Neetel Inside 文芸新都
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落下

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「って訳でベースとドラムをしてくれる奴は見つかった。まぁ、ドラムの方は初心者なんだけどな」
「はやっ!」
 僕は女子生徒が作ってきてくれたと言うサンドイッチを頬張りながら、智史のその言葉に驚嘆の声を上げた。
「えーと……ギターは?」
「だからお前だって」
「だから無理だと言っとるだろーが!!」
 晶がそう叫んでいるが、僕達はそれを無視する。
 二つ目のサンドイッチに手を伸ばし「ハムサンドうまいなぁ」と僕が呟いているのも、智史は無視しながら「そういう訳で、楽器を手に入れないとな」と事も無げに言った。
「まぁ、楽器屋に行けば全部あるだろ」
「だな。じゃあ、少ししたら行こうと思うんだけど。どうする? 康弘?」
「まぁ、暇だし付き合ってもいいぞ」
「じゃあ、三人で行くか」
「なんで俺が行く事は決まってるんだ!?」
 教室の床に座り込んでいた晶が、勢いよく立ち上がり僕達を見下ろした。
 荒々しく肩で息をしながら、次の言葉を続けようとする。
 しかしそれより先に、僕達が口を開いた。
「なんでって、なぁ」
「なぁ」
「やっぱ本人が使いたいもの使うのが一番なんだから、ちゃんと自分で選ばないと」
「だあああああああかあああああらあああああああ!!」
 叫び声と一緒に飛んでくる唾がサンドイッチにかからないように動かしながら僕は溜め息を吐いた。
「俺絶対無理だから!! ギターとかそんなすぐ出来ないから!!」
「晶君」
「なんだよ!?」
 まぁまぁと宥めながら再び晶を座らせ、同じ目線の高さにさせる。
 周りではそんな僕達を何事だろうと目を丸くしてみているクラスメイトに「なんでもねーよ」と笑いながら、晶の肩をポンポンと叩いた。
「お前が言いたい事は分かる。自分なんかがいたって皆の足手まといにしかならないとか、むしろ邪魔だとか思ってしまう気持ちも分かる」
「いや、そこまでは言って……」
「いやいや、俺のギターなんか聞かせたら皆がラジオ切ってしまうんじゃないだろうか、とか、なんだこのギター死ねよ、とか思われるとかそういう不安な気持ちは凄く分かる」
 そう言う僕の隣で、智史が頷きながら「うんうん、そうだな」なんて言っている。
「…………」
「でも、ま」
「…………ま?」
「それでも頑張る晶君はなかなか素敵だと思うんだ」
「結局そこか!?」
 さんざん馬鹿にされた――実際そうかもしれない――ような言葉に晶は再び暴れだしたが、その後二人になんとか宥められると、渋々ながらギターをやる事は認めたようだった。あそこまで言われてやらないのは癪に触るらしい。もっとも、そう言ってくるのは僕ら二人には分かりきっていた事でもある。
「ドラムもいるんだよな」
「……ドラム持って帰るのって結構重労働だぞ」
「そうなんだよ。ちょっとどうしようかなと思ってるんだけど」そう言いながら困ったと言うように智史が漏らしたのは、学校を出て電車に乗り腰を下ろした時だった。
「またどっかから荷台でも借りたらいいんじゃね?」
「まぁ、そうだよな。晶もいるし、三人ならなんとかなるだろ」
「けどそうやって持ってかえっても、ギターの練習だろ? でなにを演奏するかも決めないといけないし、そうなったら皆であつまってやらないといけないし、それにラジオ流すための準備もしないといけないじゃん。めちゃくちゃ忙しくないか? 大体ラジオはいつやるつもりなんだよ、智史?」
「そうだな。大体二十日過ぎ……遅くても二十五日、かな。ラジオの方はまだ話してないからあとで行かなきゃな」
「まぁ、演奏の方はお前らに任せるとしてラジオの方は俺も手伝ってやるよ」
「つか、なんでお前は俺だけやらして一人楽してるんだ!!」
 晶が叫ぶが、僕も智史もタイミングを理解したらしく既に耳を押さえていた。
 それを見て、どうやら気に入らなかったらしくなおも叫んでいるものの、一向に僕らが聞く素振りを見せないと分かると諦めて肩を落とす。
 その落胆しきった表情を見て、僕は手を離すと、彼の背中を二度軽く叩いた。
「ギターって花形ポジションだよな」
「……もういいよ」
 僕は苦笑する。
 二両しかない電車はそれでもガラガラで、しかしその中に以前、ぼんやりとシートに腰掛け、窓の外を見ていた男が今日もまた座っているのを見かけた。彼は今日はあまり携帯電話を弄る素振りは見せず、ただ窓へと視線を向けている。
 二十代後半のサラリーマン風の男。酷く疲れたような顔をしているがそんなところだ。僕は引かれるように気がつくと立ち上がっていた。
「康弘?」
 怪訝そうに尋ねてくる晶に「あぁ、ちょっと悪い」とだけ返すと、僕は彼に近づく。
 ガタゴトと揺れる音の中でも僕の足音は聞こえているはずだったが、彼はそれに――気付いていない訳はないと思うが――興味もないのか振り返りもしない。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 そう声をかけると、自分に声をかけられるのがとても意外だという感じは見受けられるものの、それ以上にただただぼんやりとした表情がこちらへと振り返った。
「なにか用かな?」
 彼はそう聞きながらこちらを向くために姿勢を直しながら同時に足を組んだ。そこに少しの警戒心の表れを感じ、その表情には一体なんの用なのだろうと疑問符を浮かべている。とは言え僕の方もそんなに明確なものがあったわけでもない。
「いや、用と言うほどでもないんですけど」
「よかったら」
 ゆっくりとした動作で、彼の左手が隣に座るようにと促してくれた。
 僕は「すいません」と小さく頭を下げて素直に腰掛ける。
 ガタン、ガタン。
 規則的な振動の音を並んで聞く。彼は見知らぬ男と並んで沈黙に陥る事にも全く苦にもならない――と言うより全く気にしていない――ようだった。
