Neetel Inside 文芸新都
表紙

落下
「八月二日」

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 棚に置かれているデジタル時計が「0:00」になり日付が変わった。
「……お前どうすんだよ」
「……なぁにがだよ」
 僕は、自堕落に床で寝転がり顔を赤くしている智文を、半眼で見下ろした。
 だらしなく伸びた手の傍に、ビールの空き缶がコロコロと転がっている。僕も少し浮遊感のようなものを感じてはいたが、彼よりはまだまともだった。飲みだしたのは二時間もは経っていないはずだが、いつもより速いペースで飲んでいたようだ。そもそも智文は元々酒に強くない。
 この状態で家に帰らせるのは到底無理だろう。僕はしょうがねーなー、と毒づきながら彼の体を抱えベッドへと引きずっていった。うつ伏せで布団に顔をうずめてはいるがまさか窒息したりはしないだろう。
「ベッド使わしてやるけど吐くなよ」
「……大丈夫だって」
 意識もあるようだし、放っておけば適当に寝るだろう。酔っ払いは放っておくに限る。
 僕は安物のソファベッドに腰掛けて、余った酒を飲みながらマルボロに火をつけた。
「……なぁ、康弘」
「んー? トイレは自分で行ってくれよ」
「真面目な話だーよー」
 その台詞から真剣さを汲み取れ、と言うのにはさすがに無理があるが彼の中ではきっと、真面目なつもりなのだろう。
「なんだよ」
「……だからぁ、あれだろ? 康弘がこっちに残る理由って、麻奈の事だろ?」
「……なんだよ、いきなり」
「そーれしかぁないだろー」
「あーもううるせー」
 その追求から逃れるように、ソファにあったクッションを掴み、智史へと投げつける。見事に頭へ命中したがどうやらクッションが当たったこと自体気がついていないようだった。と言うより智史は自分がなにを言っているかも分かっていなかったのかもしれない。もう麻奈の事は忘れてしまったようだった。
「俺、里美の事が好きだったんだ」
「……知ってる」
「なんでだ!?」
 嘘が下手すぎる上、本心もすぐ顔に出るお前と一緒にいて、気付かない方が凄い。だが残念な事に里美には彼氏がいた。夏休み中に会った麻奈から聞いた話では、二人は最後の思い出作りと称して旅行へと出かけたらしい。もしかしたらここにはもう帰ってこないかもしれない。そうだとしたら、もう智文は彼女の顔をもうこれから見られないまま、死んでしまうのかもしれない。
「まぁ、いいんだよ。どうせ実らない恋だし。どうせ振られるの分かってるし。どうせ告白しても振られるし。どうせ実らない恋だし。どうせ彼氏いるし」
 全然変わらない内容を延々愚痴っている智文になんて言えばいいか分からず「つか里美のなにがいいんだよ」と突っぱねた。そうだ。僕らに残された時間は皆同じだ。その中で誰かが楽しんでいるのに、それを見て羨んでいるだけなんて、そんな事でいいのか。こんな男二人で愚痴って、満足してたんでいいのか。
「全部」
「いやいや、あいつ結構きついとこあるし、ずぼらだし、話聞くにはビンタとかするらしいし」
「そーゆーところも全部。悪いところもあるかもしれないけど、そのマイナスよりプラスの方が多いからいい」
「いいか! 智史! 確かに失恋は辛いが、いつまでも引きずるな! 次行け! 次!」
「次とかぁ……ないだろ」
 それ以上返事をせず、正確に言うと出来ず、僕は逃げるように灰皿に置いてあった煙草に手を伸ばし、とっくに火が消えてしまっていた事に気がついた。舌打ちをし二本目に火を点けながら、静かな部屋と真っ暗な外に包まれて、僕の返事は必要ではなくなった智文の呟きを聞く。
「次とかないって」
 それは悲しい。
 古い傷を癒す時間も、思い出を忘れる時間も、新しい喜びを探す時間も、きっと一ヶ月では到底足りない。
