いつだったか、彼に何故空を見上げるのかと問いかけた事があった。
彼はその問いかけに対してこう答えた。
――求めることはつまり上を目指すことだからさ。
へぇ、そうなんだ。ならば僕も空を見上げてみようか。僕がそう言うと彼はそれを制止する。
その時言った彼の言葉。
それは音の刃となり、僕の心を貫く。
―期間限定の僕ら6―
―日曜日―
何かが鳴っている。ええと、そうだこれは確か携帯の通話着信音だ。
僕は寝ぼけ眼のまま布団から這い出してから珍しく充電器にしっかりと差さっている携帯を手に取りそのまま耳に充てた。
「はいもしもし……。おはようございます……」
『よう駿、今日は暇か?』
一日ぶりの翔の声が僕の耳を貫く。時計を見るとまだ朝食を食べるにしても早い時間を針は示している。こんな時間から全く何故そんなにも元気なのだろうか。
「ああ、別に何もないけど……」
「けど?」
僕が一度言葉を溜めると翔はそれを繰り返すように呟き、そして問いかけてくる。
一度深いため息を吐いてから僕は続けた。
「この時間にかけてくる必要はあったのか?」
翔から集合場所を聞いた後、昨日とは違い大分余裕を持って(と言っても友人と会うだけなので適当さは昨日以上である)服を着替え、リビングで少し早い朝食をとりながらテレビを付ける。
多分母や父は起きてこない。日曜は必ず二人とも起きるとしたら昼前、僕が出かけるまでに家族と顔を合わせる事はないだろう。まあ顔を合わせなくて済むからなんだという話ではないが、まあ朝早くからうだうだと何かを言われないという点が良い。
『――先日から公開された○○○は大盛況を博しており……』
ふとした瞬間に流れた映画のニュースに僕はトーストと共に食いついた。ああ確か昨日の映画館でも大々的な宣伝をしていたっけ。多額の製作費と多くの名のある演者を使用し撮られた映画。
ああ、これだけの事をしていれば次々と観に来るだろうな。だがそういった映画に限ってどこか不思議な所に力を入れていたりするものだ。この映画は果たしてそうなのか、それとも原作の小説が打ち立てた名を汚さぬような名作となったのか。
まあそれが不出来だったとしても僕には関係のない事だし、特に気にする所でもない。僕はトーストの粕を適当に払いマーガリン等を冷蔵庫に仕舞ってから上着を羽織る。そろそろ行かないと遅刻をしてしまいそうだ。
玄関で靴を履いてから後方を振りかえる。
「……」
誰もいないが、習慣からかこれを言わないと何かもどかしい気持ちになる。
「いってきます」
そう言うと扉を開いた。
○
駅前のベンチには既に翔が腰かけていて、飲み口から湯気の出ている缶を両手で包みこむようにして持っている。
向こうも同時に僕の姿を確認したようで、こちらに手を振っている。
「朝早くになんだよ」
「いや、ちょっと観たいもんがあるのさ」
どこかで見たような光景だと思いつつも、僕はその思考を外へと放り投げると苦笑いを浮かべる。
「ああ、何観るんだ?」
「決まっているだろ」
翔はにやりと笑うと一枚のパンフレットを僕に見えるように掲げた。
「今流行りの映画といえばまさにこれだ」
ああ、翔は本当に普通に現代の高校生活を送っている奴なのだなと我ながらに意味の分からないことを悟る。
朝、ここに来る前にニュースで見たあの話題の映画の名前がそこに記されていた。
館内に入ると既に席はほぼ八割近くが埋まり、そこら中からざわめきが生まれている。
「随分と人気なんだなこの映画」
「まあそこらかしこで宣伝しているし、キャストも今人気の奴らを起用してるからな。これで入って無かったら大損だろう」
確かにそれはそうだと頷きながら周囲を見渡す。この人間の大半はきっと僕らと同じく大々的な宣伝を見てやってきたのだろう。きっとこの後半数以上が原作を購入して帰るだろう。
皆、その時限りの流行に乗りたいだけなのだと思う。多くの賛同者がいれば「じゃあ」と言ってそちらへと自分も向かう。
――ずっと前から見たかったの。
不意に、彼女の言葉が脳内で再生された。ああ、そういえば彼女は昨日すごく満足気だったっけ。僕は背もたれに身体を預けて天井を見上げる。
「ネームバリューだけじゃ、ないんだろうなぁ……」
「ん? どうした?」
「いや、なんでもないよ」
僕の呟きに対しての彼の問いかけに、僕は首を振って返答した。同時にブザーが場内に鳴り響く。
「始まるぞ」
笑みを浮かべながら改めて座り直しスクリーンに目を移す翔。僕はそんな翔の姿を一瞥した後に僕自身もスクリーンに目を向けた。
○
あれ、僕は今何をしていたのだっけ。
整理され、綺麗に並べられた机。
深緑を保ったままの黒板。
そして窓から入り込んでくる橙色の陽光。