「前も、そうやって窓の外見てましたよね?」
「そうだね」
「なにかあるんですか? ここから見る景色が好きとか。思い出があるとか?」
「君はそれが気になったの?」
 不快に思われただろうか。そう思い「いえ、そう言う事じゃなくて、そんなにも見たい景色ってどんなものなんだろうって思ったんです」
 細い顎だな。彼の横顔を見てそう思う。ほっそりとした体のせいもあるだろうか、とてもひ弱で繊細そうな印象だった。口調も穏やかだが、しかしそこに逡巡めいたものはなくはっきりとしていた。
「僕の父と母は、共働きだったんだ。僕も大学を卒業して就職したんだけど僕は車で通勤していてね。両親がこの電車を毎日利用してた。僕より出社時間が早くてね、僕を残して二人で一緒に家を出て行くのをよく見送ったよ。電車では先に下りる父を母が見送ったりしていたそうだ。たまに帰りの時間が一緒になったからと一緒に帰って来たこともある。」
「仲がいいんですね」
「そうだね。僕もそう思っていたんだけど、実際のところそうでもなかった。分かりやすく言うと母親は職場で浮気をしていたんだね。母はパートだったんだけどそこの社員と恋に落ちたんだそうだ。まぁ、よくある話といえばよくある話なのかもしれない。たまたまそれが自分の家族にも起こってしまったというだけの事だったのかもね」
 想像もしていなかった内容に、言葉を失う。
 彼はもしかすると誰かに聞いてもらいたいと元々思っていたのかもしれない、僕の返事を待つ事無く続ける。
 それはまるで、喋る内容を事前に練習していたのだろうかと錯覚するほどスムーズだった。
「それを知った父は……なんと言えばいいんだろうね。怒りと悲しみが混ざり合うとああいう表情になるんだと思ったけど、それをどう表現すればいいのか分からない。僕の前ではなにも言わなかった。僕がいない時には話したんだろうと思うけど……浮気したのは母で、母も申し訳ないと思っているんだろうけど、悪い事をしたのはまるで父の方だったのだろうかと思ってしまうほど、どんどん活力のようなものを失っていってしまってね。怒られた子供みたいだった。母や僕と会話をする事にいつも躊躇するようになってしまった」
 彼の目が軽く僕を見てから、窓の外へと向けられる。
 僕もそれに引かれたように窓の外を見た。
 ガタン、ガタン。
 静かな街並みが見える。その中に幸せと不幸はどちらも飽きてしまうほど、幾らでも、そして平等に転がっている。
「母は仕事を辞めた。父は一人で家を出るようになった。一度浮気相手が謝罪に訪れたよ。僕は慰謝料を払うべきだと言った。彼は頷いた。だけどそれで父が良くなるわけでもない。父に聞かれたんだ。一ヶ月のガソリン代は幾らくらいかって。あぁ、あの電車にはもう乗りたくないんだろうか。だけど結局は電車で通う事にしたみたいだった。会社の交通費の面とかあったのかもしれない」
 鮮明な口調なのに、はっきりと含まれている事が分かる虚無感。
「離婚する事になったんだ。母は家を出て行った。その三日後、父は自殺した。電車に飛び込んだんだ。隕石が落下するのが決まってすぐだったかな……父さんはもう本当に疲れてしまったみたい。これからやり直していこうと思っていたんだろうけど、地球が終わるとなった瞬間母は、自分に正直になって父と共に生きていく道を切り捨てた。耐えられなくなったんだろうね」
 彼の指が窓枠に触れ、硬さを確認するかのようにこつこつと弾かれた。
 父さん。
 だが母は、母のままだ。
「……母親の事、恨んでるんですか?」
「……そう言えば母の元職場がもうすぐ見えてくるな。浮気相手もこの傍に住んでいるらしいよ」
 初めて彼が笑った。普通の笑いだった。
 とは言え釣られて笑うことなど出来ず、僕が迷っていると彼は窓から離れた。正面に向き直るとシートに座ったままずるりとだらしない姿勢になり、頭が僕の肩辺りまで下がる。
「恨んでもね」
「どうにもならない?」
「どうにかしようと思えば出来なくはない」
「でもしない?」
 彼が母親似だとしたら、きっと美人だったんだろう。漠然とそんな事を思った。
「もういいかって。父さんも別にそれで浮かばれるわけじゃなくてね。そうそう、ここで毎日外を見ている理由だったね。なにを思っていたんだろうって思っただけだよ。母は父と並んで浮気相手に会いに行く間、なにを思っていたんだろう。そんな事を露も知らない父さんは母さんをどんな目で見ていたんだろう。一人で乗るようになってからの父はどんな気持ちでこの電車でなにを見てなにを思っていたんだろう。それくらいの事さ」
「なにか……見えました?」
「きっと満員電車だったんだろう」
「そうでしょうね」
「早く降りたい。そんなところだろうね。まったく」
 とんでもない皮肉だ。
 目を閉じてしまった彼の口元が少し歪んで、笑っている。壊れているわけでもなく、哀れんでいる訳でもない。単純に笑うしかなかったのかもしれない。彼は話した事で満足を覚える事が出来たのだろうか?
「暗い話に付き合わせて悪かったね」
「いえ、そんな事はないです」
「もしまた会ったら」吐息が零れる「いい加減もうやめた方がいいって言ってくれないかな。彼女も怒ってるって」
「分かりました」
 アナウンスが流れ、僕達が降りる駅が近づいてきていた。
 電車が速度を緩め、駅へと滑り込む。ドアが開き、智史と晶がホームから僕の方を見ていた。
 僕は目を閉じたままの彼に「それじゃ」と挨拶だけ残し、ドアをくぐった。
 ゆっくりと電車が再び動き出し、僕はそれを無言で見送った。彼はきっと明日もこの電車に乗っている。根拠はないがきっとそうだろう。果たして今度会った時、僕の言葉は彼に届くだろうか? 彼女とやらですら説得できないと言うのに。
「康弘? なに話してたんだ?」
「いや、なんでもねーよ」
 智史にそれだけ言うと僕は「行こうぜ」と二人を促す。
 電車の中では聞こえなかった蝉の鳴き声や、生温い風の音、駅の外ではしゃいでいるのだろう誰かの笑い声。
 いつもより、懐かしい気がした。