 智史はどれくらい酔っ払っているんだろう。最後の言葉ははっきりとしていた。
 僕は、友人の失恋になにもしてやれない。きっと優しい言葉をかけたって同じだったんだろう。
「そうだよな。お前は偉いよ」
 きっと智文はその傷を負いながら、片思いを続けて死ぬんだろう。
 僕はのそのそとテーブルに投げ捨ててあった携帯電話を取り、画像データを開く。僕と麻奈の二人で取った写真が映っている。地球が終わる事なんてなにも知らなかった頃の無邪気に微笑んでいる顔。そして少し照れくさそうな。
 智史の寝息が聞こえてきた。僕はしばらく画像を見て「あーあ」と大げさに呟くと、折りたたみ式の携帯を閉じ部屋の電気を消し、ソファベッドに寝転がる。
 泣きたくなった。理由がどれなのかは自分でも分からない。
 泣いてしまおう。理由なんて分からないまま、泣きたいまま泣いてしまおう。
 僕は目を閉じた。

     

 携帯電話が鳴っているのを、重い意識の中で聞きながら今何時なんだろうと考えた。
 肌に感じるじわりとした温さで、きっと昼が近いだろうと憶測する。
「おい、康弘」
 この声は智史だろう。そうだ、昨日こいつは酒に酔って俺の家に泊まっていったんだった。着信音からしてメールじゃなくて電話だと言う事と同時に確認する。返事をするのが面倒くさい。
「起きろって」
「……電話誰?」
 目を閉じたままそう聞く。どうせ智史に見られて困るような相手はいない。
 智史の非難が聞こえるが、どちらにせよ寝ぼけた頭はそんなもの聞いてはいなかった。
「……麻奈だけど、どうする? 俺出ようか?」
「あぁ、うん」
 そうか、麻奈か。と思う前に俺は返事を返した。「もしもし」と言う智史の言葉を聞きながら、遊びの誘いだろうか、なんて事を思いようやく眼を開ける。ソファベッドに器用に丸まっていた体は、やはり窮屈さに苦痛を感じていたのかいつもよりも気だるかった。背伸びをする。智史が僕を見て「今起きたよ」と言った。どうやら酔いのほうはもう完全に醒めているらしい。
「今変わるよ」
 智史が差し出した携帯を受け取る。僕は大きく欠伸をしてから受け取った。
『おはよう。ごめんね、起こした?』
 少し遠慮気味であり、いつものように柔らかな声。僕は時計を見る。十一時五十三分。
「いや、大丈夫。結構寝てたみたい」
『欠伸凄かったね』
 聞こえてたのか、僕は少し恥ずかしくなる。
『また智史君とお酒飲んでたの? ダメだよ、未成年なのに。煙草もだけど』
「はい、すいません。ところでどうかした?」
『あのね、今日真尋と出かけるんだけどよかったら、康弘君と智史君どうかなって思って』
「いいよ。全然大丈夫。智史にも言っとく」
 なんの話か分かっていない智文の怪訝そうな顔を無視して、俺は了承した。
 待ち合わせ場所と時間を聞き、じゃあまた後で、と言おうとした時『そう言えば康弘君、メール見た?』と言われる。
「メール? いや、さっき起きたから見てないわ。ごめん、いつ頃送ったの?」
『あ、ううん、送ったのは私じゃないんだけど』
「どういう事?」
『多分クラスの誰かから来てるはずだと思うんだけど、あ、ごめん。ちょっとお母さんに呼ばれたからまた会ってから話そうよ』
「分かった。じゃあ、またな」
 僕の疑問符に答えないまま切れた通話に僕は首を傾げた。
 クラスメイトからメール? なにかあるんだろうか? 僕は携帯を折りたたまずそのままメール画面を呼び出す。
「なぁ、智史。なんかお前メールとか来てた?」
「あぁ、来てたよ。まぁ、悪くないかも、とか思ったけどまだ決めてない」
 悪くない? けどまだ決めてない? 恐らく電話で内容を聞いたのだろうと勝手に思っている智文の中途半端な回答に僕はますます首をひねり、ディスプレイへと視線を落とす。そこには確かにメールが届いていた。送信相手はクラスメイトの晶だった。
 ――2-C生徒集合!
