Neetel Inside 文芸新都
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灰の魔王
エピローグ・メッセージ

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 カランカランと音を立てて、喫茶店の扉が開く。足を一歩踏み入れた瞬間、店内の冷房が勢いよく私に襲い掛かってきた。

 やっぱり、夏よりも、冬だよなあ。寒いのは重ね着などをすれば、我慢できるが、暑さはどうしようもない。まさか、大衆の前で素っ裸になるわけにもいかない。だからこそ、冷房をあびた時に何とも言えないカタルシスがあるのだろうが。
 待ち合わせをしていたので、辺りを見渡す。がらがらだ。しかし、奥の方で女性がひとりが手を振っていた。
「おまたせ、陽花。久し振りだね」
「まあ、座りなよ。ここのコーヒーなかなかだよ」
陽花はコーヒーカップを軽く持ち上げて言う。私は彼女と向き合うように座った。
「そうなんだ。じゃあ、私も」
 店員にホットコーヒーを頼むと帽子をとった。
「暑いね。嫌になっちゃうよ。本当、冷房を作った人は偉大だ」
「良い帽子ね。でも、サングラスとかかけなくていいの? あとは、マスクで完璧だ」
「冗談。私なんて、まだ、ぜんぜん有名じゃあないよ。それに、知ってる? 最近の撮影技術ってすごくって、そこらの人に『私を知っていますか?』って、尋ねても、誰もわからないよ。それだけ、私は美人ってことになっている」
 私は鼻の横に出来ているニキビをかきながら、陽花の冗談に冗談を返す。
「あんたが初めて本を出して、作家になったのを知った時にはずいぶん驚いたな。でも、著者近影を見た時は、もっと驚いたよ。誰だよ、あいつは。少なくとも、私の友人じゃあないね」
 陽花はそう言って、ニヤリと笑う。健康的な白い歯が見えた。
 コーヒーが運ばれてきた。店員はコーヒーを置くと、頭を下げて、素早く去っていった。
 私は一口コーヒーをすする。
「で、持ってきたの?」
「おう」
 陽花は横に置いてあったハンドバッグから、一冊の本を取り出した。どこにでもありそうな、しかし、バッグに気軽に入れることはなかなかしないであろう、ハードカバーだ。
 彼女はその本を私の方に差し出す。
「よろしく」
「はいはい」
 私はあらかじめ用意してあったサインペンのキャップを外し、彼女の本の表紙にさらさらとペンを走らせる。
「慣れた手つきね」
「まあ、これでも、プロですから。はい。どうぞ」
「ありがと。ふふふ。まずは、ガキどもに自慢ね」
 陽花は、私のサインが書かれた本をテーブルの端に寄せた。
「信子ちゃんと清太くんは元気?」
「うん。元気すぎて困ってるよ。この前、買ってやったばかりのおもちゃを一つ壊された」
 口ではそう言っているが、顔は全然困っているようには見えない。むしろ、嬉しそうに見える。だが、その事は口には出さない。彼女もわかっていると思うからだ。


「しかし、やっと迎えに行けたね。アッシュは満足していると思うよ」
「うん。ありがとう」
 私は、コーヒーをもう一口飲む。
「アッシュは物語の中の登場人物だったんだよね」
「そうね。でも、そんなの関係ないと思う。そんな事言ったら、私達だって本当に生きているのかどうか分からなくなる。もしかしたら、物語の中にいるのかも。今、この瞬間も、どこの誰ともわからない奴に私達を読まれているのかもしれない」
 陽花は彼女にしては珍しく、しんみりとしていた。
「なるほどね。じゃあ」
 私は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がる。店内の天井を、いやその先にあるものを確かに見ながら息を吸い込む。
 さあ、言うのだ!

「こんにちわあっ!」

 綺麗に磨かれたガラス窓が振動で揺れた。
「あはは、何それ」
 陽花は愉快そうに笑っている。
「ん。私を読んでくれている読者への挨拶よ」
「いいね。それ」
 陽花はそう言ってその場で立ち上がった。真上を見据え、私以上に思い切り息を吸い込む。

「見てんじゃねぇわよっ!」

私の二倍はあるだろう音量。
 再びガラスが揺れる。
 彼女は叫んだ後、涼しい顔で何事もなかったようにまた座る。
「フフ。私の方こそ何それだよ。もっと、何かないの?」
「何言ってるの、あれがベストだよ。私たちを読むんだったら、金払ってほしいね。」
「だれによ」
「もちろん私」
 私はしごく真面目な顔で言う彼女がおかしくてたまらなかった。
 だが、彼女らしい。
「じゃあ、そろそろ逃げようか。コーヒーも飲んだし、店の人に何か言われるかもしれない」
「そうね、この後、予定ある?」
「ひまかな、本当は書かなきゃいけないけど、今日くらいはね」
「よし、じゃあ、家に来なさい。ガキどもに紹介したい」
 そういえば、陽花の家に行くのは久しぶりだ。若いころはしょっちゅうだったが、彼女が子供を産んでから、まだ一度も行った事がないような気がする。
「紹介? 有名な小説家のおばさんだよって?」
 自分でも恥ずかしい冗談。
 しかし、彼女は突っ込みを入れるどころか、首を横に振った。
「いいや。もっと魅力的な紹介」
 プロの作家よりも魅力的な紹介? 私は彼女が何を考えているのかわからなかった。
「でも、私の魅力って言ったらそれくらいのものだよ」
「もっと、良いのがあるじゃない『この人は昔、悪い魔王を倒した勇敢な魔術師よ』っていうのがね」
 陽花はニヤリと子供っぽく笑った。十年前と同じように。少し懐かしい笑顔。

「でしょう。マルコ」
 なんとまあ。
「そうだね。キャロル」
 言い返す。
 長い沈黙。
先に笑ったのは私だった。
「恥ずかしいこと言わないでよ」
 陽花の顔は真っ赤になっている。
「そっちが先でしょう」
 私は自分の顔も赤くなっていくのが分かった。
「ごめん、ごめん。じゃあ、行こうか。瑠璃子」
 陽花はテーブルの端にあった本とバッグを手に取って立ち上がる。

 長い、長い時間がかかった。
それでも、私は約束をしたのだ。今、この瞬間も彼女は待ってくれているのだ。そう言い聞かせて立ち上がった。
「うん。行こう」
 本には『著者・早坂瑠璃子』と、そして『灰の魔王』と幻想的なロゴで記されている。


       

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