざわめき始めた。新しい王の兄である、カルツの姿が見えないのだ。
ウルは不安そうにざわめく国民達を、薄笑いを浮かべて面白そうにしばらく見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「改めて自己紹介しよう。俺がこの国の新しい王、ウルだ」
ウルの声は、広場の四方に備え付けられた拡声器を経て広場中に響いた。人々のざわめきはその瞬間に消え、広場が沈黙と緊張に包まれる。
「お前達が色々と不安に思っている事もあるようだが……俺は口で一々説明するのは苦手でな。まぁ俺の性格くらい、お前達も知っているかもしれんが」
そこまで言うと、ウルは大きな口を開けて笑った。
「ただ、心配するな。説明をしないって言ってるんじゃない。わかりやすく、行動で示してやろうと思ってな」
ウルは立ち上がり、馬車を降りた。
二メートル近くある長身に、鍛え抜かれた筋肉質の身体。十九歳にして無精髭を顎に生やしたその顔には、王族にあるべき品性の欠片も見当たらなかった。
「いいか、よく目に焼き付けておけ。俺がこの国をどうするか、お前達がこれからどうやって生きていくのか……これで全てわかる」
人々はウルの言葉を理解できず、ある者は目を丸くし、ある者は顔をしかめた。
ウルはそんな住民の顔を見回しながら唇の端を持ち上げてにやりと笑い、片手を上げた。それを合図に、王を向いて整列していた兵士達が一斉に後ろを振り返り、代表として選ばれたロイの父達に向けて銃を構えた。
「お前達国民は全て、俺の奴隷だ。逆らえばこうなる」
兵士達は一斉に、構えていた銃の引き金を引いた。幾つもの銃声が重なって広場に響き、ロイの父達が次々とその場に倒れる。国民の代表に選ばれた十名の命は、ほぼ同時にこの世から消えた。
外からその光景を見ていた人々は一瞬、現状を理解できずに言葉を失った。
しかし、流れ弾に当たって倒れた者の隣にいた女性が悲鳴を上げたのをきっかけに、人々は次々と悲鳴をあげ、逃げようともがき、ぶつかり合い、広場は騒然となった。
数人の勇気ある男達が、武器も持たずに王に襲い掛かろうとした。彼らは一人残らず、兵士の放った銃弾の餌食となった。
見せしめに殺された代表者の妻が一人、泣き喚きながら夫の亡骸に駆け寄った。その場で後頭部を撃ちぬかれた彼女は、夫に覆いかぶさるように倒れ込んだ。
次々に人が殺され、人々の悲鳴と拡声器からの王の笑い声が響く中、ロイの母は、涙を流し片手で口を押さえながら、もう片方の手でロイの手を引いてその場から走り去った。
ロイは目の前の状況についていけず、ただ母に手を引かれるままに走り、震える口を開いて同じ言葉を繰り返していた。
「父さんが……父さんが……父さんが……」
この日、国の兵士によって殺された者は百人を超えた。
前国王の後を継ぐはずであったカルツは、実の弟であるウルによって殺された。人々は噂を立てることすらせず、そう確信した。
この日を境に、平和であったネティオはその面影をなくし、国民はウルの暴力による支配の下に置かれたのだった。