 派手な絵文字付きでこう書かれた件名を見返す。晶は普段絵文字なんて使わないのできっと転送されたメールなんだろう。僕は本文を開く。そしてそこに書かれている文面に「なるほど」と傾いていた首を起こした。
 ――残念ながら八月三十一日で地球は終わります。悲しい事ではありますが、だからこそクラスの皆で夏の思い出を作りませんか? って訳でいきなりですが、2-Cの教室で最後の一ヶ月を皆で過ごすなんてどうでしょうか!? 参加者はこのメールが来てからいつでもOKなんで、ガンガン教室に集合しちゃってください。
「面白い事を考え付くもんだ」
 笑って携帯電話をしまうと、智史がお茶のペットボトルを渡してくれた。
「全員が全員集まるとは思わないけどね」
「俺とかどうせこの家にいても一人だしな」
「四六時中皆といるってどんな感じだろうなぁ」
 長期の手軽な修学旅行みたいな感じなんだろ、僕はそう返しよっこらせと立ち上がった。
「まぁ、うまく行かなきゃやめればいいのさ。気楽に行こうぜ、気楽に」
「お前はこんな状況でも気楽なんだな」
 笑い返し、汗に濡れるタンクトップを乱雑に脱ぎ捨て洗濯籠に放り込む。時間までもう少し時間があるけど先に風呂に入ってしまおう。
 シャワーで済まそうと蛇口をひねる。小さな無数の穴から飛び出す水の雫を目を閉じて顔で受け止めるのが心地よい。水滴が頬を滑り落ち顎からタイルへと落ちる。無数のそれは不恰好な形を作り、崩れ排水溝へと緩やかに流れていく。流れる水を両手で受け止めてうがいをする。吐き出して叩きつけられたように飛沫が跳ね上がった。
 簡単に体を終え、用意していた服に着替える。入れ替わりで智文が入り、僕は部屋でドライヤーを使い髪を乾かしていた。
『はい、どうもー! こんにちはー!』
 つけたばかりのラジオからそんな元気な声が聞こえてきた。
『今日はですね、僕、石田と永井の二人でお送りします。あまり面白くないかもしれないですけど付き合ってください』
 石田と永井。
 僕はその二人の事を知らない。ラジオから流れるこの少し歯切れの悪い喋り方の二人は芸能人でも、スポーツ選手でも、その他の有名人でもなんでもない。僕と全く変わらない一般人だ。
 現在ラジオ放送は一般人にも解放されており、設備さえ自分達で準備すれば自由に放送が許されるようになっている。なので視聴者側の僕らは無数のチャンネルを適当に合わせているとこうやって、いつでも誰かの放送を聞くことが出来る。
 石田と永井のコンビが話しているのは今まで自分が見てきた映画を語り合うと言う内容だった。だが二人の映画の趣味はどうも噛み合わないらしく、石田はハリウッド大作をしきりに薦めているのだが、永井は邦画派らしく石田が言う映画にことごとくダメだしをしている。永井はそんな石田の不満そうな声を気にせず邦画はやっぱり素晴らしいなんて事を喋っている。
 内容としてはそんなに面白い話ではない。恐らく聞いている人数もそんなに面白くはないだろう。だがそれは彼らが特別つまらないと言う訳ではない。放送する内容も人によっては延々死ぬ事に対しての無常をただ嘆いたり、日々のストレスを愚痴ったり、元カノの事を実名付きで罵り、自分は一切悪くないと情けなく語る男だったり、と下らないチャンネルは幾らでもある。そんな中では彼らのとことん主観に過ぎない映画批評も、聞く側の事を考えていると言える。
「なぁ、服貸してくれない?」
「いいよ。ちょっと待って」
 箪笥から適当にズボンとシャツを取り渡す。「……お前の服派手なんだよな」そう言いながら着替えている智文に「なぁ、リリィ・シュシュの全てって面白いかな」と聞くと「見たことない。なんで?」と返事が返ってきた。
