物覚えが悪い。すぐに忘れる。語彙が少ない。要領が悪い。頭の回転が遅い。理解する力が乏しい。勉強が出来ない。役に立たない。まぬけ。愚図。
私が小学生の頃から、周りの評価はいつもそうだった。分数がなかなか覚わらない。調理実習で他の生徒の足を引っ張る。学芸会の本番で台詞を忘れる。私が何か失敗をする度に、壁のように大きな先生や大人たちは、私の頭を見下ろして、ダメな子、と言った。
要するに、私は馬鹿な子だった。
それは中学生になっても変わらなかった。上は学校のジャージを着て、下は校則通りのセーラースカート。地味な印象に拍車がかかった時期でもあった。のどかな田園風景に囲まれた帰り道を、私はクラスメイトを追いかけるように下校していた。補習授業の時は、勉強をしていないだけのやんちゃな男子生徒と隣になり、ちょっかいをかけられた。
俺はやってないだけだけど、恩田は出来ないんだもんな。私は怒って、その男子の椅子を蹴ってやった。
やっとのことで入学を果たした地元の高校。今度こそ変わろうと思ったが、それは実現しなかった。私に対する周囲の評価は、言い回しや表情を変えただけで、その中身は全く昔と同じだった。留年の危機に晒されながらも、私は何とか卒業式に出席することが出来た。あの時の、母の潤んだ瞳は未だに忘れられない。
しかし、私は大学受験を突破することが出来なかった。
自らの学歴にコンプレックスを抱いていた両親は、私に強く浪人を薦めた。私が一人娘であることも関係していたのだろう。わざわざ遠くの街に部屋を借りて、その近くの大手の進学塾で勉強をすることとなった。
離れたくないのに、駅のホームで何も言えなかった。両親や友人が目の前に居ると言うのに、私は特別な事が何一つ言えなかった。そう言うところも、私は愚図だったと思う。
そして、十九歳になろうとしていた私は地元から一人旅立った。
その二ヵ月後のことだ。私が、黒部誠司と出会ったのは。
「君、僕とよく同じクラスにいるよね」
塾のカフェテリアで、英単語を覚えながら自前のおにぎりを頬張っていた私に、その男は声を掛けた。始め、私はそれが自分に投げかけられた言葉だと気付かなかった。いや、思わなかった。周りにはもっと派手で、おしゃれな女の子達がたくさんいるのに、パーマも染色もしていない黒髪で地味なファッションの私に興味を持つ筈がないと思っていたのだ。
「ここ、座っていいかな?」
円テーブルの向かい側に、椅子を引く音と人の気配がして私はようやく顔を上げた。
そこには短髪で眼鏡をかけた少年がいた。適度な長さの黒い髪に清潔そうな印象を受ける。引き締まった輪郭の、都会的な少年だ。ますます縁が無いように思えた。
「僕は黒部誠司。今年で十九。君は?」
「えっと…あ、え…」
「あ、ごめんごめん。いきなり過ぎだよね。うん、要するに僕は君と友達になりたいんだ。浪人してここに通うのって初めてだからさ、出来るだけ人と話したくて」
私は思案した。けれど、別段拒否する要素は見当たらなかった。
だけど今思えば、私は考える振りをしていただけなのかも知れない。私の頭の中は空っぽで、漫然と目の前の人間を受け入れていただけなのかも知れない。だが、その時の私にはそれが妥当な判断だと思えていた。
「私は…恩田棗。恩に着るの恩に、田んぼの田。あと棗貝の、棗」
私は、小学生の時に母に自己紹介をする時にこう言いなさいと教えられ、以後何回も使用してきた台詞を使った。
単純な私が、彼を好きになるのに時間はかからなかった。
奇跡的に、彼も私のことを好きだと言ってくれた。
私の彼の名前の呼び方は、黒部くん、誠司くん、誠司と変化していき、彼も私を、恩田さん、棗ちゃん、棗、と呼ぶようになっていった。当然、男の子と交際するのは初めてだったので最初は恥ずかしかったが、付き合っているのだから当然だよ、と彼に言われて私は頷いた。
私は誠司に言った。自分は呆れるくらいに頭が悪いと。そんな女で大丈夫なのかと。
私は怖くて、悲観的になっていた。彼を好きになればなるほど、自らの大きな欠点に怯えていた。けれど彼は私の味気のない髪をそっと撫でて、優しく笑ってくれた。全然構わない、全くそんなことはない、努力をすれば必ず報われると彼は力強い声で私を励ましてくれた。
私は確信した。
この人は、今までのどの大人や同級生達とも違う。鼻の低かったあの先生とも違う。私を馬鹿にしたあのうるさい男子生徒となんて、比べることさえも不可能でおこがましい。彼は私を認め、安易に浴びせられた非難や叱責ではなく、温かい言葉を包み込むようにかけてくれる。幼稚な私は、彼がやっと自分のもとに辿り着いてくれた、白馬に乗った王子様なのだと夜な夜な想像した。
