カレンダーでは、三箇日を過ぎてさらに数日経過した寒気凜冽なある日。
俺と恩田は駅前に居た。
「肺胞ー、肺胞ー、酸素が好きー」
「…なんだそのちょっと生々しい歌は」
「中学校で習った時に作った」
恩田は奇妙な歌詞を、白い息と共に紡ぎだす。
そんな彼女は、ベージュのダウンジャケットを羽織って、時折吹き抜ける冷たい風を凌いでいた。しかしパンツや靴は相変わらずのカジュアルなスタイルで、勿論ジャケットの下はスウェットパーカーだった。今日は濃い緑色。一体何枚持っているのか、疑問を抱いてしまうところである。
天は重量感のある雲が牛耳っており、隙間程度に青い空が反旗を翻していた。道路脇や広場に植えられていた街路樹からは葉がすっかり姿を消してしまった。直立不動で寒さに耐えながら、木々達はまだ遠い春を想っていることだろう。
土色のコートを身体に巻き付けるようにして、俺は寒さに身を縮めた。俺と似たようにするサラリーマンもいれば、互いに寄り合って暖をとろうとする男女もいる。大学時代、逢紗子と同じようにして歩いた公園の遊歩道を思い出す。
「さて、今日はどうする?寒いから屋内がいいんだが」
「私カラオケ行きたい」
「構わないが、理由は?」
「別に。さっき口ずさんだら、ちゃんと歌いたくなったから」
「ああ、そういうこと。で、何処がいいんだ?俺は滅多に行かないから分からない」
「大丈夫。知ってる店があるから。よく一人カラオケしにいくんだ」
「…お前、友達つくれよ」
「…うるさいな。地元にはたくさんじゃないけど、いっぱいいるし」
どっちなんだと思いながら、俺は怒ってワザと早足で歩く恩田について行った。
恩田の行くカラオケ店は地下にあった。
南国風な内装で、割と親しみやすい反面、きな臭い印象を受ける。丸太で造られたように見せたカウンターで、恩田は滞りなく手続を済ませた。
案内された個室に入ると、恩田はダウンを脱いでソファに投げた。俺もコートを空いたスペースに置く。
適当にドリンクとポテトを注文して、恩田は曲が載った分厚い本を手に取って物色し始めた。ピピピ、と何曲か送信した後、栗山も選んで、と俺に寄越してくる。生憎、俺は昨今の盛り上がりそうな曲は歌えそうにない。しかし、とりあえずページを開かないことには何も楽しめないだろう。
数時間後。
「トイレに行ってくる」
「あい」
ぐて、とソファに凭れて水分を補給している恩田を置いて、部屋を出た。ここはカウンターから見て左の通路の奥だ。たしか逆側の通路の入口付近にトイレはあった筈。と考えて床から視線を上げた。
まさにその時、俺の全神経が竦んだ。金縛りにあったかのような、身体の硬直。
「…え、あれ…お父さん?」
目の前に、憂梨が居た。
まだ高校は冬休みの筈だが、制服を着ている。
娘は状況が理解できないと言った表情だ。しかし数秒経つと姿勢を変えて、怪訝そうに俺の顔を見つめてきた。黒曜石を思わせる、澄んだ宝石のような瞳だ。
「どうしてこんなところに居るの?」
俺は焦った。背後の部屋には恩田がいる。俺達は友達同士だと思っているが、世間はそうは見てくれないだろう。カラオケの個室に、若い女と二人で居ると説明して、娘が平和的に納得してくれるとは到底思えなかった。
「いや…と、というより憂梨はここで何しているんだっ?」
威圧気味に、俺はオウム返しに聞き返した。苦し紛れにしても、あまりに幼稚で自己嫌悪を感じる。ここに来る理由など、歌を歌う以外に何があると言うのだ。
だが、今度は憂梨に落ち着きが無くなる番だった。右手を左腕の肘辺りに添えて、しどろもどろに言った。
「な、何って…カラオケ。…友達と」
彼女が弱々しく答えた瞬間、
「ユーリちゃーん?早く戻ってきなよー」
娘の背後の部屋の扉が僅かに空き、隙間から決して若くはない男の声がした。明らかに娘の同世代や二十代の人間じゃない。中年と呼ばれる、俺と同じくらいかそれ以上の年齢の男の粘着質な声だった。それが俺の娘の名前を馴れ馴れしく呼んだ。急激に頭に血が上った。
「なんだお前はッ!すっこんでろ!!」
「ひっ」
俺の怒鳴り声に吃驚して、男は素早くドアを閉める。
次いで憂梨を鋭く見つめた。後ろめたいところがあるのだろう。目を逸らし、左の肘をしきりに擦っている。これは彼女が不安や恐怖を感じた時に無意識に発動する癖のようなものだった。けれど、俺は心を鬼にしなければならない。
「…憂梨。あれが君の友達か?」
「…違う。違うけど…その、佳子達に誘われたの。おじさん達とカラオケして遊べば、お金がもらえるって…」
「遊ぶだけか…?変なことはしてないんだろうな?」
「うん…そんなの、する訳ない…」
よかった。俺は厳しい表情は崩さずに、一応安心することが出来た。
「でもな…止めろ。そんな汚い金はいらない」
娘の荷物を奪い返そうと、彼女の背後の個室に向かって一歩を踏み出した時だった。
「…ッ」
一瞬喉を詰まらせた後、憂梨は冷たく吠えた。
「そんなのッ…お父さんが悪いんだから…!私にだって付き合いがあるのッ。お金がないと何も出来ないんだよ?それは修太だって、家の事だってそう。…それなのにお父さんはいつも家を空けて、あんな冷たい家にお母さんを一人ぼっちにして……今日だってなんでこんな場所で遊んでるのよッ!?」