     

「て訳で、晶は適当にギター選んでていいぞ。なんなら五本くらい選んでもいいぞ」
「……はいはい」
「じゃあ俺はドラム見てくるよ。康弘はどうする?」
「俺は……教本と換えの弦でも取ってようか」
「じゃ、解散って事で」
 店内で別れて、僕は早速端の方にこじんまりと並べられている本棚へと足を向けた。
 一通り目を通すが、ぎっしりと陳列されてギターの教本だけでもかなりの量がある。素人の僕にはどれがいいのかなんてさっぱり分からないので、持てる限り持って帰ることにする。籠を手に取り本やDVDのものもあったのでそれも放り込んだ。あとは晶が気に入ったものを選んでもらえばいいだろう。
「……なんでこんなに種類があるんだ?」
 そんな事を言えばギターそのものだってそうなのだが、やっている人たちからすればきっと違いがあるのだろう。僕はコンマ数ミリと言う違いの弦も、適当に聞いたことがあるメーカーのものを選び詰め込む。
 後ろでは晶がなぜか申し訳なさそうにギターを取っては不恰好に首からぶらさげては陳列棚に戻すを繰り返していたが、ややあって弾いてみようと思ったらしく、近くにあった椅子に腰掛けた。
 締まりのない音が小さく鳴る。何度かそうしながら「……こんなもんだっけ?」と不安そうな晶の泣き言が聞こえた。僕はそこでアンプだのエフェクターだのと言ったものもそう言えば必要だったな、と思いついた。そしてなにも分からない初心者が扱うギターの音色がなんともしょぼいと言う事も。
「アンプに繋いでみたらもっといい感じになるんじゃね?」
「……そうなのか? ちょっとやってみるか。誰もいないし」
「よし、やってみるか」
 僕達は近くにあったアンプ――さすがにアンプがどんなものか位はすぐに分かった――を運んでコンセントに繋ぐとギターとアンプをコードで繋いだ。実際にはシールドと言うそうだがそんな事当然僕も晶も知りはしない。
 アンプには音を調節するためのつまみが幾つかあった。さて、と二人で首を捻る。
「マスター……これが音量だよな?」
「……ベースは低音じゃないかな?」
「あーだな、きっと。ゲイン……トレブル……? なんだこりゃ?」
 読んでみるが意味が分からない。
「……つか、ギターの方にも色々ついてんだがこっちも弄るのか? ……と、とりあえず全部普通にしておくか」
「……だな」
 屈み込むようにして二人で見ていたが、無駄な努力のようだと諦めた。
 とにかくせっかく繋いだんだから音を出してみようとなり、晶が再び椅子に腰を下ろしギターを構える。
「よし、いくぞ」
「おう」
 ――――。
 先程よりも随分大きいものの、締まりがないのには変わりがない音が空しく鳴り響いた。
 晶が納得がいかないのか何度も弦を弾くものの、何度やっても締まりがないどころか音が重なりすぎて、鳴らせば鳴らすほど単なる騒音にしか思えなくなってくる。
「なんじゃこりゃああああ!!」
「……貸せ! ちょっと貸せ!」
 ギターを奪い取り、自分でもやってみるがまったく変わりがない。
 CDで聞くような刃のように研ぎ澄まされたような鋭さなど一切感じられず、ただゴムに体当たりしたような鈍い感覚だけが残る。
「なんじゃこりゃああああ!!」
「ギター変えるか!? 違うやつでやるか!?」
「そういう問題か!?」
「やっぱ俺にギターとか無理だああああ!!」
「……お前らなにやってんだ?」
「智史!! やっぱ俺無理!! 絶対無理!!」
「……ちょっと落ち着けよ」
 店の二階へと上がっていたらしい智文が音を聞いて――ギターの音か、僕達の叫び声のどちらなのかはさておき――降りてくると、ギターを抱えたまま頭も抱えている僕達を半眼で見つめた。
 溜め息をつきながらアンプの電源を切る。
「だからこれから練習するんだろ? 大丈夫だって。ベース――浦澤って言うんだけどそいつギターも出来るらしいから教えてもらえばいいから」
「……あと二週間でこの「でーん」がとてもかっこいいものになるとは思えないぞ……」
「大丈夫大丈夫。それにたとえ下手でも大丈夫。プロじゃないんだから」
「……いや、これはサウンドと言うよりもノイズなんだが……」
 晶と僕の愚痴も「やるといった以上こんなところで諦めるわけにもいかないだろ」の言葉であっさり片付けられてしまう。ポジティブな智史。それはいい事なのだが、時と場合にもよる。晶はもちろん、参加しない僕も不安な気持ちを隠しきれない。
 だがそんな僕達よりも更に、智史は苦い表情を浮かべていた。
「それよりもっと根本的な問題がある」
「……これ以上の問題って、それもうどうしようもなくないか?」
「それは置いておいて」
「で、なんだよ?」
「……ドラムが、ない」
「…………」
「…………」
 なにを思ったか晶がでーんと再び鈍い音を鳴らす。
 僕にはそれがこれからの前途多難な道の始まりを示すかのような、不吉なファンファーレに聞こえた。
「なんじゃそりゃあああああ!!」


