そして俺はカレーを望んだ
『俺達の可能性』
「涼子さ――」
ん?
しん、と。急に明かりが落ちたように目の前が真っ暗になった。いや、真っ暗どころの騒ぎじゃあない。黒い。自分の手すら見えない。
「まさか、相羽涼子が目の前に現れただけで“こう”なるとはな」
なんて、全然状況を把握出来てない俺を他所に、“俺”が目の前に現れた。
「おい、なんか俺のくせに俺の知らないことを色々知ってそうな口振りじゃねえかおい。どうなってんのか説明しやがれ」
「相羽光史は相羽涼子が現れたという現実に耐え切れず、“私”という心的防護機能を発現させた。結果、相羽光史の意識は深層に位置している」
なんだコイツ、俺のくせに私とか言ってるし、そもそも何を言ってるのかよくわからないぞ……。どういうことだ、まさかこんなインテリっぽいことをスラスラ言えちゃう俺もまた俺だったかもしれない俺だというのか……。
「その顔は何を言っているのかわからないといった具合か」
「おい待て、なんだそのちょっとバカにしたような言い方は。俺にバカにされる筋合いは無いぞ」
どこをどうみても俺にしか見えない俺は、俺のそんな言葉にも表情一つ変えずに応える。
「先程から“私”を相羽光史だと認識しているようだが、“私”は平行している相羽光史ではない。相羽光史の心的な部分に位置する防護機能だ」
「え、俺じゃないの? じゃあなんで“俺です”みたいな見た目してんの。ちょっとそういうの動揺しちゃうからマジでやめて欲しいんですけど」
「“私”には視覚を用いた情報を構築する必要は無く、それ故に“私”という存在に外見という概念は無い」
くそォ……さっきから小難しいことばっか言いやがって。
「アレかね君は、もしや“僕には身体がないから相羽光史くんの見た目を借りてるよ”とか言っちゃってるわけなのかね?」
「そうだ」
「そうだ。じゃねえよ! 視覚を使った情報うんぬんとか言っておきながらちゃっかり俺の見た目使ってんじゃん! なんか俺に負けたみたいで焦ったわ!」
さっきまでのやり取りで溜まった鬱憤を遠慮なくぶつけてみた。しかし! 目の前の俺っぽい奴はそれでも無表情。なんなんだコイツは。そもそも何しに来たんだ。いや、逆に俺が来たのか? どっちでもいいけど早く戻らないとヤバイ気がする。
「とりあえず君の事はなんかどうでもよくなったからさ、元に戻してよ。今こんな所でくっちゃべってる場合じゃないんだって。俺の尊厳が危機なの。わかる? エマージェンシーだよ?」
「それは無理だ」
「わお……そいつはエマージェンシー……」
一瞬で無理だしされちゃったわけなんだけど、え、どうしよう。
「何故なら、この状況は私が作り出したわけではないからだ」
「おいおい待て待て、じゃあ誰だよ」
「相羽光史だ」
「なんだよ相羽光史かよ。相羽光史って俺だよ!」
「相羽光史には心的負担が一定になると“私”を意識の表層に呼び出すことがある。それが今だ」
心的負担っていうと、たぶんストレス的なアレだよね。……そういえば、ちょっと前、つい最近おんなじような事をどっかで見たような気がするぞ。
ああ、アレだ。唐突に始まった回想編みたいなアレ。実はおじさんおばさんを亡き者にしたのは俺じゃあなくて涼子さんだった的なアレで、確かに俺っぽくない奴が一瞬現れたような覚えがある。
俺としてはそれどころじゃなかったというか、割とすんごくショックだったんですけどね、あの回想。
「ということはナニ、“アレ”とおんなじくらい俺はショッキングな現実と対面しちゃってこうなっていると?」
「そうだ」
「そうなのかよ。だけどさ、俺の記憶が確かならば涼子さんが出てきたくらいで、それよりも裸で走りまわされる状況の方が色々ショッキングだったんですけど」
「しかし現に、相羽光史は今“ここ”に居る。……“私”には何故相羽光史が認めないのか理解出来ない。いや、既に認めているはずだろう。何故認めながらにして否定するのだ」
「何をだよ」
「相羽光史は“あの”過去を見てから相羽涼子に対して“母さん”と言っていない。それは即ち、相羽光史の内面において相羽涼子という存在の根底が覆されたことを意味している。結果として、相羽光史は目の前に相羽涼子が現れただけで“ここ”に逃避した。全て、相羽光史が望んだことだ」
「……」
おかしいぞ、否定したいけど何も言葉が出ない。この沈黙はその通りだって言ってるようなもんだ。
……本当にその通りなのか? その通りだろう。逃避とか言っちゃってくれたけど、正しくその通りだ。ぶっちゃけると俺は目を背けてる。俺にとっては結構最近、石ころに繋がる直前に撃たれたのは何かの間違いだと思ってるし、あの回想は性質の悪い妄想だと決め付けてたし、今でも家に帰れば涼子さんがカレーを作って待っててくれてると思ってる。思ってるからこそ、今のこの状況で目の前に涼子さんが出てきたら、それは、俺が目を背けていたことが全部本当だったってことじゃないか。
そこまではさすがの俺でも考えた。考えることが出来た。でも、じゃあ、俺はどうしたらいいんだ。
「どうするかは、相羽光史にしか決められない。“私”は相羽光史が望んだ世界の延長としてメテオ粒子が創り出したに過ぎない存在だ。そこに感情は必要無く、また意思も存在し得ない」
「……私ちゃんは一体なんなんだ。俺が忘れてるだけならごめんけど、こんなの望んだ覚えはないぞ」
「無限とも言える並行した世界において、相羽光史が望む最善の選択を提示する。それはメテオ粒子が無機物有機物、さらには世界という概念すら透過するからこそ成し得る事だ。選択によって一つの世界という多大な情報を一個の人が受けるに当たり、その一部分を受けるプロセスとして生まれたのが、当初の“私”だ。その“私”に、人の持つ心的要素を付加した結果、防護機能としての役割がこの“結果”を生み出した」
「なるほど、大体わからなかった。わからなかったが、思い出したことがある」
散々小難しいことばっか考えたり言われたりで忘れてたけど、今俺って裸だよね。いや、百歩譲って裸は良しとしよう。良くはない。しかし、もっと良くないのは現在俺の身体の主導権は私ちゃんに握られているということだ。なんと感情が無いとか若干ぶっ飛んでる御人が、今、裸の俺を動かしているのだ。いっそ気を失っていたほうが良かった。
「私ちゃん、確かに俺は涼子さんに会うのはぶっちゃけ怖いし、色々考えるだけで逃げ出したくなる。だけど、それはひとまず置いといて、俺は戻らねばならない」
そう俺が言い切った瞬間、身体の感覚が戻った。同時に、上に引っ張られるような感覚が全身を襲う。気のせいじゃないだろう、現に私ちゃんが徐々に離れていく。
「そうか。……“私”は確かに何も出来ないが、相羽光史という人の内面を見続けてきた。フォロー、とでもいうのだろうか。“あの場”は上手く抑えておいたつもりだ。あとは、相羽光史が望むだけでいいだろう」
遠い位置に居るのに、妙に聞こえやすい俺と同じ声でそんなことを言うと、私ちゃんの姿が消えた。同時に、俺も消える。