「……!?」
俺は絶句した。そして、何も言い返せない。否定の言葉が、出ない。
「…どうしたの、栗山」
「!!」
俺は瞬時に振り返った。恩田だ。彼女が外の騒ぎに気付いて部屋から出てきたのだ。見慣れない女子高生を発見して、首を捻る。
最悪だ。俺は慌てて事情を説明しようと娘に視線を戻す。
しかし、憂梨は既に脳内で、この状況からある結論を導き出してしまっていた。
「…な、に?その人…」
「ゆ、憂梨。こいつは恩田と言って…」
「やだ…やだよお父さん」
「憂梨、待て!」
ドン。
憂梨は突然俺を突き倒すと、恩田に迫った。彼女は後退りながら、憂梨を部屋に招き入れる。俺は誰かに悪態をつき、立ち上がって娘の後に続く。
背後でドアが閉まる音がした。
前髪が陰となって、憂梨の表情は窺えない。恩田は驚きを隠せない様子で、ソファに尻餅をついていた。
「…最低」
背筋が凍り付くような、低く静謐な慟哭。俺は、思わず息を呑んだ。
「お父さんなんて死ねばいいんだ!あの時、本当に死んでしまえばよかったんだ!!こんなことして、汚いのはどっちなのよッ!?」
「…ッ!?違」
「何が違うって言うの?貴方だってそう、なんで…なんでよりによって私のお父さんなのよ!?お父さんからお金をもぎ取って、何が楽しいのよ、この…馬鹿女ッ!!」
パン。狭い空間に響き渡る、乾いた振動。それは、憂梨が恩田の頬を打った音だった。
衝撃を受けた恩田は、前髪を乱されながらも、憂梨を見上げた。何の感情も浮かべないで、いや、浮かばないのか。ただ、何かをされたから、その何かの原因を見るだけ。
ハァ、ハァと娘が息を吐く気配に、意識が現実に引き戻された。
「憂梨…ッ!?」
小さな両肩を掴んで、強引にこちらに向き直させる。強く引き寄せ、何をするんだ、と叫びかけて、止まった。
娘の顔は、泣き出す寸前だった。
歌いたくもない歌を歌い、父親の裏切りと同等の行為を知り、悔しさと憤りと、それを凌駕して襲いくる悲愴で、憂梨の顔は憐れなまでに歪んでいた。
思わず、手を離した。
「…ッ…ッ!」
「おい憂梨!?」
少女は廊下に飛び出して、視界から消えた。
「……」
俺は追い掛ける気力すら失い、膝の力が抜けてソファに体を投げ出した。
重たい沈黙が訪れた。先ほどまで室内を支配していた陽気な音楽が、全て幻聴だったかのように感じる。
「…恩田」
「…何?」
「ごめんな。娘、普段はあんな子じゃない筈なのに」
「…大丈夫。他人に打たれたのは、初めてじゃないから。ただ、ちょっと、びっくりしちゃった」
「そうか…ごめん」
「うん。それより…栗山は大丈夫?すごい誤解されてるんじゃないの?」
「ああ…娘に、憂梨に死ねって言われたよ」
「言われたね、本気の本気で」
「…なあ、家族ってなんだろうな」
「…互いに支え合える存在?」
「…なあ、生きるってなんだろうな」
「…誰かに必要とされる事?」
「……ハァー」
地平線まで延びていくような、溜息が出る。気持ちを行動に表すことによって、さらに気分は沈殿していく。
顔を伏せて、恩田が淋しげに呟いた。それはあまりにか細く儚い声で、自信を持って聞き取れたとは言えない。けれど恩田は、―――…馬鹿女か、それにはだいぶ…堪えたな、と言ったように思えた。
カラオケ店から出て、地上に戻り、俺達は宛もなく歩き出した。
空にはもう青色は存在しておらず、濁った灰色が全天を占領していた。
あの後の、憂梨の行方は分からない。出る時に憂梨がいる筈の部屋を覗いたが、誰もいなかった。家に帰ったのか、それとも未だに友達に付き合っているのかも知れない。
突然何かに服を引っ張られ、かくんと体が停止した。それと同時に思考が途切れる。
何だ?と振り返ると、恩田が俺のコートの裾を摘んでいた。まるで、幼児が無言の意思表示をするみたいに。
「…どうした、恩田」
「……そっちには、行きたくない」
そう言われて疑問符と共に前方を見た。そこには、大きなビルが建っていた。確か、ここは有名進学塾だ。毎日受験生が行き来し、日々鎬を削る場所である。今日も、生徒が大きなガラス張りの自動ドアの向こうへ吸い込まれていく。
どうして恩田がこの建物を忌避したいのかが分からなかった。
「この塾に、何かあるのか?」
こくん、と恩田は黙って頷いた。そして恐る恐ると言った感じで頭を上げると、そこには魂を抜かれたような彼女の顔があった。次いで、オートフォーカスのように何かに焦点を合わせる。その視線の先を辿ると、エントランスの前で仲睦まじく接し合う男女の姿があった。何処にでも居るような、受験生のカップルだ。
「なんだ。あれのどっちかが知り合いなのか?」
「…ううん、違う。…でも、似たようなものは知ってる」
「…どう言うことだ?」
全く真相が見えないままに聞くと、恩田は近くのベンチに向かって歩き出した。俺はその後を追う。彼女は腰を下ろして、俺に語りかけるように口を開いた。
「…栗山になら、私は知ってもらいたい気がする」
「…なんだよ。分からない」
恩田は一度、眼前に聳える銀色のビルを見上げて言った。
「話すよ。私のこと」