「……初心者でも少しはやってるんだろ? 自分で持ってないのかよ」
「持ってたらしいんだけど、壊したらしい」
「なんでだよ!?」
「……これ以上ドラムやってもしょうがないと思って記念に壊したとか言ってたな」
「……あ、そう」
 ギター二本。アンプ。エフェクター。ピック。教本。
 それらを持って乗り込んだ帰りの電車の中で、僕と晶は智史の言葉に溜め息を吐いていた。
 ドラムを壊した事――原田と言うらしい――には状況が状況だけに文句を言う事も出来ない。
 僕達は途方にくれたようにシートにぐったりともたれこんだ。まさかスタートラインに立つ事から躓くとは予想だにしていなかった。
「……他の楽器屋を探してみるか。原田と浦沢に聞いてみたら分かるかもしれないし」
「……あればいいけどな」
 気乗りのない返事を返したからか、ふと沈黙が訪れた。
 軽く舌打ちをしながらどうしたものかと思っているとポケットに入れてあった携帯が音を立てる。
 ディスプレイを見る。画面には遥の名前が表示されていた。通話ボタンを押す。
『もしもし?』
「おー、どうした?」
『なんか元気なくない?』
「ちょっと今問題があって困ってる」
 電話越しに『なにそれ?』と言いながら笑っているのが分かる。
「それよりお前もはやく帰ってこいよな。皆気にしてねーから」
『分かったわよ、しつこいなー。行きたい時に行くって。元々そういう奴でしょ? 私』
「自分で言うか。で、なんか用か?」
『いやー暇だったからよかったら付き合ってくれないかなって』
 一体彼女は今どこで誰となにをしているんだろうか?
 聞いてみようかと思うが、聞いたところでどうなる訳でもない。
 智史に時間を聞いてみる。午後二時。もう麻奈も学校に来ているはずだった。
「あー悪いけど今日はちょっと無理だわ、わり」
『そうかぁ。残念。こんな可愛い子が誘ってるのに』
「やかましいわ。そんな可愛いなら他にも幾らでもいんだろ」
『アンタねぇ、そんな事言うから彼女出来ないのよ』
「ははは。馬鹿か、お前は」
『なによ』
 訝しげにそう言う彼女に僕は自慢げに口を開いた。
「俺は彼女持ちだ」
『嘘!? いつ!? 誰!? って麻奈ちゃんか。へーそうなんだ。よかったじゃん』
「なに!? お前いつの間に!?」
 まだ言ってなかった晶が、僕の肩を強く揺さぶってきた。智史も驚いて僕を見ている。
 その反応に僕は笑いながらも、宥めるようにシートへと押し返す。
 一方で電話越しの遥は『おめでと』と和やかだった。
『なんだぁ、けどたまには遊んでよね』
「遊べたらな」
『なんか余裕って感じでむかつくわ。まぁ、また誘うわね。あ、ところでさっきの問題ってなんだったの?』
「あー、あれか。いや、そういえばお前ドラムとか持ってないか?」
『ドラム? ドラムって楽器の?』
「そう、それ」
 大して期待もしないが、彼女の広い交友関係があれば一人くらい持っている奴がいるんじゃないだろうか。とは言え大量に消されたアドレスの事を思うとあまり当てにならない。
『うーん、私は持ってないなぁ』
「そうだよな」
 しょうがない、と思いかけたその時
『けどドラムあったよ』
「なに!?」
 その遥の言葉に僕は思わず腰を浮かした。
「どこにあった!?」
『ちょ、うるさい! どこって、音楽室に私いたじゃん。準備室にあったの見たよ』
「…………音楽、準備室、だと」
『そうだけど……っておーい、聞いてる? もしもし! もしもーし!』
 しばらく放心。
 なんてこったい。そんな身近なところにあるなんて。
 だがそれ以上に、なんて最悪な場所にあるんだろうか、と僕は思わず空いている手で頭を抱えていた。
 隣では智史が僕のリアクションで思い至ったのか期待に満ちた目をしている。
 そして逆隣では未だに晶が「お前! いつのまに彼女なんか作ったんだー!」と叫んでいる。
 出来るなら、人を消したい時に消せるような力があればいいのに。

     

 学校へと帰り帰ってきた僕達は、原田と浦沢の二人を屋上に呼び出すと五人で顔を見合わせた。
 先程交わした挨拶の時は和やかな雰囲気だったが、今は全員が歯軋りしそうな表情を浮かべている。理由はドラムについてだった。
「音楽準備室にドラムがあるのは確実なんだよな」
 そう切り出す晶に智史が無言で頷く。
 返答してきたのは浦沢だった。
「もしよかったら、僕も他の楽器屋回ってみるけど」
「けど時間がもったいなくね?」
 そう言った僕に全員が視線を浴びせてくる。なにが言いたいかはすぐに分かった。
 時間以上のなにかを失うかもしれないぞ。
 大体、そんなところだろう。
 やれやれと僕は煙草を取り出し火をつける。
 音楽準備室は音楽室の隣にあり、廊下から入る事も出来るが、音楽室とも直接ドアが繋がっている。簡素な造りのそのドアは、物音などがすればすぐに向こうへと聞こえるような代物だ。無論、防音対策などする必要もないのでそれはしょうがないのだが、それが今、僕達にとっては大きな問題だった。
 音楽室にいる連中――と言うより仙道の存在が僕達の肩に大きくのしかかるのを感じた。先日の騒動を思い出す。僕がのめした二人も、まさか僕達がのこのことドラムを運び出しているところを見かければ、黙ってはいないだろう。
「……まぁ、面倒くさい事にはなるだろうけどさ」
 あれ以来騒動は起こしていないようだったが、相変わらず三年生との奇妙な緊張状態は続いているようで、皆近付かないようにしている。
「長瀬さんに頼んでみるとかは?」
「……それはちょっと可哀相だろ」
 原田の妙案だが、智史がそう言うと黙り込んでしまう。僕はやっぱり同じ学年でも親しくなければ「さん」付けをしてしまうものなのか、と思いながらどうするべきかを考える。
 とは言え、選択肢は二つしかない。
 するか、しないか。
 ドラムさえ手に入れば後は――晶のギターはともかく――簡単な事だ。そしてドラムがなければ始まりもしない。
「でも、なんとかなるんじゃないかな」
 そう言ったのは能天気そうな顔をした浦澤だった。
「ドラム取ってくるだけでしょ? 今こうやって五人いるし、皆で行けばすぐ片付くでしょ。パッとやってパッと終わらせちゃおうよ」
「いや、けど、見つかったら仙道とかなにしてくるかわかんねーぞ?」
「分からないけど、殺されはしないでしょ」
「殺される寸前とか」
「その時はドラム放り出して逃げちゃおう」
 晶の心配そうな顔など意に介さず、なんだかふわふわした感じのある彼は気楽そうにそう言う。僕は彼と話した事は殆どないのだが、少し浮いた感じがあるが、その気楽さの向こうにはなんだか鋭いものがあるような気がした。きっと彼は迷う事など殆どないのだろう。
「そうだな。やるしかないか」
「ま、智史がそう言うならやるしかないな」
 僕は座っていた姿勢から立ち上がると、大きく煙草の煙を吐き出し、弾いた。
 智史の言葉にはいつだって重みがある。本人だって分かっているその重みを込めてそう言うなら、僕達はそれに説得されて、納得するだけだ。
 案の定晶と原田もその言葉に促されて渋い顔をしながらも「じゃあ、やろうか」と頷いている。
 大川智史と愉快な仲間達プラス柳康弘。

     