「永井のお勧めなんだって」
「誰だよ、永井って。確か岩井俊二監督だろ? 岩井俊二って人選ぶ映画ってイメージがあるけど」
 部屋へと戻ってきた智史を見て、僕は「似合うじゃん」と言った。
「なぁ、お前のファッションセンスってなにが基本なんだ?」
 タイトな黒のインナー。ダメージデニム。そして、その上に羽織った真っ赤なスリムシャツ。
「ロックだよ、ロック」
「……絶対なんか間違ってるよ」

     

「遊ぶ場所って言ってもそんなにないよね。殆ど店じまいしちゃってるし」
 真尋の愚痴るような声。確かに飲食店にしてもアミューズメントにしろ殆どの店が、コンビニと同じように閉店へと向かっていた。確かにここまで来てわざわざ働くと言うのも馬鹿げた話なのかもしれない。開いているのはこうやって個人で経営しているような小さな喫茶店とかくらいだった。狭い店内にいるのは僕達四人以外は、一人で小説を飲みながらコーヒーを飲んでいる青年と、やけに大きなバッグを持った――旅や家出でもしているように見える――なんだか疲れたような顔をしている二人組みの女性達だけだ。
「ゲーセンはまだ開いてるところあるってさ。なんか店員はいないとこあるとかないとか聞いたけど」
「それ、大丈夫なのかな?」
「電源つけっぱなしで放置してるんだってさ。二十四時間稼動状態だと」
 麻奈の不安そうな声にそう答えたが、僕もそんなのでいいんだろうかと思わずにはいられない。
 カウンターに、真尋、麻奈、僕、智史と言う順番に腰掛け、一時間ほど雑談していた。僕はマスターに全員分のコーヒーのお代わりを頼む。出されたアイスコーヒーにシロップとミルクを入れストローをかき混ぜた、以前にもここに一人で来た時マスターに店を閉めないのか、と聞くと、頭に白髪が目立つ年齢の彼は笑ってお客さんがまだ来るからね、と答えた。元々やりたくて始めた仕事だし、この年になって慌てて店を閉めてまでやりたい事もない、それよりはこうやって来てくれる客がいる限り迎えてあげる事が、生きている実感を得られるのだそうだ。
「それよりさ」
「なに?」
 顎の辺りで切りそろえられた綺麗な髪がこちらへと視線を向ける。僕と二十センチほどある身長差は椅子に座っていても明らかで、大きな目が僕を見上げた。
 橘麻奈。僕が恋焦がれているクラスメイトの彼女は、いつもと同じように微笑んでいた。そして僕はいつものようにそれを見るだけで少し幸せな気分だ。
「メール。見たよ。智史にも来てたわ。真尋のとこにも来たんだろ?」
「うん、来た来た来た来た。麻奈とどうしようかなって話してたのよね。二人はどうすんの?」
「俺は別に行ってもいいかな、って。どうせ家いてもつまんねーしさ」
「俺も行こうかな」
「は? そうなの?」
 俺が大げさに振り向くと「まぁ……まだ決めてないけど」と言い、
「けどどうせやる事もないし、クラスメイトの皆と過ごすのもいいかなって」
「そっかぁ、私もいこっかなぁ」
「麻奈は?」
「うーん」
 歯切れの悪い返事。
「行こうとは思うけど、毎日は無理かな。やっぱりお母さんとお父さんとか弟も大事だし……」
 少し残念だったが、そういう理由に無理を言うわけにもいかない。「そっか、残念だな」と頭をかくと、真尋が
「なになに、そんなに麻奈と一緒にいたいの?」
「ちげーよ、うるせーよ、バカ黙れ」
 麻奈の背中を通り越して、肩の辺りに握った掌を押し付ける。元気だけがとりえの真尋は夏休みに入って少し明るくなった茶髪を振り乱し、僕の手を払う。智史と麻奈が「はいはい」と言った感じで二人を引き離した。四人のいつものやり取り。僕と真尋がバカを言い、智史と麻奈が仲裁をするのは馴染みの光景だ。
「私もたまには行くから、ね?」