出来れば、同じ大学に入学して、同じ時間を過ごしたいと彼は言った。私は志望校を変更した。何処までも浅はかに、果てしなく軽率に。そして、愚直だった。
気が付けば、私が塾で話す人間は、誠司以外存在しなくなっていた。反面、彼は着実に交友の輪を広め、私は彼が友達との会話を切り上げるのを遠くで黙って待っていた。
それで私は構わなかった。たとえ同年代の女の子達に相手にされなくても、私には誠司がいるのだから。
浪人生としての日々は大変だったけど、夢があるから辛くはなかった。
誠司は私の勉強を見てくれた。問題の考え方、解答の作り方、学習のコツを事細かに教えてくれた。しかし、私の頭脳は彼の期待に応えることは出来なかった。泣きたい位にもどかしくて、壊したい位に憎いと思った。
だけど彼は笑った。大丈夫、まだまだ時間はあるからと言った。
彼と私は、何度も肌を重ねた。彼は実家暮らしだったので、一人暮らしの私の部屋でした。次第に痛みは薄れ、彼を愛しいと想う気持ちが溢れ出してくるのだった。模試の結果が発表された日の夜は、キスは強引で、行為も少し乱暴だったけれど、私は誠司が好きだった。
そうした日々を過ごす中で、私の夢は膨らむばかりだった。
教室で、自習室で、カフェテリアで、様々な場所で私たちは勉学に勤しんだ。
同じ問題を彼に繰り返し教えてもらった。迷惑で煩いかも知れないと思ったが、彼は優しく笑い、懇切丁寧に説明してくれた。
睡眠時間を出来るだけ削って、私は光源が一つの薄暗い自室でペンを持ち続けた。彼と幸福に過ごす大学生活を想って、ひたすら参考書を漁った。あの時私は、努力の限りを尽くしたと思う。
本当に少しずつだけど、亀のように遅い進歩だったけど、着実に私の成績は上がっていった。
だが、私の夢見る世界は遠かった。
秋口の頃から、時折、ほんの一瞬誠司は恐い顔を見せるようになった。私が質問をしようと顔を上げると、厳しい顔で沈黙する彼の目が私を射抜くことが時たまあった。無意識のことなのだろう。彼の喉から空気を抜くような音が漏れた。そして、少しずつ彼の表情から温かさが消えていった。彼が小言を言いながら私を犯すようになったのも、その頃からだった。
私がいけないからだと思った。私は自らの尻に鞭を打ち、なお一層努力した。
私と誠司が会う機会は段々減っていった。年が明ければすぐにセンター試験だし、彼も私に構ってばかりいられないであろうことを承知した。誠司にも自分の受験があるのだ。きっと彼も私と同じように、春に一緒に門をくぐる大学のことを考えて机に向かっているに違いないと思った。
そんな時期の、十二月のことだった。
ロビーの近くで、誠司の後ろ姿を見つけた。一週間振りだ。私は不安と緊張に暗く染められた心に、刹那の内に色鮮やかな花々が咲いたような気がした。
彼に話しかけようと一歩踏み出した時に気付いた。誠司は誰かと話していた。壁に遮られて見えなかったが、誠司と向かい合う位置には女性がいることにも。私よりも断然おしゃれで、化粧も上手。軽くウェーブのかかった栗色の髪は艶やかで、大人びた人だった。
私は一瞬目を疑った。誠司の顔には笑顔があった。ここ数週間は見たことのないような、晴れやかな、心の底から楽しそうな様子で彼はその女の子と談笑している。
私はその光景を、覗き見するように見つめていた。
「じゃあね、黒部くん」
「うん、また」
誠司はその女の子と別れて、何食わぬ顔で私に背を向けて歩き出した。
私は彼を呼び止めた。誠司、と呼ぶと、彼は驚いたように肩を縮ませて振り返り、すぐさま笑顔を貼り付けて、妙な猫撫で声で言った。
「やあ…棗。どうしたんだい?」
「今の人、だれ?」
「あ、ああ、藤岡さんって言ってたまたま志望校が僕たちと一緒なんだ。そう言う理由でちょっと話をしてただけだから、気にするなよ」
「…そうなんだ」
「ああ。…そうだ、そんなことより今から昼飯食べに行こうか?」
「え?うん、行きたい」
「よし、じゃあ早く行かないと席が埋っちゃうぞ」
そう言って、私の肩を片手で抱き寄せて誠司は歩き出した。毛布に包まれたように温かな感覚と、彼の匂い。それで、先ほどまで渦巻いていたもやもやとした胸の苦しみは跡形もなく吹き飛んでしまった。
私は誠司の顔を僅かに見上げて笑った。彼もにっこりと笑い返してくれた。
――――やっぱり私は馬鹿だ。誠司が何処か手の届かない所に行ってしまうなんて、ある筈ないのに。
そう思った。愚直に、一心不乱に、私は〝一緒に大学に行こう〟と言う誠司の言葉を信じた。
その後、彼と顔を合わせる回数はさらに減った。気にはならなかった。