 ドアを開け、閉めようとしたが、既に手遅れだったようだ。
 いや、もう少し分かりやすく言うなら、屋上からそのまま音楽準備室へと僕達はやってきた。廊下には三年生達の姿がいつものように見かけられたが、音楽室と音楽準備室の前にはぽっかりと空間が出来上がっていた。僕達はお互いに頷きあうと、音楽準備室へと進む。スライド式のドアの前に立ち、先頭に立っている僕は一度だけ皆の方に振り向いて目配せをして確認し、自分を落ち着かせるように、一つ深呼吸をした。ドアに手を伸ばし、すっと横に力を動かす。大して音もなくドアが開き、塞がれていた視界が開けていく中、僕は確かにそこにドラムがあるのを見た。そしてそのすぐ傍に仙道と、確かにあの日僕が殴った奴もいた。まぁ、それだけの事だ。
「あぁ、康弘だ」
 それだけを聞くと、なんだか朗らかに聞こえてしまうが、笑った唇の隙間から見える犬歯は相変わらず凶暴そうに尖っている。僕は想像していた以上にあっさり見つかってしまった――と言う事すらなんだか違う気がするが――事に一瞬我を失ってしまい、身動きを取れないでいた。
「お前、なんの用だよ!」
 そう叫びながら、数人がこちらへと近付いてきた。肩を押され後退する。僕達はあっさり廊下の端から反対側の端へと追いやられてしまった。そして音楽室からも物音を聞き分けた連中が顔を出してきた。何事か分かっていないようだったが、それでもするべき事を理解したのだろうか、ぞろぞろと全員があっという間に僕達を取り囲んだ。既に手遅れだと後悔した時には逃げる事も出来なくなってしまっている。僕はざっと人数を数えたが十五人以上はいるようだ。
「ちょっと待ってよ。いきなり取り囲む事もないでしょ」
 浦沢が、僕よりずっと冷静な面持ちでそう口を開いた。僕は未だに五人の先頭にいるので皆がどんな表情をしているのかまでは分からない。
「うるせぇ! なんだ、お前らこの前の仕返しにでも来たのか? あぁ!?」
 集団の一人がそう叫ぶ。僕は見覚えがあまりないのだがそう言うと言う事はあの日教室に来ていた一人なのだろう。
「いや、違うって! 俺達はちょっと用があって……」
 晶が弁解する。
「俺らになんの用があるって言うんだ、こら」
「いや、用があるのはお前らじゃない」
「あぁ!? んだと!?」
 ちょっと全員黙ってくれないだろうか。
 見当違いのまま、お互い噛み合わない会話をしている周囲に釣られて僕も叫びだしそうになるが、なんとか抑える。このまま浦沢に喋らせていると、すぐにでも手が出てきそうな勢いだったが、かと言って他にまともに言葉を伝える事が出来そうなのが智史くらいだろうが、上手く切り抜けるための言葉をまだ見つけられないでいた。
 だがその沈黙の間にも回りは俄然ヒートアップしている。
「ドラムが欲しいんだ。使ってないんだろ? それだけ取ったらすぐに帰るから」
「はぁ? ドラム?」
「そう」
「……で、はいそうですか、とか今更言うと思ってんの?」
 なんだ、仙道は輪に加わってないのか。
「別にお前らのじゃないだろ」
「うっせーんだよ! 浦沢! てめーの態度は元から気にくわねぇんだよ!」
 あぁ、浦沢って本当自分が思ったことズバズバゆー奴だなー。
「……ちょ、ちょっと落ち着いて話そうよ」
 あぁ、この声は原田か。
「うるせぇ! なんだてめぇ!」
 うるせぇのはお前らだ。
 どうやら自分も限界を超えてしまったようだ。
「ああああああああああああああああうるせえええええええええええええ!!! お前ら全員ぶん殴るぞこらああああああああ!!!」
 図らずも集団のど真ん中で叫び声が上がり、唐突に沈黙が訪れた。
 肩で息をしながら全員を睨むが、どうも逆効果だったらしい。
「上等だこらあああああああああああ!!!」
「やってやるよ!! くそが!!」
「やめろよ!!」
 智史がもう説得は無理だと――僕のせいだが――諦め、一歩前に出る。僕も伸びてきた手を払おうと右手を咄嗟に前へと出す。
 こうなったらやれるところまでやってやろうじゃないか。そう思ったときだった。
「やめないか!」
 まるで授業中に騒いでいる生徒達を叱る教師のような言い方で、そのよく通る声は響いた。
 再び沈黙が訪れ、僕達全員がそちらへと視線を向ける。
 大して横幅があるわけでもない廊下にもう一つ集団が現れた。先頭にいる諏訪先輩を見て、僕はなんとなく安堵する。彼の後ろにいるのは三年生の男子達だった。所々に運動系の部活でならしている顔も見える。
「お前らいい加減にしろよ」
 確か野球部のキャプテンだったと思われる男が、鍛えられているらしい体をシャツから覗かせながらこちらへと諏訪先輩と近寄ってきた。音楽室の連中も相手が悪そうだと思ったのか、先程の威勢が少し収まったようである。
「なにが理由かは分からないが」
 諏訪先輩がメガネを正しながら、
「これ以上好き勝手な振る舞いをするなら、僕達もそれなりの対応をさせてもらう。君達を音楽室……いや、この学校から追い出す事にしようと思う。力づくでもね」
「はぁ? お前らにそんな権利あるのかよ!」
「権利を主張するなら、集団で生活する事の義務を果たすべきだ」
 言い終えて、メガネから手を離した。レンズの向こう側の目は素早く僕達一人一人を捉え、誰もがなにかを言おうとするも圧倒されてしまっていた。そうしている間にも三年生達はこちらへと歩みを進める。
 なんとか騒動は収まりそうだ。僕は安堵と共に深い溜め息を吐いたが――
 パン、パン、パン、パン。
 音楽準備室から、そのゆっくりとした拍手が鳴り響いた。先程から全員の視線が忙しなくあちらこちらへと向かうが、多分、これが最後だろう。僕はそのドアの向こうにいる男の事を思い出して、やや絶望的になる。
 ひょこりと顔を出し、相変わらずにやにやと笑っている。
 なにがそんなに楽しいのだろうか? 今の状況を理解しているのだろうか?
 仙道悟は、悪戯がばれても自分だけは逃げ切った子供のような軽やかな足取りで、僕達の横を通り過ぎると諏訪先輩の正面に立った。
「いい事ゆーねぇ、諏訪ちん」
「話は聞いただろう、仙道。分かったら彼らを解放して音楽室にもど――」
「やだ」
 仙道が左足を軽く開き右足が少し後ろに下がった、それと同時に腰が下がる。
「諏訪先輩!」
 その動きに気がつき、叫んだが手遅れだった。
 腰がぐるりと回転しながら、右腕がその勢いによって前方へと突き出される。硬く握り締められたその拳は、諏訪先輩の顔のすぐ傍を通過し、隣に立っていた野球部のキャプテンの鼻へとめりこんだ。
 あまりに一瞬に行われたその動きに、身構えていたはずの彼もよける事も受ける事も出来ず、あまりの痛みに体を折り曲げて顔を両手で押さえる。
 仙道以外の人間の時が止まってしまったかのようだった。彼はそのよろけた体から、半身ほどずれた位置から飛び上がると、がら空きになっている彼の後頭部めがけて蹴りを放った。まるで予定調和のプロレスの延髄切りのように綺麗に決まったその一撃に耐え切れず、廊下へと寝転がる。
「はははは」
 笑いながら、倒れた彼の頭を靴の裏で思い切り勢いをつけて踏みにじった。
 時間にしてほんの数秒だろうか。仙道がそのままなんとなくかぶりを振る。
 声に出ていた笑い声とは裏腹にその表情には笑顔はなかった。僕は仙道のそんな顔を初めて見たような気がする。
 その鋭く射抜くような目を見ただけで、誰も無事にこの場を去ることなど出来ないと誰もが理解した。
「お前!!」
 数人の三年生達が彼を取り押さえようと飛び掛る。
 僕も少し遅れてそちらへと近付こうとするが、集団の真ん中にいたせいで手間取ってしまう。肩を抑えながら隙間を通り抜けるが、そうしている間にも既に三人仙道の足元に体が横たわっていた。
「仙道! いい加減に――」
「諏訪ちん。俺バカだからね、あんたの言葉意味わかんないや」
「っ……」
「先輩なんだからぁ。後輩がついてこれるやり方でやってほしいなぁ」
 仙道の手が大きく振りかぶられた。
 僕はようやく人の群れから抜け出すと二人の下へと滑り込む。
「おらぁ!」
 振り下ろされた仙道の腕目掛けて、僕は足を振り上げた。目測も適当なままだったが二人の間目掛けて思い切り伸ばす。
 目前に火花が散ったような衝撃と共に、仙道の腕が軽く折れ曲がり、諏訪先輩の顔面に届くと言う寸でのところで動きが止まった。
「仙道、お前殺すぞ!」
 二人の間に体をねじ込ませ対峙する。
 空気まで固まったかのような中で僕は、掌を硬く握った。
「てめーが殺されろ!! 柳!!」
 周りの連中が騒ぎ出す。三年生も負けじと身構える。
 今にも全員で取っ組み合いのけんかが始まってもおかしくなかった。
 そんなに離れてはいないと思われるが「もうやめろよ!」と叫んでいる智文の声がやけに遠いような気がした。
「なんか大事になっちゃったなぁ」
「お前のせいだろ、おい」
 周りが喚く中で、仙道がお気楽そうに呟いた。その表情もいつの間にかいつものニヤニヤとしたものに戻っている。
「俺面倒くさいの嫌いだ」
「数人ボコボコにしといてなに言ってやがる」
「だってそうしないと俺達が負けたみたい」
「勝ち負けとかどうでもいいんだよ! 余計な事しやがって!」
「じゃあやめ」
「はぁ!?」
「もうやーめーた」
 その一言に、全員がピタリと動きを止める。
 とは言え、なにを言っているのかすぐには誰も理解出来なかっただろう。
 それに理解出来たからといって納得も出来ない。
「ここまでやっておいて今更ふざけるなよ、仙道!」
「お前ら全員学校から出て行け!!」
 三年生側がそう叫ぶが、仙道が睨むと黙り込んでしまった。
「めんどくさ」
 そう言いながら銀髪をがりがりと掻き毟ると、ややあって「じゃあこうしよう」と手と手を叩く。
「勝負しよう。俺と柳で」
「はぁ?」
「タイマンしよう。タイマン。負けたほうが勝ったほうの言う事聞く」
 ようはタイマンって言葉を使いたかっただけじゃねーのか、お前は。
 つい、そんな事を聞きたくなるほど、能天気そうな表情で、仙道はそう言った。