「だって、よかったね、康弘」
「お前はマジでちょっと黙ってろ」
「分かったから、康弘もやめとけって」
「ったく。ちょっと智史場所変われ」
 僕と智史は席を交代し、ポケットからマルボロを取り出した。出来るだけ煙を三人、と言うより麻奈のほうに届かないように、吐き出す。一年生の時から吸い出したが、麻奈は相変わらず煙草の煙が苦手だし、僕が吸うことをあまり快く思っていない。だが自分の中に妙な見得の様なものでもあるのか、また真尋に辞める理由でからかわれるのが嫌だったのかやめるという選択肢は選ばなかった。今では麻奈の前で吸うのも自然めいた事となっていた。ただし、彼女に臭いがつかない程度にと言う、みっともない自分の中でのルールもつけて。
 細かな曲線がつけられた木彫りのカウンターに置かれたガラス製の灰皿に、煙草の灰を落としていると「やっぱり二回」とその行動を見ていたらしい麻奈が口を開いた。
「は?」
「灰を落とす時、康弘君絶対煙草を二回叩くよね。一回目で落ちても、絶対もう一回叩くの。トン、トンって」
「うそ、気付かなかった。いつも?」
「うん。いつも。きっと癖になってるのね」
 そうやってニコニコと微笑んでいる彼女を見て、僕はやっぱり彼女の事が好きだな、と再確認する。
 そして同時に僕の事をどう思っているんだろうか、と自問する。
 出来たら、自問ではなく質問として直接聞いてみたいものだが。
「麻奈は康弘の事よく見てるもんね」
「え? い、いや、そういう訳じゃないけど」
「てめーは死ね」
 真尋がいないところで。


 それからもしばらく談笑していたが、午後の六時を回ったところで解散すると言う事になった。
 僕と智史は歩き。麻奈と真尋は自転車だった。方角的に僕と麻奈が同じ方向だったので、途中まで一緒に帰ることにする。
「服どうしようか?」
「今度でいいよ。適当に洗濯しといてくれ」
「分かった。悪いな」
 なんだか雰囲気違う、と真尋に笑われて戸惑っていたが、少しは慣れたようだった。
「じゃーねー、麻奈」
 大きく手を振り、ペダルを思い切り踏み込んで走り出す真尋の背中を二人で見送って「じゃあ、俺らも帰るか。自転車運転してやるから後ろ乗れよ」
「そんな、悪いからいいよ」
「いいからいいから。遠慮すんな」
「じゃあ、お願いします」
「喜んで」
 サドルに腰掛け、後ろに座るよう促す。「ありがとう」と言っていざ座ろうとしたがそこでふと立ち止まった。
「どした?」
「えっと、どうやって座ったらいいかな?」
「は?」
「あんまり後ろに乗ることってないから」
 と言われても自転車の二人乗りの姿勢なんて、正面を向くか、女の子特有の横向きに座るかのどちらかしかないだろう。まさか後ろ向きに座るなんてことはあるまい、あるかもしれないが。どれがベターなのか分からず悩んでいるようだ。
「好きにしろよ。別に違いないって」
「そうだよね」
 結局横向きに座る事にしたらしく、おずおずと腰掛ける。
「スカート大丈夫かな?」
 僕は首だけ動かして、思わず少し短い真っ白なスカートから伸びる細い足を見やった。数秒して、我に返り何事もなかったかのように前も向く。
「……バッグとかで抑えとけば大丈夫じゃないか」
「あー、そっか、そうだよね」
 気まずくなっている僕の心境など露知らず、後ろでゴソゴソとバッグの位置を直している「うん、大丈夫だよ」と言われ「じゃあ、掴まってろよ」と僕はペダルに足を置いた。麻奈の手が少し遠慮がちにゆっくりと腰に回される。少し、こっちも緊張しそうだったが、気にしないように僕は無言でペダルを押し込む。
 ゆっくりと銀色の自転車が動き出し、少しずつスピードを上げていく。