不意に現れたその景色に僕は戸惑いの色を滲ませる。何故僕は今この放課後の校舎にいるのだろうか。先ほどまで僕は確か、人の埋まった映画館にいた筈だ。
「雪群君」
その声が、僕の中でぐるぐると渦巻いていた全てを吹き飛ばした。
ごくりと生唾を飲み込んでから、いち、にと小さく呟き、そして「さん」の呟きと同時に僕は百八十度身体を回転させて目を見開いた。
ああ、やはり――
目の前に立っていたのは予想通りの人物だった。
「なんで、僕の夢の中に現れたんですか? 綾瀬さん」
いつもの温かな視線と柔和な表情で顔を染めた綾瀬が、そこにはいた。
僕の問いかけに何も答えずに、彼女はただひたすら微笑み、そして一歩づつ歩みを始める。
「……」
一歩。
「そっか。これは俺の夢だ。ということは綾瀬さんを呼んだのは俺……」
一歩。
夢の中での出来事であるとハッキリと分かっている状態というのは不思議なもので、それを夢を気づいているのにも関わらず、身体はそれとは逆により現実味のある感覚を僕に与えていた。
まるで、僕にこの“夢”を“現実”と思わせようとしているようだった。
何も答えず、何も反応をせず、綾瀬は確実に一歩づつ、一歩づつ僕に向かってくる。
そして僕の横にまで辿り着いた瞬間、彼女が初めて口を開く。
「本当に、私があなたを好きだと思っているの?」
え、と僕は身体を震わせた。
「貴方みたいな女性に苦手意識を持っている男が、女性に興味を持ってもらえると思っているの?」
「……」
「遊ばれてるんだって、そろそろ気づかないの?」
――俺は……。
その先の言葉が出ない。
口を、開くことさえできなかった。
黙り込み、俯く僕を尻目に彼女は再び歩き出す。
「どこへ……?」
「どこにも行けないわよ。一週間経つまで、ずっとここにいなくちゃいけない」
不満げに吐き出されたその言葉を聞いて僕は、ぎゅうと拳を強く握りしめる。
「じゃあ、君をここから解放してあげるよ……」
絞り出すように吐き出した言葉。
分かっている。これは期限付きの恋愛ごっこだってことくらい。でも夢を見てしまうのは当り前だろう。
――キスまでされて、夢を見ない人間なんている訳がない。
○
――る! ぐる! すぐる!
不意に聞こえたその声が僕の意識を引き戻し、そして跳ねるように起き上がってから周囲を見回す。電気が付き、白くなったスクリーンが前方にポツンとかけられ、先ほどまで座っていた人々は続々と部屋を出て行っている。
「映画、終わったのか」
「とっくにな」
翔の言葉を聞いて、やっと僕は一息つくことができた。ふぅ、という声と一緒に貯め込まれていた空気を吐き出し、背もたれにがたりと凭れかかった。
天井は段々となっていて、一定の間隔で電灯が取り付けられていた。
「随分とグッスリ寝てたみたいだな」
翔は手を腰に充て、呆れたといった表情で天井を見上げる僕を見ていた。
「……夢を、見ていたんだ」
「夢?」
「とびっきりのやつ」
「とびっきり?」
断片的に吐き出された言葉に、なんのことやらと翔は肩を竦めた。
そんな彼を一瞥した後、ずっと見ていた夢のことを思い出す。全く僕はどれだけマイナス思考な人物なのだろうか。落ち付いて考えれば、全てがちぐはぐで、夢の中だからこそ存在できたハリボテな世界だとすぐに把握できたのではないだろうか。
「ごめん。もう目は覚めたから」
「本当に大丈夫かよ?」
大丈夫大丈夫、と笑みと共に返答を返してから立ち上がり、そして翔と共に退場してゆく。
「それで、内容はどうだったの?」
そう問いかけてみると、彼は苦々しい表情を浮かべた。ああ、と僕はその表情でこの映画の出来を把握した。
「最悪だったよ」
「みたいだな」
どうやら金をかけ、有名な俳優を起用し、そして大々的な宣伝をした割にはさほどのものでもなかったらしい。ネット等で行われるであろう一般客のこの映画に対する批評が少し楽しみだと思ってしまった。
けれどもちゃんと見ておくべきだったかもしれないなと、今は思ってしまう。眠らずに見ていればあんな“夢”だって見ずに済んだかもしれない。あんな言葉を自ら吐く事もなかったかもしれない。
――あと、三日か……。
期限のうちの約半分が終わってしまった。あと、あと三日で僕らの関係は終わってしまう。
何故か、このまま終わるべきなのだろうか。という言葉が脳内を巡る。終わる事は簡単にできる。残りの日数をただ過ごせば良いだけなのだから……。
不意に、翔の足が止まった。僕も翔に合わせて止まると、彼の顔を見る。
「どうした?」
「……」
一点を凝視して口を噤む彼に違和感を感じながら、彼の視線の先を追った。
「――え?」
全身の血が凝固していくような感覚が、僕を襲った。
見てしまったからだ。
映画館を出て行く集団の中に、綾瀬と駿介の二人が並ぶ姿を……。