     

「分かったよ。やってやるよ」
 その台詞に満足そうに仙道は微笑み「じゃあ、他の奴ら帰すように柳言って。俺もこいつら音楽室に帰すから」と言うとさっさと「お前ら戻っていーぞー」と両手を大きく払ってみせた。中には気に食わない連中もいたようだったが、仙道に逆らうわけもなく全員が音楽室へと戻っていく。
「柳君。本当にいいのか?」
 諏訪先輩が心配そうに僕に尋ねてくる。
「まぁ、元々俺らが蒔いた種ですから」
「そんな事言ってる場合じゃないだろう。只じゃ済まないかもしれないぞ」
「そこらへんは覚悟しときます。それより俺が負けてあいつがメチャクチャな要求とかしてきたらどうしましょう?」
 諏訪先輩は参ったなと言いながら溜め息を吐いて、
「もし、そうなったとしてもその事は僕達が責任を持とう。とにかく無理はせずに、引き際を間違えるんじゃない」
「大丈夫っすよ。それに」
「それに?」
「俺が負けるって決まった訳じゃないでしょ。勝ったら音楽室の連中全員に反省文でも書かせてやりますよ」
 それとも、諏訪先輩達が言っていたように学校から追い出すべきなのだろうか?
 僕は少しやりすぎじゃないかな、それは。と思いもしたがとにかく今考えてもしょうがないだろう。
「ま、あのまま全員でやりあい続けるよりはマシって事にしましょう」
 気丈にそう言ってのけると智史達の方へと顔を向けた。
「じゃ、行ってくるわ」
「康弘、いいのかよ?」
「まぁ、俺なら手が使えなくなってもギター弾くわけじゃないから大丈夫だろ」
 晶にそう茶化して返し、
「あと浦沢……お前ちょっとなにしでかすか分からなくて怖いぞ」
 と少し皮肉を言っておいた。智史にも「後でな」と告げると、僕は握り締めた掌を彼のほうへと突き出す。
 彼も同じように拳を握り、無言のまま、こつんと押し当てた。