 大通りに面している喫茶店を出て、しばらく道なりに進む。道路は車がそれなりに往来していた。普段よりも多いと思われるので仕事帰りと言う訳ではないだろう。多分、これから地元に帰ろうとしている人達がいるのかもしれない。
 僕は適当なところで左折して小道へと入った。こちらは人影自体があまり多くなく、後ろを振り返る余裕もありそうだった。
「最近なにしてた?」
「これと言って特別な事はしてないよ。お父さんが家にいる時間が増えたから、四人皆で一緒にご飯作ったりしたくらいかな。康弘君は?」
「コンビニ強盗くらいかな」
「え?」
「いや、なんでもない。俺も別に変わったことはないかな。なんかなにしたらいいのかな、とかは考えるけど」
「前に旅行に行きたい、って言ってなかった?」
 そう言えば、教室でそんな事を話していたことを思い出す。そのためにバイトの給料を貯めていたりもしていた。
「……こんな事にならなかったら行ってただろうけど」
「……そうだよね」
 夕焼けに染まっていく空を見上げて、川原に沿って続く道へと入る。空の色に照らされて鮮やかに光る水面の横を、しばらく沈黙の中で進んだ。
 智史と晶の三人で予定していた旅行は、誰が言うでもなく自然とキャンセルと言う形になった。きっとこんな状況で見知らぬ土地に三人だけで行く事に、誰もが価値を見出せなかったのだろう。
「あと一ヶ月だね」
「嫌になっちゃうよな」
「うん。そうだね」
 信号に掴まり、ブレーキに手をかけた。
 止まると同時に麻奈が自転車から降りた。
「どした?」
「ごめん、ちょっと手がしびれちゃって。姿勢直すね」
 慣れない姿勢だったからだろうか。僕はそんな事を思い青になった信号を見上げる。
 てっきり正面を向いて座るのかと思っていたが、どうやらまた横向きに座ったようだった。大丈夫? と声をかけようとしたところで手が回されて、同時に彼女の頭が背中に当たり、さっきより少し座った位置が僕の方へ近づいている事に気がつく。
「うん、これで大丈夫だよ」
「そっか」
 僕はそれだけ言ってまた自転車を漕ぎ出す。
 前を見て、彼女の家へと足を動かす。
「例えばお医者さんにね」
「うん」
「あなたの寿命はあと五年です。って言われたらせめてその五年間を有意義に過ごそうって思うと思うの」
「うん」
「十年でも、一年でも、半年でも。きっとそうやって言われる事はとても辛くて、悲しいんだけど、でもその事はもう私にはどうにも出来ない事だから」
「うん」
「だから、一生懸命有意義に過ごすしかないよね。一ヶ月でも」
 正確にはあと二十九日。
「うん」
 足が止まる。微妙に下り坂になっているのだろうか、少し速度は落ちたが自転車はそれでも止まる事はなかった。
「麻奈が元気そうで俺さ、結構安心したんだ。終業式の時、お前辛そうな顔してたじゃん」
「そうだね、あの時はもうどうしたらいいか分からなかったもん。康弘君が心配してくれて色々話してくれてたけど全然頭に入らなかった時とかあったし」
 けどそれを乗り越えて、今の君がやってきたんだ。
 そうだ。世界は絶望に包まれても、人一人一人の中にはそれを突き破れるものがある。自分の中に。
「それに、頭に入らなくても、ああやって私の相手してくれて嬉しかったよ」
「そっか。それならよかった」
 少し、僕の腰に回された手に力が入ったような気がした。
 それはきっと気のせいではないように思う。
 僕は、自覚する。
 自分の臆病さを。
 大事なものはここにある。大切なものは遠い遠いどこかではなくて、今、ここにある。

       

表紙

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Neetsha