「どうする?」
「なにが?」
「柳が勝った時の俺達にする命令の事」
「あぁ」
 僕よりも先にやってきていた仙道はTシャツを脱ぎタンクトップだけになっていた。こうやって見ると意外と細身に見えるのだが、やはり無駄な肉はついておらず引き締まっているのが分かる。
「とりあえず、俺が勝ったらまずは他の奴らに迷惑をかけたり邪魔するとかそういう事を一切するな。これは遥にもだぞ。学校の中では静かにしろ。あとはドラムを貸せ」
「出て行けとは言わないの?」
「そこまでは言わんから、せめて大人しくしろ」
「いつも甘いなぁ、柳は」
「やかましい。で、お前が勝ったらどうすんだ?」
「じゃ、内緒」
「ふざけんなこら」
 ビシっと胸の辺りを指差す。
「先に言わないといけないとか言ってないし」
「ふざけた条件だったらタイマンしねーぞ」
「うーん」
 わざとらしく悩む素振りを見せる。
「じゃあ遥と仲直りするの手伝って」
「お前な! ちゃんとやる気あんのか、こら! あとでそれ以上の事言っても聞かないかんな! 後悔すんなよ!」
「おお、こわ」
「もういい! 俺がお前をけちょんけちょんにのめしてやるからなに言ってもどうせ無駄だかんな! おら! もうさっさとやんぞ!」
「えーなんか、こんな始まり方かっこ悪い……」
「うるせ!!」
 僕は地団太を踏みながら、拳を握り前に出す。
 彼のいつものふざけた調子にペースを乱されそうになるが、一息ついて気分を落ち着かせる。あえてどうでもいい事を考えてみる。
 例えばこれが勧善懲悪なマンガだとしたら勝つのは正義だ。
 さて、正義はどちらにあるだろう? 僕の勝手な意見を言わしえもらえば、僕が正義だ。間違いない。
 よし、じゃあ勝つのは僕だ。じゃあ、さっさと始めて終わらせようじゃないか。しかし台詞だけ見れば俺の方が小悪党みたいだな。
「しょうがない」
 その台詞が、もう会話は終わりだと告げていた。仙道の手が軽く握られて構えられる。
 僕はそれを確認してそのまま前へと飛び出す。
 じゃっ、っと踏みしめた砂が音を立てるのとほぼ同時で懐へと飛び込んだ。不意をつかれたのか、意外な行動だったのか仙道が一歩だけ後ろに下がる。そこを狙って僕はローキックを入れる。
 鈍い衝撃を感じる。大した痛みではないだろうが動きが止まる。逃さず僕は腕の隙間を狙い腹部を狙った。
 振りは小さく。最短距離を狙う。右腕が吸い込まれ、確かな感触を得る。
「しゃあ!」
 そのままもう一撃を加えようと、息を吐いて刹那――
「ふん!」
 僕の伸びた右手の外側から、なにもかも薙ぎ倒すような、左フックが大きく弧を描いて僕の頭へと向かってきた。風圧すら感じそうなそれを、後ろの方へ上体だけ逸らし、寸ででよけるが、その間に仙道の右手が素早く僕の腕を掴んでいた。
 そのまま急激に引っ張られ、僕はなんとかこらえようとするが、そのせいで体制を崩す。前のめりになったところで髪をつかまれた。
 やば、と思った時には腹に膝蹴りが飛んでいた。目の前が白くなるような痛みで声にならない声が漏れる。
 それでも僕は、その足を掴むとお返しと言うように崩れた体勢のまま、仙道へと倒れこむように押し込む。
「お、お、おお」
 片足でバランスを取れずにいる仙道の、残った足の裏側へと足をかける。運動場の地面へと僕達は倒れこむ。背中を打ちつけ呻いている仙道の顔面を殴る。顔が歪んだところで僕は馬乗りになった。もう一発殴ろうとして、その手を仙道が取ろうと狙っているのを見て、一度止める。
「来い来い」
「……余裕だな、お前」
「まだ始まったばかりだし」
「もうこれで終わりたいんだけどな」
「じゃあ、早く、ほら。どうせ殴るか止められるかしかないし」
 一度でいいから、こいつの困ったような顔を見てみたいものだ、と思う。
 仙道を見下ろしながら、僕は右手と左手を両方構える。同じように仙道の手もこちらへと伸びる。
 右手を腹に向かって振り下ろす。
 仙道の予想は外れたようで、なんの抵抗もなく入る。
 すぐに左手を――と見せてまた右手で今度は顔面を殴る。これも上手くいく。
 堪えたのか、仙道の手が少し下がった。僕はそこを逃さずに一気に殴りかかる。何発か入った。
 だが、そこで素早く仙道が僕の腕を掴む。どうやら殴られる事は諦めて捕まえることに集中したようだった。僕は舌打ちをして、振り解こうとするが馬鹿みたいな握力がそれを許さない。
 ぐいっと引っ張られ、頭を抑え付けられると僕達は寝たまま抱き合うような格好になる。だがそれは一瞬の事で開いた手で僕の腹を一気に持ち上げる。
 まるで空からの重力に引っ張られるように、ぐんと体が宙を舞うのが分かるが、僕は同時に仙道の体を反対の方へと押しやる。その勢いで頭を抑え付けていた手が離れ、僕は地面を蹴って素早く立ち上がり、マウントを取られないようにするが視界から仙道を見失う。
 振り向こうとした時には、派手に飛び上がった仙道の飛び蹴りがこめかみ辺りに鋭く入っていた。着地するのと同時に背中を思い切り蹴られる。
「やべ……」
 なんとか倒れずにふんばるものの、左手を取られ、無理やり前を向かされながら裏拳を顔面に決められる。更に追い討ちをかけようと、左足を体の外側から回し蹴りのようにして打ってくる。
(ざけんな、こら!!)
 上体を無理やりに沈める。大きく体を捻ったため、掴んでいた手が離された。
 仙道よりも早く体勢を立て直す。僕は横向きのまま肘打ちを放つ。後頭部に決まったところで僕は今度は腹を殴った。仙道の体が折れる。
 荒い息が聞こえる。それが僕のものか仙道のものか分からない。恐らく二人ともだろう。
 僕は動きが止まった仙道の腹を目掛けて蹴りを入れようと半歩後ろに下がる。
 ジャリ。砂の感触を確かめ、僕は腰を落とし、一歩、ドンと砂が巻き上がるほど踏み込み蹴り上げた。
 スローモーションのように、僕の足が伸びるのと同時に仙道の上半身も舞い上がった。まるで待っていたかのように、その蹴りを見事に交わすと素早く体を回転させその勢いを全て殺さないままに裏拳を放つ。交わすことなど出来るはずがなく、僕の体は糸が切れた凧のように地面へと落下した。
 ゴツン、と鈍い音がする。仙道が倒れた僕の頭を思い切り蹴り上げていた。僕は地面を転がる。追い討ちはそこで止まず、頭から足まで、思いつく限りの場所を延々と蹴られ続ける。
 うつ伏せになっていたところを更に蹴り上げられ、転がると青い空とそれを遮るように僕を見下ろす仙道の姿があった。そこには笑顔など欠片もない。先程見た、全てを凍らせるような眼差しがある。目が合ったところで、僕はもう一度仙道の振り子のように勢いのついた爪先によって転がされた。
 砂利が口の中に入り込むが、それを吐き出す余裕もない。
「……もういい?」
 ぜぇ、ぜぇ、と荒い息を吐きながら仙道がそう言うとようやく攻撃が収まった。
「…………」
 僕は口を開くことも出来ず、小運動場で無様に寝転がっている。その背中に仙道が腰を下ろした。
 カチ、カチと音がライターの音だと気がつくのと同時に、煙草の匂いがしてきた。
「俺の勝ちって事でいいよね?」
「…………」
「じゃあ、お願いしちゃおうかなぁ」
「……だ」
「え?」
「……まだだ」
「……しつこいな」
 僕は震える両手を地面へと這わせると、僕の背中を椅子代わりにしている仙道をそのままに起き上がろうとする。だが、大して力を入れているようには思えない彼の重みに負けて動く事が出来ない。それでも諦めずに粘っていると「しょうがないなぁ」と言いながら仙道が立ち上がった。
 なんの負担もなくなったが、それでも僕は――どうやら震えているのは腕だけではないようだ――のろのろとした動作でたちあがるのがやっとだった。
 煙草を口に咥え煙を吐き出す仙道を睨む。
 そこにはいつもの仙道がいた。ニヤニヤとした嫌みったらしい笑みを浮かべた仙道。
「……もう無理だよ、柳」
「……うるせぇ……いいか。俺が勝った時お前……どうするか覚えてるか?」
「忘れた」
「……そっか……じゃあ俺が勝った後でまた教えてやるから心配すんな」
 ずるずると僕は足を引きずりながら――上げることが出来なかった――、仙道へと近付く。彼は距離を取る事も構える事もしなかった。僕はおぼつかない手を伸ばし、彼から煙草を取り上げ地面に捨てると、両腕を肩へと置いた。
「ねぇ、柳」
「あぁ?」
「他人のためにそこまで頑張るお前かっこいい。遥がお前の事気に入るの分かる。俺も好き」
「……うるせぇ。いいか……お前は次の一発で殺す」
「はーいはいはい」
「――――」
 仙道の体を支えにして頭を大きく振りかぶった。
 頭突き。僕が出来るのはもうそれくらいのものだった。勢いよく仙道の額目掛けて振り下ろす。
 ガツン、と音がして――
 僕はその場に崩れ落ちた。


「……なんでも言えよ」
 胡坐をかいて、寝転んだ僕の隣に座っている仙道にそう告げる。
「だから、最初に言った。忘れた?」
「……遥との仲直り手伝えってか? ふざけてんのか、お前」
「いや、真面目」
「……お前な」
「なに?」
「……もっとあんだろ。自分を追い出そうとした奴らを逆に追い出すとか、もっと好き勝手やらせろ、とか」
「柳バカだな。そんな事しても俺面白くない。今でも好き勝手やってるし」
「……あぁ?」
「柳、俺達あと少しで死んじゃうんだよ。そんな時にどうでもいい奴の事なんてどうでもいい。それより遥と仲直りしたい」
「……遥と仲直りできたらあとはどうでもいいってか」
「イエスイエス。ドラムもあげるから」
「……じゃあ、最初からそう言えよ!」
「だってタイマンやってみたかった」
「アホか、お前は!?」
 僕は体中が痛みながらも叫ばずにはいられなかった。
 一体なんのためにこんなボロ雑巾になったのだろうか。
「……大体、俺が言ってもあいつが素直に聞くと思うか?」
「そういう条件だし」
「……じゃあ、せめて話を二人で出来るくらいにしてやったんでいいか?」
「分かった。遥俺が電話しても取ってもくれないし」
「……じゃあ言うだけ言うけど後の事は知らないぞ」
「はーいはいはい」
「じゃ、もう行け」
「柳は?」
「動けねーから放っといてくれ」
「手伝おうか?」
「いい。動きたくない。なんか空しくなってきたし」
「じゃあ、行く」
 そう言うと本当に迷いもせず、多少ふらつきながらも後にしようとする仙道を僕は呼び止めた。
「なに?」
「煙草くれ」
「セッタでいい?」
「……おう」
 口に無理やり煙草を押し込まれると、仙道が火をつける。僕はなんとか小さく吸うと煙草が赤く灯った。
「……にげぇ」
「マルボロの方が苦い」
「……そうじゃねえよ。口の中砂が入っちまった」
「それはしょうがない」
「……ったく。じゃあもう行けよ」
「はーいはいはいはいはい」
 今度こそいなくなり一人きりになる。僕は砂を吐き出すのも面倒くさく、そのまま煙草を吸う。
 体中が錆びてしまった鉄のようにちょっとでも動かすと、ミシミシと鈍い音が鳴りそうだった。
(どっちが正義か……か)
 そんなものあったのだろうか?
 僕も仙道も、正義でも悪でもない、ただ死ぬ事に恐れを抱いている単なる一人の人間だったんじゃないだろうか?
 仙道も、残り少ない時間を自分のために精一杯生きようとしている。まだ残っている生を甘受しようともがいている。
(……自分で言ったもんな)
 やり方は違えど、それぞれの最善。
 仙道だってそれは変わらない。
(……けど時と場合ってもんもあるよな)
 そのままにしておいた煙草から伸びた灰が崩れ落ち、僕の顎の辺りに落ちた。ややあって崩れ風と共にどこかへと飛んでいった。
 僕は目を閉じる。背中に張り付いている砂が小さく音を立てて、僕は「……いてぇ」と呟きながら口の中にも広がる砂をぎりり、と噛んだ。
 その味は、苦い。

       

表紙

秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha